December 29, 2008

 人と人との関係はむずかしいもの。これに悩むことはないね、とさわやかに言い切ってしまえる人がいたら、うらやましいよりは、すこしどこかが鈍感なのではないかと疑りたくなってしまうかもしれない。

 人と人との関係の築き方を、上滑りな社交性や人づき合いのコツに依るようなのは、カラカラと音がするように空しくて、不潔にすら思って嫌悪したような若い日から歳を積んで、その間には、そんな心のとんがりのせいで、自分自身が傷つくような痛い思いを数々重ねて、さて不惑の歳となった頃には、人間関係をだいじに育めるような、誠実でエレガントな表現力をまなぶことは大切だと思うようにもなった。もちろん表現力ばかりで心の伴わないのは軽蔑すべきだけれど、自分の思いの伝え方、相手の思いの受け止め方、怒りや悲しさなど動揺の気持ちの収め方を身につけるということは、実際的な自分や他人への「思いやり」に他ならないことだと悟って、よけいな反発が削げ落ちたのだ。

 たとえば、どんなに美味しいケーキを作ったとしても、それを相手に投げつけたら味わうこともできないし、びっくりするか不快に思うかで、美味しいと思ってもらえるわけがない。食べやすくカットし、フォークを添えて差し出し、それを相手が口に運んでくれてはじめて、そのケーキは美味しいと感じてもらうこともできるのだ。こうして、どんな良いものも、正しいものも、発し方によっては台無しになることがある。わたしなどは、これまでずいぶん正しいことが通らないと失望したことがあったものだけど、じつは自分で台無しにしていたものもどんなに多かったか、思い返せば自らの愚かさに気づいて、あきれ返るできごとがとても多い。

 ところで、「絆」という字は糸に半分の半と書く。ある日急に心に浮かんだこの文字をしげしげと感じて、ああ、そうか、と目からウロコが落ちた。人と人との関係は、糸を半分ずつ持ち合うようなもの。それが「きずな」と呼ぶにふさわしいほど、一番強く、深い結びの姿なのだ。
自分と相手との距離の中で、こちらが相手のところまで全部行ってしまうのも行き過ぎであれば、自分が動かず、相手が近づいてくれるのを待つだけなのもだめなのである。ちがう見方で言えば、半分までは自分が行っても行かないでも自由があるかわりに、相手にもまったく同じ自由がある。この互いの自由を尊重するだけでも、おそらく、人同士の間に起こりがちな失望や、苛立ちと言ったものの大部分をなくすことができるだろう。だいたいわたしたちは、相手や状況が自分の思いのとおりでないばかりに、失望したり、苛立つような勝手が多いのだ。
 さっきのケーキの話を続けるとしたら、どんなに美味しいケーキを、どんなに気持ちよく相手に届けたとしても、相手が満腹で食べたくないと思うことも、あるいは甘いものは苦手だと断ることも起こり得るのであり、それは礼儀がないことでも、愛情がないことでも、運が悪いことでもなく、いつでも「良し」とされていることなのである。食べなくても、決してケーキのおいしさを否定することではないし、どんなに天下一品のおいしいケーキでも、置かれる場所は自分と相手とのまん中であって、そこまでの距離の自由は、たがいに十分尊重されるべきものなのだ。この尊重が身につけば、どんな時でも相手にノーを言われて無闇に傷つくということがなくなるだろう。傷つくことがなくなれば、今度は人を傷つけない、罪意識に苛まれないノーも言えるようになる。

