December 24, 2010

クリスマス・プレゼント

  クリスマス・イブに、母とわたしは病院に呼ばれていた。

  父とはべつに、家族と話がしたいと言われたから、自然あまり良い話ではないだろうとわたしたちは察した。それでも、指定されたのは聖夜である。だいじょうぶ。そう思った。
  受洗をしていないし、社会的には信者として認めてはもらえないと思うが、それでもわたしはイエス・キリストを信じる者であったし、その教えを教育の形に変換して伝えてゆく手伝いを日々の仕事とし、それは今、自分に与えられている使命とも思って、できるかぎりの努力をしているつもりだった。努力以外の自信はなにもないけれど、一生懸命働いていることは神さまもご承知のはずだから、きっと守ってくださるはずだ。クリスマス・イブだもの、イエスさまも味方して、きっとご褒美をくださるはずだ・・・そう信じていた。

  はたして、24日の夜。母とわたしの前に並んだ三人の医師は、今回父に行った理学療法が残念ながら効果を見せなかったことを報告した。母もわたしも、やはりこの話だったかと、覚悟をしていた分、打撃を受けずに済んだことに安堵し、じゃあ、次はどんな治療を試して行こうかと、医師の提案に期待を寄せた。
  今回行った以上の治療はもうない、と言うより、現代医療ではもうなす術がない、あとは本人の免疫力次第だ、と言われても、また、正月は家に帰って、好きなものでも食べ、家族と一緒にゆっくり過ごしたらどうか、体調は帰れるようにするから・・・・と言われても、ぴんと来なかった。病室のベッドでは専用の空気清浄機を頭上に置き、鼻には酸素と、腕には点滴をつなぎながら過ごしている父を、どうやって家に帰すことができるのだろう。年末年始は病院も人手が少なくなるというのはよくわかるが、治療の方法がなくなったと言ったとたん、細菌感染も気にせず好きなところで、好きなものを食べてよいだなんて、あまりに投げやりではないだろうか。
  いいえ、抗がん剤治療でがんばった父の体に今すこしの無理もさせたくない。あとは本人の自然の免疫力しか頼りがないと言うのなら、どんな免疫療法でも試して、それを高める努力はしたいけれど、無駄な負担をかけて、免疫力を下げるような危険は負いたくない。せっかく家の近くの病院へ移ったのだ。年末年始は家族が毎日通って看護する・・・・。
  すると一人の若い医師がごうを煮やし、これは最後の帰宅のチャンスなのだ、普通に会話ができるのも年内までかもしれない、たとえ病院のベッドで安静に年を越したとしても、1月を何日過ごせるのかわからないのだ・・・・と畳みかけるように言って、ようやくわたしたちは、父の死を宣告されていることに気がついた。

   しかし、なぜなのだろう。たった二十日前に、父と母と三人で、こうやって医師たちの説明を聞き、骨髄繊維症のため、骨髄液が採れずになかなか突き止めることができなかったが、秋から続いていた高熱はウィルス性のものではなく、白血病腫瘍のせいだとわかったこと、つまり白血病を発症しているということ、今の状態でもっとも効果的な治療は、血管内にカテーテルを通して血管を傷めないように弱性の抗がん剤を投与すること・・・と、検査の結果と治療の方法とを、はじめて聞いたばかりである。わたしは抗がん剤の使用を聞いて、ナーバスにあれこれと質問をし、それに対しては最初医師たちもマイナス面を隠さずに提示してくれたが、今回は非常に弱い薬しか使わないため、それらの副作用についてはまったく心配しなくてよい、と、主治医である医科部長が断言するように言うと、父はもう待ちきれないとでも言うように、「ぜひその治療をお願いします」と大きな声で言い、一人で頭を下げた。
  父はなにもわかっていない。抗がん剤治療は強力な悪性細胞に効果的な分、健康な細胞を破壊する力も絶大なのだ。父のように、自分では血液が造れず、免疫力が低く、長期間の高熱で体力も弱っている人間が耐えられるかどうかわからないのだ。わたしはそう苛立ちながらも、父のすがるような思いに、目を覚まされる気持ちがして、いや、わたしが間違っているのかもしれない、これは天が差し出してくれている救いだとは考えられないだろうか・・・・目の前に出された助け手を信じず、素人料簡で疑って、たいせつなものを台無しにしてしまったらどうするのだ。医者の立場で、まったくリスクがない治療だと言い切るのはあまりに非常識だったが、それほど、自信を持って勧めてくれているということでもあるのだろう。鵜呑みにして愚かかもしれないが、本人も家族も一緒になって信じきってこそ働く力は確かにあるはずだ。それに賭けてみるべきではないか。そう考えては、繰り返し、わたしは迷った。しかしすでに父の心は決まっていて、希望に満ち、ましてや今の体調では他の病院をまわってセカンドオピニオンを求める余裕はなく、わたしは目を閉じるという方法で、ようやく信じ方を見つけた。
  あの時医師の誰も言わなかった。治療をしてもしなくても、もう手遅れかもしれないとは言わなかった。最初に行う治療を教えてくれただけで、最後の治療になるとは教えられなかった。やっぱり抵抗力が著しく低下している父の体に、理学療法はきつすぎたのか。たとえ父の気持ちを傷つけても、わたしは断固反対すべきだったのか。たとえようもない、怒りと後悔のかたまりが押し寄せてきて、それは矛先を向ける先を、自分や他人を問わずに探して勢いよくとがったが、しかしなぜか、何度とがっても、すぐに溶かされてしまった。
  二十日前、じつは医師たちにはわかっていたのではないか。医師の性格にもよるのだろうけれど、今の進行状況であれば早ければ何ヶ月・・・世の中にはそう話して聞かせる医師も多いにちがいない。しかし、そんな診断は病人にとってなんのプラスにもならないと、父の主治医はそう判断したのではないか。そして、治療にリスクがあるかないかで迷っている時間もなかったから、言質をかえりみず、まったく悪影響のない治療だと言い切りもしたのだろう。逆にもし、早ければあと一ヶ月の命だが、効果があるかないか、理学療法を一度だけ試せる・・・と聞かされていたとしたら、わたしはまちがいなく、理学療法に賭けることを選択していたと思う。父がいやがれば、説得してでも、受けさせたのではないか。到着した先は、どちらにしても同じだったのだ。

