November 3, 2011

日々蒔種

  朝が早い、徒歩通勤の、お弁当持ち、ということで、これらを面倒がる代わりに逆手にとり、健康のための自動的努力、つまり習慣にしてしまおうと思って数年来となる。5時半に起床、朝食はお味噌汁と納豆とごはんが定番で、急勾配の長い坂道をふくむ片道17、8分のウォーキングに、昼食のお弁当には、ごはんの上に黒ごまをすったものをスプーン一杯ほど塩といっしょに振って、うめぼしを一つ、ゆで卵をひとつ、あとは適当におかずを詰めるが、それに緑茶をひいてお湯でといた粉茶を一杯飲むというのが、毎日のだいたいのきまりである。ぜんぶは小さいが、これも一年積み重なれば、まあ効果もいくぶんあるのではないかと、至ってのん気に期待している。
 人のこころというのは勝手なもので、他者から強制されたことをするのはつらいものだが、おなじことを、自分が意味をもって行う時には、つらいどころか楽しい気もちすら感じるもので、それに一度決めてしまったなら、あとは毎日いろんな選択を考える必要がないから、実際忙しい朝には、決まりごとほど楽ちんなこともないのである。
 
 すりごまを一日約5g食べたとすると、一か月に20日はお弁当を食べたとして100g。一年間では1㎏以上のすりごまを食べていることになる。ちりも積もれば山となると言うが、黒ごまもこれくらい積もれば、わたしの体内でなにか重要な働き手になってくれていても不思議ではなさそうだ。
 お釈迦さまが説いた教えに、因果応報というものがある。まいた種はみな生え、その果実を収穫するものだという教えだが、効果というのも、果実のひとつにちがいないから、こうして毎日ほんの少しずつ、飽かずにまいているごまのようなものからも、きっと知らず知らずに果報を得ているというものなのだろう。
 これは、こころの種も同じことで、もっと寝ていたかった・・・・と思って起床するのと、早起きは体に良いらしい・・・・と思って起床するのとでは、とうぜん毎朝まかれるものがちがうだろうし、こうして損した気分と、得した気分を、それぞれ毎日、一年積み続けたときの結果を想像すると、ちょっとぞっとしたりもする。どうせおなじことをするのなら、得した気分を重ねるほうがいいだろう。来る日も、来る日も、損した気分を積み重ねたら、一年後、どんな欲求不満になっているか、どんな不幸顔になっているかわからない。

 いつも喜んでいなさい――こちらは新約聖書の中でも人気のあるみ言葉である。喜ばしいことを喜ぶのはとうぜんのこと。これは喜べることだけをしていなさいとか、喜べることを探しなさいと言っているわけではなく、むしろ喜ぶなんてとてもむりだと思うことも、なんでも、いつも、喜んでいなさいと教えているのだろう。かなり難題だが、怒りや、恨みや、不満という種も、また喜びという種も、かならず生えて、花が咲き、その果実は自分で収穫することになるのだと思えば、やっぱりいつでも喜んでおきたいものである。
 それでもどうしても喜べないということはきっとあるだろう。そういう時は、自因自果、原因は自分にあるのだと思い出して、心にしろ、言葉にしろ、行いにしろ、自分がまいたどの種が悪かったのか、深く考える機会を与えられたのだと納得して喜びたい。この時点ではかなり無理強いがあっても、まちがいなく、答えが見つかった時にはものすごく喜ぶに決まっているのだ。そして因が変われば、果も変わる。喜びにくい果だったならなおさら、早く変えたほうがいいに決まっている。
 