 逆に、あのケーキはとても美味と聞くけれど、自分もぜひ食べさせてもらいたいものだわ・・・・・・と思ったら、やはりその半分の距離を自分が歩いて行かなければいけない。指をくわえて自分のところで待っていても、大声で呼ぶだけでも、食べる幸運を得ている人はいいなあ、とすねても怠けモノなだけである。まん中までの距離は自分の責任であって、たとえそこで、せっかく来てくれたけど、ケーキはなくなってしまったの、と言われたとしても、無駄足を失望する必要はない。次回は、いつ来ればいいか教えてくれますか?と、尋ねて、できるならそこで予約をしてしまえばいいのである。人は失望すると短気になる癖があるが、そこで無駄足を嘆くものの正体は傲慢の心で、それがなければ、ケーキがないという共通の経験が、次の時間までの互いの絆を結んだことに気づける。そして、それはじつはケーキがあった時よりも、ずっと豊かな絆になるかもしれないのだ。
 また、いくら食べたいからと言って、相手のところまで押しかけて、ぜひ食べさせてくれ、ここまで来たのだから、食べさせてくれなければ非情であるというのは、言うまでもなく明かな行き過ぎである。それでは相手はびっくりして、絆どころか扉を閉めてしまうことだろう。たとえ、それが純粋で安全な渇望であったとしても、どんな熱情もまん中で燃やすのが良いのである。その上でもさらに、相手がそこまでケーキを持ってきてくれるのもくれないのも尊重されるべき自由だが、ぜひ食べさせたいと思ってもらえる人間になるということ、それも互いをつなぐ糸の、半分までの歩みそのものにちがいない。

 とは言え、このまん中の塩梅というのは、むずかしいものである。しばしば人は行きすぎたり、引っ込み思案に行かな過ぎたりして、迷惑がられたり、また世話をかけたりするものなのだろう。それが人間らしい愛嬌でもあり、きれいに半分の場所が決まるよりは、そうやってまん中辺りに、人と人が互いに出すぎ行き過ぎて行き来するようなゾーンがあって、そこが二重にも三重にも重ねて丈夫にされるのが、本当に強い絆を作るのではないかと思う。スマートに、一度で程合い良いきれいな結び目を拵えるより、少しは野暮ったいような無駄を繰り返して結んだほうが、やはり嘘っぽくなくて、信頼がおけるように思う。と、そんなことを言うと、せっかくスマートさを身につけようと言い始めたことが、野暮なままがよいと翻ってしまいそうに見えるけれど、そういう意味ではなくて、野暮を愛しむくらいの、また楽しめるくらいの、懐深いスマートさが理想ということである。

 どの命も生きている限り、知る知らざるに関わらず、他の命との無数の絆に結ばれて生きる。そうでなければ、生命は営めないものなのだから、わたしたちの幸福も、当然その絆の大事に仕方で変わってくるというものだろう。わたしという人間が、こうして今も生きている。それはどれだけ多くの絆によってであるか計り知れない。そして人は本当にたくさんの人と出会えるようであるけれども、それでも顔と顔を合わせて結べる絆はそんなに多いわけではない。
そう、絆とは、握手のようなものである。互いが半分ずつを出し合って、まん中で結ぶ。よくわたしたちは、会いたいと思っていた人にとうとう会えた時、あるいはぜひ仲良くなりたいと思った時など、たしかにつながろうとするように握手をする。また逆に、もう今度いつ会えるかわからないという別れの時にも握手をするが、それはまるで永遠に失われない絆を結ぼうとする本能的な動作のようでもある。笑顔で、敬愛をこめて、相手を受け入れ、自分を与え、つながってゆく・・・。どうやらよい握手の作法こそ、よき絆の作り方の極意と言えそうである。
 さあ、よい握手をしよう。あなたと、握手をしよう。

