September 27, 2007

暮らす

 わたしたちは、一日を生きとおすことを、また毎日を繰り返し過ごしてゆくことを、「暮らす」と言って表現する。「暗くする」が語源と言うが、つまり日が暮れる・・・という受身ではなく、自ら一日を暮れさせるという、主体的な働きがその言葉の意味に見え隠れする。わたしたちの毎日の生の目的とは、終わらせることなのである。一日を謳歌し、ああ、もっと生きていたい、夜なんてこなければよいのに・・・という高まる喜びよりはむしろ、夜の帳を下ろせる喜びと言おうか、一日を完結させられることの安堵感と、達成感が「暮らす」という言葉には感じられる。
 つくづく思うが、日本語というのは面白い。そんな日本語の持つ言葉の意味を編むように、単純で、根源的なわたしたちの世界をあらわしてみたくて、こんな詩を書いたことがある。


  一日
 
  あさ いっぱいの お日さまをいただき

  ひる いっぱいの 法をいただき

  よる いっぱいの お月さまをいただく

  ごちそうさまでした

  おかげさまで

  きょうも一日 

  元気に 暮らすことができました



 自分で、自分の詩に解釈を与えるというのもスマートではないが、じつはこれを書いていて、わたしは「暮らす」という意味を改めて知ったのでもあった。

『おかげさまで きょうも一日元気に暮らすことができました』
 今日も、お日さまとお月さまと、そして生き方を教えてくれる言葉のおかげによって、命の元なる気をいただきながら、一日をぶじ終えることができました・・・。
一日は、お日さまの動きによってあるもので、日がなければそもそも一日という概念すら存在しない。そしてその一日は、暮れることによって、月のリズムの中に格納される。これを「日を暮らす」と言うことで、自ら日を月の中へと大切にしまって行くような、そんなやさしいニュアンスが生まれるような気がする。わたしたちはこうして時間という概念を得て、時間を持つから生を実感するのでもあるが、それがあたかも従うしかない絶対的な力に見えながらも、暮らすといえば、決してそうではなく、大自然と人が交わることができる融点はたしかに存在することを、ほのめかしてもくれている気もする。

 この詩を英文で書き直すとき、わたしは日と月を気の力でとらえなおして、Yin(陰)と Yang(陽)をあてることにした。自然の陽の気と陰の気をいただいて、命の糧にするというほうが、英語圏の人にもわかりやすいと思ったのだ。しかし、日本語の「いっぱい」が「一杯」と「たくさん」の両方を意味させることが可能であるのに対して、英語にすると、a cup of と、一杯分を表現する以外にしかたがないのは残念なことだった。一杯を大切にし、また節制することの謙虚さと強靭さがどんな豊かさにも勝ることを表わしたいと同時に、たくさん必要ならいっぱい与えてくれる自然の気前のよさも賛美したい。それが、日本語の「いっぱいいただき」という言葉にこめた思いだった。
 さらに、日本語の「いただく」という言葉には、天から賜いものを受け取るという、感謝の意味が内包される。わたしたちはこれを、神殿でも、食堂でも同じように使うことができるわけだが、それは長い時間をかけて使われることによって言葉自体が身につけた、意味の深みと広がりのせいでもあり、これと同じものを英語の中に探すのはほぼ不可能である。

 「法」を訳すのにも苦労したが、結局Songにした。日本語の「法」という言葉が意味する多様なものを、同じようにして一言で言い表せる単語がなかったからである。たとえば、摂理を説く教えの意味と、事故や争いなどを回避し、スムーズに社会生活を過ごすためのルールという意味とはどちらも捨てがたく、それらをいただいて身につけるのが昼間の人の活動であり、仕事であり、勉強であると考える。わたしたちは毎日、毎日、真理を少しずつ悟り、学んではそれを糧にしてより良い一日を過ごせるようになるのであり、また法とはより良い一日を得てほしい、危険を避け、幸福で円満な人間社会を作ってほしいという親心のようなものでもある。 一日に、そのうちのひとつだけでも確かに学べたらそれで十分だ。しかし、いっぱいいただきたいと欲すればいくらでも与えられるほど、真理というものはわれわれに開かれてもいる。より良く生きられるようになってほしいという人々の思いやりも、世界には、想像以上に溢れているものである。
 
 暮らすとはつまり、一日一生。これは、日本語を使う人なら誰でも、根源的におぼえている感覚だろうと思う。気づいていなくても、言葉のおかげで、その真理はすでにちゃんと心に植わっている。光をあて、水やりをすれば、大きく育ち、実もつけるだろう。
 わたしたちはなにも難しい哲学書などを読まなくても、毎日に備わった言葉を大切に使ってゆけば、真理を歩めるようになっている・・・そんな気がする。

