January 27, 2009

GRACE

 今話すには、あんまりにも季節はずれかもしれないが、先月のできごとについてはやはり書き残しておきたくて、クリスマスの話を載せることにする。
「それぞれの人生は、神の指で書かれたおとぎ話である」
このアンデルセンの言葉をそえて。

 毎年、クリスマスには幼稚園のこどもたちと一緒に献金をする。こどもたちはひと月前から、それぞれ献金箱を作って家に持ち帰り、おこづかいやお手伝いをしたお駄賃をそこへ貯めて、献金日には思い思いの絵を描いた封筒に中身を移して持ってくる。イエス様のご誕生をお祝いし、世界中のこどもたちにもクリスマスのプレゼントが届くように、これを必要な人のためにお使いくださいとお祈りして、バスケットに献金の入った封筒を入れてゆく。
 職員のわたしたちも、それにあわせて毎年献金をするのだが、今回はいつものようにお金を寄付するという中に、どうももうひとつ高慢さが残ってしまう気持ちがして、わたしはなかなかその思いを拭うことができなかった。そんな時、作家の曽野綾子さんがカトリックの機関紙に、自分は学校で、クリスマスイヴはご馳走を食べてお祝いする日ではなく、半断食をして過ごし、誰かほかの人のために犠牲を払う日だと教わった、と書いているのを読み、そうだ、食べられない人へ寄付をするというだけでなく、食べられないという経験をわたしも共有してみようと、小さな断食をすることを思い立った。ただお財布からお金を取り出すのではなく、献金日までの一ヶ月間、毎週金曜日の夕食を断って、その分の食事代を積み立てて献金することにしたのだ。食べられない人の食事を助けるために、自分の食事を差し出すのは、一番シンプルな行為だと思えたし、この他にお金に心をこめるよい方法を思いつけそうもなかった。
 自慢するほど大したことをするわけでもなく、むしろ子どもじみた発想と苦笑されるのが関の山で、さいしょに家族に断食を予告した時も、父などは「食べられない人間が家にいるなんて気兼ねで、そんなの迷惑だなあ・・・」と嘆いたくらいだったから、どちらかと言えば肩身がせまいような気分で、しばらく家族の他の誰にも打ち明けなかった。気持ちに偽善のないことを証したいのは、なによりもまず自分自身の問題だったし、その上でなければ、献金を主催して、ほかの人の理解や協力を仰ぐのはいやだと思ったのだ。

 一週目の断食は、気負いが大きいせいでおなかもあまり空かなくて、逆に普段使いすぎている胃腸を休める日ができた恩恵ばかりを感じられるほど、難なく終わった。翌日の体調の良さは早くもご褒美のようで、これならあと三回も、感謝しながら楽しんでできるだろうと楽観した。しかし次の週は、本当に続けるのか?という家族の反応に、つい悔しさが湧いてカッカとし、そのせいでおなかが空いて、食べたいのに食べられないという境遇を味わうことに、はからずも成功した。三週目になると、少し情勢が変わり、家族は協力をしようとしてわたしの帰宅前に食事を済ませようと考え、わたしはわたしでみんなの夕食時間に遅れて家へ帰ることを企んだが、そんなふうに互いに気を使い合ってわざわざ作り出す「食べられない」状況が、本当に食べられない人たちとの距離を遠く感じさせて、それほど自分たちは恵まれているのだということをつくづく思い知り、食にまつわり日々に溢れるいろんな不足を情けなく思った。そして回を重ねるほど、断食は馴れるどころか空腹感が増されてゆくようで、頭の中に始終「おなかが空いたなあ」という声が響いていた。おとなのわたしがこうなのだから、小さな子どもだったら、その声だけで体中がいっぱいになってしまうだろう。そしてその声がしなくなったときには、どれだけ無気力となって、生きる力をなくしてしまうだろう。
 最後の週は、無意識のうちに知恵が先行して、買い物でもして気持ちを紛らわせるのが良案と、夕食時間にデパートへ入った。新しい服でも見に行こうかしら・・・と考えながらデパートへ入ったとたん、急に胸から湧いてくるように、食べられない人は食べるものを買うお金がないから食べられないのだ、という根本的なことを思い出して、自分の浅はかさにあきれ返った。空腹を紛らわせるためにショッピングを楽しもうなんて、本末転倒もはなはだしかった。思えば、ふだん本当に必要ではないものへ使っているお金がどれだけあることだろう。世の中は、景気、景気というけれど、不要なものにさえ多額のお金を使って動かさなければいけない経済など、まやかし以外のなにものでもないのではないか・・・。自分の情けなさとすり替えるように、そんな社会への疑問や憤りまでが胸に湧きだして、やはりおなかが空いてしまった。つくづく怒りと言う感情は、エネルギーを消耗するものだと思った。
 こうして、小さな断食ではあったが、それなりに考える機会と時間を与えてくれて、一ヶ月たつとどこか達成感のようなものも起こって、わたしの心はさわやかであった。