September 15, 2008

シーツの幸せ

 わたしにとって、身も心も芯からリラックスして、ああ、幸せだわ・・・と、透明で静かな幸福感に浸ることは、じつは意外と手軽な方法でかなってしまう。
 洗いたてのシーツと、干したお布団。これらの、まだお日さまのにおいの残っている中に体を横たえて、思いっきり手足を伸ばす時、この至福と同じものをほかで得ることは決してできないだろうと、大げさとも思わず確信する。特別に良質でもない、糊もアイロンも効いていないシーツで、柔軟剤なども使わないから日に当たってゴワゴワと硬くなってしまっているのだが、そのゴワゴワを肌に感じるのが、またまっさらで媚びないさわやかさがあって、気持ち良い。それはお日さまにしか与えてもらえないゴワゴワであり、当然、面倒をはぶいて、乾燥機を使って乾かしてしまえば得られないすがしさである。
 そんな上にゴロゴロとなりながら、窓の外に浮かぶきれいなお月さまを眺められたなら、ああ、これでもう目が覚めなくてもいいわ・・・と思ってしまう。また煩雑な日常に戻って汚れたり疲れることを、うんざり思う。でも、わかっている。こうやって眠れたあくる朝は、きっといつも以上に、すぐ動きだしたいくらいの自由な生気に満たされているのだ。
 なんて安上がりな幸福だろうと自分を可笑しがりながら、手間と時間とお天気に恵まれなければ叶わないこの幸福を、やはり格別な、価値ある贅沢と感じる。
 
 そういえば、祖母がわたしにこんな話をしてくれたことがある。
63年前のこと、日本が降伏し、終戦と聞いたとき、一番最初に胸に湧いたのは、
「ああ、これで明日からシーツが干せるわ」
という声だったそうだ。変でしょう?と祖母は笑ったが、あんな大変な思いをしてきたのに、はじめに心に溢れたのはそんな素朴な願いだったのかと切なくなると同時に、お日さまの下に干され、風にはためくシーツが、まるで晴れ晴れとした命そのもののような絵が鮮やかに浮かんで、わたしは深い感動を覚えた。
 戦争が終わって、祖母が最初に謳歌しようとした幸せもシーツであった。それは、奇妙な遺伝的嗜好なのだろうか。いや、おそらくは女の感性が自然につかむ普遍的な何かを、シーツという生活の道具は内包しているのだろう。
シーツを洗って、太陽の下に干す。それは、せわしさの中ではなかなかかないづらく、雨や曇りではやはりかなわず、怠惰をしてはいつまでもかなわず、そして戦争の中では決してかなわない。すべてを逆さにすれば、ゆとりと、陽気と、働きと、平和と・・・まるで幸せになる方法を知らされるようだ。

 きっと、幸せへの入り口は近くにある。だけど自分で近づかなければ、それはいつまでも遠い。
もしも、幸せの感じ方を忘れてしまったような気持ちのする時は、人間誰しもそういう時もあるけどそんな時は、さあ、シーツを洗って、お日さまの下に広げよう。

April 28, 2008

普段着の聖性

 お昼前に用事が終わることもあって、ここへくる日は大抵かならず、近くのビルの二階のインド料理屋さんへ入って、カレーを食べてから帰る。
 さまざまなハーブとスパイス、ナッツを組み合わせて作られるインドカレーは、月に一度、心身のメンテナンスと滋養を与えるのにちょうど良いようにも思えたし、本国の方が作るとてもおいしいお店で、好きなカレーにサラダとナン、マサラティを合わせたセットが850円と手ごろな上、トールグラスのランチビールも100円でつけられる。それも、エビスの生ビールだ。

 特に、わたしは窓際のテーブルを選び、食事をしながら眺める外の光景が好きだった。店に入る前にお参りしてきた天祖神社の鳥居を目の前に臨みながら、眼下の下町らしい人々の活気ある往来と、普段着の信仰の姿を見ていると、なにかとても嬉しく、やさしい気持ちになれるのである。
 駅にほど近い商店街の一角にあり、背後には高層のマンションが社殿を見下ろすようにそびえ立っているような、人間世界との結界もあいまいな、心安い佇まいの神社だが、それでも霊験あらたかさは、社それよりもむしろそこへ自然に払われている人々の敬意や礼によって、動かしがたい形のように強く感得される。はじめてインド料理屋さんの二階から人々の様子を眺めた時、ああ、信仰とはこういうことであったか・・・・と深く心を打たれたものだった。

