September 27, 2007

暮らす

 わたしたちは、一日を生きとおすことを、また毎日を繰り返し過ごしてゆくことを、「暮らす」と言って表現する。「暗くする」が語源と言うが、つまり日が暮れる・・・という受身ではなく、自ら一日を暮れさせるという、主体的な働きがその言葉の意味に見え隠れする。わたしたちの毎日の生の目的とは、終わらせることなのである。一日を謳歌し、ああ、もっと生きていたい、夜なんてこなければよいのに・・・という高まる喜びよりはむしろ、夜の帳を下ろせる喜びと言おうか、一日を完結させられることの安堵感と、達成感が「暮らす」という言葉には感じられる。
 つくづく思うが、日本語というのは面白い。そんな日本語の持つ言葉の意味を編むように、単純で、根源的なわたしたちの世界をあらわしてみたくて、こんな詩を書いたことがある。


  一日
 
  あさ いっぱいの お日さまをいただき

  ひる いっぱいの 法をいただき

  よる いっぱいの お月さまをいただく

  ごちそうさまでした

  おかげさまで

  きょうも一日 

  元気に 暮らすことができました



 自分で、自分の詩に解釈を与えるというのもスマートではないが、じつはこれを書いていて、わたしは「暮らす」という意味を改めて知ったのでもあった。

『おかげさまで きょうも一日元気に暮らすことができました』
 今日も、お日さまとお月さまと、そして生き方を教えてくれる言葉のおかげによって、命の元なる気をいただきながら、一日をぶじ終えることができました・・・。
一日は、お日さまの動きによってあるもので、日がなければそもそも一日という概念すら存在しない。そしてその一日は、暮れることによって、月のリズムの中に格納される。これを「日を暮らす」と言うことで、自ら日を月の中へと大切にしまって行くような、そんなやさしいニュアンスが生まれるような気がする。わたしたちはこうして時間という概念を得て、時間を持つから生を実感するのでもあるが、それがあたかも従うしかない絶対的な力に見えながらも、暮らすといえば、決してそうではなく、大自然と人が交わることができる融点はたしかに存在することを、ほのめかしてもくれている気もする。

 この詩を英文で書き直すとき、わたしは日と月を気の力でとらえなおして、Yin(陰)と Yang(陽)をあてることにした。自然の陽の気と陰の気をいただいて、命の糧にするというほうが、英語圏の人にもわかりやすいと思ったのだ。しかし、日本語の「いっぱい」が「一杯」と「たくさん」の両方を意味させることが可能であるのに対して、英語にすると、a cup of と、一杯分を表現する以外にしかたがないのは残念なことだった。一杯を大切にし、また節制することの謙虚さと強靭さがどんな豊かさにも勝ることを表わしたいと同時に、たくさん必要ならいっぱい与えてくれる自然の気前のよさも賛美したい。それが、日本語の「いっぱいいただき」という言葉にこめた思いだった。
 さらに、日本語の「いただく」という言葉には、天から賜いものを受け取るという、感謝の意味が内包される。わたしたちはこれを、神殿でも、食堂でも同じように使うことができるわけだが、それは長い時間をかけて使われることによって言葉自体が身につけた、意味の深みと広がりのせいでもあり、これと同じものを英語の中に探すのはほぼ不可能である。

 「法」を訳すのにも苦労したが、結局Songにした。日本語の「法」という言葉が意味する多様なものを、同じようにして一言で言い表せる単語がなかったからである。たとえば、摂理を説く教えの意味と、事故や争いなどを回避し、スムーズに社会生活を過ごすためのルールという意味とはどちらも捨てがたく、それらをいただいて身につけるのが昼間の人の活動であり、仕事であり、勉強であると考える。わたしたちは毎日、毎日、真理を少しずつ悟り、学んではそれを糧にしてより良い一日を過ごせるようになるのであり、また法とはより良い一日を得てほしい、危険を避け、幸福で円満な人間社会を作ってほしいという親心のようなものでもある。 一日に、そのうちのひとつだけでも確かに学べたらそれで十分だ。しかし、いっぱいいただきたいと欲すればいくらでも与えられるほど、真理というものはわれわれに開かれてもいる。より良く生きられるようになってほしいという人々の思いやりも、世界には、想像以上に溢れているものである。
 
 暮らすとはつまり、一日一生。これは、日本語を使う人なら誰でも、根源的におぼえている感覚だろうと思う。気づいていなくても、言葉のおかげで、その真理はすでにちゃんと心に植わっている。光をあて、水やりをすれば、大きく育ち、実もつけるだろう。
 わたしたちはなにも難しい哲学書などを読まなくても、毎日に備わった言葉を大切に使ってゆけば、真理を歩めるようになっている・・・そんな気がする。