善因善果、悪因悪果。幸せはまずここから。今まく、その小さな種から。飽かず、憂えず、よい種だけをまいてゆこう。

October 16, 2011

電車の中で

昨日、座れることをいいことに各駅停車を選んで乗って、本を読んでいると、ふっと集中力が文字から離れた瞬間に、隣に座っている若い女の子の声が耳に入り、ん?と、気持ちを引き込まれた。
「・・・・会える時に会ったほうがいいよ。会っておいでよ。・・・・わたし、おばあちゃんのことが大好きだったんだけど、亡くなるなんてぜんぜん考えてもみなくて・・・・・修学旅行に行ってる時だったんだけどね・・・・・。あ、それはわたしの場合で、同じように亡くなるって言ってるわけじゃないよ。そうじゃないけど・・・・」
諭している相手は、前に立っている若い男の子なのだが、おそらく二人は大学生の恋人同士なのだろう。
「きっとすごく喜ばれると思うし、自分にとってもよかったと思えるはずだから。ね、年末年始は、帰ってあげなよ・・・・わたしとはいつでも会えるけど、おばあちゃんは、そうじゃないんだから。会える機会は、たいせつにした方がいい」
男の子はだまっている。
「年末年始、わたしだったら大丈夫だよ。友達に声をかけるとか、もし淋しかったら、秋田に帰ればいいんだもの。ね、そうしなよ。会っておいでよ」
彼女の必死の説得に、とうとう彼もうなずいたのだろうか。
声は聞こえなかったが、無言にもう一度「ね」と言って、微笑み合うような、あるいは苦笑いだったかそんな間があって、二人は別の話題に移って行った。文学部の教授がどうしたこうしたという、他愛もない話になった。
手元の本に目を落とし、耳だけを二人の会話にそば立てていたわたしは、その姿勢のまま、思わず目頭が熱くなった。優しいやりとりである。そういえば、さっき隣の席が空いたとき、わたしの前に立っていた彼女はすぐに座ろうとはしないで、彼が、
「座って行ったほうがいいんじゃない?」
といたわるように促し、それに従うようにようやく座ったのを思い出した。その時、あら?と感じて、どこか体の調子でも悪いのかしらと思ったりしたのだったが、どうやらそういうわけではなかったようだ。この二人らしいやりとりだったのだろう。
 爽やかな恋人たちが三軒茶屋で下車して、わたしは再び本をめくり始めた。ご縁のあるプロテスタントの教会の副牧師さんが送ってくれた本だった。その副牧師さんは女性で、本は彼女の愛読書であり、カトリックのシスター渡辺和子によって書かれた『愛をこめて生きる』である。わたしたちの幸福は、日々の生活をどれだけ愛をこめて生きられるかによる・・・・・まるでその真理が本から飛び出して、姿を見せてくれたような、そんな小さな、宝石のようなできごとだった。

October 2, 2011

漢方薬

  三年ほど、仕事をいっしょにしてくれた人が面白いことを言った。週に三日、働きにきてくれている人だったが、たまたま祭日などの連休がつながって、しばらく出勤日が回ってこなかったのかもしれない。十日か、あるいは二週間近く会わずに過ごして、しばらくぶりに顔を合わすと、
「ああ、よかった。お会いしたかったです。そろそろ漢方薬がほしくなってきて・・・・」
と言うのである。漢方薬とは、わたしのことである。
  あんまり上手なたとえで、一本とられた、と大笑いした。人の役に立つものにたとえてくれる気配りもさすがだが、変わった味で、即効性がない、そういうものに似ているというのは、なんとも的を得た表現だと思った。

  週に三日といっても、一日中すぐ隣にいて、仕事を助けてくれている人だから、わたしの癖も欠陥も、なにもかもお見通しに、掴んでいる人である。人を助けるのが自分の仕事とわきまえ、どうやったら相手が助かるかをいつも一心に考えるその人は、優しい目で、わたしの至らないところを見極め、楽になるように工夫をこらしてくれる。寸暇を惜しんで手を動かし、体を動かし、誠を尽くして働く姿は健気で、わたしは何度となく感心しては、さぞかしご主人はかわいいと思っていらっしゃることでしょうね、と同じ感想を繰り返し口にしたものだったが、もしわたしが男性だったら、こんな奥さんはかわいくてしかたないと思うような人なのである。