 自転車で通り過ぎようとする初老の男性が、鳥居の前で、自転車の上からひょいと帽子を脱いで会釈し、そのまま走り去る。カラフルな模様のタイツに、ショートパンツを履いた若い女性が、トントントンと階段を駆け上がると、丁寧に手を清め、心を鎮めて参拝へ向かう。いつも小さなスーツケースを引っ張ってやってくる長い黒髪の、おそらくダンサーか女優さんにちがいないと思われる容姿に人目をひく華がある女性は、階段を登るまえにかならず鳥居に向かって丁寧に手を合わせてから、ゆっくりと社内を参拝して回り、そして帰るときも、階段の下まで来ると、路上からやはり心をこめて手を合わせる。駅に向かって急いで見えた青年が、鳥居の前まで来ると、つと足を止めてきちんと直立し、深々と頭を下げてからまた歩き出す・・・。

 通る人、通る人が見せてゆく、そんな素朴で、純粋な信心を見守っていると、心がやさしく和んで、知らずにほほえみを浮かべている自分に気がつく。通行人全員がというわけではないけれど、じつに多くの人がそうやってあいさつをして通りすぎてゆくから、そこには誰も無視などできるわけのない大きな存在が明かにあると言うのに、まるでわたしばかりが見えていないかのような気持ちにもなる。
 
 また、この神社には樹齢600年の夫婦公孫樹が立っている。雌雄のイチョウがあるのは、都内ではこの神社だけというが、特にこの大イチョウは、戦中空爆に焼かれながらも健気に、そしてたくましくも再生したそうで、それは傷だらけになりながらも、夫婦で共に生きようと呼応し、支え合った姿を示して、命の神秘と強さとを教えてくれるようでもある。そういえば、天照大御神をお祭りする神社の庭に立つこの夫婦公孫樹は、あたかも伊邪那岐命・伊邪那美命の二親のようだ。縁結びや夫婦円満のご利益が信じられているのも、その姿から学ぶところが大きいからだろう。それから、もう一つの小さな名物に、授乳をしている姿の狛犬がある。庭木に覆いかぶされて、まるで茂る葉の後ろに隠れてそっと乳をあげているような佇まいに、またフッとほほえまされる。

 真心の集まる場所が、聖地となる。インド料理屋さんの窓から、この小さな神社を眺めるたび、わたしはそんなことを確信する。それこそまったく普段着のままで、わたしはひょいと神さまから体を持ち上げられ、ほら、天からの眺めはこういうもの、人とはこんなに愛しいもの・・・と、そんな風に教えられている気持ちがする。
 そしておそらくは天の気持ちとおなじように、過ぎ行く人々への愛しさがこみあがり、ひとりずつに幸あれ、と思う。
 
 

March 30, 2008

さくら





桜の季節。
山にも、川原にも、公園、会社、学校、家々の庭にも、桜の花が咲いている。
ああ、天から眺めたら、きっと日本は薄ピンク色をして見えるのではないかしらと思う。

March 17, 2008

精霊の舞

 ダンスを観て泣いたのは、生まれてはじめてのことだった。
この世に、こんなにも美しいものが存在していたなんて・・・ヤン・リーピンが踊りだした途端、目の前のあまりに衝撃的で、驚異的なできごとに、わたしは、あとからあとから溢れ出る涙を止めることができず、こらえようとするたび、余計にむせるようにして泣いた。それは、たとえるならば、まるで神秘体験をしたかのようであった。
 
