December 29, 2008

 人と人との関係はむずかしいもの。これに悩むことはないね、とさわやかに言い切ってしまえる人がいたら、うらやましいよりは、すこしどこかが鈍感なのではないかと疑りたくなってしまうかもしれない。

 人と人との関係の築き方を、上滑りな社交性や人づき合いのコツに依るようなのは、カラカラと音がするように空しくて、不潔にすら思って嫌悪したような若い日から歳を積んで、その間には、そんな心のとんがりのせいで、自分自身が傷つくような痛い思いを数々重ねて、さて不惑の歳となった頃には、人間関係をだいじに育めるような、誠実でエレガントな表現力をまなぶことは大切だと思うようにもなった。もちろん表現力ばかりで心の伴わないのは軽蔑すべきだけれど、自分の思いの伝え方、相手の思いの受け止め方、怒りや悲しさなど動揺の気持ちの収め方を身につけるということは、実際的な自分や他人への「思いやり」に他ならないことだと悟って、よけいな反発が削げ落ちたのだ。

 たとえば、どんなに美味しいケーキを作ったとしても、それを相手に投げつけたら味わうこともできないし、びっくりするか不快に思うかで、美味しいと思ってもらえるわけがない。食べやすくカットし、フォークを添えて差し出し、それを相手が口に運んでくれてはじめて、そのケーキは美味しいと感じてもらうこともできるのだ。こうして、どんな良いものも、正しいものも、発し方によっては台無しになることがある。わたしなどは、これまでずいぶん正しいことが通らないと失望したことがあったものだけど、じつは自分で台無しにしていたものもどんなに多かったか、思い返せば自らの愚かさに気づいて、あきれ返るできごとがとても多い。

 ところで、「絆」という字は糸に半分の半と書く。ある日急に心に浮かんだこの文字をしげしげと感じて、ああ、そうか、と目からウロコが落ちた。人と人との関係は、糸を半分ずつ持ち合うようなもの。それが「きずな」と呼ぶにふさわしいほど、一番強く、深い結びの姿なのだ。
自分と相手との距離の中で、こちらが相手のところまで全部行ってしまうのも行き過ぎであれば、自分が動かず、相手が近づいてくれるのを待つだけなのもだめなのである。ちがう見方で言えば、半分までは自分が行っても行かないでも自由があるかわりに、相手にもまったく同じ自由がある。この互いの自由を尊重するだけでも、おそらく、人同士の間に起こりがちな失望や、苛立ちと言ったものの大部分をなくすことができるだろう。だいたいわたしたちは、相手や状況が自分の思いのとおりでないばかりに、失望したり、苛立つような勝手が多いのだ。
 さっきのケーキの話を続けるとしたら、どんなに美味しいケーキを、どんなに気持ちよく相手に届けたとしても、相手が満腹で食べたくないと思うことも、あるいは甘いものは苦手だと断ることも起こり得るのであり、それは礼儀がないことでも、愛情がないことでも、運が悪いことでもなく、いつでも「良し」とされていることなのである。食べなくても、決してケーキのおいしさを否定することではないし、どんなに天下一品のおいしいケーキでも、置かれる場所は自分と相手とのまん中であって、そこまでの距離の自由は、たがいに十分尊重されるべきものなのだ。この尊重が身につけば、どんな時でも相手にノーを言われて無闇に傷つくということがなくなるだろう。傷つくことがなくなれば、今度は人を傷つけない、罪意識に苛まれないノーも言えるようになる。

 逆に、あのケーキはとても美味と聞くけれど、自分もぜひ食べさせてもらいたいものだわ・・・・・・と思ったら、やはりその半分の距離を自分が歩いて行かなければいけない。指をくわえて自分のところで待っていても、大声で呼ぶだけでも、食べる幸運を得ている人はいいなあ、とすねても怠けモノなだけである。まん中までの距離は自分の責任であって、たとえそこで、せっかく来てくれたけど、ケーキはなくなってしまったの、と言われたとしても、無駄足を失望する必要はない。次回は、いつ来ればいいか教えてくれますか?と、尋ねて、できるならそこで予約をしてしまえばいいのである。人は失望すると短気になる癖があるが、そこで無駄足を嘆くものの正体は傲慢の心で、それがなければ、ケーキがないという共通の経験が、次の時間までの互いの絆を結んだことに気づける。そして、それはじつはケーキがあった時よりも、ずっと豊かな絆になるかもしれないのだ。
 また、いくら食べたいからと言って、相手のところまで押しかけて、ぜひ食べさせてくれ、ここまで来たのだから、食べさせてくれなければ非情であるというのは、言うまでもなく明かな行き過ぎである。それでは相手はびっくりして、絆どころか扉を閉めてしまうことだろう。たとえ、それが純粋で安全な渇望であったとしても、どんな熱情もまん中で燃やすのが良いのである。その上でもさらに、相手がそこまでケーキを持ってきてくれるのもくれないのも尊重されるべき自由だが、ぜひ食べさせたいと思ってもらえる人間になるということ、それも互いをつなぐ糸の、半分までの歩みそのものにちがいない。

 とは言え、このまん中の塩梅というのは、むずかしいものである。しばしば人は行きすぎたり、引っ込み思案に行かな過ぎたりして、迷惑がられたり、また世話をかけたりするものなのだろう。それが人間らしい愛嬌でもあり、きれいに半分の場所が決まるよりは、そうやってまん中辺りに、人と人が互いに出すぎ行き過ぎて行き来するようなゾーンがあって、そこが二重にも三重にも重ねて丈夫にされるのが、本当に強い絆を作るのではないかと思う。スマートに、一度で程合い良いきれいな結び目を拵えるより、少しは野暮ったいような無駄を繰り返して結んだほうが、やはり嘘っぽくなくて、信頼がおけるように思う。と、そんなことを言うと、せっかくスマートさを身につけようと言い始めたことが、野暮なままがよいと翻ってしまいそうに見えるけれど、そういう意味ではなくて、野暮を愛しむくらいの、また楽しめるくらいの、懐深いスマートさが理想ということである。

 どの命も生きている限り、知る知らざるに関わらず、他の命との無数の絆に結ばれて生きる。そうでなければ、生命は営めないものなのだから、わたしたちの幸福も、当然その絆の大事に仕方で変わってくるというものだろう。わたしという人間が、こうして今も生きている。それはどれだけ多くの絆によってであるか計り知れない。そして人は本当にたくさんの人と出会えるようであるけれども、それでも顔と顔を合わせて結べる絆はそんなに多いわけではない。
そう、絆とは、握手のようなものである。互いが半分ずつを出し合って、まん中で結ぶ。よくわたしたちは、会いたいと思っていた人にとうとう会えた時、あるいはぜひ仲良くなりたいと思った時など、たしかにつながろうとするように握手をする。また逆に、もう今度いつ会えるかわからないという別れの時にも握手をするが、それはまるで永遠に失われない絆を結ぼうとする本能的な動作のようでもある。笑顔で、敬愛をこめて、相手を受け入れ、自分を与え、つながってゆく・・・。どうやらよい握手の作法こそ、よき絆の作り方の極意と言えそうである。
 さあ、よい握手をしよう。あなたと、握手をしよう。