December 24, 2010

クリスマス・プレゼント

  クリスマス・イブに、母とわたしは病院に呼ばれていた。

  父とはべつに、家族と話がしたいと言われたから、自然あまり良い話ではないだろうとわたしたちは察した。それでも、指定されたのは聖夜である。だいじょうぶ。そう思った。
  受洗をしていないし、社会的には信者として認めてはもらえないと思うが、それでもわたしはイエス・キリストを信じる者であったし、その教えを教育の形に変換して伝えてゆく手伝いを日々の仕事とし、それは今、自分に与えられている使命とも思って、できるかぎりの努力をしているつもりだった。努力以外の自信はなにもないけれど、一生懸命働いていることは神さまもご承知のはずだから、きっと守ってくださるはずだ。クリスマス・イブだもの、イエスさまも味方して、きっとご褒美をくださるはずだ・・・そう信じていた。

  はたして、24日の夜。母とわたしの前に並んだ三人の医師は、今回父に行った理学療法が残念ながら効果を見せなかったことを報告した。母もわたしも、やはりこの話だったかと、覚悟をしていた分、打撃を受けずに済んだことに安堵し、じゃあ、次はどんな治療を試して行こうかと、医師の提案に期待を寄せた。
  今回行った以上の治療はもうない、と言うより、現代医療ではもうなす術がない、あとは本人の免疫力次第だ、と言われても、また、正月は家に帰って、好きなものでも食べ、家族と一緒にゆっくり過ごしたらどうか、体調は帰れるようにするから・・・・と言われても、ぴんと来なかった。病室のベッドでは専用の空気清浄機を頭上に置き、鼻には酸素と、腕には点滴をつなぎながら過ごしている父を、どうやって家に帰すことができるのだろう。年末年始は病院も人手が少なくなるというのはよくわかるが、治療の方法がなくなったと言ったとたん、細菌感染も気にせず好きなところで、好きなものを食べてよいだなんて、あまりに投げやりではないだろうか。
  いいえ、抗がん剤治療でがんばった父の体に今すこしの無理もさせたくない。あとは本人の自然の免疫力しか頼りがないと言うのなら、どんな免疫療法でも試して、それを高める努力はしたいけれど、無駄な負担をかけて、免疫力を下げるような危険は負いたくない。せっかく家の近くの病院へ移ったのだ。年末年始は家族が毎日通って看護する・・・・。
  すると一人の若い医師がごうを煮やし、これは最後の帰宅のチャンスなのだ、普通に会話ができるのも年内までかもしれない、たとえ病院のベッドで安静に年を越したとしても、1月を何日過ごせるのかわからないのだ・・・・と畳みかけるように言って、ようやくわたしたちは、父の死を宣告されていることに気がついた。