 あとになってその理由がなんとなくわかった。ヤン・リーピンは、幼いころより母親から「踊るのは神様と話をするためなのよ」と言われて育ち、彼女自身、踊りながら長く腕を伸ばした時、その腕を神が取り体から魂が離れてゆくような不思議な感覚を味わうと共に、深い安らぎを感じると言う。わたしが目の前に繰り広げられているものを、幻とも、奇跡とも感じて驚いたのも、またいつまでもこうして見ていたいと、永遠に終わらないでほしいと願われたのも、そこに見えない神の顕現を感じていたからかもわからない。言葉にするには、この世のものとは思われない美しさとしか言いようがないが、わたしは自分自身の心と体が強く感応するその感覚に、ただ素晴らしい芸術を見た感動とは完全に異質のものを覚えずにはいられなかったのであった。

 今回日本で公演されたのは、ヤン・リーピンが、故郷雲南を歩き回って少数民族に伝わる歌舞をリサーチし、統合して芸術的な昇華を与え、歌舞劇として完成させた「雲南映象(シャングリラ)」。踊りの精霊ヤン・リーピン自身が舞台に立つのは、今日では中国でも滅多に観ることができないそうで、その絶品のダンスを目にできるのは大変幸運なことだということもあとから知らされたが、さらにありがたいことに、わたしのあまりよくない視力でも、はっきりと彼女の表情や指の先まで見えるような席に座る幸運を与えられて、わたしは精霊そのものをじかに見るような驚きと感動に打たれた。いくら驚異だ、感動だと繰り返しても、その素晴らしさを伝えることはできないのはわかっているが、「ああ、今日まで生きていて本当によかった」と、そう思えるものに出会えることはそうそうあるものでもないだろう。

 彼女の代名詞でもある「孔雀の舞」。孔雀はタイ族に「太陽鳥」と呼ばれ、昔から「愛の象徴」として親しまれてきたそうだ。つまりヤン・リーピンは愛の精霊となって踊るとも言えるのだろうか。他のダンサーたちの群舞や打歌などを思い返してみても、多くの踊りが男女の愛を表現するものであったことに気づかされるが、人間にとってもっとも原始的であり、かつ崇高な愛の存在を讃えるということは、おそらく大自然の陰と陽が調和し、天と大地が交わることへの彼らの深い信仰と同一のものなのだろう。彼らのその強い信仰ゆえに、舞台では歌と踊りの高まりのうちにある融点へ達し、なにかその場に大きな変容が起きたのを見る気がする。
 
 そして改めて思う。民族文化は、ひとつの国や地域ではなく、地球におけるかえかげのない財産だと。わたしはまだまだ未熟な人生経験の中で、何度、この声を聞き、情熱の湧きあがる思いをしたことだろう。それでも、日々のことに追われ、わたしにとっては生まれた時からそばにあるような資本主義の思潮に、抗いながらもまみれているうち、忘れるつもりはないのに薄れてしまうはかない思いでもある。
 
 奇しくも、この「雲南映象(シャングリラ)」には、チベット民族の伝統文化も、雲南で括られる中のひとつの、それも最も主要な構成として組み込まれている。チベットの暴動と、この公演とがほとんど時を同じくして始まったのを、わたしは偶然ではないことのようにに感じてしまったが、遡ればもうひとつの私的な事がら、以前チベットの伝統歌舞を保存するために作られた、チベット伝統芸能学校で歌と舞踊を学ぶ学生の一人の里親になったことも思い出され、これらのことがまるで接点を探すように、重なり合っては離れ、交わるように見えてはすれ違い、わたしの頭の中を行き来する。
 そんな中で、わたしにとってヤン・リーピンに出会えたことはやはり幸運だったと思えた。この世界にこんなに美しいものがあったのだと、人はなんて美しいものを生み出すのだろうと、そんなかけがえのなきものを中国を代表するダンサーによって授けてもらったことによって、ややもすれば敵視に傾きかねない中国への思いに静謐な風が入り込んで、心に冷静さがもたらされたようだからである。