  そんな人に、漢方薬と慕われるとは、逆にわたしはどんなかわいげの少ない女だろうと可笑しくなる。だいたい漢方薬というのは、熱すぎない白湯でといたり、細かく決められた時間に飲まなくてはいけなかったり、美味しくないのにポンと口に放り込んで飲み込んでしまうこともできないような、面倒なもので、その上長く飲まなければ効果も出ないような、気長を要する薬である。もしそんな奥さんだったら、ご主人さまが甘い味の方へ、多少の副作用があろうが、面倒がなく楽しい方へ、自然とひかれて行くことがあったとしても仕方がなさそうだ。
  とは言え、ふだんから体質と気質の改善が健康の基本と考え、自然療法を第一に考えるわたしにとって、漢方薬と言ってもらえるのは本当に光栄のかぎりだったし、またそうやって、考えは人になるというのが自然というものか、と妙に感心もするが、じつを言ったら、そう言ってくれるその人こそ、わたしにとっては漢方薬のようにじんわりと、良い労働とはどういうものか、また良い妻とはどういうものかを、染み入るように教えてくれたとも思うのである。

  考えてもみれば、身近に過ごす人というのは、みな互いに漢方薬のように働き合っているものなのかもしれない。それぞれの体質、気質、またその時の問題に見合った薬を、自然界から調合し処方された、そんな人々に、わたしたちは囲まれて過ごしているのかもしれない。
  気が不足しているとか、血が滞っているとか、また水が余分に溜まっているとか、そういう心身の傾きを修正して、病状を原因から治そうとするのが漢方の考え方だが、おなじように自分の傾きを知って、生活習慣を変えるように促されたり、温めてもらったり、冷静にしてもらったり、停滞しているものを流してもらったり、あるいは気力をもらったり・・・・・周囲の人とはそういうものにちがいない。もちろん対処療法的に、その場その場を助け合いもするけれど、そういう特別なものよりも、日常すぎてわからなくなってしまっているようなささやかな作用の積み重ねの方が、じつは肝心な働きをしてくれているもの。日々わたしたちを生かしてくれているのは、そんな力だ。感謝し、心を開いてそれらをいただいた時、それぞれの命に備わっている自然治癒力は、不可能がないような力を発揮する。人生の軌道修正というのも、きっとそういうものだろう。

  妙なる言葉で、わたしを励ましてくれたその人は、このたび遠方に移り、家族で新しい生活に挑戦することになって、わたしたちの人生は分かれ道を行くことになった。単身赴任だったご主人に、かわいい奥さまをお返しする旬でもある。
  いつでも、わたしたちは自分に必要な恵みを与えられて生きている。そのもっともなるのは、人である。それを、はなむけの言葉に、これから行く道の彼女の幸運を、心から祈りたい。

August 20, 2011

はじまりの日

  8月15日は、わたしにとってたいせつな日だ。
それはもちろんわたしだけではなく、日本にとって、また世界にとって、終戦記念日というたいせつな日であることにまちがいない。
 ただ、戦争からだいぶ時が流れて、戦争を体験していない世代が、家族三世代をつくる世の中になって、「終戦」という実感は、自分とはちょっと無関係な距離で、頭で理解するようには、心も生活も動かせない、そんな人が多いかもしれないということも、よくわかる。わたしだってそうだった。二十代の半ばを過ぎるまで、8月15日の意味の重大さは知っていても、なにか暗いかたまりのようなものを前に、すこし近寄りたくない気持ちを感じるような、あるいは、厳粛な決まりごとが済むのを、怒られないくらいにおとなしくして待つような、そんな日だった。

