October 16, 2011

電車の中で

昨日、座れることをいいことに各駅停車を選んで乗って、本を読んでいると、ふっと集中力が文字から離れた瞬間に、隣に座っている若い女の子の声が耳に入り、ん?と、気持ちを引き込まれた。
「・・・・会える時に会ったほうがいいよ。会っておいでよ。・・・・わたし、おばあちゃんのことが大好きだったんだけど、亡くなるなんてぜんぜん考えてもみなくて・・・・・修学旅行に行ってる時だったんだけどね・・・・・。あ、それはわたしの場合で、同じように亡くなるって言ってるわけじゃないよ。そうじゃないけど・・・・」
諭している相手は、前に立っている若い男の子なのだが、おそらく二人は大学生の恋人同士なのだろう。
「きっとすごく喜ばれると思うし、自分にとってもよかったと思えるはずだから。ね、年末年始は、帰ってあげなよ・・・・わたしとはいつでも会えるけど、おばあちゃんは、そうじゃないんだから。会える機会は、たいせつにした方がいい」
男の子はだまっている。
「年末年始、わたしだったら大丈夫だよ。友達に声をかけるとか、もし淋しかったら、秋田に帰ればいいんだもの。ね、そうしなよ。会っておいでよ」
彼女の必死の説得に、とうとう彼もうなずいたのだろうか。
声は聞こえなかったが、無言にもう一度「ね」と言って、微笑み合うような、あるいは苦笑いだったかそんな間があって、二人は別の話題に移って行った。文学部の教授がどうしたこうしたという、他愛もない話になった。
手元の本に目を落とし、耳だけを二人の会話にそば立てていたわたしは、その姿勢のまま、思わず目頭が熱くなった。優しいやりとりである。そういえば、さっき隣の席が空いたとき、わたしの前に立っていた彼女はすぐに座ろうとはしないで、彼が、
「座って行ったほうがいいんじゃない?」
といたわるように促し、それに従うようにようやく座ったのを思い出した。その時、あら?と感じて、どこか体の調子でも悪いのかしらと思ったりしたのだったが、どうやらそういうわけではなかったようだ。この二人らしいやりとりだったのだろう。
 爽やかな恋人たちが三軒茶屋で下車して、わたしは再び本をめくり始めた。ご縁のあるプロテスタントの教会の副牧師さんが送ってくれた本だった。その副牧師さんは女性で、本は彼女の愛読書であり、カトリックのシスター渡辺和子によって書かれた『愛をこめて生きる』である。わたしたちの幸福は、日々の生活をどれだけ愛をこめて生きられるかによる・・・・・まるでその真理が本から飛び出して、姿を見せてくれたような、そんな小さな、宝石のようなできごとだった。

October 2, 2011

漢方薬

  三年ほど、仕事をいっしょにしてくれた人が面白いことを言った。週に三日、働きにきてくれている人だったが、たまたま祭日などの連休がつながって、しばらく出勤日が回ってこなかったのかもしれない。十日か、あるいは二週間近く会わずに過ごして、しばらくぶりに顔を合わすと、
「ああ、よかった。お会いしたかったです。そろそろ漢方薬がほしくなってきて・・・・」
と言うのである。漢方薬とは、わたしのことである。
  あんまり上手なたとえで、一本とられた、と大笑いした。人の役に立つものにたとえてくれる気配りもさすがだが、変わった味で、即効性がない、そういうものに似ているというのは、なんとも的を得た表現だと思った。

  週に三日といっても、一日中すぐ隣にいて、仕事を助けてくれている人だから、わたしの癖も欠陥も、なにもかもお見通しに、掴んでいる人である。人を助けるのが自分の仕事とわきまえ、どうやったら相手が助かるかをいつも一心に考えるその人は、優しい目で、わたしの至らないところを見極め、楽になるように工夫をこらしてくれる。寸暇を惜しんで手を動かし、体を動かし、誠を尽くして働く姿は健気で、わたしは何度となく感心しては、さぞかしご主人はかわいいと思っていらっしゃることでしょうね、と同じ感想を繰り返し口にしたものだったが、もしわたしが男性だったら、こんな奥さんはかわいくてしかたないと思うような人なのである。

  そんな人に、漢方薬と慕われるとは、逆にわたしはどんなかわいげの少ない女だろうと可笑しくなる。だいたい漢方薬というのは、熱すぎない白湯でといたり、細かく決められた時間に飲まなくてはいけなかったり、美味しくないのにポンと口に放り込んで飲み込んでしまうこともできないような、面倒なもので、その上長く飲まなければ効果も出ないような、気長を要する薬である。もしそんな奥さんだったら、ご主人さまが甘い味の方へ、多少の副作用があろうが、面倒がなく楽しい方へ、自然とひかれて行くことがあったとしても仕方がなさそうだ。
  とは言え、ふだんから体質と気質の改善が健康の基本と考え、自然療法を第一に考えるわたしにとって、漢方薬と言ってもらえるのは本当に光栄のかぎりだったし、またそうやって、考えは人になるというのが自然というものか、と妙に感心もするが、じつを言ったら、そう言ってくれるその人こそ、わたしにとっては漢方薬のようにじんわりと、良い労働とはどういうものか、また良い妻とはどういうものかを、染み入るように教えてくれたとも思うのである。

  考えてもみれば、身近に過ごす人というのは、みな互いに漢方薬のように働き合っているものなのかもしれない。それぞれの体質、気質、またその時の問題に見合った薬を、自然界から調合し処方された、そんな人々に、わたしたちは囲まれて過ごしているのかもしれない。
  気が不足しているとか、血が滞っているとか、また水が余分に溜まっているとか、そういう心身の傾きを修正して、病状を原因から治そうとするのが漢方の考え方だが、おなじように自分の傾きを知って、生活習慣を変えるように促されたり、温めてもらったり、冷静にしてもらったり、停滞しているものを流してもらったり、あるいは気力をもらったり・・・・・周囲の人とはそういうものにちがいない。もちろん対処療法的に、その場その場を助け合いもするけれど、そういう特別なものよりも、日常すぎてわからなくなってしまっているようなささやかな作用の積み重ねの方が、じつは肝心な働きをしてくれているもの。日々わたしたちを生かしてくれているのは、そんな力だ。感謝し、心を開いてそれらをいただいた時、それぞれの命に備わっている自然治癒力は、不可能がないような力を発揮する。人生の軌道修正というのも、きっとそういうものだろう。

  妙なる言葉で、わたしを励ましてくれたその人は、このたび遠方に移り、家族で新しい生活に挑戦することになって、わたしたちの人生は分かれ道を行くことになった。単身赴任だったご主人に、かわいい奥さまをお返しする旬でもある。
  いつでも、わたしたちは自分に必要な恵みを与えられて生きている。そのもっともなるのは、人である。それを、はなむけの言葉に、これから行く道の彼女の幸運を、心から祈りたい。