 そして年の瀬には、詩は最後の一文をこう変えて読んでみたい。
『おかげさまで 今年も一年元気に暮らすことができました』
題名も「一年」に変えて。
さらに、人生の最期にはこう変えて歌いたいものである。
『おかげさまで 今生も一生元気に暮らすことができました』

September 17, 2007

百日紅

 百日紅の花が道に散りはじめて、夏は終わったのだとあらためて実感する。
今年の夏は、百日紅にいろんなことを教わった。いまさらながら、百日紅と出会った年であった。
どこの家先にも、学校にもある見慣れた木で、子どもの頃からよく知っているはずの木だったが、本当の姿を知ったのは今年がはじめてだった。ちょうど職場に向かう道の途中、畑を開いて月極の駐車場にしたような砂利の敷地の端に、百日紅の木が何本も群生するように植えられている。それらが低木で、目の高さより下に花をつけて、手元に垂れ下がって咲いているから、朝夕と脇を通り抜けるわたしは、自然と百日紅の花を、目の前に、また手に取りながら眺めることになったのだった。

 思いがけないことに、このなじみの桃色の花は、美しいミクロコスモスを抱いていた。花のなくなる夏の季節にあって、豊かな緑の枝先に、穂のようにたっぷりとした花をつける百日紅は、暑さの中にも心和ませてくれる貴重な存在だが、じつはその穂のような豊満な花は、花火のごとく放射状に6個の小花を広げた、まるで額アジサイみたいに輪を描いて咲く花がたくさん集まって、たわわに咲いているもので、ただ漫然と百日紅の花と眺めていたものは、中でまんまるの実のようなつぼみを弾けさせては、そんな可憐な花火のような花を開いていたのであった。その上、小花と呼びたくなるような6枚の花びらたちは、贅沢なフリルをこらしたスイトピーのような、繊細で、もったいないほど愛らしいフォームを持っていて、この花びら一枚でも、一輪の花として鑑賞に足ると思えるほどだった。

 なんてことだ。あなたが、こんな美しいものでできていたなんて。こんなにも精妙な作りで咲いていただなんて。遠くから花木と眺めていれば、百日間、絶えることなく花を咲かせ続けて見える百日紅だったが、そこでは日々蕾が開き、命を終えた花が落ちていた。そしてどの花も、小さな小さな花びらでさえも、手抜きなく、美しい姿をして、互いに笑い合い、歌い合い、大きなひとつものとなるべく調和している。
 それはまるで、わたしたちの存在と世界そのものをあらわしているかのようであった。花びらたちは、自分がひとつの花の一弁にすぎないことも、その花が、咲き続ける大きな花の一時期を担うひとつの時間にすぎないということも、さらにその大きな花とは、花木を鮮やかに彩る多くの枝先の一部にすぎず、百日というひとつの季節であることも、きっと知らないでいるのだろう。いや、知らないと想像するのは人間の狭い考え方であって、よく知っているからこそ、ただ自然の姿を信頼して、自分の場所で、明るく咲くだけなのかもしれない。むしろ知らないのは、自分以外のものになろうとすることや、自分ばかりが存在しようとすることであって、人間が植物のように無邪気になれない苦しみのもとは、そのようにナンセンスな欲望を持ってしまうせいにもちがいない。
 生きたい、もっと咲きたい・・・それらの欲望に醜さなどはない。それらは無垢な、エネルギッシュな美しさだ。また、百日紅の小さな花びら一枚一枚が、なんの賞賛も得ず、あるいは期待もせず、あのように精巧で、美しい姿をあらわし続けているとも思えない。ぼんやりしているわたしが何十年も見過ごしてきただけで、多くの人がこの花びらのことを知っているのだろうし、愛してきたのだろう。その愛が届いていないで、どうしてあんなに可憐に咲いていられようと思う。ようやく、わたしも愛でることのできる仲間の一人になれたことは本当に嬉しい。そして、自分自身にも、こんな澄んだ生命力があるかしら?と問いかけてみたくなる。目的だとか、理由だとか、意義だとかいうのではなく、もっともシンプルで美しい、生の欲望が、わたしの中にも存在するだろうか?

 比べられることに慣れっこで、競い合う世界にも慣れっこで、優れないと愛されないという脅迫にも慣れっこに生きてきたわたしは、現代の人間の闇を自分自身の中に持っている。まぎれもなくわたしは現代の一部で、だからこそ自分の心の闇を祓うことは、同時に時代の闇を祓うことに通じる。大げさなようでも、それは真実だ。調べてみると、百日紅は、禊萩(みそはぎ)科に属する木だという。なるほど、この木はわたしにいろいろなことを教えてくれたが、それはまるで禊を与えてくれたに等しいかもしれない。
 時は今、百日紅の花吹雪の時節である。一緒に、心の傷も、哀しみも、おそれも、闇に住まうなにもかもをさらってほしい。そうしたら、秋の澄んだ高い青空はこの胸に、この世界に広がって、わたしは二度と闇に戻ることはないだろう。

July 25, 2007

Kamiからのメール

5月からわたしの英語の個人教師になってくれた、イギリス人女性のKami。
今日、彼女から携帯電話に届いたメールはこんな文章だった。

Have great hopes and dare to go all out for them.
Have great dreams and dare to live them.
Have tremendous expectations and believe in them.