  また、ウィルス性の発熱という診断のまま、白血病を発症していたことを知らずに2ヶ月を過ごしたが、それも恨めることとは思えなかった。たとえ2ヶ月前に正しい原因がわかって、治療を行っていたとしても、腫瘍の強い勢いはすでに止められなかった可能性は高いし、むしろ父の死は、もっと早まっていたかもしれないのだ。ウィルス感染と思っていたから、本当にぎりぎりまで、医師も入院をさせなかったし、父もわたしたちも家で普通の暮らしをしていたのだ。わからなかったからこそ、死の恐怖におびえることもなく、がんと闘うことに躍起になることもなく、心によけいなストレスを負わず、生きて来られたのである。

  それ以前のことを言っても同じだ。2ヶ月前に高熱が出るまで、父は趣味の畑仕事も、ドライブも楽しむほど元気だったのである。骨髄繊維症という難病にかかったのが嘘のように、体調は回復し、症例の平均から言ってもこのまま十年以上、無理はできないが、生活を楽しみながら暮らして行くことができるのではないか・・・・本人も誰もがそう思い、検査を必要にする理由はなにもないほど、経過は良好だったのである。

  悔しいのは、なぜわたしは、父にもっと優しくしなかったか。死ぬことがわかっていたら、わがままのような父の願いも、もっと聞いてあげられたのに・・・・。ふとこみあげた思いに、情けなくなった。いいえ、ちがう。はじめから、生まれた時から、誰もがみんな死ぬことはわかっているのだ。そんな当たり前のことを、わたしが忘れていたのだ。
(ああ、やっぱりこれはクリスマス・プレゼントなのだ・・・・)
クリスマス・イブの、病院のカンファレンスルームで、今目の前にしている現実はいったいどこから来たのか・・・と眺めながら、もうすぐ父は死ぬという医師の言葉を見つめながら、そう思った。

  命あるものは必ず死す。誰の父親も、どんな人も、同じだ。しかしその時を知らず、たいせつな人と、ある日とつぜん別れなければいけない場合が多い中、もうすぐ旅立ちますよ、と教えてもらっているのである。だとしたら、これは、恵み以外のなにものでもないだろう。悟りの悪いわたしを憐れんで、せめて残りの時間を、後悔なく過ごせるように、神さまが慈悲を授けてくださっているのだ。
  たとえ死に向かうことが生だとしても、死の瞬間までは、まぎれもない生そのものであり、そして生とは、幸せになることである。医師の言うとおりだった。折り良く、もうすぐ父の大好きなお正月だ。セリがたっぷり入ったお雑煮と、家族がにぎやかに集まるのが、毎年何よりの楽しみと幸せがる父に、わたしたちは、それらを全部プレゼントすることができるのだ。それで本当に、父の死がやってくるのか、いつやって来るのかはわからない。ただできることは、最後まで一緒に生きること、最良を探しながら、最後まで生きることだった。

  母とわたしが病院を出るころ、大勢の看護婦さんが手にキャンドルを持って列を作り、廊下を歩き出した。病室をひとつひとつ回りながら、聖歌を歌い、早く元気になりますようにと、祈ってくれるのだ。こんな時間にわたしたちが病院にいては父が不審がるので、会わずに帰ることにしたが、だいじょうぶ、イエスさまもマリアさまも守ってくださっている・・・・そう実感するように、わたしは、キャンドルを抱いた天使たちを、感謝をこめて見送った。

