July 17, 2010

祈り

 昨年の12月25日以来、たがいに忙しくてなかなか会うこともできなかった友人と、7月になったら食事でも・・・と言い合って、スケジュールが埋まらないうちに、早めに日にちを決めてしまいましょうと、7月16日の夜に会う約束をした。以前、行ってみようと話したが、なにか都合が起きて結局行けなくなってしまった、備前の器で郷土のお酒とお料理をいただける青山の店にでかけようと、場所まで決めてすっかり安心していた。

しかし後日、この友人が、最近見たイランの映画「ペルシャ猫は知らない」の話をメールに書いて送ってくれたのを読んでいるうち、ふと彼女に見せたい映画が思い浮かんで、上映会の予定を調べてみた。それは有志による自主上映でしか観ることができないフィルムであったが、ホームページを見ると、ちょうど16日の夜、都内で上映会が開かれることになっている。神谷町の光明寺という会場も、珍しかった。わたしは急いで彼女に予定の変更を提案した。備前のお店をまた延期して、『GATE』という映画を一緒に観ないか・・・その返事は即答で、「ぜひ」と返ってきた。

わたしがはじめてこの映画を観たのは4ヶ月前の3月14日だった。その日は幸運にも、監督のマット・テイラー氏も来場し、映画上映のあと、製作秘話などさまざまな話を聞くことができた。『GATE』は、65年前世界で初めて核実験が行われたトリニティサイトへ、ヒロシマ、ナガサキの原爆の火を帰し、負の連鎖の輪を閉じるという、祈りの行脚の実話映画である。その行脚は、はじめて核爆弾が使われた7月16日に出発し、武器として地上で最後に使われた8月9日に、最初の地、トリニティサイトへ到着することを目指す。わたしはこのドキュメント映画を観るうちに、とても不思議な思いがした。この行脚が行われた同じ2005年の8月6日、わたしは広島の平和祈念式典に参列していたのである。この年、わたしは平和な世界の実現のため、何かしようと思っても結局10年間何もできなかった自分をどうにかして脱け出そうとするように、今の自分にできること、どんな形でもよい、ただ祈るために、広島へ向かった。この時、アメリカでは、広島の原爆の火を持った僧侶たちが、やはりただ祈るために、ニューメキシコ州のトリニティサイトへ向かっていたのだった。

2005年の8月5日から7日まで、わたしは広島に滞在し、被爆した史跡の数々や米軍基地などをめぐり、被爆者の話を聞いて歩いた。特に、出発前、講演を聴くことができた居森清子さんが被爆した場所である、本川小学校を訪ねることは、もっとも強く願われたことであった。爆心からわすか410mの地点で、致死量の30倍もの放射能を浴びながら、奇跡的にも生き残った居森清子さんは、この年、60年間沈黙していた口をはじめて開き、自らの経験を語り始めていた。ぐうぜんにも、講演会の前、わたしは居森さんとご主人と、三人でエレベーターに乗り合わせた。その時はまだ、この方たちが居森さんご夫妻とは知る由もなかったが、かよわげで、なにか恐怖にでも合ったら消えてしまいそうな心細さを湛えた妻を、言葉少なに、やさしく寄り添って労わる夫の、そんな静かな老夫婦のようすを、わたしはなぜか微笑ましいとは思えず、尋常ではない深さと重みとに引き込まれるように感じて、せまい箱の中でとまどった。

その後、ふるえる声で自らの経験をわたしたちに語り始めた居森さんの口から、彼女の体を蝕み続けている放射能被害の数々があげられていくのを聞いて、さっきエレベーターの中で感じた尋常ではないもの、まるでこの世の人ではないような存在感の理由がわかったが、被爆から20年以上すぎてから現われはじめた後遺症は、すい臓がん、甲状腺がん、大腸がん(30cmの腸を切除)、多発性髄膜腫、脳腫瘍、骨髄肉腫・・・・と、次々に彼女を襲って増幅し、70歳をすぎてもなお進行中であった。そのうち一つでも、自らの身におこればそれだけで十分悲痛だというのに、居森さんはその小さな体にすべてが起こるのを受け止めながら、静かに、しかしおそらくは凄惨に、ここまで生き抜いてきたのである。それは、見えない意思によって生かされてきたと、自他ともに認めざるを得ないような命であり、わたしはその命と出会い、直接話を聞くことになっためぐりあわせの貴さを感じてふるえる思いがし、その命が伝えようとする思いを厳かに受け止めた。
どうやってこのかよわげな小さな一人の女性が、酷く、終わりなくつづく苦難に耐えることができ、幾多の後遺症を乗り越えることができたのか・・・・この居森さんを支え続けたのもまた、祈りであった。

さて、友人とわたしは、映画を観る段になり、主催者の説明から、ようやくその日が世界ではじめて核実験が行われた7月16日だったことに気がついた。GATEへの祈りの旅がスタートした日でもある。何においてもそうだが、時宜を得て授けられるものは、とくべつな意味をもってわたしたちの手元へ現れたことを知らせてくれている気がする。
鑑賞後、友人は、世界の平和は、それぞれの心の平和によって達成される・・・・という言葉が、この映画の鍵だったのではないか、と短く感想を述べた。彼女の分析は正しい。聡明な人である。
この友人にとって、核の問題も、国際政治も、勝手に私見を言い放てるような気楽なものではなく、戦争を終らせる方法を考えることも、遠い過去や、遠い国のことでもないところがある。その中で、たえまなく目にする矛盾や妥協、理不尽への失望や怒り、あるいは諦めが、彼女自身の心を始終揺さぶっている。わたしは彼女の中で揺らぎながら、ときに自らつらくて覆いをかぶせてしまいながらも、強く光り続けている希望や愛情、志をどんなふうに支えてあげることができるのか、といつも考えるが、できることは、ただ友のその光を信じて、そばに居続けることだけである。 平和とは、平らかに和むという字を書く。考えてもみれば、友というのは、平和とまったく同義なのだろう。
わたしたち全員が、もし世界中に友を作ることができたなら・・・・世界で戦争ができる国など、どこにもなくなるかもしれない。

その日、映画の上映後、光明寺さんが経をあげ、参加者も唱和した。この日のために選ばれたのは、讃仏偈であった。7月16日は、東京では送り盆にもあたる。戦争による犠牲者の御霊の供養とともに、平和な世界を創造することを、わたしたちはそれぞれに心に誓っていた。


・・・・願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。
それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
「讃仏偈」