September 29, 2009

としをとる

 としをとることを、わたしは嫌いではない。正確に言ったら、イヤではなくなったと言った方がいいだろう。はずかしいほど激しいことだけれど、そんなわたしも十代のころは、ハタチになるまでに、自分がだれか、なにをすべき人間か、あきらかに他人と区別できるだけのくっきりとした自己、つまり才能を発露できなければ、ハタチ前に死んだほうがよいと思っていた。びっくりするほど、驕ったことを、真剣に思いつめていた。

 そんなふうに、かたよった考えをするには、いろいろな理由があったものだけれど、十代後半の自分探し中には、明治から昭和の激動の時代を生きた詩人や小説家たちに共感して、彼らの作品や伝記、論評などを読みふけっていたから、その時代の作家たちのように早熟でなければ、自分にはもう将来はないとあきらめたほうがよいと言うように、そんな幼稚な感化もあったはずだった。自分も作家となって、人はいかに生きるべきかを考え、そして世の中の思想や価値観を醸成してゆく一員となりたい・・・そんな志とはアンバランスに、耽美的で時に自滅的な、文学のロマンチックな部分におぼれて夢を見るようなところもあった。
  とにかく、まぶしく、みずみずしく、清澄な、そんな「生」に憧れて、どうもそうは見えないオトナの世界に組み入れられてしまう前に、自分を見切らなくてはいけないと思ったのだ。自分を追いつめ、どうにかしてそういう輝かしい「生」を手に入れようとする思いもあったかもしれないが、一方では、老いたもの、新鮮でなくなったものへの恐怖と嫌悪という、純粋に生理的な拒否感が、まったく経験不足で、未熟な美意識にひどく感情的なえいきょうを与えて、そういうものにならずにすむのは、永遠の不老を手に入れられるのは、十代のうちに内なる力を輝かせることができた者だけだと、そんなジンクスを勝手に創りあげて、自分の平凡さにおびえていたようでもあった。

 はたして、期限であったハタチから、今二倍以上も生きのびているわたしというのは、めでたく十代で自己を見つけ、実現し、永遠の花道を手に入れたというわけではまったくない。ハタチの壁は、どうということはない、恋愛というハプニングが難なく越えさせた。好きな人とともに生きることが、人生の目的にあっけなくすりかわったのである。あれほど深かった人生への憂いさえ、平凡な、愛ある人生の希望へと、みごとに変身した。

  しかし、その後は一切憂いから解放され、明るく青春と人生を謳歌して行ったかというと、それはそうでもなくて、人生への憂いは生涯にわたって対峙しなければならないライバルのように、やはり自分と常に伴走を続ける友であったが、そのうち二十代の半ばでわたしは仏教に出会って、憂いという友も一緒に関心を寄せることができるような、古いものの美しさへ、はじけるような生命のほとばしりや、若々しい新鋭という創造力ではなく、静けさのうちにすべてを包み込んでしまうように深遠な、また不変の美へ、大きく惹かれるようになった。そこには、若い感性にはどこか忌避したいような死と老いと病というものが、生や創造と分かつことのできない要素そのものであり、美の原因として存在していた。

  また、嗜好としては延長のように、骨董や、民芸にもかぶれた。いや、かぶれたというほどにも深くなく、ちょっと匂いを嗅いでみたというべきだろう。きものにも急に関心が湧きはじめた。それらは途方もなく美しく、また哲学的だった。しかし、同時にこれらの生命を現実的に営ませているもう一つの価値観、年代とか、作者とか、格式やら批評家の評価やらというものは、立ち入るたびに興ざめばかりをおこさせて、お金も、素養もない人間が近よってもつまらない思いばかりをするようだと、それ以上知ろうとか、自分の一部にしたいという気力は湧かなかった。ただ、時間をかけて醸造される美というものじたいへの憧憬や、そこに内包される宇宙への好奇心は、なにに邪魔されたり、束縛される必要もなく、心の中で自由にはぐくまれ続けた。そしてその時には、老いとは悪くなることでも、みにくいことでもなくなって、熟成という、どんな知恵も技術もたちうちできない力と、深く敬愛されるようになっていた。
 