  翌日、午後は友人と約束をしていたまま、銀座の鳩居堂へ、大徳寺昭輝さんの書画展にでかけた。ちょうど鳩居堂での書画展が20周年となるということで、大徳寺昭輝さんを主人公に『神の微笑』をはじめとする神シリーズ8作を著わした、作家芹沢光治良氏など恩師・関係諸氏の書も一緒に展示されていた。
  その中に一枚、書でも絵でもない、那智の瀧の写真があった。わたしはこの瀧の写真を、十日ほどまえ、父の携帯へ送っていた。ここは、父と母が、一歳のわたしを連れて訪れた思い出の場所で、父の理学療法が始まった時、偶然わたしはそこを訪れていた。

  その時、熊野の地で、わたしは当時の若い両親に思いを馳せるうち、二人の気持ちを追体験するような不思議な感覚におそわれた。歩いた、しゃべった、笑ったと、幼いわたしのすることに一喜一憂しながら、これからの家族のいろんな幸せを、さまざまな未来を、夢見ていた父と母のようすが心に浮かんで、自分に注がれていた、若い両親の屈託のない喜びに満ちた愛情が、鮮明に、触れられるように明らかなものとして味わわれた。わたしは一体長い間、なにを見失っていたのだろう・・・。こんなに確かに愛されていたではないか。両親も、こんなに愛し合っていたではないか、そう理解して、胸が熱くなった。いつからうまく伝わらなくなってしまったのだろう。身近にいる同士だからこそ、伝えなくなってしまったもの。近すぎると、よけいに伝わりづらくなってしまうもの。なぜ、大事なことを、大事な人に伝えられない・・・・。

  わたしは病院の父の携帯へ、那智の瀧の写真を送ってみた。そして、「一人で来られるようになるくらい、大きくなるまで、育ててくれてどうもありがとう」と、面と向かっては言えない言葉を、いっしょに書き送った。死ぬことがわかっていたら、行かなかった那智であったし、死ぬことがわかったら、別れ文句のようで言えなかった「ありがとう」であった。

  大徳寺昭輝さんに、書画集へサインを書いていただこうとあいさつをすると、来るまでは少しも話す気がなかったことなのに、思わず父のことを話しだしてしまった。いつも大勢の相談を一身に受けている人に、わたしの荷物までおろすことはしたくなかったが、別の話をうまく伝えられなくて、冷静を欠いた瞬間に、唐突にわたしは言い放ってしまったのだった。父の命が来月までもたないかもしれない・・・。
  しかし、最後まで言い終わらないうち、大徳寺さんは満面の笑みを返して、わたしは言葉を失った。それはまるで、言うべきことを言って褒めているような、あるいはクリスマスプレゼントだと、せっかく恩恵として受け取ったものを、わたしが不幸として語り直そうとするのを阻止するかのようだっだ。そして、書画集を取ると、父のために絵を描いてくれた。そこには、Merry Xmasの言葉と共に、「お元気になりますように」と祈る、キャンドルを持った天使の絵があった。昨夜、病院の廊下で出会った天使たちと同じだった。神さまはいつも共にいてくださる。そう伝えていた。

  「書画集、端から端までていねいに読ませていただいたよ」
二日後、父が言った。本当にありがたいね・・・と頭を垂れ、わたしは驚いた。
帰宅に合わせて体調を整えるため、これが使える一番最後の薬だと言う抗生物質が投与され始めたが、その効果で熱も下がり、急激に体が楽になった父は、奇跡が起きたと喜んでいた。

  抗生物質は耐性ができてしまい、どんどん強いものを使い続けるしかない。しかしそれだけ体への負担は大きく、父の細胞はもう今回の薬に耐える力を持っていなかった。しばらく、本人は治ったかのように症状が改善して楽になるが、肺炎を起こすのは必至だった。肺炎を起こすのが先か、がんが体を破壊するのが先かの問題だ、でも知っていてほしい、がんの最後は非常に壮絶な痛みを伴うものなのだ、その上でよく考えて決めてほしい・・・・と言って、医師は、抗生物質の使用に抵抗するわたしの感傷を叱った。わかっている。がんの最後は、3ヵ月前に友人が教えてくれたばかりである。
  その抗生物質が投与され、父はどんな治療をしても下がらなかった熱がとうとう下がって、天国のようだと子どものように喜んだ。家に帰ったら、お雑煮や、お刺身、焼肉が食べたいと言って張り切った。父に告知はしないと母が言い張り、それではどうやって、急激に体調を引き上げたり、点滴も酸素も不要だと安心させることができるだろう・・・・と悩んでいたわたしは、父が奇跡として、家に帰れるほど元気になった体を受け入れたのを見て、それこそが奇跡と思い、救われた。しかし、なによりも感謝されることは、他にあった。書画集には那智の瀧の写真も載っていたが、その後ろには、芹沢光治良先生が同じ言葉を書いた四枚の書が続いており、それは正しく、わたしの人生の根となっている言葉であった。