   しかし、なぜなのだろう。たった二十日前に、父と母と三人で、こうやって医師たちの説明を聞き、骨髄繊維症のため、骨髄液が採れずになかなか突き止めることができなかったが、秋から続いていた高熱はウィルス性のものではなく、白血病腫瘍のせいだとわかったこと、つまり白血病を発症しているということ、今の状態でもっとも効果的な治療は、血管内にカテーテルを通して血管を傷めないように弱性の抗がん剤を投与すること・・・と、検査の結果と治療の方法とを、はじめて聞いたばかりである。わたしは抗がん剤の使用を聞いて、ナーバスにあれこれと質問をし、それに対しては最初医師たちもマイナス面を隠さずに提示してくれたが、今回は非常に弱い薬しか使わないため、それらの副作用についてはまったく心配しなくてよい、と、主治医である医科部長が断言するように言うと、父はもう待ちきれないとでも言うように、「ぜひその治療をお願いします」と大きな声で言い、一人で頭を下げた。
  父はなにもわかっていない。抗がん剤治療は強力な悪性細胞に効果的な分、健康な細胞を破壊する力も絶大なのだ。父のように、自分では血液が造れず、免疫力が低く、長期間の高熱で体力も弱っている人間が耐えられるかどうかわからないのだ。わたしはそう苛立ちながらも、父のすがるような思いに、目を覚まされる気持ちがして、いや、わたしが間違っているのかもしれない、これは天が差し出してくれている救いだとは考えられないだろうか・・・・目の前に出された助け手を信じず、素人料簡で疑って、たいせつなものを台無しにしてしまったらどうするのだ。医者の立場で、まったくリスクがない治療だと言い切るのはあまりに非常識だったが、それほど、自信を持って勧めてくれているということでもあるのだろう。鵜呑みにして愚かかもしれないが、本人も家族も一緒になって信じきってこそ働く力は確かにあるはずだ。それに賭けてみるべきではないか。そう考えては、繰り返し、わたしは迷った。しかしすでに父の心は決まっていて、希望に満ち、ましてや今の体調では他の病院をまわってセカンドオピニオンを求める余裕はなく、わたしは目を閉じるという方法で、ようやく信じ方を見つけた。
  あの時医師の誰も言わなかった。治療をしてもしなくても、もう手遅れかもしれないとは言わなかった。最初に行う治療を教えてくれただけで、最後の治療になるとは教えられなかった。やっぱり抵抗力が著しく低下している父の体に、理学療法はきつすぎたのか。たとえ父の気持ちを傷つけても、わたしは断固反対すべきだったのか。たとえようもない、怒りと後悔のかたまりが押し寄せてきて、それは矛先を向ける先を、自分や他人を問わずに探して勢いよくとがったが、しかしなぜか、何度とがっても、すぐに溶かされてしまった。
  二十日前、じつは医師たちにはわかっていたのではないか。医師の性格にもよるのだろうけれど、今の進行状況であれば早ければ何ヶ月・・・世の中にはそう話して聞かせる医師も多いにちがいない。しかし、そんな診断は病人にとってなんのプラスにもならないと、父の主治医はそう判断したのではないか。そして、治療にリスクがあるかないかで迷っている時間もなかったから、言質をかえりみず、まったく悪影響のない治療だと言い切りもしたのだろう。逆にもし、早ければあと一ヶ月の命だが、効果があるかないか、理学療法を一度だけ試せる・・・と聞かされていたとしたら、わたしはまちがいなく、理学療法に賭けることを選択していたと思う。父がいやがれば、説得してでも、受けさせたのではないか。到着した先は、どちらにしても同じだったのだ。

  また、ウィルス性の発熱という診断のまま、白血病を発症していたことを知らずに2ヶ月を過ごしたが、それも恨めることとは思えなかった。たとえ2ヶ月前に正しい原因がわかって、治療を行っていたとしても、腫瘍の強い勢いはすでに止められなかった可能性は高いし、むしろ父の死は、もっと早まっていたかもしれないのだ。ウィルス感染と思っていたから、本当にぎりぎりまで、医師も入院をさせなかったし、父もわたしたちも家で普通の暮らしをしていたのだ。わからなかったからこそ、死の恐怖におびえることもなく、がんと闘うことに躍起になることもなく、心によけいなストレスを負わず、生きて来られたのである。

  それ以前のことを言っても同じだ。2ヶ月前に高熱が出るまで、父は趣味の畑仕事も、ドライブも楽しむほど元気だったのである。骨髄繊維症という難病にかかったのが嘘のように、体調は回復し、症例の平均から言ってもこのまま十年以上、無理はできないが、生活を楽しみながら暮らして行くことができるのではないか・・・・本人も誰もがそう思い、検査を必要にする理由はなにもないほど、経過は良好だったのである。

  悔しいのは、なぜわたしは、父にもっと優しくしなかったか。死ぬことがわかっていたら、わがままのような父の願いも、もっと聞いてあげられたのに・・・・。ふとこみあげた思いに、情けなくなった。いいえ、ちがう。はじめから、生まれた時から、誰もがみんな死ぬことはわかっているのだ。そんな当たり前のことを、わたしが忘れていたのだ。
(ああ、やっぱりこれはクリスマス・プレゼントなのだ・・・・)
クリスマス・イブの、病院のカンファレンスルームで、今目の前にしている現実はいったいどこから来たのか・・・と眺めながら、もうすぐ父は死ぬという医師の言葉を見つめながら、そう思った。