 さて献金日の前日になって、幼稚園では急にお客様を迎えることになった。南米のボリビアで貧しい人たちのために長年献身している倉橋輝信神父が、園長を訪ねてやってくることになり、ちょうどよい機会だから明日は子どもたちに話をしてもらいましょう、と言うことになった。
「そうそう、作家の曽野綾子さんは救援の必要な場所へ自分で赴いて活動をする人なんですけれどね、倉橋神父のことは、ボリビアでは大統領よりも有名だ、なんて書いていますよ」
と、園長がニコニコと説明した。曽野綾子さん・・・・わたしがクリスマスの断食を倣った人である。献金日に際して、再びその名を聞くことになるとは思いがけず、感動し、断食のことを園長に打ち明けようかと思ったが、留まった。それよりも、倉橋神父のことを思い出したのだ。ああ、そうだ。わたしも、この南米の愉快で情熱的な日本人神父の話を読んだことがある。読んだ直後、理事会へ送るために園長を乗せて車を運転しながら、その記事のことを話題にしたら、園長は彼のことはよく知っていると言って、イタリア留学中に倉橋神父と一緒に過ごした思い出話をしてくれたのだった。名前を記憶し損ねていたが、まちがいない、同一人物だ。イタリア留学後、倉橋神父はボリビアの日系移民が日本語のできる神父を求めたのに応じ、以来29年間、日本からの義捐金で貧しい人々を助ける活動を続けている。
「彼は、学校のような堅苦しい組織にいるよりも、ああいう活動が向いているんですよ」
音楽好きで、自らいろんな楽器を演奏して、みんなを喜ばせ、心を溶かす。いつか会ってみたい人物だと思った。
 あらためて、園長は今年の日付の新聞記事をくれ、保護者にも配るように印刷を指示したが、手渡された地方紙の記事を読むと、倉橋神父の音楽にまつわる興味深いエピソードが書いてある。「教会の結婚式では、ベートーベンの『喜びの歌』をハーモニカで演奏する。誕生祝いに母からもらった時、独学で上下さかさまに持って覚えた。今もドレミを左からでなく右から吹く時、母が一緒にいる・・・・」
ハーモニカで「喜びの歌」というのも、さかさまに吹くのも、非常にチャーミングな神父様だった。
「(ボリビアには)貧しくても笑みがある。規律はないが包容力がある。そりゃ腐敗と犯罪の国ですよ。でも、私は日本に帰ると冷蔵庫に入ったように感じる。年に三万人も自殺する日本が、ここより豊かと言えるかどうか・・・・・」
そんな冷蔵庫のような冷たさの中で、小さな火でも灯し続けなければいけないと心に誓いながら、わたしの小さな火は心細く、頼りなく、ついつい風当たりから隠して消えないようにかばっては、それではなんの意味もないと自分を叱って、あともう少しだけ、もう少しだけと励まし、表に掲げる。そんな風前の灯に、倉橋神父の来訪のニュースは、まるで心に燃料を注いでくれるかのように、熱をくれていた。

 家に帰ると、わたしはなによりのクリスマスプレゼントをもらったのだと思って、一人あらためて感動した。曽野綾子さんとゆかりのある倉橋神父を、断食の明けた献金日のその日に寄越してくれるという完璧は、いったい神さま以外の誰にできるしわざだろう。神の存在を疑うことはなかったが、このような「はからい」の美しさは、大自然の完全な美を見せられた時に感じるのと同じ、言葉ではつくしきれない圧倒的な感動と畏敬を与えて、新たに、すべてを超越する大いなる存在のことを覚えさせる。
 今家には、ジャズミュージシャンのヒロ川島がイギリスのデザイナー、ポール・スミスと作ったcocoloという楽器があった。現在わたしが持っている唯一の楽器である。ハワイのウクレレを少し進化させたものと言い、「若者よ、武器ではなくcocoloを持て!」というキャッチフレーズを与えて、あえて「cocolo」という新しい楽器を世界に生み出そうとしていた。こころを奏でる、こころが歌う、こころの声が聞こえる・・・楽器を通して、「こころ」を世界共通語にしたいという川島さんの夢は、ある日、世界的ファッションデザイナーと磁石が引き合うようにして出会い、共感を得て、その夢の楽器を一緒に作ろうじゃないか、という奇跡を実現させた。それはわたしから見ても、川島さん自身にとっても、「はからい」としか言いようがない、人知では考えつけないようなできごとだった。
 まだ、数枚のラフな企画書の段階から、cocoloの発想を聞かせてもらう機会に恵まれていたわたしは、同じ夢と奇跡とに自分も参加したくて、弾けもしないくせにcocoloを購入した。個人的には、二年ほど前に楽器をすべて処分し、さみしく感じていたわたしにとって、新しく自分のそばに置く楽器を選ぶなら、これ以上のものはなかった。しかし半年たっても、美術品のように眺める楽しみのほうが主で、どうにか曲になるのは「ふるさと」と「アメージンググレイス」の二曲しかなかったが、もし自由に演奏できるような腕があったら、わたしもベートーベンの「喜びの歌」を奏でてみたいと思った。まさにそんな気分だったし、ハーモニカで吹くのと同じくらい、魅力的な第九になるにちがいなかった。