「九十年生きて ようやく識る 大自然の力こそ 唯一の神 人類の親 わが親なることを」

  真理を求め続けた作家が、とうとう九十にして至ったその言葉が、繰り返し、繰り返し、父の心を叩き、中へ染みこんだことはまちがいなく見えた。自分は無宗教で無信仰の人間だ、と言い続けてきた父であったが、天へ旅立つ前に、この言の葉を心に届けることができたのは、魂に頼りとなる地図を持たせることができたのに等しく思えて、わたしは深い感謝に打たれた。
  クリスマス・イブの夜にね、看護師さんたちがろうそくを持って、わざわざ部屋まで歌を歌いに来てくれたのだよ・・・・・。父は感動したように、数日前のできごとを家族に聴かせた。父しか知らないその姿を、大徳寺さんが絵に描いてくれたのも本当に嬉しかったのだろう。多くの祈る人たちのまごころが、父の心が開くのを助けてくれていた。

  大晦日、父は娘の運転ではあるが、雨の日には乗らないと言うほど大事にしていた愛車のジャガーに乗って家へ帰り、久しぶりに風呂へ入って母に全身を洗ってもらい、元旦は息子家族も集まってにぎやかに過ごし、好物のうどんすき、お雑煮、焼肉を楽しんだ後、二日に病院へ戻り、五日後の七日、天国へと旅立った。

  病院に戻る直前、父の足を洗わせてもらった。むくんで、大きくなってしまった足を湯であたため、片足ずつ、タオルでていねいに拭き、靴下をはかせた。この足で歩き回って、仕事をし、わたしたちは育ててもらった。水虫がうつると、家族中から嫌われた足でもあった。
  病院へ戻った父は、肺炎を起こし、急激に悪化する体調に衝撃を受けながら、せっかく良くなったのに、家に帰って無理をしたせいで、悪くしてしまった・・・・わたしたち家族には遠慮してなにも言わなかったが、他の人にそうこぼしていたようである。そして、自ら死を覚ると、二日であっという間に逝ってしまった。昔からこうと決めたら、動かずにはいられない性分でもある。母の言うとおり、やはり父には告知をしなくて正解だったのだろう。

  一月七日は、もうほとんど喋ることはできないながら、午後までしっかりとした意識で、しきりに牛乳を飲みたがったが、飲み込む力が衰え、肺に入ってしまう危険性が高いと言って医師の許可が下りず、そこで知恵を絞ったのか、今度は口の中で少しずつ溶かすことができるアイスクリームを要求して、ようやく医師の許しを取り付けた。誤嚥に気をつけて、一匙一匙口へ運ぶと、おいしいと、指で丸を作ってサインをしながら、ぜんぶ平らげた。そんな元気と朗らかさを見せてくれていた父であったが、満足をしたのか、疲れたのか、母をそばに呼ぶと、
「もう休んで」
と言って、看護師さんに薬を頼んで眠り、きょうだい達が、じゃあ、今日はこれで・・・と言って帰って、病室に妻と子どもと、孫だけとなると、「準備ができたね。では行くよ」とばかりに、急にどんどん、どんどん深い眠りに落ちるようにして、父は次第に呼吸をやめ、心臓を打つのをやめた。直前、左の目尻から、涙が二度落ちた。その顔はまるで、見たこともない美しいものを見て、感動しているかのように見えた。

  ありがとう。おつかれさまでした。いってらっしゃい。また会おうね・・・・亡くなってもしばらくは聴覚だけは残って、声はよく聞こえるそうですよ・・・と、看護師さんに扮した天使に教えられて、家族は代わる代わる、父に声をかけた。

  この世に生まれることができるか、できないか、生まれたあと、病気になるか、ならないか、それらはみな最後まで決まっていないことばかりだが、死ぬことは、生まれた時からすでに決まっている、誰にでも平等に与えられた運命である。死ぬことがわかっていたら・・・・と、愚にもつかずわたしも胸に上らせたが、どの人も死ぬことはわかっており、明日、わたしが生きている保証もじつはないのだ。だから、誰もがかけがえのない今を生きている時、照れている場合ではなく、後回しにしている場合でも、機嫌を損ねている場合でもなく、愛は伝えるように、優しさは行うように、許しあい、感謝しあうように・・・・父は最後にこのことを、生きる上で最もたいせつなことを、命をもって教えてくれたように思う。そしてこの救いこそ、あの日天が授けてくれた最上のクリスマス・プレゼントだったのだと思っている。

  一年経った今も、毎朝父にお茶をいれながら、生きている時にもいれてあげれば良かったのにね、と苦笑する。一緒に生きてくれている人たちにも、もっとお茶をいれてあげなくちゃね、と反省する。いつまで経っても、親は親で、子どもを育てつづけてくれるものなのだろう。

  「育ててくれてありがとう」
はからずも、書くことができたあの時のメールへの返事は、
「あなたはパパの自慢の娘です」
と書いてあった。びっくりし、泣いた。自慢の種どころか、迷惑ばかりをかけてきた娘である。
  こうして、父は娘に朽ちない宝を授け、この言葉と共に、今も生き続けている。

