August 20, 2011

はじまりの日

  8月15日は、わたしにとってたいせつな日だ。
それはもちろんわたしだけではなく、日本にとって、また世界にとって、終戦記念日というたいせつな日であることにまちがいない。
 ただ、戦争からだいぶ時が流れて、戦争を体験していない世代が、家族三世代をつくる世の中になって、「終戦」という実感は、自分とはちょっと無関係な距離で、頭で理解するようには、心も生活も動かせない、そんな人が多いかもしれないということも、よくわかる。わたしだってそうだった。二十代の半ばを過ぎるまで、8月15日の意味の重大さは知っていても、なにか暗いかたまりのようなものを前に、すこし近寄りたくない気持ちを感じるような、あるいは、厳粛な決まりごとが済むのを、怒られないくらいにおとなしくして待つような、そんな日だった。

  このような押しつけられ気味の記念日が、一年の中で一番と言えるくらいにたいせつな日と変わるには、やはりそれなりの経験がいる。価値観だけでなく、人生も変わるほどの、ふたつの大きな経験が、わたしの中に、8月15日を深く刻印することになった。
 ひとつ目は、ダライラマ14世との出会いである。
 世界が二つ見える。だからもう人工呼吸器をはずしていい・・・・そう言って亡くなった祖父の、その最期の言葉を理解したくて、死後の世界とはどんなものなのかを知りたくて、チベット仏教を学ぼうとした。チベット死者の書について、ダライラマ14世の教師だった高僧から直接講義を受けることができると言うツアーを見つけ、インドのダラムサラまで赴いた。出発前、ダライラマ法王は転生を繰り返し、チベットの人々を導いている生き仏と信じられているということ以上、なにも知らなかったわたしに、当時同じ職場にいた人が、ぜひ勉強してから行くほうがいいと言って、ダライラマに関する書籍やビデオを山積みにして貸してくれた。

 今でも鮮明におぼえている。家に持ち帰り、全部に目を通せるかしら・・・・と資料の量にすこし圧倒されながら、本よりもまず、気楽にビデオでも見ようと思ったわたしだったが、ダライラマ14世の姿が画面に現れた時、知らないうちに、正座をしてモニターに向かって手を合わせている自分に気が付いて、唖然とした。なにが自分に起こったのか、理解ができなかった。わたしには反射的に起きるような、宗教的習慣はなにもなかったし、正座も、手を合わすことも、あまりに非日常的すぎた。わたしは本当に驚いて、その異常なできごとの原因を探すように、借りた本を読み漁った。
 そこで、わたしはこれまで知らないで過ごしてきた、チベットの悲しい歴史を知ることになる。中国の侵略、無抵抗の人々への惨殺行為、そしてそれにあくまでも非暴力で対峙し、平和を訴えるダライラマの姿を見た。
 このような理不尽な出来事が起きてもいいのか。震えるほどの怒りとともに、このような凄惨なできごとを、非暴力で受け止め、非暴力で対抗する強さに、この世のものとは思えないほどの気高さを感じ、あの時、ダライラマ14世に向かい、無意識に手を合わせていた自分の感応の理由を知った思いがした。

 実際会ってみると、チベットの人々は、悲しい、不幸せな人たちではなかった。ダラムサラで、ダライラマ14世に謁見した時、わたしは、まさに光を目の前にしている気持ちがした。後光などというものは、絵でしか見たことがなかったが、このことを言うのだろうと思った。そしてダライラマだけではなく、チベット人の美しい笑顔に、わたしは心から感動した。その笑顔の前に、なにがほしいとか、なにになりたいとか、それまでの自分の思いは、すべてつまらないものに思えた。こういう笑顔ができる人間になりたい。それを人生の目標にしよう、そう決めた。

 それから、わたしにとって、非暴力による平和の実現、そして祈りというテーマが、考えごとの中心を占めるようになった。しかし、かと言って、日本での日々の生活は、あいかわらず平和活動とは縁遠い経済活動のさなかにあったが、ほどなくして、二つ目のめぐりあわせがやってくる。
 比叡山延暦寺で、終戦記念日に、鎮魂のコンサートをしたい。日本、中国、韓国の、三カ国の演奏家を集め、復元した天平の古楽器によるオーケストラを編成し、演奏したい。企画を手伝ってもらえないだろうか?・・・・そんな話が、とつぜん舞い込んできたのである。1200年消えることなく灯され続けた不滅の法灯の前で、太平洋戦争の犠牲者の鎮魂と、永劫の平和を祈るコンサートを行うという、すばらしい話であった。それはまるで、わたしの無言の願いが聞き届けられたかのようであり、与えられた使命のようにすら思えた。