大きな望みを持ち、思いきってそのために全力を尽くしなさい。
大きな夢を持ち、大胆にその夢を生きなさい。
とてつもなく大きな期待を抱き、そしてそれらを心から信じなさい。

・・・・・時々、本当に彼女は神さまなのではないかしら?と思う。

July 13, 2007

Imagine

 たとえばわたしたち全員が、なにかしらの植物を育て、毎日一時間の庭しごとを日課にしたら、地球の温度は上昇を止めることができるのではないかしら・・・・・そんなことを、飽くこともなく想像する。
 毎日一時間の庭仕事の間、エアコンやパソコン、電気、テレビは消され、土に帰らないゴミが生まれることもなく、水やりは打ち水のように地上にまかれて、二酸化炭素を新しい酸素にかえてくれる緑が栄え、ふえて行く。体をめぐって汚れた古い血液を浄化し、きれいな新しい血を送りだす心臓のように、植物は、地球に育まれる動物たちの使い古した空気を取り込み、清らかな新しい空気にかえて送り出してくれる、あたかも地球の心の臓だ。
 わたしたちが一日一時間、そんな緑の力にかまけることが、いったい大事な何を犠牲にすると言えるだろう。全員で、たった一時間を庭しごとに使ったなら、まもなく想像を絶するほどのパラダイスが、眼前に現れるのは確かなはずだと言うのに。

 たとえば、戦場には、空から笑い薬をまいたらいいのに・・・・・こんなメルヘンを、まじめな気持ちで思想する。
 怒りや、恨みは、武器を持つ手に力をこめさせ、むやみに暴力を高まらせるけれど、どんな人も笑いころげてしまったら、手にもおなかにも力が入らず、武器をちゃんと持つことすらできないにちがいない。武力を制圧するため、より優れた武力を開発する必要があると言うのなら、戦う力をふぬけにしてしまう、強力な催笑弾の開発に挑戦してみたっていいだろう。
 歴史は、それぞれの人間の、何十年かの生を数珠繋ぎにしてつむがれて、いつも、どこでも、誰もが、武器はいらない、戦争は絶対にするなと、同じことばを繰り返してばかりいるのに、どうしてわたしたちの世界は、ことばのわからない赤ん坊のように、いつまでも武器と戦争を手放すことができないのだろう。

 たとえば、わたしたちが会う人、会う人を、あたたかい気持ちで迎えたら、きっと日向ぼっこをする者の心のように、世界はきもちの良い場所となるでしょうに・・・・・どんなに笑われたって捨てられない確信みたいに、そうやって生きてゆくことを続けたいと思う。
 あたたかい気持ちというたった一つのルールを守れたら、驚くほどたくさんのやさしい心が、芽吹くようにそこかしこへ現れるにちがいない。それは誰もが想像のつく確かなことなのに、どうして行うのはそんなに難しいことなのだろう。尊厳をもって扱われることによって、どんな存在も善く生かされる。尊厳を与えるとは、あたたかい気持ちで人を迎えるということ。もっとも単純でかんたんな方法の中に、世界を変えるほどの大きな力が、きっと隠されているはずなのに。

May 27, 2007

我、道に入る


 この二日間で、神奈川近代文学館、井上靖文学館、そして芹沢光治良文学館を訪れた。
当初から決まっていた予定は、最初の神奈川近代文学館だけであって、開催されていた中原中也と富永太郎展に、友人が誘ってくれて出かけたのだった。そして、今日の予定はといえば、もともと季節のクレマチスを楽しむために、両親と沼津のクレマチスの丘にいくことになっていたのだが、昨晩急に、「夜まで沼津で過ごしてお寿司を食べて帰ろう」と父が言い出して、「だけど午後の時間がたっぷりありすぎてとても夜まで過ごせないわ」と、母がいう言葉にわたしはぐいと身を乗り出し、それなら芹沢文学館へ行こう、ぜひそうしよう、ぜひお寿司を食べて帰りましょう・・・と、ここだとばかり、諦めていた希望を言い放って、強引に決めてしまったのだ。沼津に行くのなら、本当は訪れたかった場所。でも、到底無理だと諦めていた行き先であった。