September 12, 2010

あかり

 あかり・・・・これは友人が、お酒のおいしいお店で、アルバイトをしていた時の名前である。おそらく彼女は、人の心を明るくすることができる自分の能力を自覚していたと思うし、彼女自身つねにそうありたいと願っていたとも思う。実際どうして「あかり」を名乗ることにしたのか、本当の理由は忘れてしまったけれど、彼女にこれほどぴったりの名前はないだろうと、約20年後、彼女が天に帰ったとき、わたしはずっと忘れていたこの名前を思い出した。

 昨年の9月、こどものような心でなければ天国の門をくぐれない・・・まさにその言葉の通り、こどものような心を資格にして、彼女は天国の門をくぐって行った。
 みんなで彼女の思い出話を始めれば、彼女がしでかした突拍子もないこと、呆れてしまうようなことばかりが、口々から連なって出てきて、本当にばかなことばっかり、とわたしたちは笑いだし、彼女の死を悼む時でさえも、その残照のような「あかり」で気持ちを明るくしてもらっていることに気づく。
「あんな子は、もういない・・・・」
と、彼女の親友がつぶやいた。
「本当に愛していたから・・・」
と、もう一人の親友がつぶやく。わたしたちはそれぞれに、どんな憂さも晴らしてくれる、愛しい笑いの神さまをなくして寂しがった。

 わたしは、自分がどちらかと言えば厳しい制限が多い中で育ち、数限りなく反撥しながらも、その中に収まるしかなかったせいか、正反対のように、伸びやかに、自分の欲求に素直に生きる彼女の姿が新鮮であり、また快かった。それに、欲求に素直というのもいろいろだが、日常の忍耐を強いられるような場面では、きっと先に音をあげてくれる人物が隣にいてくれるのは、じつに気持ちが楽なことで、いつも限界を試されたり、急きたてられるような緊張が多い日々の中、彼女と一緒にいると、常に許されているような気持ちになり、自然と力が抜け、心が和むのを覚えた。
 代わりに、一緒に行動をしようと思ったら、待ち合わせひとつ、まともにできるかわからない。その時間になっても、家で寝ていることも十分ありえたし、もしましなことに、「遅刻だわ!」と言いながら焦ってくれている場合には、汗をかき、目を剥いて走って、内股の自分の足に引っかかって転倒してしまうような、そしてそこでなぜか優しい男性に出会って、結局待ち合わせに現われることができなくなってしまうような、そんな人だった。
 思えば、今回もそうだ。彼女はわたしたちみんなと、ガンが良くなったら会おうね、もうちょっと待って、最速で治すから・・・・・と約束して、良くなろう、良くなろう、とがむしゃらに走りながら、とうとうそのまま、わたしたちの前に現われることはなかった。途中で、一体どんなステキな人に出会ってしまったのだろう。

 そうして彼女が天国へ旅立った2ヶ月ほど前のことだ。それはわたしが肉体ある彼女と会う最後となってしまった日であったが、その時彼女が吐いた言葉で、今も鮮烈に忘れられないものがある。
 お酒を飲むのも、おいしいものを食べるのも好きな人で、栄養だとか、時間や量などはおかまいなしに、好きなものを、好きなように食べていた彼女だったが、闘病に入ってからは完全な玄米菜食に切り替えていた。ガンが発覚した時、5年後の生存率は10%だと医師に言い放たれ、すべてに見放されたように感じた彼女は、その後自力で立ち上がろうと、さまざまな本を読み漁り、人々の話を聞いて回り、その中から真実を見つけ出したように、自らの生活全般を、大自然の営みと調和するものへあらためたのである。
 早寝早起き、運動、そして手間隙をかけた野菜中心の食事という、以前の彼女では考えられないようながんばりだった。誘惑になりそうなものはすべて排除するように、すこし排他的に傾きながらも、無我夢中で取り組んだ。死の恐怖がそれだけ大きかったのだろうと言う人もいるだろうが、わたしは、彼女がそんな革命を自分に起せるだけの真実を見出したのだろうと、そしてその真の実りを、彼女自身が日々少しずつでも経験し、確信できたから、続けることができたのだろうと思っている。
 食事を変えたら、新しく生えてくる爪はまるっきり色が異なって、同じひとつの爪に、正しい食事とそうでない食事の差がはっきり現われたと感動していた。食べ物ひとつひとつに感謝をしながら食べることを覚え、毎日生きている自分の体に感謝することを覚え、支えられている周囲の人々に感謝することを覚えた。彼女の明るさは、病状の進行を気づけないほど、逆に増して行った。

 そんな彼女が、亡くなる2か月ほど前、こぼすように、こう言ったのである。
「食事も完璧にあらためた。生活もあらためた。手当ても毎日している・・・・あとはね、心だけなの。でもさ、わかんないんだよね。いったい心のどこを直せばいいのか、わからないんだよね・・・・」
なんて人だろうと思った。なんて素直で、きれいな人なのだろう。自然療法を学んで、病には心という根があり、それを直す根治こそ本当の治療であることを、彼女は悟ったのである。わたしは、彼女の強いあかりに眩しさを感じながら、自分のほうが闇にいるのを知る思いがした。