 このコンサートの話について書きだすと、長くなってしまうので、詳しくは別の機会に譲って大きく省くが、若く未熟な身空で、このような大仕事を授けられただけでも、8月15日という日が消しても消えないほどの濃さと、深さで、人生に刻まれるのも当然なことだろう。そして戦争の放棄について、また日本が世界唯一の核兵器による被爆国であることについて、その意味を本気で考えるようになったのも、この8月15日をはじめにしてであった。

  8月15日、それはわたしたち日本人が、戦争をやめた日。その日、カウンターはリセットされ、ゼロになって、それから66年、わたしたちは戦争をしなかった年数を刻んでいる。じっさい戦争をしない年数が66年も続くなんて、それは快挙でもある。
 こうして、わたしたちは毎年記録を更新している・・・・そう思うと、大げさだが、自分の生そのものがすこし誇らしくなる。この記録を伸ばすこと、それがわたしたちの未来であり、広げること、それがわたしたちの行き先であり、わたしたちのふつうの暮らしが、自然にそれを実現して行く。
もちろん、世界各地で今も戦争が起こっているのに、自分たちだけは戦争をしていない、こんなに長いこと武器を持ったことがない、と誇るわけではない。戦争をしない、それはそれで、思慮も、努力も必要とする戦いだと思うし、わたしたちは暴力の使い方でなく、ほかの人も武器を棄てられる方法を見つけるため、時間も労力も能力も費やせるはずだが、はたして実際にそれが行いとなっているのか、という自問自答には、恥じ入る気持ちも、また悔いる気持ちも起こる。

 しかし、8月15日、戦争で亡くなった人々、そして生き残った人々、みながひとつのことを命をふりしぼるようにしてわたしたちに伝えてくれる言葉は単純だ。
「戦争だけはいけない。戦争はしてはいけない」
 言い残すことは、守る掟はこれだけでよい、というように、この言葉だけを言う。なにが間違っていたとか、こうであるべきだったとかも言わない。ただ、戦争だけはいけない、という。
なにが正しいか、どうすべきか、多くの識者が、そして力ある人たちが、口々にわたしたちに示してくれるが、それらたくさんの声の中で、この風だけは、たしかな、変わらない真実を伝えているように聞こえるのは、きっとわたしだけではないだろう。主義でもない、知恵でもない、ただ、おじいさんやおばあさんが、自分たちにのこしてくれる遺言をたいせつに守りたい。そんな思いのほうが、まことの平和に近いように思うのも、きっとわたしだけではないだろう。

 今年の8月15日は、はじめて「被昇天のマリア」のミサに与った。カトリックでは、天に上げられる聖マリアを特別に記念する日を設け、ミサを捧げるが、その祭日は8月15日と定められている。
世界の平和、また東日本大震災の慰霊と、復興への力添えを願う真摯な祈りが捧げられた。わたしもともに祈りを捧げながら、戦争をしてはいけない、それは聖母マリアの遺言でもあるのだと、あらためて心に覚えた。この日、平和の祈りを捧げているのは、日本ばかりではなかった。平和の后、聖母マリアに心を合わせ、世界中のカトリック教会でも、祈りが捧げられているのを感じ、涙があふれた。

 8月15日、こうしてたくさんの人々によって祈られる、平和の祈りが、天に聞こえないなんてありえないだろう。わたしたちはまた新たに平和を誓い、歩きはじめる。その姿が天に見えないなんて、やはりありえないだろう。

August 9, 2011

道の奥

 6年ぶりに東北を訪れた。
震災後、メールや電話で話をして、安心していたことではあるけれど、ふるさとのように慕った土地でもある鳴子や、そこで現代湯治の若手リーダーとして活躍しながら老舗旅館を営む、大沼伸治さんやご家族の元気な様子を自分の目で確かめて、まずはただ心から喜んだ。

 ちょうど、宮城の稲わらから高濃度の放射性物質が検出されたというニュースがさかんに流れて、これまであまり神経をとがらせることなく、むしろ東北のものを選ぶように日常の買い物をしていた母までも、わたしの宮城行きにすこし陰ったことを言うようにもなっていた。わたし自身は、こうして東北の地に縁があるけれど、そういう思い入れがあるわけではない母も、またほかの人も、震災から時間が経ち、だんだん自分の生活に手いっぱいとなってくると、放射能への恐怖が、防衛本能をかきたて、それが東北との壁になりはじめているように見えた。

 しかしそれは、友人を応援に行く、いっしょに生きるのだと、意気込んで出かけたわたしの心にさえも、じつはしっかりと忍んでいた恐怖で、実際、わたしは部屋に用意してくれていた水を飲むとき、コップを口まで運んだところで、急に躊躇を感じ、飲んでも大丈夫だろうか・・・・と思って、そんな自分に驚いてしまった。まさかそのような気持ちが潜んでいたとは、自分の心ながら、まったく気がつかなかったのである。
 なんてこと・・・・わたしは喉元にうすく残る抵抗のようなものを押し流す風に、大きく水を飲みこんだ。冷えた、おいしい水だった。そして、ひさしぶりに温泉の恵みに与って、新陳代謝が促進された体は、まるで細胞中の水分すべてを入れ替えようとするように、始終トイレへ行きたがり、またそのたびに水を欲して、わたしは一晩で、ジャーの中の1リットルほどの水を全部飲み干した。
 