 それは昔わたしが、見えない世界があるのだと、神の意思があるのだと、自分が感じているのはこの世界なのだと言って、両親に芹沢光治良の『神の微笑』を手渡し、読んで欲しいと懇願した時のことに由来する。読んだのか、読まなかったのか、両親から本の感想を聞くことはなかったが、遠まわしに返ってきたのは明かな否定と拒絶で、娘は神経が衰弱して、現実と非現実とがわからなくなってしまったのだと悲しい顔をして、この話は、お医者さまにしてほしいと頼まれた。両親は本当に困っていたし、心配し、悲しみに沈んでいた。両親を苦しませることは、本願ではなかった。そしてわたしは以後、『神の微笑』の話も、見えない世界のことも、けっして口にしないようになった。

 しかし、それから本当に長い年月がすぎて、去年荷物の整理をしながら、しまいっぱなしにしていた子供時代の文集をなつかしく開いてみると、小学校4年生の文集は親子の文章を並べて掲載する作りになっていて、わたしのませたかわいげのない詩の隣に載った母の文章を読んでみれば、「ようやく芹沢光治良の『人間の運命』を読破した・・・・」と書き出して、その感想文を寄せている。なんということだろう。驚きと同時に、わたしは自分のルーツを見せつけられたような気がした。
 ママは『人間の運命』を読んだのね・・・・と尋ねてみると、母はなんのわだかまりも無いように、もっとも尊敬する作家だったわ・・・と答えた。

 そんな新しい姿が発見された母へ、わたしは今年のはじめ、『神の微笑』を贈った。今度もやはり、読んでくれたのか、くれていないのか、いまだにわからない。春から一緒に暮らし始めたが、感想を言う気配もない。しかし代わりに否定と拒絶もない。ゆるやかなわたしの信仰告白は続いて、そしてついに、芹沢文学館に行きたいと声に出すことができたのであった。
 じつは沼津へ行くというのは、父が以前仕事でお世話になったS銀行さんを頼って、S銀行の経営する三つの美術館と、ちょうど今が季節のクレマチスの庭を見せていただくというものだったが、その時もまだわたしは何も気づいていなかった。「S銀行の岡野さんという人がビュフェの大変なコレクターでね・・・」と語る父もまた、何も知らないままだった。

 クレマチスの丘では、木村圭吾さくら美術館を、美術館の方がひとつひとつ作品の解説をしながら案内をしてくださったのち、わたしたちだけになって、クレマチスの花咲く庭を散歩しながら、ヴァンジ、ビュフェとそれぞれの美術館をめぐり、やはり敷地内にある井上靖文学館を観てから、レストラン、マンジャ・ペッシェで遅い昼食をとった。本当に最近では稀にみるような、美しく晴れた、気持ちのよい日曜日であった。わたしは、モンタナという白いクレマチスの苗がほしいと思っていたのだが、残念ながら売店には並んでないようで、かわりに、さっき美術館の方にモンタナの花の話をしたとき、「今、めずらしいモンタナの絵柄のお茶碗があるんですよ。鉄仙ならよく描かれますが、モンタナなんてとても珍しいです」と教えていただいたものを、ミュージアムショップで買って帰ることにした。ちょうど、新しいご飯茶碗がほしいと思っていた頃でもあった。

 そうしてクレマチスの丘を満喫してから、我入道の芹沢文学館へ向かったわたしたちが到着したのは、閉館時刻のほんの数分前のことだった。日が長くなったせいで、まだ昼のうちのような気持ちでうっかりしていたのと、夕方6時くらいまでは当然開いているものだという都会の人間の横柄さのようなものが、開館時間を確認するということを忘れさせてしまっていたのだ。とうとう芹沢文学館へ着いたと喜ぶのもつかの間、一瞬にして失望が、体の力を奪うようにしてわたしを襲ったが、少しの時間でよければどうぞと言ってスタッフの方が迎え入れてくれて、わたしだけ見せていただくことにした。両親と、同行していた従妹とは、入館料がもったいないと考えたようすで、外で待っていると言ったのだ。時間のないことで、ああ、そう・・・とわたしも彼らを強いて誘うことはせず、一人で中に入った。はからずも、一人きりで、芹沢光治良氏と対面することになった。
 文学館の方に迷惑をかけてはいけないと気が急いて、ゆっくり味わって見るという心の余裕はなかったが、なにか聞き忘れている声がないか、見るべきものを見落としてないかと、何度も、何度も、心に問うて、耳と目を澄ました。焦るだけで、芹沢光治良氏の声も、その他の語りかけも、よく聴きとれない。そんなわたしに、ある名前が大きく、濃い色になって飛び込んできた。芹沢氏の書簡の宛名になっている、岡野喜一郎という文字である。まちがいない、S銀行の岡野喜一郎氏である。この文学館を建てたのも、ビュフェの大コレクターと父が話す岡野さんであり、芹沢文学館も友の会も、まさにS銀行によって運営されていたのだ。わたしは失った記憶が突然色彩を取り戻すかように、よみがえるのを感じた。ああ、そうだ。わたしは忘れていたのだ。岡野さんの名前をわたしは知っているはずだ。この文学館が作られた経緯の話を、わたしは確かに読んだではないか。