 さらに、三十代になると、わたしは老人介護に直面した。姑が認知症を発症したのである。ここには、老いの中の、劣化や衰退、醜悪と言った現象があふれていて、熟成や醸造などと言って、老いを美化した甘さをまるでせせら笑うかのように、強烈なネガティブさがあった。それでも、このすこしまえに、古いものの魅力に目覚めることができたわたしは幸いだった。あとで別れることになった夫は同い年だったが、新しいものに目がなく、その頃はITの先駆的な仕事をしてもいたから、これから自分の仕事がどんなに開け、力を発揮できるか、また世界はどんなふうに広がってゆくかと意気揚々としていたぶん、老いからもたらされるものは、迷惑と不幸以外のなにものにもならなかった。姑は、わたしの母より二十近く年上で、わたしが子どもの頃、「若いお母さんね」と言われて得意顔になっていたのとさかさまに、「あの人、おばあさん?」と友だちに聞かれてはずかしくてたまらなかったという彼は、幼いころから「老い」の被害者であった。そういう意味で、まったく苦労知らずなわたしは、老いた家族は大切にしなければいけないと、なにもできなくなっても、古いものにはその存在意義がかならずあるのだと正論ばかりを言って、じぶんたちの若さと時間を犠牲にしてもよいだけの、だいじなものがきっとあるはずだと主張し、自分中心的に介護に夢中になって、彼を困らせた。
  こうして夫婦で価値観がかけはなれて行く中、また、友人たちもまだ結婚だ、出産だとさわいでいるような時期に、わたしはひとり時間軸がずれたように、この老いはいずれ自分の上にもあらわれる回避できないものなのだと、老い支度なんかを考えるようになった。幸せな老年とは、と、どうしても問わずにいられなかったのである。

  姑は豊かな商家の生まれだったが、戦中戦後の食べる物もなにもない貧しい時代を生き延び、その後庭に桜の木が三本植わって、家の中では長男の兄がドラムを叩いて、バンド仲間と音楽を楽しめる部屋のあるような家で、不自由なく暮らすようになるが、夫の事業の失敗から、借金取りに追われるようになり、まだ高校生だった次男を連れて離婚し、風呂のないアパートで生活保護を受けて暮らすようになるという、浮き沈みとお金の苦労とを深く味わった。その次男というのが、のちにわたしと結婚する人である。それらの経済的辛苦のせいで、認知症の初期には、特有とも言われる、お金がない、お金を盗られた・・と騒ぐ症状を過剰にあらわして、お金がなければ生きられないと、始終恐怖に脅えていた。夜なか中、お金を探して眠らないことがよくあった。人間誰にでも、人生で出会う不仕合わせで傷ついてしまった苦労のあとがあるものだが、そういうものが、リアルな幻となって人生の完成期に現われ、本人や家族を苦しめることになるのは、ひじょうに切ないものだった。
  わたしにだってお金で苦労した傷は少なからずある。そう思ってこわくなった。これからは、どんな努力をしてでもそれを乗り越えて、お金に支配されないようにしなければ、いけない。お金がなくても不安に思わない心を、あってもなくても執着しない心を、必死に作らなければ、いけない・・・老い支度のための、そんな誓いと目標を、わたしは心に立てたりもした。

  四十代になったときは、わたしはひとりになっていた。ダメだったら別れればいい・・・そんな覚悟の甘い結婚が、当然の結果のように破綻したようにも思えるし、それにしては十二年も、お互いよく付き添ったものだとも思える。姑は、忘れる力のほうがつらい抑うつの不安症よりもとうとう勝って、わたしを見ても、「あなた誰?近所の人だったっけ?」と明るく聞いてアハハと笑い、わたしの存在もきれいに抹消された。夫もわたしも、今なら本当の相手と、本当の人生を歩みなおせるはずだ・・・・そんな気持ちで、残り少ない若さに賭けて、離婚した。
  ひとり者になったおかげで、誰か好きな人はいないのか、とか、きっとすてきな出会いがあるよ、などと、花やいだ話題を向けられることが多くなったけれど、一番美しい、花のような時代はとうにすぎて、やはり心には、老いという、女性としての負い目を強く感じて、いえ、わたしなんかと、首をふる。わたしだって、とは、なかなか気もちはゆかない。若い人を見ていると、いつまでも眺めていたいような、はつらつと光を帯びた美しさを感じ、男性ならなおさらだろうと、共感もする。若さに賭けて、本当の人生を歩みなおそうとした人間の気概としては、なんとも頼りないものである。

 それでも、負け惜しみというのではなしに、としをとるのは良いものだと年々思いはたしかとなる。そういえば、毎年、新年のことは来ると言うのに、自分のとしについては、とるというのは、あたかも能動的で、勝利をつかむような響きがある。じつはそちらのほうが本当の意味なのではないか。長く生きる、寿命を永らえるのが生命の挑戦だとしたら、としは、獲りに行きたいほどの獲物にちがいない。もっとも、いずれは体のあちこちが痛んだり、人に迷惑をかけることが多くなって、ああ、としをとるたびいやになってしまう・・・と嘆く日もくるだろう。しかしその時、嘆くのではなく安らいでいる自分であるために、今できることは山ほどある。その努力の山が、一年、一年、としとなって自分にきめ細かな密度を与えてくれるとしたら、どんなにかすばらしいことだろう。

 さて、今日わたしはまたとしをとる。どうだろうか。すこしは努力が実って、良いとしをとっただろうか。それを確かめようと鏡をのぞき見るように、わたしは朝がひらいた今日という世界を、ふたつの目に映してみる。