May 3, 2009

ひらくとき

先日、夜中のこと。ふと目を覚ました時、どうしたものか古い疑問がいきなり解けた。
目を覚ました時と言うよりは、夢見と覚醒とが半分ずつの中で、思いもよらぬ謎解きが起こって、その衝撃に完全に目が開いたと言うのが事実だったかもしれない。とにかく、そんな古い疑問を今ごろ思い出させられたこと自体がそもそも驚きだったし、30年もわからなかったことが、いとも簡単に紐解けてしまったことにも、あ然とした。

わたしはびっくりして起き上がり、今手に入れたばかりの答えを確かめようと、机の引き出しを漁って古い学生手帳を取り出し、学校の創立記念の歌の歌詞を見つめた。
「・・・・つくせおとめ つくせおみな みくにのために つくせおとめ つくせおみな みくにのために」
なんと古めかしい、歌詞。何十回、百回と歌ったフレーズだろう。
わたしが中学校から大学まで過ごした学校は、たいへん歌が好きなところで、校歌の種類をいくつも持って、それらを二部や三部の合唱で始終歌わされながら、生徒もみんな自分の学校の歌を愛したが、この創立記念の歌だけは、わたしはどうしても好きになることができなかった。「つくせ みくにのために」と歌うたび、嫌悪と反感とが思春期の胸の中でとんがった。
日本ではじめて女性のために作られた、女性教育の草分けのような学校で、自立性、平等性、また個性の自由を重んじる学校であったはずなのに、いったいどうして、こんな歌詞になってしまったのか。やはり、国におもねるような必然性が生じた時代もあったのか。そうだとしても、戦後こんなに時間が経ったというのに、以前としてこのような歌詞をわたしたちに歌わせ続けるのは、なんというナンセンスだろう・・・。
10年間ずっと、学校にいる間中そう思い続けてきたし、卒業してからも、ふと思い出しては解せない疑問と反感を感じてきた。もっとも反感と言っても、自分には直接関係のないことだとすぐに無関心に翻って、普段はすっかり忘れているようなくらいだったけれど、友人たちも話題がその歌に触れることがあれば同じことを言い合い、まったく前時代的と共感し合ったし、やはり同じ学校を出た母も、そういう時代だったから仕方がないのよとあっさり言って、みんなで「おとめよ、お国につくしなさい」という意味にとって、疑いもしなかったのである。

そんな信仰の薄いわたしの無明を揺り起こすかのように、その夜、わたしは突然本当の意味を解らされた。眠りに落ちてだいぶ経ったあと、意識が夢の浅瀬くらいまで上ってきたようなところで、「みくに、みくに・・・」と言葉がささやかれ、連想が手繰り寄せられるみたいに「みくにがきますように・・・」というキリスト教の祈りの言葉を思い出していたら、急に学校の創立記念の歌がよみがえった。ああ、そうではないか。あの歌は「みくにのために」と言っていたのであって、「おくにのために」と言っていたのではない。おとめよ、天の国のためにつくせと命じていたのだ。ああ、なんてこと!一体全体、なんとばかげた誤解をしてきたのだろう!そうして、わたしは驚きと共に跳ね起き、急いで机の引き出しから、歌の楽譜を載せた学生手帳を探したのであった。

創立者は、プロテスタントの牧師として情熱的な伝道活動を行った人であったが、宗教、信仰は個人の自由に由来するべきとして、学校はキリスト教学校にしなかった。しかし、今改めて歌詞を眺めれば、創立者が宗派を超えたミッションスクールを創ったつもりであったことはまちがいない。
ひょっとしたら、戦時下ではわたしのように愚かな多くの人間が、お国につくせと激励する教育だと感心して、学校は無用な干渉を免れ、面倒な来賓があれば、この歌を大声で歌って歓待していたかもしれない。そんな空想を巡らせば、自分の愚かしさも忘れて愉快になった。
歌のはじまりはこんな風だ。
「おさまるみよの めぐみもて ここにつくりし だいがくは・・・」
やはり無知なわたしは、国家や政治家たちの尽力によって大学を作ることができたことを讃える詞だと思い込んできた。もちろん、それも完全にまちがいではなかっただろう。しかし真の思いは、神の恵みへの感謝であったにちがいなく、だから、子どもたちよ、天の国のためにつくしなさい、神さまの喜ぶ平和の実現のためにつくしなさい、と最後のフレーズを何度も、何度も、繰り返させるのにちがいなかった。
敵は煙に巻いて、世俗に傷つけられやすい純粋を守り通してみせる。偶然にもそれは非常にみごとな知恵ではなかったか、などと思って、真夜中の2時すぎ、わたしはひとりで興奮した。ナンセンスで、まったく好かない歌が、一変して、センスの良い、光り輝くものとなって、目の前に鎮座していた。

まさに、30年の疑問と反感が、一気に紐解けた瞬間であった。こんなに長い時間わからなかったことも、悟る時と言うのはまさに一瞬なのだと、あらためて思い知る。思えば、家庭の中にしろ、学校の友達の中にしろ、一人でもクリスチャンに恵まれていたなら、こんなとんちんかんを長い間続けることはなかったかもしれない。担任の先生や、音楽の先生からも、歌詞の意味を教わった記憶はない。もっとも、そんな疑問を長く抱き続けるくらいだったら、誰か先生を捕まえて率直に聞いてみればよかったのだとも思うのだが、あのころのわたしはたいへん粋がりの、反体制派風のねじ曲がりだったので、「こんな古臭い思想の歌など、歌わせる気がしれないわ」と思い込んだきり、歌を強制する側に向かって、けな気に尋ねてみるような素直さはみじんも持ち合わせていなかった。悔やんでも仕方ないが、素直でないから、こんなに時間の無駄をすることになるのである。しかし、逆に当時、誰か「みくに」を説明してくれる先生にめぐり合って、ちゃんと正しい意味を教えてもらうことができたとして、果たして自分が納得して理解しただろうかと思うと、それもあまり自信がない。なんにでも反抗しないと済まない思春期のひねくれ心は、天国などという言葉を出されたなり、学校に宗教と信仰を持ち込まない主義ではなかったのか・・・と難くせをつけ、やはり反感を感じたかもしれないと思う。ほかの素直で賢い人の人生でなら絶対に30年もいらなかったはずだが、ほかの誰でもない、わたしの人生においては、今ようやく、この歌を理解できる旬が訪れたということなのだろう。

物分かりの悪い、生徒である。ただ、物分かりが悪いのも、本当のことを知りたいと思う気持ちさえ失わなければ、捨てたものでもないとも思う。とくに、今回のことを通して、わたしたちはなんでも間に合わせの答えで満足することをせず、本当のことを見きわめたいと思い続けていたら、きっと答えは得られるのだと励まされた気がした。真理は、真理自らが開示してくれる。その時が訪れるまで、わたしたちはいらだつことも要らない。絶望することもない。ただ、できるだけ、素直な方がよいにはちがいない。ひねくれたり、ねじ曲った分だけ時間がかかるのは、わたしの30年という年月が証ししてくれていることである。

なぜ生まれたのか・・・なぜ、なぜ、なぜと、思えば生きている間中、わたしは問い続けっぱなしであった。今もいくつもの「何故」は残っている。しかし、それらもいずれ紐解ける時がくるだろう。
人生は信頼するに値する。30年間、迷いの多かったわたしも、今は心からそう思っている。