September 15, 2008

シーツの幸せ

 わたしにとって、身も心も芯からリラックスして、ああ、幸せだわ・・・と、透明で静かな幸福感に浸ることは、じつは意外と手軽な方法でかなってしまう。
 洗いたてのシーツと、干したお布団。これらの、まだお日さまのにおいの残っている中に体を横たえて、思いっきり手足を伸ばす時、この至福と同じものをほかで得ることは決してできないだろうと、大げさとも思わず確信する。特別に良質でもない、糊もアイロンも効いていないシーツで、柔軟剤なども使わないから日に当たってゴワゴワと硬くなってしまっているのだが、そのゴワゴワを肌に感じるのが、またまっさらで媚びないさわやかさがあって、気持ち良い。それはお日さまにしか与えてもらえないゴワゴワであり、当然、面倒をはぶいて、乾燥機を使って乾かしてしまえば得られないすがしさである。
 そんな上にゴロゴロとなりながら、窓の外に浮かぶきれいなお月さまを眺められたなら、ああ、これでもう目が覚めなくてもいいわ・・・と思ってしまう。また煩雑な日常に戻って汚れたり疲れることを、うんざり思う。でも、わかっている。こうやって眠れたあくる朝は、きっといつも以上に、すぐ動きだしたいくらいの自由な生気に満たされているのだ。
 なんて安上がりな幸福だろうと自分を可笑しがりながら、手間と時間とお天気に恵まれなければ叶わないこの幸福を、やはり格別な、価値ある贅沢と感じる。
 
 そういえば、祖母がわたしにこんな話をしてくれたことがある。
63年前のこと、日本が降伏し、終戦と聞いたとき、一番最初に胸に湧いたのは、
「ああ、これで明日からシーツが干せるわ」
という声だったそうだ。変でしょう?と祖母は笑ったが、あんな大変な思いをしてきたのに、はじめに心に溢れたのはそんな素朴な願いだったのかと切なくなると同時に、お日さまの下に干され、風にはためくシーツが、まるで晴れ晴れとした命そのもののような絵が鮮やかに浮かんで、わたしは深い感動を覚えた。
 戦争が終わって、祖母が最初に謳歌しようとした幸せもシーツであった。それは、奇妙な遺伝的嗜好なのだろうか。いや、おそらくは女の感性が自然につかむ普遍的な何かを、シーツという生活の道具は内包しているのだろう。
シーツを洗って、太陽の下に干す。それは、せわしさの中ではなかなかかないづらく、雨や曇りではやはりかなわず、怠惰をしてはいつまでもかなわず、そして戦争の中では決してかなわない。すべてを逆さにすれば、ゆとりと、陽気と、働きと、平和と・・・まるで幸せになる方法を知らされるようだ。

 きっと、幸せへの入り口は近くにある。だけど自分で近づかなければ、それはいつまでも遠い。
もしも、幸せの感じ方を忘れてしまったような気持ちのする時は、人間誰しもそういう時もあるけどそんな時は、さあ、シーツを洗って、お日さまの下に広げよう。