 このような情勢でなければ、もっと彼女の舞台は日本でも喝采と脚光を浴びただろう。そしておそらくは舞台上でヤン・リーピン自身が抱いていたであろう、政治的な争いに清らかなものが巻き込まれ、傷ついてゆくことへの深い痛みと切なさ、そして神へ平和を請い祈る強い思いが伝わってきたからこそ、わたしはあんな風に泣けてしかたなかったのではないだろうか。何度も言うが、あの強烈な感応は、ただごとではなかった。

 わたしが戦争のない世界を、自分の生を通じて求めるものと意志を立てた最初のきっかけは、ダライラマ14世とチベットの人々との出会いからだった。暴力からは何も生まれない。暴力を持たない選択こそ、本当の強さであるということを彼らから教わった。そして非暴力を貫くこのチベット人たちに、ラサを返してほしいというのは実は長年のわたしの願いでもある。がまんが限界に達した人に、さらにがまんを強いることは酷にちがいないが、暴力がこれまでの努力と尊さを台無しにしないように強く願う。またわたしにとって、チベットの人々のような笑顔ができる人間になりたいというのが、長年の目標でもある。彼らが、一瞬で人の心を解かすようなあの美しい笑顔を、あの素晴らしき宝を失うことがないように、切に、切に願う。

 

March 9, 2008

甘夏マーマレード

甘夏のマーマレードを作る。これはわたしの3月の風物詩といえるようなものだ。ことしで何年つづいたのだろうか・・・中には楽しみに待ってくれている人もいるから励みにもなるし、なによりわたし自身がこの春の行事を楽しみにしている。
 さて皮をいただけるということは、じつに貴重なこと。必要最低限の農薬で、そのために農家の人々が手間や、気もちをたくさんかけて育てた甘夏。大切に育てられたことを知っているから、料理する側も、だいだい色の素朴な顔つきで並ぶ果実たちに、よく来てくれましたと喜びを伝えると同時に、大切に使わせていただきますと気が入る。
 マーマレードは、この甘夏を余すことなく生かすことができるレシピだ。一時間ほどかけて皮を刻み、実をしぼってジュースを作る。皮の内側についている白いわたには苦味があって、何度かもみ洗いをして少し落とすが、落としすぎても味がしまらないし、わたにはペクチンが含まれているので、ジャムにとろみをつけるためにも必要なパートである。種も捨てない。小鍋に入れて、少量の水で煮ると、種の中から透明のトロトロした液体が出てくるが、これもペクチンで、漉してペクチン液を作り、最後に凝固剤としてマーマレードに加えてとろみをつける。甘夏以外に入るものは、お砂糖だけ。分量的に、皮に使う個数に対し、倍の個数分のジュースが必要となるため、実も種もなくなった、皮だけが残ってしまうことになるのだが、これは夜のお風呂に浮かべて甘夏の湯を楽しむことにする。
 オレンジの香りは、緊張やストレスで堅くなった心をほぐし、明るく前向きな気分に導いてくれ、消化器系の不調も緩和するそうだが、なるほどマーマレードが完成する頃には、わたしは普段より笑う声も、話す声も増えて、ひとつ、ふたつ余計に仕事もこなすくらい活力も増している。毎年マーマレード作りが楽しみに思えるのも、心がこの快感をおぼえているからなのかもしれない。今日も、フランスの有名ブランドの社内セールに誘われていたのだけれど、天秤にかけたら、マーマレード作りが勝ってしまった。我ながら、「おかしいわ、めったに行けない○○○○のセールよ!」と怪訝になって自らに問いかけてみたが、ずっと忙しくて疲れていたせいもあるのだろう。マーマレード作りがまとう、お日さまのような明るさとさわやかさは、セールがまとっているものとは比較にならないほど魅力的に思えた。
 ところで、はからずも天秤にかけることになった数百円の甘夏と、数万、数十万円のブランド品・・・それらはあまりに強いコントラストだが、丁寧に手間をかけ、良質の材料と技術を使って作られたものであることにおいては等しい物同士とも言える。どちらでも、わたしは真摯な物づくりがとても好きだ。特にこの甘夏は、ある生協団体が水俣の生産者と共同で作り上げてきた商品で、農薬の制限など厳しい希望をかなえてもらう代わりに、できた作物は必ず買い取るし、買い叩くことも決してしない。他と競合させるようなこともしないし、食い扶持のことは安心して、良い甘夏を作ることだけを考えてもらうようにする。なにごとも競争がないと質が堕落するように考えがちな世の中にあって、こんな流通のしくみが実現することにわたしは心から感動してしまう。共に成長しようという気持ちをゆるめないで、何十年と続けられる「関係」そのものに、憧憬すら感じる。
 自然、買って食べるだけの身の上としても、ただ剥いていただくのではなく、なにか特別なかかわり方をしたくなる。人同士の信頼と努力の上に、自然の恩恵が注がれて結んだ果実を、まるごと、あますところなく生かしていただきたい・・・マーマレードを作ることによって、わたし自身もその「関係」に取り込んでもらえたような喜びに浸る。