  このような押しつけられ気味の記念日が、一年の中で一番と言えるくらいにたいせつな日と変わるには、やはりそれなりの経験がいる。価値観だけでなく、人生も変わるほどの、ふたつの大きな経験が、わたしの中に、8月15日を深く刻印することになった。
 ひとつ目は、ダライラマ14世との出会いである。
 世界が二つ見える。だからもう人工呼吸器をはずしていい・・・・そう言って亡くなった祖父の、その最期の言葉を理解したくて、死後の世界とはどんなものなのかを知りたくて、チベット仏教を学ぼうとした。チベット死者の書について、ダライラマ14世の教師だった高僧から直接講義を受けることができると言うツアーを見つけ、インドのダラムサラまで赴いた。出発前、ダライラマ法王は転生を繰り返し、チベットの人々を導いている生き仏と信じられているということ以上、なにも知らなかったわたしに、当時同じ職場にいた人が、ぜひ勉強してから行くほうがいいと言って、ダライラマに関する書籍やビデオを山積みにして貸してくれた。

 今でも鮮明におぼえている。家に持ち帰り、全部に目を通せるかしら・・・・と資料の量にすこし圧倒されながら、本よりもまず、気楽にビデオでも見ようと思ったわたしだったが、ダライラマ14世の姿が画面に現れた時、知らないうちに、正座をしてモニターに向かって手を合わせている自分に気が付いて、唖然とした。なにが自分に起こったのか、理解ができなかった。わたしには反射的に起きるような、宗教的習慣はなにもなかったし、正座も、手を合わすことも、あまりに非日常的すぎた。わたしは本当に驚いて、その異常なできごとの原因を探すように、借りた本を読み漁った。
 そこで、わたしはこれまで知らないで過ごしてきた、チベットの悲しい歴史を知ることになる。中国の侵略、無抵抗の人々への惨殺行為、そしてそれにあくまでも非暴力で対峙し、平和を訴えるダライラマの姿を見た。
 このような理不尽な出来事が起きてもいいのか。震えるほどの怒りとともに、このような凄惨なできごとを、非暴力で受け止め、非暴力で対抗する強さに、この世のものとは思えないほどの気高さを感じ、あの時、ダライラマ14世に向かい、無意識に手を合わせていた自分の感応の理由を知った思いがした。

 実際会ってみると、チベットの人々は、悲しい、不幸せな人たちではなかった。ダラムサラで、ダライラマ14世に謁見した時、わたしは、まさに光を目の前にしている気持ちがした。後光などというものは、絵でしか見たことがなかったが、このことを言うのだろうと思った。そしてダライラマだけではなく、チベット人の美しい笑顔に、わたしは心から感動した。その笑顔の前に、なにがほしいとか、なにになりたいとか、それまでの自分の思いは、すべてつまらないものに思えた。こういう笑顔ができる人間になりたい。それを人生の目標にしよう、そう決めた。

 それから、わたしにとって、非暴力による平和の実現、そして祈りというテーマが、考えごとの中心を占めるようになった。しかし、かと言って、日本での日々の生活は、あいかわらず平和活動とは縁遠い経済活動のさなかにあったが、ほどなくして、二つ目のめぐりあわせがやってくる。
 比叡山延暦寺で、終戦記念日に、鎮魂のコンサートをしたい。日本、中国、韓国の、三カ国の演奏家を集め、復元した天平の古楽器によるオーケストラを編成し、演奏したい。企画を手伝ってもらえないだろうか?・・・・そんな話が、とつぜん舞い込んできたのである。1200年消えることなく灯され続けた不滅の法灯の前で、太平洋戦争の犠牲者の鎮魂と、永劫の平和を祈るコンサートを行うという、すばらしい話であった。それはまるで、わたしの無言の願いが聞き届けられたかのようであり、与えられた使命のようにすら思えた。

 このコンサートの話について書きだすと、長くなってしまうので、詳しくは別の機会に譲って大きく省くが、若く未熟な身空で、このような大仕事を授けられただけでも、8月15日という日が消しても消えないほどの濃さと、深さで、人生に刻まれるのも当然なことだろう。そして戦争の放棄について、また日本が世界唯一の核兵器による被爆国であることについて、その意味を本気で考えるようになったのも、この8月15日をはじめにしてであった。