  命あるものは必ず死す。誰の父親も、どんな人も、同じだ。しかしその時を知らず、たいせつな人と、ある日とつぜん別れなければいけない場合が多い中、もうすぐ旅立ちますよ、と教えてもらっているのである。だとしたら、これは、恵み以外のなにものでもないだろう。悟りの悪いわたしを憐れんで、せめて残りの時間を、後悔なく過ごせるように、神さまが慈悲を授けてくださっているのだ。
  たとえ死に向かうことが生だとしても、死の瞬間までは、まぎれもない生そのものであり、そして生とは、幸せになることである。医師の言うとおりだった。折り良く、もうすぐ父の大好きなお正月だ。セリがたっぷり入ったお雑煮と、家族がにぎやかに集まるのが、毎年何よりの楽しみと幸せがる父に、わたしたちは、それらを全部プレゼントすることができるのだ。それで本当に、父の死がやってくるのか、いつやって来るのかはわからない。ただできることは、最後まで一緒に生きること、最良を探しながら、最後まで生きることだった。

  母とわたしが病院を出るころ、大勢の看護婦さんが手にキャンドルを持って列を作り、廊下を歩き出した。病室をひとつひとつ回りながら、聖歌を歌い、早く元気になりますようにと、祈ってくれるのだ。こんな時間にわたしたちが病院にいては父が不審がるので、会わずに帰ることにしたが、だいじょうぶ、イエスさまもマリアさまも守ってくださっている・・・・そう実感するように、わたしは、キャンドルを抱いた天使たちを、感謝をこめて見送った。

  翌日、午後は友人と約束をしていたまま、銀座の鳩居堂へ、大徳寺昭輝さんの書画展にでかけた。ちょうど鳩居堂での書画展が20周年となるということで、大徳寺昭輝さんを主人公に『神の微笑』をはじめとする神シリーズ8作を著わした、作家芹沢光治良氏など恩師・関係諸氏の書も一緒に展示されていた。
  その中に一枚、書でも絵でもない、那智の瀧の写真があった。わたしはこの瀧の写真を、十日ほどまえ、父の携帯へ送っていた。ここは、父と母が、一歳のわたしを連れて訪れた思い出の場所で、父の理学療法が始まった時、偶然わたしはそこを訪れていた。

  その時、熊野の地で、わたしは当時の若い両親に思いを馳せるうち、二人の気持ちを追体験するような不思議な感覚におそわれた。歩いた、しゃべった、笑ったと、幼いわたしのすることに一喜一憂しながら、これからの家族のいろんな幸せを、さまざまな未来を、夢見ていた父と母のようすが心に浮かんで、自分に注がれていた、若い両親の屈託のない喜びに満ちた愛情が、鮮明に、触れられるように明らかなものとして味わわれた。わたしは一体長い間、なにを見失っていたのだろう・・・。こんなに確かに愛されていたではないか。両親も、こんなに愛し合っていたではないか、そう理解して、胸が熱くなった。いつからうまく伝わらなくなってしまったのだろう。身近にいる同士だからこそ、伝えなくなってしまったもの。近すぎると、よけいに伝わりづらくなってしまうもの。なぜ、大事なことを、大事な人に伝えられない・・・・。

  わたしは病院の父の携帯へ、那智の瀧の写真を送ってみた。そして、「一人で来られるようになるくらい、大きくなるまで、育ててくれてどうもありがとう」と、面と向かっては言えない言葉を、いっしょに書き送った。死ぬことがわかっていたら、行かなかった那智であったし、死ぬことがわかったら、別れ文句のようで言えなかった「ありがとう」であった。