 被害が少なく、被災地からは近いこの温泉郷には、女川や南三陸町などの被災者の方々が、旅館などを二次避難所として滞在していた。また、東京その他の地域からは、復興のためのボランティアや視察を希望する人々が集まり、町は交差点のような一種の活気を呈していた。そんな中、わたしの訪問の目的は、いささか個人的すぎるように感じたが、友人家族との再会をよろこび、リラックスした会話を楽しみ、地震と表裏一体のような地殻活動の恵みである温泉にいやされながら、それとは別に、こうして誰かのためになにかをしたい、と与えるばかりの人の心が集まった場所に自然と満ちる、さわやかさなエネルギーをたしかに感じて安らいだ。人は本来、こんな気持ちのする場所で生きていけるはずなのだろう。

 鳴子で避難生活を送る方たちのための読書会に参加させてもらい、わたしはその気持ちをさらに強くした。テレビ出演も多く、人気者のロバート・キャンベル教授がその読書会のホストだったが、前日の夜に現地入りし、朝から三部、読書会や講演を行った後、夕方遅くに東京へ帰ってゆくまで、すべて手ずからで、熱心に、そして誰のこともたいせつにする姿は尊く、周囲の人を自然に幸せにする力があった。

この読書会の中で、教授が子どもにこんな質問をしたところがあった。
「今、勇気って言葉がでてきたけれど、勇気ってどういうものだと思う?なんでもいいんだけど・・・誰かが何かをするのを見て、あ、勇気あるなあ、って思ったりしたことない?」
そうして、名前を呼ばれた男の子が、ちょっと考えたあと、意外なことを答えた。
「ここ(避難所となっている旅館)で、時々、お客さんに道を聞かれることがあるんですけど、お風呂はどこですか・・・とか。そういう時に、それはこっちですよ・・・・って、口で言うだけじゃなくて、そこまで連れて行って教えてあげる人を見た時、勇気があるなあって思いました」

 少年にとって、それはとても最近のできごとだったのかもしれない。わたしは目の前がぱっと晴れたような気持がした。その通りだ。やさしさを行うには、すこし勇気がいるのである。はずかしさだとか、面倒臭さとか、怖さ、あるいはまわりの声だとか、そんなものを払ってくれる勇んだ心が必要なのである。おとなになると、道案内をするかしないかが勇気に関わるなんて、思いもよらない。勇気というのはもっと大きい事がらに使うものだと思っている。しかし、あの恐ろしい津波に遭い、家や大事なものを流されてしまうという途方もない経験をした少年が、敬意をこめて、言うのである。困っている人に差し出す手こそ、勇気であると。

 一方、行きと帰りの新幹線の中で、わたしは宮城と同時にもうひとつ、かつて親しんだ土地である福島を通過しながら、胸に痛みをおぼえた。いつかきっと錦を飾るからね・・・・そんな若気をふるって、ふるさとのように慕い、励まされてきた日を昨日のように思い出すが、ずっと以前に縁が切れて、もう十年以上も訪れていない。志を果たして、いつの日にか帰らん・・・・なつかしい人々の顔が浮かぶ。今は勇気をもってしても祈ることしかできない。たしかに、そうやって、遠くから見守るしかない大切なものもある。

 ただ祈るように誰かを、なにかを思う時、わたしもたぶん、誰かにそうして祈られてきたにちがいないと感じるのだ。だから、ここまでいろんなことも乗り越えて、生きてくることができた。見える、見えないに関わらず、縁ある人たちがかけてくれたやさしい心が、わたしをずっと助け続けてくれたのだと信じているし、そうでなければ、これまで受けることができた恵みの数々は、わたし自身の能力や徳にはとても見合わなかった。わたしのために祈ってくれた人があったからこそ、時に思いがけないような救いに与ることもできたにちがいなく、だからわたしも、人のために祈りたいと思う。犠牲にあわれたすべての人のために、復興に尽力する人たちのために、祈りたいと思うのである。

 かつてわたしは東北で、志をもって生きることを、大自然の声を聴くことを、教わった。それは今もわたしの躰の骨となっているような大事な教えである。そして、今はこの震災という大きな災害をもって、東北はわたしたちに、あらたにいろんなことを教えてくれている。「みちのく」とは、道の奥を意味すると言う。人としての生き方の奥義に触れる道は、今わたしたちのために、大きく開かれているのではないだろうか。