 思えばとても不思議なものであった。完全に忘れてしまっていたからこそ、わたしはここへ来ることができたのだとも思える。S銀行さんのお世話になることなく自力で、また人の力によってでなく霊の力によって運ばれるように、こうして来館がかなったことは言葉に表しがたいほどありがたいことだった。閉館時間も、もしもここへ向かう前にそれを知ってしまったなら、もうじき閉まるから今日はやめておこうよと、きっと家族に説得され、諦めざるを得なかった気がする。知らなかったから、父も車を走らせたのだ。それに、わずかな時間だけかなった入館だったからこそ、家族は興味を失って、わたしは一人きりで芹沢文学館へ入り、静かに、心のままとなってその空間に浸ることもできたのだ。
 芹沢文学館も、岡野さんが建てたそうよ・・・・。父と母は、そう・・・とだけ答え、わたしたちはこの件でもそれ以上話が弾むことも、深め合うこともなかった。しかし、そこには明かに昨日よりも風通しのよい信頼関係があって、理解する、しないの問題ではなく、娘の大事にするものを壊すことはしまいという慎重なやさしさと落ち着きがあった。今のわたしには、それだけでも十分だった。以前、力任せには開かなかった道を、12年後の今再び繰り返して歩き出せば、まるで今度は正しい時を得たかのように、次々と扉は開いて行く。言葉にはしないが、父も母も確かに感じているのだと思う。見えない世界はあり、娘の人生は、常にその見えない力によって救われてきたと、信じるまではできなくても、感じずにはいられないにちがいない。わたしのこの12年とは、そんな不思議なものだった。

 『神の微笑』の伊藤青年は、今は大徳寺昭輝さんとなって、人々の求道の心を助けている。その大徳寺さんと、二年前に不思議な出逢いを得て、やはりわたしも今日まで大きく助けられている。おそらく、大徳寺さんに出逢わなかったら、わたしはもう一度、誰に対しても、見えない世界について語ろうとは思えなかっただろう。わたし一人では、その孤独にとても耐えられなかった。

 そしてやはりはからずも、この二日の間で三人の文人の自筆の原稿を眺めることになり、生々しいほどの推敲の筆あとを見つめ、わたしはこんな風に勢いにまかせて自分のことを書いてみる気持ちにもなった。見えない世界のことを語るのは難しい。言葉は見つからないし、無闇に傷つけられることを恐れていつでも心は閉じそうだ。でも、わたしは自分が得たものを放つ方法を、書くという手段の他に知らない。それがなんのためになるとか、正しいとか、正しくないとかはわからないが、今ひとつだけわかったことは、すべてははじめてみなければわからないということである。出発こそが、すべてであると。

May 18, 2007

マイ・ピーターパン




指ぬきを用意した。
ピーターパンがやってきたとき、彼のどんぐりと交換するためのものである。
 
 こんなものを真剣に用意するなんて、ばかげてるかもね、って思う。
でも、わたしは彼の姿を半身まで見ることができたし、きっともう一度、会えると思っているし、そして今度こそは、わたしも夜空の向こうへ連れて行ってくれると信じたい。もっとちゃんと信じたいから、この指ぬきを、よく見えるところに置いておきたいのだ。
 
 静かに、そっと心を清ませていないと、彼が窓辺に寄って、ひそめている息を聴き取れない。目には見えない存在が、同じこの世界に存在して、ともに世界を作っているのだいうことを信じられないと、彼の姿を見ることはできない。そして、夜見ることが許される夢と、昼間の現実とは、けっして二つにわかれるものではないと勇気を持てなければ、彼といっしょに空を飛ぶことはできないだろう。
 
 永遠のこどもであるピーターパン。でも、こどものままでいるとは、分別のないままでいることではない。自由な心が、気ままな心とはちがうのと同じように、こどもの心とは、社会的に洗練されることによって失われる運命のものでも、理性が成長することによって小さくなってしまうものでもなく、むしろそれらを身につけることによって、かなえられる夢をふやせる関係にあるものだろう。わたしたちは、そのために成長するのだし、縛られたくも、汚されたくもない美しい夢を守るために、困難にも屈しない強い心をめざすのだろう。

 じつはわたしには、ピーターパンにだったら打ち明けられそうな秘密がある。
ピーターパンとだったら分け合えそうな夢がある。それはひとつの、わたしがわたしでいることのできる、最後の砦のようなもの。どんなに生き方が、考え方が、姿が変わっても、唯一変わらない、これはわたし自身だと心から言えるもの。
そんな自分をもっとよく信じたいから、わたしはこの指ぬきを、南の窓辺に置いておきたいと思う。
そして彼が迎えにきてくれる日を、心を清まして、楽しみに待ち続けたいと思う。