 そして年の瀬には、詩は最後の一文をこう変えて読んでみたい。
『おかげさまで 今年も一年元気に暮らすことができました』
題名も「一年」に変えて。
さらに、人生の最期にはこう変えて歌いたいものである。
『おかげさまで 今生も一生元気に暮らすことができました』

September 17, 2007

百日紅

 百日紅の花が道に散りはじめて、夏は終わったのだとあらためて実感する。
今年の夏は、百日紅にいろんなことを教わった。いまさらながら、百日紅と出会った年であった。
どこの家先にも、学校にもある見慣れた木で、子どもの頃からよく知っているはずの木だったが、本当の姿を知ったのは今年がはじめてだった。ちょうど職場に向かう道の途中、畑を開いて月極の駐車場にしたような砂利の敷地の端に、百日紅の木が何本も群生するように植えられている。それらが低木で、目の高さより下に花をつけて、手元に垂れ下がって咲いているから、朝夕と脇を通り抜けるわたしは、自然と百日紅の花を、目の前に、また手に取りながら眺めることになったのだった。

 思いがけないことに、このなじみの桃色の花は、美しいミクロコスモスを抱いていた。花のなくなる夏の季節にあって、豊かな緑の枝先に、穂のようにたっぷりとした花をつける百日紅は、暑さの中にも心和ませてくれる貴重な存在だが、じつはその穂のような豊満な花は、花火のごとく放射状に6個の小花を広げた、まるで額アジサイみたいに輪を描いて咲く花がたくさん集まって、たわわに咲いているもので、ただ漫然と百日紅の花と眺めていたものは、中でまんまるの実のようなつぼみを弾けさせては、そんな可憐な花火のような花を開いていたのであった。その上、小花と呼びたくなるような6枚の花びらたちは、贅沢なフリルをこらしたスイトピーのような、繊細で、もったいないほど愛らしいフォームを持っていて、この花びら一枚でも、一輪の花として鑑賞に足ると思えるほどだった。

 なんてことだ。あなたが、こんな美しいものでできていたなんて。こんなにも精妙な作りで咲いていただなんて。遠くから花木と眺めていれば、百日間、絶えることなく花を咲かせ続けて見える百日紅だったが、そこでは日々蕾が開き、命を終えた花が落ちていた。そしてどの花も、小さな小さな花びらでさえも、手抜きなく、美しい姿をして、互いに笑い合い、歌い合い、大きなひとつものとなるべく調和している。
 それはまるで、わたしたちの存在と世界そのものをあらわしているかのようであった。花びらたちは、自分がひとつの花の一弁にすぎないことも、その花が、咲き続ける大きな花の一時期を担うひとつの時間にすぎないということも、さらにその大きな花とは、花木を鮮やかに彩る多くの枝先の一部にすぎず、百日というひとつの季節であることも、きっと知らないでいるのだろう。いや、知らないと想像するのは人間の狭い考え方であって、よく知っているからこそ、ただ自然の姿を信頼して、自分の場所で、明るく咲くだけなのかもしれない。むしろ知らないのは、自分以外のものになろうとすることや、自分ばかりが存在しようとすることであって、人間が植物のように無邪気になれない苦しみのもとは、そのようにナンセンスな欲望を持ってしまうせいにもちがいない。
 生きたい、もっと咲きたい・・・それらの欲望に醜さなどはない。それらは無垢な、エネルギッシュな美しさだ。また、百日紅の小さな花びら一枚一枚が、なんの賞賛も得ず、あるいは期待もせず、あのように精巧で、美しい姿をあらわし続けているとも思えない。ぼんやりしているわたしが何十年も見過ごしてきただけで、多くの人がこの花びらのことを知っているのだろうし、愛してきたのだろう。その愛が届いていないで、どうしてあんなに可憐に咲いていられようと思う。ようやく、わたしも愛でることのできる仲間の一人になれたことは本当に嬉しい。そして、自分自身にも、こんな澄んだ生命力があるかしら?と問いかけてみたくなる。目的だとか、理由だとか、意義だとかいうのではなく、もっともシンプルで美しい、生の欲望が、わたしの中にも存在するだろうか?

 比べられることに慣れっこで、競い合う世界にも慣れっこで、優れないと愛されないという脅迫にも慣れっこに生きてきたわたしは、現代の人間の闇を自分自身の中に持っている。まぎれもなくわたしは現代の一部で、だからこそ自分の心の闇を祓うことは、同時に時代の闇を祓うことに通じる。大げさなようでも、それは真実だ。調べてみると、百日紅は、禊萩(みそはぎ)科に属する木だという。なるほど、この木はわたしにいろいろなことを教えてくれたが、それはまるで禊を与えてくれたに等しいかもしれない。
 時は今、百日紅の花吹雪の時節である。一緒に、心の傷も、哀しみも、おそれも、闇に住まうなにもかもをさらってほしい。そうしたら、秋の澄んだ高い青空はこの胸に、この世界に広がって、わたしは二度と闇に戻ることはないだろう。