  8月15日、それはわたしたち日本人が、戦争をやめた日。その日、カウンターはリセットされ、ゼロになって、それから66年、わたしたちは戦争をしなかった年数を刻んでいる。じっさい戦争をしない年数が66年も続くなんて、それは快挙でもある。
 こうして、わたしたちは毎年記録を更新している・・・・そう思うと、大げさだが、自分の生そのものがすこし誇らしくなる。この記録を伸ばすこと、それがわたしたちの未来であり、広げること、それがわたしたちの行き先であり、わたしたちのふつうの暮らしが、自然にそれを実現して行く。
もちろん、世界各地で今も戦争が起こっているのに、自分たちだけは戦争をしていない、こんなに長いこと武器を持ったことがない、と誇るわけではない。戦争をしない、それはそれで、思慮も、努力も必要とする戦いだと思うし、わたしたちは暴力の使い方でなく、ほかの人も武器を棄てられる方法を見つけるため、時間も労力も能力も費やせるはずだが、はたして実際にそれが行いとなっているのか、という自問自答には、恥じ入る気持ちも、また悔いる気持ちも起こる。

 しかし、8月15日、戦争で亡くなった人々、そして生き残った人々、みながひとつのことを命をふりしぼるようにしてわたしたちに伝えてくれる言葉は単純だ。
「戦争だけはいけない。戦争はしてはいけない」
 言い残すことは、守る掟はこれだけでよい、というように、この言葉だけを言う。なにが間違っていたとか、こうであるべきだったとかも言わない。ただ、戦争だけはいけない、という。
なにが正しいか、どうすべきか、多くの識者が、そして力ある人たちが、口々にわたしたちに示してくれるが、それらたくさんの声の中で、この風だけは、たしかな、変わらない真実を伝えているように聞こえるのは、きっとわたしだけではないだろう。主義でもない、知恵でもない、ただ、おじいさんやおばあさんが、自分たちにのこしてくれる遺言をたいせつに守りたい。そんな思いのほうが、まことの平和に近いように思うのも、きっとわたしだけではないだろう。

 今年の8月15日は、はじめて「被昇天のマリア」のミサに与った。カトリックでは、天に上げられる聖マリアを特別に記念する日を設け、ミサを捧げるが、その祭日は8月15日と定められている。
世界の平和、また東日本大震災の慰霊と、復興への力添えを願う真摯な祈りが捧げられた。わたしもともに祈りを捧げながら、戦争をしてはいけない、それは聖母マリアの遺言でもあるのだと、あらためて心に覚えた。この日、平和の祈りを捧げているのは、日本ばかりではなかった。平和の后、聖母マリアに心を合わせ、世界中のカトリック教会でも、祈りが捧げられているのを感じ、涙があふれた。

 8月15日、こうしてたくさんの人々によって祈られる、平和の祈りが、天に聞こえないなんてありえないだろう。わたしたちはまた新たに平和を誓い、歩きはじめる。その姿が天に見えないなんて、やはりありえないだろう。

August 9, 2011

道の奥

 6年ぶりに東北を訪れた。
震災後、メールや電話で話をして、安心していたことではあるけれど、ふるさとのように慕った土地でもある鳴子や、そこで現代湯治の若手リーダーとして活躍しながら老舗旅館を営む、大沼伸治さんやご家族の元気な様子を自分の目で確かめて、まずはただ心から喜んだ。

 ちょうど、宮城の稲わらから高濃度の放射性物質が検出されたというニュースがさかんに流れて、これまであまり神経をとがらせることなく、むしろ東北のものを選ぶように日常の買い物をしていた母までも、わたしの宮城行きにすこし陰ったことを言うようにもなっていた。わたし自身は、こうして東北の地に縁があるけれど、そういう思い入れがあるわけではない母も、またほかの人も、震災から時間が経ち、だんだん自分の生活に手いっぱいとなってくると、放射能への恐怖が、防衛本能をかきたて、それが東北との壁になりはじめているように見えた。