 命のぎりぎりの場所で、友人は、最後に自分の心と真剣に向き合った。そして高熱にうなされ、壮絶な痛みを味わう中でもなお、彼女は生きることを求め、信じ続け、感謝と喜びを表した。その生命の強さは、わたしの命までも鼓舞してやまなかった。
 しかしまもなく、家族の誰も、そして本人さえも予期せぬうちに、ある日突然彼女の時は尽きた。朝、出勤前に病院へ寄った夫に、
「体をあたためたいから、湯たんぽ持ってきて!」
と言ったのが、夫婦の最後の会話になったそうである。
 その彼女の命日は、奇しくもわたしの誕生日の前日となった。おかげで毎年かならず、彼女の死を思い出してから、わたしは新しい年齢を刻むことになった。それはまるで、生きていることがどんなにありがたいことか、そんな命をけっして無駄にしてはいけないのだと、自覚の足りないわたしの贅沢に、喝を入れたかったのかもしれないと思わされた。
 あなたのように、はちゃめちゃな人に言われたくないわ、と笑いつつ、これから生涯、けっして消えることのない喝だと思っている。

 そういえば、出席番号も、彼女はわたしのひとつ前だった。大学の入学式の日、学科ごとに出席番号順に並ばされて、そのおかげでわたしたちは友達になった。大学に入ったら、好きな文学だけを勉強できる。本気で勉強しよう・・・と、初志をかためているわたしに、とつぜん彼女は振り向いて、声をかけた。
「ねえねえ、彼氏はどこの大学につくるか決めた?」
びっくりして、どう答えたらいいのか戸惑いながら、わたしは正直でもない、かといって今の瞬間では率直な答えとして、
「うーん、別に男の人に興味ないから・・・・」
と返事をした。すると、
「えー?じゃあ、女の人に興味があるの?」
と彼女もびっくりしたように、真顔で尋ねた。
「ない、ない。女の人に興味なんかないよ」
誤解されてはたまらないと、大きく手を振り、否定すると、さらに彼女は聞いてきた。
「じゃあ、猫とか?」
「・・・・・・・・・」

 あなたがいなくなって、わたしたちはどうやって笑おう。でも、わたしたちは笑う。どんな時も、かならず笑おうと思う。
 そして、たぶんこうして笑えるのは、彼女の命は今も生きていて、その陽気なあかりで、わたしたちを照らし続けてくれているからなのだと思う。

July 17, 2010

祈り

 昨年の12月25日以来、たがいに忙しくてなかなか会うこともできなかった友人と、7月になったら食事でも・・・と言い合って、スケジュールが埋まらないうちに、早めに日にちを決めてしまいましょうと、7月16日の夜に会う約束をした。以前、行ってみようと話したが、なにか都合が起きて結局行けなくなってしまった、備前の器で郷土のお酒とお料理をいただける青山の店にでかけようと、場所まで決めてすっかり安心していた。

しかし後日、この友人が、最近見たイランの映画「ペルシャ猫は知らない」の話をメールに書いて送ってくれたのを読んでいるうち、ふと彼女に見せたい映画が思い浮かんで、上映会の予定を調べてみた。それは有志による自主上映でしか観ることができないフィルムであったが、ホームページを見ると、ちょうど16日の夜、都内で上映会が開かれることになっている。神谷町の光明寺という会場も、珍しかった。わたしは急いで彼女に予定の変更を提案した。備前のお店をまた延期して、『GATE』という映画を一緒に観ないか・・・その返事は即答で、「ぜひ」と返ってきた。

わたしがはじめてこの映画を観たのは4ヶ月前の3月14日だった。その日は幸運にも、監督のマット・テイラー氏も来場し、映画上映のあと、製作秘話などさまざまな話を聞くことができた。『GATE』は、65年前世界で初めて核実験が行われたトリニティサイトへ、ヒロシマ、ナガサキの原爆の火を帰し、負の連鎖の輪を閉じるという、祈りの行脚の実話映画である。その行脚は、はじめて核爆弾が使われた7月16日に出発し、武器として地上で最後に使われた8月9日に、最初の地、トリニティサイトへ到着することを目指す。わたしはこのドキュメント映画を観るうちに、とても不思議な思いがした。この行脚が行われた同じ2005年の8月6日、わたしは広島の平和祈念式典に参列していたのである。この年、わたしは平和な世界の実現のため、何かしようと思っても結局10年間何もできなかった自分をどうにかして脱け出そうとするように、今の自分にできること、どんな形でもよい、ただ祈るために、広島へ向かった。この時、アメリカでは、広島の原爆の火を持った僧侶たちが、やはりただ祈るために、ニューメキシコ州のトリニティサイトへ向かっていたのだった。