 あくる朝、倉橋神父は想像した以上に気さくで、明朗闊達な人柄を全身に表わすようにして現われた。ハーモニカで一曲吹いていただくことをお願いしていたが、わたしは残念ながら子どもたちといっしょにボリビアの話を聞くことも、またハーモニカの演奏を聞くこともできなかった。聖堂に手伝いにでかけていた補助教員の先生が、途中使いを頼まれて事務室に戻った際、希望に高ぶった顔つきで口早に様子を話してくれた。「いち、に、さん」と倉橋神父はゆっくり指を鳴らしてみせ、
「今、一人の人が食べることができなくて死んで行きました・・・世界には3秒に一人、みんなが当たり前のように食べているごはんが食べられなくて死んでゆくお友達がいるのです・・・」
と話して、また三つ指を鳴らした。いつもふざけあいがやまない子どもたちが、しんと釘付けのように倉橋神父を見つめ、なにかを確かに心に受け止めたようだったと言う。わたしは嬉しかった。それは子どもたちにとって、とても大きな心の宝になるに違いなかった。
 聖堂から戻った倉橋神父は、「ああ、今日は本当に気持ちがいいです」と喜んで、コーヒーを用意しようと思ったがそれも待ちきれない様子で、「ちょっと散歩にでかけてきます。歩きたいです」と言って出て行かれた。きっと神さまとお話をされたいのだろうと思って引き止めず、門まで見送りに出ると、別れ際倉橋神父はわたしの顔を一瞬じっと見つめてから、急に「アメージンググレイス」を歌いだした。思わず釣られてわたしも唱和し、笑った。
 引き続き、次の日の保護者向けのキャンドルサービスにも倉橋神父は参加することになって、ボリビアの話をしてくれることになったが、前日のうわさを聞いた他の職員もみな話を聞きたがったため、わたしはやはり幼稚園で留守番をしなければならず、聖堂に行くことはかなわなかった。ボリビアの話は、資料を用意する際に個人的に多少聞くことができたのであまり惜しくはなかったが、ハーモニカの演奏をまた聞き逃すのは残念だった。しかし、倉橋神父が子どもだけでなく、大人たちの心にも種を蒔いてくれるのだと思えば、留守番を一人で請け負ってでもすべての大人を送り出したい気持ちがしたし、果たして話を聞いて帰ってきた人々が、視野が開けたように目に光を宿して、心をあたためて帰ってきたようすを眺めると、わたしはその人数分の喜びを与えてもらうように、不運を越えた満足を感じるのだった。
 まもなく教会から倉橋神父が戻ったのを出迎えて、礼を述べると、昨日と同じように倉橋神父は一瞬じっと見つめるような目をしてから、
「うさぎ追いしかの山・・・」
と、歌うというより詩句を唱えた。「ふるさと」の歌詞である。
わたしは胸の中で、あっ、と叫んだ。まるで倉橋神父は、わたしがcocoloで奏でることができる、たった二つの歌を聞きとることができたかのようだった。昨日は「アメージンググレイス」を、今日は「ふるさと」を、まさに二つしかないわたしのcocoloのレパートリーを、みごとに歌ってみせたのである。心の音とは、そうやって流れ、伝わってゆくものなのだろうか。音楽はたしかに、言語も、肉体の壁も超えて、人と人とをつないで行く。それは、なんてすてきなことだろう。また、わたしたちのどんな小さな隠れた営みも、明らかにされないものはひとつもない。倉橋神父は化身のように、わたしたちをつねに見守り続ける存在のことを伝えてくれるのでもあった。

「コーヒーをお入れしましょうか?それとも日本茶がよろしいですか?」
と尋ねると、
「コーヒーがいいですね!ありがとうございます」
と、倉橋神父は明快に、嬉しそうに答えたが、コーヒーメーカーで新しいものを落としているうちに、何も告げず、いなくなってしまった。たぶん、散歩に出かけられたのだろう。
以来、倉橋神父にはお会いしていない。突然太陽を含んだあたたかい風のようにやってきて、あたたかな昼の日差しの中に、風のように消えてしまった。わたしには、ついにハーモニカの音色は授からなかったが、アカペラの歌が二曲、いつまでも残る思い出として刻まれた。
 そして、わたしは思った。なにを心配する必要があるだろう。神が見ているその下で。なにをおそれる必要があるだろう。神が守るその下で。胸にある愛は、熱のように伝播する。掲げよう。ともしびを。


Amazing grace!
how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see
Through many dangers
Toils and snares I have already come
Tis grace have brought me
Safe this for
And grace will lead me home


ああ、大いなる美しき恩寵よ
なんと甘美な響きだろう
私のような者までも救ってくれる
かつて私は道に迷えるものだったが
今は見つけられたものとなった
かつてわたしは盲目だったが、
今わたしは見ることができる
多くの危険や苦しみ、誘惑を経て
私はここまでやってきたが
この大いなる愛がいつも私を救い
ここまでつれて来てくれたのだ
そして大いなる愛はさらに
私を懐かしいふるさとへと
みちびいてくれるだろう