ピーターパン http://www.youtube.com/watch?v=Yea45vX1Lcg

May 15, 2007

本当に大事なもの

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものはかならずもとのところに戻すこと。
ちらかしたら自分で後片付けをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
(中略)
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、
はなればなれにならないようにすること。
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。
              (ロバート・フルガム)

人間がどのように生きればいいのか、それはすでに幼稚園で教わっている・・・・
フルガム現象を引き起こしたと言われるこの金言は、本当にそのとおりだと改めて心を打つ。
たしかに、どんなにお金持ちでも、仕事ができても、容姿端麗でも、これらのことができない人は、誰からも相手にされず、幸せになれないだろうし、またここにあげたような約束だけでも、地球上のみんなが守れたなら、ずっとこの世の中は生きやすく、平和にちがいないだろうに、と思う。
ほら、みんなで分け合えばいいでしょう?そうしたら仲良くできるでしょう?とこどもを諭すのに、おとなの世界はといえば、どうやって独り占めしようかと知恵をしぼる時間と労力で占められている。
ずるはだめ。無垢なこどもにはそう叱って、「○○ちゃんはするもん」、なんて言い返したら、他の人がしても、絶対してはいけなことなの・・・・と叱るはずなのに、どうして、いつごろから、おとなは「ずる」の自慢をし合うようになってしまうのだろう。
人をぶたないように。それはちょっと頭のよいおとなだったら、もうしないけれど、言葉でなら人を叩いても、蹴っても罪はないと思っているおとなを、こどもが気がついていないと思うのはまちがいである。

いつごろ、どうして、わたしたちはこれらの本当に大事なことより、お金や、仕事や、見た目の方が大事になってしまったのだろう。みんながするから、だろうか?そんなみんなには、合わせる必要がないのに。

May 13, 2007

CHANGE

 なにかとても素晴らしいものに出会ったとき、その素晴らしいものを、ぜひ人にも分けたいと思うのは自然なことである。でも、どんなに言葉を尽くして伝えても、分け合うにはいたらないだろうし、一期一会であるその素晴らしいものを、再び用意できるとも限らない。

 たとえば、きれいな青空を見つけたとき、きらきらと木々から緑の光が降ってきたとき、そういうささやかな喜びでも、誰かに伝えたいほどかけがえのない素晴らしさを帯びていることがあるものだ。またなにか貴重なものに出会う幸運にめぐまれたり、魂が揺さぶられるほどの感動に出会った時、どれだけ惜しんでもそこにいるのは自分ひとりだけという、そんな時というものもあるものだ。そういう時は、その素晴らしきものによって変わった自分を見せればいい・・・そんな風に教わった。写真家の星野道夫さんが、友人から教わったという言葉である。
  そうだ、そのとおりだ、と思った。わたしたちは、それぞれに過不足ない一期一会を得ていて、じぶんのそれを特に素晴らしいと思うのはまちがいで、それでも家族や愛する人たちに、どうにかしてその素晴らしいものを分けたい、伝えたいと願われるのなら、それによって変わった自分を、よきものを得て、変わった自分を与えればいいのである。それだけで、出会ったものがどんなに素晴らしいものだったかを、人は十分に理解するし、その光は生きたまま彼らの前に届けられて、与えられても行くのである。

  これと少し似たものに、恋がある。恋は、否応もなく人を変える。恋をすれば誰もが活気付くようになるけれど、優しくなる人、ひと回り人間が大きくなる人もいれば、逆にだらしなくなる人、利己的になってゆく人もいる。そのようすを見てわたしたちは、ああ、この人はよい人と出会ったのだろうなあ、と思ったり、よくない出会いをしたのではないか、と心配したりするのだけれど、どんなに素晴らしい人と出会ったかを知るには、たくさんののろけ話を聞くまでもなく、こうして変化を知るので十分だ。そしてもし、恋する相手を大事にする方法があるとしたら、それは自分自身によき変化を起こしていくことだろう。

  変化というものはけっして受動的なものではなく、主体的に、みずから行うものだ。それは口に言うほど易しくはないし、目に見えるような大きな変化である必要もない。ただ、その変化の決心は、自分が出会った素晴らしいものに対する、心のこもった敬意となるはずで、それが真実か否かは、変化と言う行動によって実に結ばれ、身に現われてくるのではないかと、そんな風にわたしは思っている。

May 5, 2007

言の葉

 始めに言葉があった。言葉は神とともにおられた。
 言葉は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。
                       <ヨハネの福音書>

 十代のころ、鮮烈にわたしのからだを駆け抜けた言葉だった。
そしてわたしは文学を勉強したいと思った。
言葉にはとても根源的なものがあるという確信が、
命をわしづかみにされるような力強さで、
わたしの心を奪ったのである。
 