2005年の8月5日から7日まで、わたしは広島に滞在し、被爆した史跡の数々や米軍基地などをめぐり、被爆者の話を聞いて歩いた。特に、出発前、講演を聴くことができた居森清子さんが被爆した場所である、本川小学校を訪ねることは、もっとも強く願われたことであった。爆心からわすか410mの地点で、致死量の30倍もの放射能を浴びながら、奇跡的にも生き残った居森清子さんは、この年、60年間沈黙していた口をはじめて開き、自らの経験を語り始めていた。ぐうぜんにも、講演会の前、わたしは居森さんとご主人と、三人でエレベーターに乗り合わせた。その時はまだ、この方たちが居森さんご夫妻とは知る由もなかったが、かよわげで、なにか恐怖にでも合ったら消えてしまいそうな心細さを湛えた妻を、言葉少なに、やさしく寄り添って労わる夫の、そんな静かな老夫婦のようすを、わたしはなぜか微笑ましいとは思えず、尋常ではない深さと重みとに引き込まれるように感じて、せまい箱の中でとまどった。

その後、ふるえる声で自らの経験をわたしたちに語り始めた居森さんの口から、彼女の体を蝕み続けている放射能被害の数々があげられていくのを聞いて、さっきエレベーターの中で感じた尋常ではないもの、まるでこの世の人ではないような存在感の理由がわかったが、被爆から20年以上すぎてから現われはじめた後遺症は、すい臓がん、甲状腺がん、大腸がん(30cmの腸を切除)、多発性髄膜腫、脳腫瘍、骨髄肉腫・・・・と、次々に彼女を襲って増幅し、70歳をすぎてもなお進行中であった。そのうち一つでも、自らの身におこればそれだけで十分悲痛だというのに、居森さんはその小さな体にすべてが起こるのを受け止めながら、静かに、しかしおそらくは凄惨に、ここまで生き抜いてきたのである。それは、見えない意思によって生かされてきたと、自他ともに認めざるを得ないような命であり、わたしはその命と出会い、直接話を聞くことになっためぐりあわせの貴さを感じてふるえる思いがし、その命が伝えようとする思いを厳かに受け止めた。
どうやってこのかよわげな小さな一人の女性が、酷く、終わりなくつづく苦難に耐えることができ、幾多の後遺症を乗り越えることができたのか・・・・この居森さんを支え続けたのもまた、祈りであった。

さて、友人とわたしは、映画を観る段になり、主催者の説明から、ようやくその日が世界ではじめて核実験が行われた7月16日だったことに気がついた。GATEへの祈りの旅がスタートした日でもある。何においてもそうだが、時宜を得て授けられるものは、とくべつな意味をもってわたしたちの手元へ現れたことを知らせてくれている気がする。
鑑賞後、友人は、世界の平和は、それぞれの心の平和によって達成される・・・・という言葉が、この映画の鍵だったのではないか、と短く感想を述べた。彼女の分析は正しい。聡明な人である。
この友人にとって、核の問題も、国際政治も、勝手に私見を言い放てるような気楽なものではなく、戦争を終らせる方法を考えることも、遠い過去や、遠い国のことでもないところがある。その中で、たえまなく目にする矛盾や妥協、理不尽への失望や怒り、あるいは諦めが、彼女自身の心を始終揺さぶっている。わたしは彼女の中で揺らぎながら、ときに自らつらくて覆いをかぶせてしまいながらも、強く光り続けている希望や愛情、志をどんなふうに支えてあげることができるのか、といつも考えるが、できることは、ただ友のその光を信じて、そばに居続けることだけである。 平和とは、平らかに和むという字を書く。考えてもみれば、友というのは、平和とまったく同義なのだろう。
わたしたち全員が、もし世界中に友を作ることができたなら・・・・世界で戦争ができる国など、どこにもなくなるかもしれない。

その日、映画の上映後、光明寺さんが経をあげ、参加者も唱和した。この日のために選ばれたのは、讃仏偈であった。7月16日は、東京では送り盆にもあたる。戦争による犠牲者の御霊の供養とともに、平和な世界を創造することを、わたしたちはそれぞれに心に誓っていた。


・・・・願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。
それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
「讃仏偈」

March 22, 2010

白薔薇

 その薔薇の花に気がついたのは、父が亡くなって、初七日の供養までぶじに済ませ、ひさしぶりに出勤する朝、気もちを新たに起こしながらマンションの中庭を足早に歩いていた時で、その時には、すでに白いふたつの薔薇の花はしっかり開花していたから、実際いつ咲きだしたものか正確にはわからなかったが、発見した時点からかぞえても、二ヶ月以上。並んで咲くふたつの白い薔薇の花は、枯れもせず、朽ちもせず、1月から3月までずっと咲き続けたのだった。
 昨年晩秋の花期の名残りのように、のんびりした薔薇の花がふたつ、うっかり寒い冬の庭に遅れて咲いてしまったかのようで、わたしはその薔薇を愛おしんだ。まるで頬をあわせるように寄り添って、二つの白い大輪が咲いていた。その白さの清々しさと、いのちの温かさとが、父を見送ったばかりのわたしの心に、ちょうどよいぐあいの慰めを与えてくれてもいた。

