March 22, 2010

白薔薇

 その薔薇の花に気がついたのは、父が亡くなって、初七日の供養までぶじに済ませ、ひさしぶりに出勤する朝、気もちを新たに起こしながらマンションの中庭を足早に歩いていた時で、その時には、すでに白いふたつの薔薇の花はしっかり開花していたから、実際いつ咲きだしたものか正確にはわからなかったが、発見した時点からかぞえても、二ヶ月以上。並んで咲くふたつの白い薔薇の花は、枯れもせず、朽ちもせず、1月から3月までずっと咲き続けたのだった。
 昨年晩秋の花期の名残りのように、のんびりした薔薇の花がふたつ、うっかり寒い冬の庭に遅れて咲いてしまったかのようで、わたしはその薔薇を愛おしんだ。まるで頬をあわせるように寄り添って、二つの白い大輪が咲いていた。その白さの清々しさと、いのちの温かさとが、父を見送ったばかりのわたしの心に、ちょうどよいぐあいの慰めを与えてくれてもいた。

 今年の冬は、雪が多くて、そのふたつの薔薇もなんども雪をかぶり、重たげに首を垂れることになったが、そしてそのたび、ただでさえ時節をあやまって咲いている身には、この冷たさを耐えるだけの支度はないだろうと案じたが、白いふたつの薔薇は、とうぜんながら逃げもせず、雪もみぞれも受けきり、しのぎきって、それどころか花びらさえ傷ませたようすもなく咲き続けた。わたしはだんだんと驚愕の思いで、薔薇の姿をながめ、もしかしたら雪をまとっている間は冷凍保存のように鮮度が保たれているのだろうか、と想像したりもしたが、同じ潅木について、すこし離れた場所に咲いていた別の花は、ある雪のあと、かぶった雪が落ちるのと一緒に花びらを散らしたし、この二つの薔薇の花がとくべつに艱難を乗り越えて、時を越えているらしいことはたしかのようで、それはしずかに、しかし強く、わたしを励まし、勇気づけた。ひょっとしたら、二つの花は、いつのまにか一緒に頭を垂れるように、枝垂れて咲いていたから、雪やみぞれの打撃を正面から受けることなく、しなやかな曲線を描く身の外側をすべらせて下へ落とし、容赦なくふりかかる害をのがれることができていたのかもしれなかった。

 そのうちに、もう一つ、新しい蕾がふくらんでいることに気がついた。あいかわらず二つの薔薇の花は身を寄せ合ってうつむいていたが、その姿が謙遜な恋人たちから、老夫婦へと印象が変わって感じられるほど、空を向いてツンととんがり、徐々にふっくらと膨らんでゆく蕾の姿は、わかい生命力にみなぎって見えた。しかし、この花はもっと間の悪い、時節遅れというより、時節まちがいの花である。開いた花は、老夫婦よりも一まわり以上小ぶりで、白い花びらのふちにところどころ桃色が差しているのが、初々しくかわいらしい薔薇だったが、やはり気温や日照という季節に授けてもらうべき栄養が足りずいのちの力が弱かったか、一週間ほどで、あっという間に散ってしまった。
 おかげで、この薔薇の品種が、とくべつに長咲きの花というわけではなさそうだ・・・と、そう知って、ますます咲きつづける二つの薔薇の花に畏敬の念をいだいたが、同時に、やはり花も人も、一人より二人のほうがよいのだろうと、ふだんは忘れているような伴侶のない身の心細さや、父に先立たれた母とのこれからの暮らし方などを思った。

 それにしても、長く咲きすぎではないだろうか。以前よりも、もっと、もっと頭を垂れて、腰を折って、なんだか土へ帰ろうとしているようにも見える。花壇の真ん中なので手を伸ばしても届かず、確かめようがないが、もしかして、じつは咲いたままドライフラワーになってしまっているのではないか・・・・そんな心配もはじめた頃である。朝、いつもとおなじように中庭を歩きだすと、すぐに違和感に気がついた。景色がちがう。離れているが、見慣れた定位置に、白色がない。緑の茂みだけである。そばへ着くと、早朝に散ったばかりなのか、潅木の上に、そして風に吹かれて花壇の外の通路まで、白い花びらが散りばめられていた。散るときも、ふたつ一緒だったのだ。それはまるで、仏を供養する荘厳な散華のあとのように美しく感慨深く、わたしはしゃがんでその花びらを拾った。ドライフラワーになってしまったのではないかと疑ったのが申し訳なくなるほど、みずみずしく、やわらかく、汚れも傷もない真っ白な花びらであった。そして花びらは生きている証しに、落ちた地面よりも、吹く風よりも、ずっとあたたかかった。ふと、その場所からすぐ脇を見ると、知らない間に蕾が膨らんでいた。ふたつ仲良く並んだ、あおい蕾だった。

 ぐうぜんなことに、その日は終業式であった。思えば、仕事のことも家庭のことも、息をついて憩う泉もないような森の中を、もくもくと歩きつづけたような三学期だった。とても人を引っ張る器ではないわたしだったが、職場も、家庭も、守らなければいけなかった。正しい道をさがさなければいけないし、少なくともじぶんの事情や感情にふけって、立ち止まったり、道をはずれたりして、だれかの荷物になるわけにはいかなかった。おそらく父もむかしは、職場で、家庭で、そうであっただろう。父にもそんな時、路傍でだまって慰め、励ましてくれる、この白い薔薇のような清廉な存在があってくれただろうか。

 春のあたたかな日差しに次々と緑は芽吹いて、中庭はのびやかで、ゆたかな生命感に満ちはじめている。すこしも留まることはなく、すべては移り変わってゆく。手帳にはさんだ一枚の白い薔薇の花びらは、果たして、ふたつのうちのどちらのものであったか。まあ、どちらでもよいだろう。きっとあのふたつは、ひとつのいのちにちがいないから。



(まるで輪廻をくりかえす二人のように、
再びふたつの白薔薇が寄り添って咲いた。
記念に写真におさめておこうと撮影したその日、
花は、手入れに訪れた庭師によって切り取られた。)