 しかしそれは、友人を応援に行く、いっしょに生きるのだと、意気込んで出かけたわたしの心にさえも、じつはしっかりと忍んでいた恐怖で、実際、わたしは部屋に用意してくれていた水を飲むとき、コップを口まで運んだところで、急に躊躇を感じ、飲んでも大丈夫だろうか・・・・と思って、そんな自分に驚いてしまった。まさかそのような気持ちが潜んでいたとは、自分の心ながら、まったく気がつかなかったのである。
 なんてこと・・・・わたしは喉元にうすく残る抵抗のようなものを押し流す風に、大きく水を飲みこんだ。冷えた、おいしい水だった。そして、ひさしぶりに温泉の恵みに与って、新陳代謝が促進された体は、まるで細胞中の水分すべてを入れ替えようとするように、始終トイレへ行きたがり、またそのたびに水を欲して、わたしは一晩で、ジャーの中の1リットルほどの水を全部飲み干した。
 
 被害が少なく、被災地からは近いこの温泉郷には、女川や南三陸町などの被災者の方々が、旅館などを二次避難所として滞在していた。また、東京その他の地域からは、復興のためのボランティアや視察を希望する人々が集まり、町は交差点のような一種の活気を呈していた。そんな中、わたしの訪問の目的は、いささか個人的すぎるように感じたが、友人家族との再会をよろこび、リラックスした会話を楽しみ、地震と表裏一体のような地殻活動の恵みである温泉にいやされながら、それとは別に、こうして誰かのためになにかをしたい、と与えるばかりの人の心が集まった場所に自然と満ちる、さわやかさなエネルギーをたしかに感じて安らいだ。人は本来、こんな気持ちのする場所で生きていけるはずなのだろう。

 鳴子で避難生活を送る方たちのための読書会に参加させてもらい、わたしはその気持ちをさらに強くした。テレビ出演も多く、人気者のロバート・キャンベル教授がその読書会のホストだったが、前日の夜に現地入りし、朝から三部、読書会や講演を行った後、夕方遅くに東京へ帰ってゆくまで、すべて手ずからで、熱心に、そして誰のこともたいせつにする姿は尊く、周囲の人を自然に幸せにする力があった。

この読書会の中で、教授が子どもにこんな質問をしたところがあった。
「今、勇気って言葉がでてきたけれど、勇気ってどういうものだと思う?なんでもいいんだけど・・・誰かが何かをするのを見て、あ、勇気あるなあ、って思ったりしたことない?」
そうして、名前を呼ばれた男の子が、ちょっと考えたあと、意外なことを答えた。
「ここ(避難所となっている旅館)で、時々、お客さんに道を聞かれることがあるんですけど、お風呂はどこですか・・・とか。そういう時に、それはこっちですよ・・・・って、口で言うだけじゃなくて、そこまで連れて行って教えてあげる人を見た時、勇気があるなあって思いました」

 少年にとって、それはとても最近のできごとだったのかもしれない。わたしは目の前がぱっと晴れたような気持がした。その通りだ。やさしさを行うには、すこし勇気がいるのである。はずかしさだとか、面倒臭さとか、怖さ、あるいはまわりの声だとか、そんなものを払ってくれる勇んだ心が必要なのである。おとなになると、道案内をするかしないかが勇気に関わるなんて、思いもよらない。勇気というのはもっと大きい事がらに使うものだと思っている。しかし、あの恐ろしい津波に遭い、家や大事なものを流されてしまうという途方もない経験をした少年が、敬意をこめて、言うのである。困っている人に差し出す手こそ、勇気であると。