 今年の冬は、雪が多くて、そのふたつの薔薇もなんども雪をかぶり、重たげに首を垂れることになったが、そしてそのたび、ただでさえ時節をあやまって咲いている身には、この冷たさを耐えるだけの支度はないだろうと案じたが、白いふたつの薔薇は、とうぜんながら逃げもせず、雪もみぞれも受けきり、しのぎきって、それどころか花びらさえ傷ませたようすもなく咲き続けた。わたしはだんだんと驚愕の思いで、薔薇の姿をながめ、もしかしたら雪をまとっている間は冷凍保存のように鮮度が保たれているのだろうか、と想像したりもしたが、同じ潅木について、すこし離れた場所に咲いていた別の花は、ある雪のあと、かぶった雪が落ちるのと一緒に花びらを散らしたし、この二つの薔薇の花がとくべつに艱難を乗り越えて、時を越えているらしいことはたしかのようで、それはしずかに、しかし強く、わたしを励まし、勇気づけた。ひょっとしたら、二つの花は、いつのまにか一緒に頭を垂れるように、枝垂れて咲いていたから、雪やみぞれの打撃を正面から受けることなく、しなやかな曲線を描く身の外側をすべらせて下へ落とし、容赦なくふりかかる害をのがれることができていたのかもしれなかった。

 そのうちに、もう一つ、新しい蕾がふくらんでいることに気がついた。あいかわらず二つの薔薇の花は身を寄せ合ってうつむいていたが、その姿が謙遜な恋人たちから、老夫婦へと印象が変わって感じられるほど、空を向いてツンととんがり、徐々にふっくらと膨らんでゆく蕾の姿は、わかい生命力にみなぎって見えた。しかし、この花はもっと間の悪い、時節遅れというより、時節まちがいの花である。開いた花は、老夫婦よりも一まわり以上小ぶりで、白い花びらのふちにところどころ桃色が差しているのが、初々しくかわいらしい薔薇だったが、やはり気温や日照という季節に授けてもらうべき栄養が足りずいのちの力が弱かったか、一週間ほどで、あっという間に散ってしまった。
 おかげで、この薔薇の品種が、とくべつに長咲きの花というわけではなさそうだ・・・と、そう知って、ますます咲きつづける二つの薔薇の花に畏敬の念をいだいたが、同時に、やはり花も人も、一人より二人のほうがよいのだろうと、ふだんは忘れているような伴侶のない身の心細さや、父に先立たれた母とのこれからの暮らし方などを思った。

 それにしても、長く咲きすぎではないだろうか。以前よりも、もっと、もっと頭を垂れて、腰を折って、なんだか土へ帰ろうとしているようにも見える。花壇の真ん中なので手を伸ばしても届かず、確かめようがないが、もしかして、じつは咲いたままドライフラワーになってしまっているのではないか・・・・そんな心配もはじめた頃である。朝、いつもとおなじように中庭を歩きだすと、すぐに違和感に気がついた。景色がちがう。離れているが、見慣れた定位置に、白色がない。緑の茂みだけである。そばへ着くと、早朝に散ったばかりなのか、潅木の上に、そして風に吹かれて花壇の外の通路まで、白い花びらが散りばめられていた。散るときも、ふたつ一緒だったのだ。それはまるで、仏を供養する荘厳な散華のあとのように美しく感慨深く、わたしはしゃがんでその花びらを拾った。ドライフラワーになってしまったのではないかと疑ったのが申し訳なくなるほど、みずみずしく、やわらかく、汚れも傷もない真っ白な花びらであった。そして花びらは生きている証しに、落ちた地面よりも、吹く風よりも、ずっとあたたかかった。ふと、その場所からすぐ脇を見ると、知らない間に蕾が膨らんでいた。ふたつ仲良く並んだ、あおい蕾だった。

 ぐうぜんなことに、その日は終業式であった。思えば、仕事のことも家庭のことも、息をついて憩う泉もないような森の中を、もくもくと歩きつづけたような三学期だった。とても人を引っ張る器ではないわたしだったが、職場も、家庭も、守らなければいけなかった。正しい道をさがさなければいけないし、少なくともじぶんの事情や感情にふけって、立ち止まったり、道をはずれたりして、だれかの荷物になるわけにはいかなかった。おそらく父もむかしは、職場で、家庭で、そうであっただろう。父にもそんな時、路傍でだまって慰め、励ましてくれる、この白い薔薇のような清廉な存在があってくれただろうか。

 春のあたたかな日差しに次々と緑は芽吹いて、中庭はのびやかで、ゆたかな生命感に満ちはじめている。すこしも留まることはなく、すべては移り変わってゆく。手帳にはさんだ一枚の白い薔薇の花びらは、果たして、ふたつのうちのどちらのものであったか。まあ、どちらでもよいだろう。きっとあのふたつは、ひとつのいのちにちがいないから。



(まるで輪廻をくりかえす二人のように、
再びふたつの白薔薇が寄り添って咲いた。
記念に写真におさめておこうと撮影したその日、
花は、手入れに訪れた庭師によって切り取られた。)