 保存瓶を熱湯で消毒し、琥珀色に輝く甘夏マーマレードを詰めてゆく。自分で作りながら、謙遜もせず、「おいしいですよ」と言って人にさしあげられる、唯一の料理でもある。ことしも、おいしくできあがった。願わくば、これを食べる人たちにとっても、明るくさわやかな元気を注ぐ甘露となってくれますように。

January 27, 2008

夫婦杉

家の近くの公園に、大きな杉の木が立っている。
美しい釣鐘型の、絵のごとく完璧なクリスマスツリーの形と言えそうなこのヒマラヤ杉の大木。はじめてこれを目の前に仰いだときに、わたしは「あっ」と言って驚いた。
一本の大木と思っていたこの杉は、よく見たら、二本の木が寄り添って、一本の姿を呈していたのであった。

その二本とは、一本が太い幹を持ち、もう一本がその半分とも思われるほど細くて、まるで夫婦が肩を寄せ合って並んでいるかのようなのである。
一本だけでも十分立派に見えそうな太い杉も、もう一本がなければ、あのように葉が豊かで、美しく均整の取れたフォルムを現すことはできなかっただろうし、細い方だけでは、あのように高くまで、まっすぐ伸びることはできなかっただろう。
雨風、嵐に遭えば、互いに抱き合うように支え合って、折れたり、倒れたりすることを防いできたにちがいない。

この杉を植えた人が、どのようなことを思ってしたことなのかは知らないけれど、30年ほど経った新興住宅街の中心にある、毎日家族のいろんなメンバーが集まり、休み、あそび、寝ころんだり、楽器を弾いたりして過ごす公園のシンボルが、
こうして夫婦の理想の姿のようにして立つ二本の大きな杉の木であることは、とても賢明な、美しいアイディアだったと賞賛したくなる。彫刻でも、建造物でもなく、生きた樹木が、生きながら教えてくれるからこそ、あたたかさとともに、日々新しく伝わってくる感動がある。

あらためてこの夫婦杉を仰ぐ。二本は、まるで本当にひとつものであるかのようだ。
高い、高い青空に向かい、まっすぐとのびのびと背を伸ばし、大きな木陰の下に、
キャッチボールをしている親子や、サッカーであそぶこどもたちを育んでいる。
わたしはこの杉が大好きである。

January 4, 2008

A HAPPY NEW YEAR



Happy New Year 2008


自分の心の性格を思案してみると、
頑固なようで、根性がなかったり、
頑張るわりに、根気が足りなかったり・・・
そうね、そうね、頑なになんかなるよりも、健やかで、強い根を持つ人間になりたいな。
そんなことにふと気がついて、心根育てる一年にしたいと思った。

そして世界中のよい夢が、すくすくと根を伸ばし、ひろびろと根を張って、
さわやかな緑の風吹かせ、花咲き、豊かに実をつける、美しい木々と育ちますように。