 一方、行きと帰りの新幹線の中で、わたしは宮城と同時にもうひとつ、かつて親しんだ土地である福島を通過しながら、胸に痛みをおぼえた。いつかきっと錦を飾るからね・・・・そんな若気をふるって、ふるさとのように慕い、励まされてきた日を昨日のように思い出すが、ずっと以前に縁が切れて、もう十年以上も訪れていない。志を果たして、いつの日にか帰らん・・・・なつかしい人々の顔が浮かぶ。今は勇気をもってしても祈ることしかできない。たしかに、そうやって、遠くから見守るしかない大切なものもある。

 ただ祈るように誰かを、なにかを思う時、わたしもたぶん、誰かにそうして祈られてきたにちがいないと感じるのだ。だから、ここまでいろんなことも乗り越えて、生きてくることができた。見える、見えないに関わらず、縁ある人たちがかけてくれたやさしい心が、わたしをずっと助け続けてくれたのだと信じているし、そうでなければ、これまで受けることができた恵みの数々は、わたし自身の能力や徳にはとても見合わなかった。わたしのために祈ってくれた人があったからこそ、時に思いがけないような救いに与ることもできたにちがいなく、だからわたしも、人のために祈りたいと思う。犠牲にあわれたすべての人のために、復興に尽力する人たちのために、祈りたいと思うのである。

 かつてわたしは東北で、志をもって生きることを、大自然の声を聴くことを、教わった。それは今もわたしの躰の骨となっているような大事な教えである。そして、今はこの震災という大きな災害をもって、東北はわたしたちに、あらたにいろんなことを教えてくれている。「みちのく」とは、道の奥を意味すると言う。人としての生き方の奥義に触れる道は、今わたしたちのために、大きく開かれているのではないだろうか。

May 7, 2011

ほつま




ほつまつたえ(秀真伝)について、はじめて聞いたのは1996年だった。
わたしたちはパラダイムシフトの真っ只中にいて、
インターネットが、生活空間や人々とのつながりなど、
個人の世界を形作っていた壁に大きな窓を開け、
外へ外へと、多様な世界を広げて行くのと同時に、
それまでの狭い既成概念は取りはらわれ、
手さぐりではあるけれども、世界の真価とはその内面にこそあると、
そう直感する時代でもあった。
本物を探すため、物質を追いかけるのをやめ、精神の世界を求め始めた。
このままでは時代は行き詰まる・・・そんな風に、本能的に感じとる中で、

「しわかみの こころほつまとなるときは はなさくみよの はるやきぬらん」
(心が本当のまこととなる時花々の咲きこぼれる世界の春が来るだろう)

と、心のまことを求め、
五七調の歌で連綿と、神代から人の時代までを書き綴る「ほつまつたえ」は、
道理に満ちた、やさしい言葉で、どこまでも響くような澄んだ音色をもって
真実を明かしているように聞こえた。
これがいつ、誰によって書かれたかを問う議論には関係なく、「ほつま」という言葉は、
わたしたちのidealを言い表している言葉にちがいないと、
ただ美しいものに心をつかまれた時のように、共感したのである。

その「ほつま」の名がつけられたバラの株をわけていただいた。
清冽で、上品な、美しいかおりは、やはり理屈なく心をつかんで、
いつまでもそばで嗅いでいたい気持ちになる。
古いカメラのせいか、写真を撮ろうとして、何度も失敗した。
花が白く光ってしまって映らない。
露出をさげてどうにかおさまった写真は、
どこか幻想的で、それもいかにも「ほつま」らしいと思った。

そして1996年、わたしに「ほつま」という言葉を教えてくれたこの歌を聴きながら、
あらためて思った。
ここまでずっと、理想を信じて歩いてくることができた。
今さら、ぜったいに負けたくないと。
誰と争うわけでもなく、誰に勝とうというわけでもない。
時に理想が不可能なもののように遠のいて、
くじけそうになる、自分の心にである。

わたしたちは、ひとつ

♪ Love Notes  "All as One"