  大徳寺昭輝さんに、書画集へサインを書いていただこうとあいさつをすると、来るまでは少しも話す気がなかったことなのに、思わず父のことを話しだしてしまった。いつも大勢の相談を一身に受けている人に、わたしの荷物までおろすことはしたくなかったが、別の話をうまく伝えられなくて、冷静を欠いた瞬間に、唐突にわたしは言い放ってしまったのだった。父の命が来月までもたないかもしれない・・・。
  しかし、最後まで言い終わらないうち、大徳寺さんは満面の笑みを返して、わたしは言葉を失った。それはまるで、言うべきことを言って褒めているような、あるいはクリスマスプレゼントだと、せっかく恩恵として受け取ったものを、わたしが不幸として語り直そうとするのを阻止するかのようだっだ。そして、書画集を取ると、父のために絵を描いてくれた。そこには、Merry Xmasの言葉と共に、「お元気になりますように」と祈る、キャンドルを持った天使の絵があった。昨夜、病院の廊下で出会った天使たちと同じだった。神さまはいつも共にいてくださる。そう伝えていた。

  「書画集、端から端までていねいに読ませていただいたよ」
二日後、父が言った。本当にありがたいね・・・と頭を垂れ、わたしは驚いた。
帰宅に合わせて体調を整えるため、これが使える一番最後の薬だと言う抗生物質が投与され始めたが、その効果で熱も下がり、急激に体が楽になった父は、奇跡が起きたと喜んでいた。

  抗生物質は耐性ができてしまい、どんどん強いものを使い続けるしかない。しかしそれだけ体への負担は大きく、父の細胞はもう今回の薬に耐える力を持っていなかった。しばらく、本人は治ったかのように症状が改善して楽になるが、肺炎を起こすのは必至だった。肺炎を起こすのが先か、がんが体を破壊するのが先かの問題だ、でも知っていてほしい、がんの最後は非常に壮絶な痛みを伴うものなのだ、その上でよく考えて決めてほしい・・・・と言って、医師は、抗生物質の使用に抵抗するわたしの感傷を叱った。わかっている。がんの最後は、3ヵ月前に友人が教えてくれたばかりである。
  その抗生物質が投与され、父はどんな治療をしても下がらなかった熱がとうとう下がって、天国のようだと子どものように喜んだ。家に帰ったら、お雑煮や、お刺身、焼肉が食べたいと言って張り切った。父に告知はしないと母が言い張り、それではどうやって、急激に体調を引き上げたり、点滴も酸素も不要だと安心させることができるだろう・・・・と悩んでいたわたしは、父が奇跡として、家に帰れるほど元気になった体を受け入れたのを見て、それこそが奇跡と思い、救われた。しかし、なによりも感謝されることは、他にあった。書画集には那智の瀧の写真も載っていたが、その後ろには、芹沢光治良先生が同じ言葉を書いた四枚の書が続いており、それは正しく、わたしの人生の根となっている言葉であった。

「九十年生きて ようやく識る 大自然の力こそ 唯一の神 人類の親 わが親なることを」

  真理を求め続けた作家が、とうとう九十にして至ったその言葉が、繰り返し、繰り返し、父の心を叩き、中へ染みこんだことはまちがいなく見えた。自分は無宗教で無信仰の人間だ、と言い続けてきた父であったが、天へ旅立つ前に、この言の葉を心に届けることができたのは、魂に頼りとなる地図を持たせることができたのに等しく思えて、わたしは深い感謝に打たれた。
  クリスマス・イブの夜にね、看護師さんたちがろうそくを持って、わざわざ部屋まで歌を歌いに来てくれたのだよ・・・・・。父は感動したように、数日前のできごとを家族に聴かせた。父しか知らないその姿を、大徳寺さんが絵に描いてくれたのも本当に嬉しかったのだろう。多くの祈る人たちのまごころが、父の心が開くのを助けてくれていた。

  大晦日、父は娘の運転ではあるが、雨の日には乗らないと言うほど大事にしていた愛車のジャガーに乗って家へ帰り、久しぶりに風呂へ入って母に全身を洗ってもらい、元旦は息子家族も集まってにぎやかに過ごし、好物のうどんすき、お雑煮、焼肉を楽しんだ後、二日に病院へ戻り、五日後の七日、天国へと旅立った。

