April 28, 2007

ひかりのまち

ちょっと古いけれど、ケーブルTVでイギリス映画「ひかりのまち」を観た。
一つの家族を中心に、それを構成するひとりひとりの「愛」を、なにげない、見過ごされるほどの日常の時間の中から抽出するように描き出す。それはまるで、天使という傍観者が、ろうそくの灯火で人々の暮らしをそっと照らして回っているような光景だ。

 出産間近の妻のそばで、心から幸せな家庭を待ち望みながら、一方で今の仕事がどうしても合わず、転職をしたいと思っている気持ちを告げられないでいる夫。リタイアして一日家にいる夫に苛立ち、「何もしないで、情けない」となじる妻。「そういう風に人のあげ足を取ってばかりいるから、息子はいやになって家を出てしまったのだ」と、怒りと悲しみを破裂させる、その夫。
 自尊心が高く理性的な性格を、みずから壊して行こうとするかのように、恋人募集の伝言ダイヤルで出会いを求める30代の女性。つまらない出会いの山の中から、ようやく本物の恋を見つけたと思って心を開いた相手は、洗練とスマートさという仮面を被った「肉欲」だった。しかし探し物はじつは近くにすでにあったというように、そんな彼女を遠くから見守り、思い続けながら、声をかけられないままでいる、誠実な愛がそばにあった。
 離婚した両親のはざまで、自分の人生と都合にばかりかまけている親のことをなおも愛し続ける少年。恋人と水入らずの一日を過ごすため、子どもを別れた夫の家に泊まらせるその母親は、お酒と女性にだらしのない別れた夫のことを「パパはあなたのことを本当に愛しているわ。だけど本当に、おろかで駄目な男なの」と息子に言い聞かせる・・・・・

 誰もが、愛を求め、愛情を得られぬ悲しみをまとい、そして愛の示し方がわからずに、傷つけあって見える。でもその誰もが、わずかずつの愛のあたたかさを持ち合い、すがり合って、愛の中に生きているのだ。彼らの生活を俯瞰で眺める天使の灯火の前には、彼らをつなぐ絆や愛は目に見えるほど明かな存在だのに、当事者である彼ら自身には、なぜかそれが見えない。人間の目と言うのは、そんなものなのかもしれない。時にその目を閉じて、天使について行き、心の灯火で世界を眺めなおす必要がある。

原題は「wonder land」。最後にぶじ誕生する赤ちゃんが、「アリス」と名づけられる。こんな不思議な人間の世界に生れ落ちた、「不思議の国のアリス」である。なにも持たず、ただ愛情だけを頼りにすがりつく、無垢な存在がまた、世界に生れ落ちたのだ。
そして「ひかりのまち」という邦題は、この映画の主題を引き出すように秀作だ。
明かりの点いているところにはきっと人がいる。明かりというものは人のために灯されるのであって、人のまったく住まない場所に、明かりは灯されない。たぶん天使の目には、それらは美しい人の世界の「光景」で、あらゆる矛盾や醜悪をも包括してなお、愛おしいはずである。

April 24, 2007

お話の小箱

わたしが書いたちいさな物語を、もう一つのページに詰めてみることにしました。
古い作品が多いけれど、童話を中心に、
できればこれから新しいものも書き足して、
この「お話の小箱」を愛しい宝物でいっぱいにしてみたいと思います。

April 11, 2007

伊勢のしるし

 いつもお茶を買うお店がある。べつだん、何にこだわって選んだというわけでもなく、さいしょのきっかけも忘れてしまったけれど、デパートのお茶売り場の中でも、なぜかそのお店ばかりで、ほうじ茶も緑茶も買うような習慣が5年以上続いている。お店の人と親しいわけでもないし、ただなんとなく、そこのお茶と相性がよかったのだろう。
 ある日、お茶が切れたので買いにでかけると、店頭に「伊勢式年遷宮記念」の品が並んでいた。ちょうどしばらく前から神宮に惹かれて、一度訪れてみたいものだと思っていたところだったから、なにか「しるし」でも見つけたような気持ちになって、喜んで陳列やパンフレットを眺めてみると、その時初めて知ったことに、じつはこのお茶屋さんは、国内で唯一神宮司庁御用達として、伊勢神宮に献上しているお茶屋さんだったのだ。お見それした。と同時に、なんとも、知らないうちに伊勢と見えない絆で結ばれていたような、不思議な気持ちがした。
 そうこうするうちに、妙なもので、こんどは伊勢の宮司さまと親しいのだという女性に出会って、また伊勢の話を聞くことになった。宮司さまと親しいという人にめぐり合うこと自体、はじめての出来事だったし、それもこんな時期に重なって起こるとは、まるで磁石に引き寄せられて「伊勢」がやってきたかのようだった。


 やっぱり伊勢へ行ってみましょうか・・・。そう思ったら、身を隠していたお伊勢さまの化身が、わっと、あちこちの物影から出てくるように、次から次へとわたしの前へ現われはじめた。
 たとえば、たまたま用事のある場所のそばにあるという理由で、毎月必ずお参りをしている
神社があった。毎月、毎月怠らずにお参りして、鏡に手を合わせ続けて、どうしてこれまでピンとこなかったのか、相当わたしはぼんやりしているに違いないのだけれど、社務所に貼ってあるポスターにようやく目が行って、はたと気がついた。「お伊勢さまにお参りしましょう」・・・・ああ、ここもお伊勢さまだった・・・天照大神さまだったのだ。きっと何年も前にはじめて訪れたときはしっかり覚えていたのだろうけれど、いつのまにか忘れて、ただ神さまにお参りしているとしか考えなくなっていた。参拝というよりは生活の習慣というほうがふさわしかったけれど、毎月欠かさず足を運び、お参りし続けている唯一の神社が、じつはお伊勢さまだったとは灯台下暗しもいいところであった。

 すっかり忘れていたと言えば、本棚を整理していてふと出てきたリーフレットもまた、都内のお伊勢さまのもので、ああ、こんなところからわたしは縁が結ばれていたのだと改めて驚いた。それは、わたしがこどもの時代に、お宮参りや七五三の折に必ず連れて行かれて、家族が成長を祈願した神社であった。そうなのだ。わたしは誕生のときに、まずお伊勢さまに縁を結ばれたのだ。両親や祖父母たちが、この新しい命が健やかに天命をまっとうするようにと、折々に、重ね重ね、お伊勢さまに祈ったのだ。
 祈りは、かならず天に通じるものである。父も母も、祖父も祖母も、たぶんまったく気づかないことで、無意識のことだったにちがいないけれど、きっと彼らの純粋な祈りにこたえ、お伊勢さまこと天照大神さまはその願いを聞き入れて、陰日なたにと、いつもわたしのそばに在り、守り続けてくださっていたのだろう。


 自分のために祈ってくれる人がいるとは、本当にありがたいことである。その祈りが、順々とめぐって、見えない神のたすけになり、わたしのもとに届けられている。伊勢へお参りする前に、まずは家族に感謝をささげよう。そうして、また風が吹いたらそれに乗って、道が開いたならそこを通って、伊勢まで出かけてみよう。