 十年後、言葉についてのその考えは、ひとつのイメージに結ばれ、
「木の葉の詩」という詩を書いた。

 それからまた十年を経て、わたしは、
この詩をリアリティの中で体験する自分に出会い、
そしてこれを証したいという願いを持った。
正確に言えば、願いを持ち直した。
 
 言の葉に乗った精霊たちよ、
どうかこの世界を美しい歌であふれさせて。

April 28, 2007

ひかりのまち

ちょっと古いけれど、ケーブルTVでイギリス映画「ひかりのまち」を観た。
一つの家族を中心に、それを構成するひとりひとりの「愛」を、なにげない、見過ごされるほどの日常の時間の中から抽出するように描き出す。それはまるで、天使という傍観者が、ろうそくの灯火で人々の暮らしをそっと照らして回っているような光景だ。

 出産間近の妻のそばで、心から幸せな家庭を待ち望みながら、一方で今の仕事がどうしても合わず、転職をしたいと思っている気持ちを告げられないでいる夫。リタイアして一日家にいる夫に苛立ち、「何もしないで、情けない」となじる妻。「そういう風に人のあげ足を取ってばかりいるから、息子はいやになって家を出てしまったのだ」と、怒りと悲しみを破裂させる、その夫。
 自尊心が高く理性的な性格を、みずから壊して行こうとするかのように、恋人募集の伝言ダイヤルで出会いを求める30代の女性。つまらない出会いの山の中から、ようやく本物の恋を見つけたと思って心を開いた相手は、洗練とスマートさという仮面を被った「肉欲」だった。しかし探し物はじつは近くにすでにあったというように、そんな彼女を遠くから見守り、思い続けながら、声をかけられないままでいる、誠実な愛がそばにあった。
 離婚した両親のはざまで、自分の人生と都合にばかりかまけている親のことをなおも愛し続ける少年。恋人と水入らずの一日を過ごすため、子どもを別れた夫の家に泊まらせるその母親は、お酒と女性にだらしのない別れた夫のことを「パパはあなたのことを本当に愛しているわ。だけど本当に、おろかで駄目な男なの」と息子に言い聞かせる・・・・・

 誰もが、愛を求め、愛情を得られぬ悲しみをまとい、そして愛の示し方がわからずに、傷つけあって見える。でもその誰もが、わずかずつの愛のあたたかさを持ち合い、すがり合って、愛の中に生きているのだ。彼らの生活を俯瞰で眺める天使の灯火の前には、彼らをつなぐ絆や愛は目に見えるほど明かな存在だのに、当事者である彼ら自身には、なぜかそれが見えない。人間の目と言うのは、そんなものなのかもしれない。時にその目を閉じて、天使について行き、心の灯火で世界を眺めなおす必要がある。

原題は「wonder land」。最後にぶじ誕生する赤ちゃんが、「アリス」と名づけられる。こんな不思議な人間の世界に生れ落ちた、「不思議の国のアリス」である。なにも持たず、ただ愛情だけを頼りにすがりつく、無垢な存在がまた、世界に生れ落ちたのだ。
そして「ひかりのまち」という邦題は、この映画の主題を引き出すように秀作だ。
明かりの点いているところにはきっと人がいる。明かりというものは人のために灯されるのであって、人のまったく住まない場所に、明かりは灯されない。たぶん天使の目には、それらは美しい人の世界の「光景」で、あらゆる矛盾や醜悪をも包括してなお、愛おしいはずである。

April 24, 2007

お話の小箱

わたしが書いたちいさな物語を、もう一つのページに詰めてみることにしました。
古い作品が多いけれど、童話を中心に、
できればこれから新しいものも書き足して、
この「お話の小箱」を愛しい宝物でいっぱいにしてみたいと思います。

April 11, 2007

伊勢のしるし

 いつもお茶を買うお店がある。べつだん、何にこだわって選んだというわけでもなく、さいしょのきっかけも忘れてしまったけれど、デパートのお茶売り場の中でも、なぜかそのお店ばかりで、ほうじ茶も緑茶も買うような習慣が5年以上続いている。お店の人と親しいわけでもないし、ただなんとなく、そこのお茶と相性がよかったのだろう。
 ある日、お茶が切れたので買いにでかけると、店頭に「伊勢式年遷宮記念」の品が並んでいた。ちょうどしばらく前から神宮に惹かれて、一度訪れてみたいものだと思っていたところだったから、なにか「しるし」でも見つけたような気持ちになって、喜んで陳列やパンフレットを眺めてみると、その時初めて知ったことに、じつはこのお茶屋さんは、国内で唯一神宮司庁御用達として、伊勢神宮に献上しているお茶屋さんだったのだ。お見それした。と同時に、なんとも、知らないうちに伊勢と見えない絆で結ばれていたような、不思議な気持ちがした。
 そうこうするうちに、妙なもので、こんどは伊勢の宮司さまと親しいのだという女性に出会って、また伊勢の話を聞くことになった。宮司さまと親しいという人にめぐり合うこと自体、はじめての出来事だったし、それもこんな時期に重なって起こるとは、まるで磁石に引き寄せられて「伊勢」がやってきたかのようだった。