  病院に戻る直前、父の足を洗わせてもらった。むくんで、大きくなってしまった足を湯であたため、片足ずつ、タオルでていねいに拭き、靴下をはかせた。この足で歩き回って、仕事をし、わたしたちは育ててもらった。水虫がうつると、家族中から嫌われた足でもあった。
  病院へ戻った父は、肺炎を起こし、急激に悪化する体調に衝撃を受けながら、せっかく良くなったのに、家に帰って無理をしたせいで、悪くしてしまった・・・・わたしたち家族には遠慮してなにも言わなかったが、他の人にそうこぼしていたようである。そして、自ら死を覚ると、二日であっという間に逝ってしまった。昔からこうと決めたら、動かずにはいられない性分でもある。母の言うとおり、やはり父には告知をしなくて正解だったのだろう。

  一月七日は、もうほとんど喋ることはできないながら、午後までしっかりとした意識で、しきりに牛乳を飲みたがったが、飲み込む力が衰え、肺に入ってしまう危険性が高いと言って医師の許可が下りず、そこで知恵を絞ったのか、今度は口の中で少しずつ溶かすことができるアイスクリームを要求して、ようやく医師の許しを取り付けた。誤嚥に気をつけて、一匙一匙口へ運ぶと、おいしいと、指で丸を作ってサインをしながら、ぜんぶ平らげた。そんな元気と朗らかさを見せてくれていた父であったが、満足をしたのか、疲れたのか、母をそばに呼ぶと、
「もう休んで」
と言って、看護師さんに薬を頼んで眠り、きょうだい達が、じゃあ、今日はこれで・・・と言って帰って、病室に妻と子どもと、孫だけとなると、「準備ができたね。では行くよ」とばかりに、急にどんどん、どんどん深い眠りに落ちるようにして、父は次第に呼吸をやめ、心臓を打つのをやめた。直前、左の目尻から、涙が二度落ちた。その顔はまるで、見たこともない美しいものを見て、感動しているかのように見えた。

  ありがとう。おつかれさまでした。いってらっしゃい。また会おうね・・・・亡くなってもしばらくは聴覚だけは残って、声はよく聞こえるそうですよ・・・と、看護師さんに扮した天使に教えられて、家族は代わる代わる、父に声をかけた。

  この世に生まれることができるか、できないか、生まれたあと、病気になるか、ならないか、それらはみな最後まで決まっていないことばかりだが、死ぬことは、生まれた時からすでに決まっている、誰にでも平等に与えられた運命である。死ぬことがわかっていたら・・・・と、愚にもつかずわたしも胸に上らせたが、どの人も死ぬことはわかっており、明日、わたしが生きている保証もじつはないのだ。だから、誰もがかけがえのない今を生きている時、照れている場合ではなく、後回しにしている場合でも、機嫌を損ねている場合でもなく、愛は伝えるように、優しさは行うように、許しあい、感謝しあうように・・・・父は最後にこのことを、生きる上で最もたいせつなことを、命をもって教えてくれたように思う。そしてこの救いこそ、あの日天が授けてくれた最上のクリスマス・プレゼントだったのだと思っている。

  一年経った今も、毎朝父にお茶をいれながら、生きている時にもいれてあげれば良かったのにね、と苦笑する。一緒に生きてくれている人たちにも、もっとお茶をいれてあげなくちゃね、と反省する。いつまで経っても、親は親で、子どもを育てつづけてくれるものなのだろう。

  「育ててくれてありがとう」
はからずも、書くことができたあの時のメールへの返事は、
「あなたはパパの自慢の娘です」
と書いてあった。びっくりし、泣いた。自慢の種どころか、迷惑ばかりをかけてきた娘である。
  こうして、父は娘に朽ちない宝を授け、この言葉と共に、今も生き続けている。