 やっぱり伊勢へ行ってみましょうか・・・。そう思ったら、身を隠していたお伊勢さまの化身が、わっと、あちこちの物影から出てくるように、次から次へとわたしの前へ現われはじめた。
 たとえば、たまたま用事のある場所のそばにあるという理由で、毎月必ずお参りをしている
神社があった。毎月、毎月怠らずにお参りして、鏡に手を合わせ続けて、どうしてこれまでピンとこなかったのか、相当わたしはぼんやりしているに違いないのだけれど、社務所に貼ってあるポスターにようやく目が行って、はたと気がついた。「お伊勢さまにお参りしましょう」・・・・ああ、ここもお伊勢さまだった・・・天照大神さまだったのだ。きっと何年も前にはじめて訪れたときはしっかり覚えていたのだろうけれど、いつのまにか忘れて、ただ神さまにお参りしているとしか考えなくなっていた。参拝というよりは生活の習慣というほうがふさわしかったけれど、毎月欠かさず足を運び、お参りし続けている唯一の神社が、じつはお伊勢さまだったとは灯台下暗しもいいところであった。

 すっかり忘れていたと言えば、本棚を整理していてふと出てきたリーフレットもまた、都内のお伊勢さまのもので、ああ、こんなところからわたしは縁が結ばれていたのだと改めて驚いた。それは、わたしがこどもの時代に、お宮参りや七五三の折に必ず連れて行かれて、家族が成長を祈願した神社であった。そうなのだ。わたしは誕生のときに、まずお伊勢さまに縁を結ばれたのだ。両親や祖父母たちが、この新しい命が健やかに天命をまっとうするようにと、折々に、重ね重ね、お伊勢さまに祈ったのだ。
 祈りは、かならず天に通じるものである。父も母も、祖父も祖母も、たぶんまったく気づかないことで、無意識のことだったにちがいないけれど、きっと彼らの純粋な祈りにこたえ、お伊勢さまこと天照大神さまはその願いを聞き入れて、陰日なたにと、いつもわたしのそばに在り、守り続けてくださっていたのだろう。


 自分のために祈ってくれる人がいるとは、本当にありがたいことである。その祈りが、順々とめぐって、見えない神のたすけになり、わたしのもとに届けられている。伊勢へお参りする前に、まずは家族に感謝をささげよう。そうして、また風が吹いたらそれに乗って、道が開いたならそこを通って、伊勢まで出かけてみよう。



March 27, 2007

手をつないで


 とても不思議なことだけれど、ふと気がつくと、誰かに手をにぎられているように片手が温かい。両手だったら、からだが火照っているのかと思うけれど、片手だけなのだから、そして決まって同じ左手なのだから、そういうわけでもない。

 一年と、もう少し前のある夜、家に帰る道を歩いている時、はじめてその感触に気がついた。まだ木枯らしも寒い冬の日。きんきんと凍ったように冷たい夜空に、澄んで、足の長い光を放って星々がきらめく冬の夜。なぜか、左手だけが、すっぽりと、大きな手に包まれたように温かいのだった。

 とても不思議なことだけれど、それから何度も、何度も、気がつけば、わたしはこの見えない手ににぎられていた。それは日の光に照らされているような温かさで、あるいは、いのちのある体温のような温もりで、心がストンと落ち着くように、安らげた。いったいどこから伸びている手なのかわからないけれど、わたしはひとりじゃないのだと、強く愛されていると、根も葉もない確信をいだくことができた。姿も無い、言葉も無い、そんな愛情が、この世には存在するのだと思った。

 今も、春になって、菜の花の群れを眺めるこの時にも、ふと気づけばわたしはこの大きなぬくもりに手をとられ、つながって、立っている。
そうだ。わたしももう片方の右手で、誰かの手をにぎろう。誰かと、手をつなごう。自分の右手が空いていることに気がつくまで、一年も時間を使ってしまったけれど、誰かに自分の右手を差し出せるほどに、それだけの力が湧くほどに、愛の力は偉大なのだということを、今のわたしはよく知っている。
 長い間、何度も何度も、代わる代わる、人々が繰り返し歌ってきた歌の詞のように、馴れすぎた決まり文句のフレーズのように、奇跡を起すのは愛の力なのだと、ようやくわたしは理解していた。

 手をつないで歩こう。
これも、多くの人が好んで歌うことば。それはきっと大切なことだから、忘れないように、何度も、繰り返し歌われる言の葉なのだろう。手をつないで歩こう。わたしの左手が受けるぬくもりが、他の誰かに伝わるように。家族とも、友達とも、みんなで、あたたかくつながって歩こう。