April 15, 2012

Ave Maria

 今わたしの手元に、聖母マリアに関する二冊の本がある。大分の修道院で出版された「天の母の警告」と「コンチータの出現日記」で、それぞれ再版を重ねた1985年頃のものだが、この二冊がわたしの手元にくることになったのは、それから12年ほど後のことで、うつ症状の治療のため入院した病院で、二人部屋の同室になった60代中ごろの女性から、
「これは、あなたに」
と、とつぜん手渡されたのだった。

 当時わたしはうつの回復途中で、一年以上の休養を経て会社へ復帰させてもらってはいたが、リハビリの場を借りる以上に、なんら貢献できるような働きもできなければ、うつ症状もなかなか良くならず、薬の治療に限界を感じたわたしは、思いきって電気ショック療法を受けようと考え、入院していた。
二冊の本を渡されたのは、まだ入院したばかりで、治療も始まっていない検査期間中のことだったが、その翌日、検査から部屋へ戻ってくると、同室者の荷物がすべてきれいになくなっていて、驚いた。食堂にいた他の患者さんをつかまえ、尋ねてみると、急に具合が悪くなり、急性期や重症者のための病棟へ移されたのだと言う。なにか、幻に追いかけられているようだった、と言った。朝まで同室で過ごしながら、なんら変化に気がつかなかったから、本当にとつぜんの異変だったに違いない。
 そうして二冊の本だけが、手元に残ってしまったのだったが、このような事態となって、にわかにそれらは非常な存在感を訴えだし、わたしは緊張しながら本をめくりだした。中には、彼女自身の筆によるものかわからなかったが、無数のアンダーラインが引かれ、余白には疑問や気づきなどの多数の書き込みがあって、いく度も読み込まれたたいせつな本であることがよくわかった。「あなたに」とわたしを見つめた静かな目と、落ち着いた声とが、なにか意味があることのように、なんども脳裏に蘇った。

 二冊の本は、世界各地でみられる聖母マリアの出現と、それらを通してわたしたち人類へ伝えるメッセージについて著わしたものであった。プロテスタントとは少なからず縁があったものの、カトリックにはほとんど触れたことがなかったわたしにとって、イエス・キリストの母マリアが、このように篤い信仰の対象となっていること、またその霊が大きく働くようすは、まず新鮮な驚きだった。
 特に「天の母の警告」の続編とされている「コンチータの出現日記」は、スペインのガラバンダルで1961年にはじまった聖母マリアの出現に関する、とても生き生きとした記録で、日記の筆者であるコンチータはわたしより15歳ほど年長だったが、同じ現代を生きる者であり、この話が遠い時代の史実のようなものではないことに、鮮烈な衝撃と感動を覚えた。そしてコンチータが直面することになった、彼女の話を信じない人々からの蔑視、受け取ったメッセージをどのように人々に届ければよいのか手段がわからないことへの焦り、それらの辛苦にどこか自分自身を重ね合わせているうち、わたしは声なき声を聴いたのであった。もうすぐ、聖母が現れると。

 病院を通し、本を返したほうがよいだろうかと何度も迷ったが、「あなたに」という言葉の響きを信じ、この二冊の本を持ったまま、わたしは退院した。電気ショック療法の効果については、本人にはまったく無自覚なままだったが、ほどなく仕事も、パンフレットの制作や、印刷物の進行など、慣れた仕事なら苦を感じなくなって、次第に忙しく働く毎日へと変わって行った。二冊の本のことや、聖母マリアが現れることについては、完全に保留の形であった。いつも心のどこかで気にはなっていたが、相談できる当てもなく、みだりに口にすれば、病気が悪化しているのではないかと訝しがられるだけだったし、そうでなくても、本がどこで誰に渡されたものかを話したら、その時点で真剣に取り合ってもらえる見込みはなくなると感じられた。また逆に、興味本位に取り沙汰され、あらぬ方向へ流されて行ってしまうのも避けたかった。こうして、胸にしまい込むようにしてきた二冊の本が、手元に来るべくして届いた本だったことがわかるのは、それから10年も後のことであった。

 ……10年後、わたしは、日本で長い間奉献されたイタリア人神父の、叙階50周年にあたって作られることになった記念誌の制作を手伝っていた。カトリックにはまったくと言ってよいほど縁のなかったわたしだったが、仕事を辞めて家庭に専念した後、離婚をすることになり、その際当座の収入をと思って、新聞の折り込みチラシで見つけたアルバイト先がカトリックの幼稚園で、はじめは通園時の交通安全のため、道や駐車場に立って人や車を誘導する仕事をしていたが、数か月後、事務室での仕事に呼ばれ、内勤に変わった。ちょうど事務室の先生が定年を控えていて、後任を探していたのである。手伝っていた記念誌というのは、その先生が長く仕えたイタリア人司祭のものだったのだが、50年の司祭活動がつづられた原稿へ目を通していると、そこでわたしは意外な名前に出会うことになった。ともに出版事業へ献身していたという、デルコル神父。忘れもしない。それは、あの二冊の本の著者と同じ名前であった。
 わたしは家の本棚から急いで本を取り出し、確かめた。まちがいなかった。同人物だった。そしてあらためて読んでみれば、今やわたしにとって誰よりもなじみ深い聖人の名が、何遍となく繰り返し書かれていることに気がついた。幼稚園の随所にも写真が飾られている、修道会の創立者聖ヨハネ・ボスコである。聖母への強い愛と信仰が際立つ、そして聖母からの特別な助けによってさまざまな困難を乗り越えながら、青少年の教育にすべてを捧げてきた聖人であり、デルコル神父とは、そのカリスマと福音活動に連なる司祭なのであった。
 わたしはその場にひれ伏すような思いで、畏れで胸がいっぱいとなった。10年前に、すでに今へ至る道は敷かれていたのだと知り、神の手のひらの上で右往左往し、おごり昂ぶり、あるいは怠惰にかまけていた自分を見つけておののいた。
 しかし同時に、わたしは救われてもいた。病も、その治療も、すべてがなければこの本が手元へ来ることはなく、それは意味なく起こることはひとつもないと教え、また病の中で受け取らせることも、むやみに人へ話すのを憚らせることも、まるで何もかもが計らいであったかのように、時を待ち、真実は自ら狂いのないピースを埋めて、とうとう思いもかけなかった美しい絵を現わしてくれたようでもあった。その美しさは、それまでの忍耐を慰め、報いて、十分にあまりあるものだった。

 記念誌が完成すると、恐縮にも、イタリアからお礼が届いた。聖母マリアが彫られたメダルで、それは「不思議のメダイ」と呼ばれるものだった。1830年、フランスの修道女カタリナ・ラブレの前に出現した聖母マリアが、作って身に着けるように指示をしたメダイで、それは病気や、貧しさに苦しむ人々へ次々と恵みをもたらし、ヨーロッパ中へ広まって行ったものだった。再び聖母出現の話なのか、と驚き、ルルドで聖母の出現を受けたベルナデッタと同じように、カタリナもまた、遺体は腐敗を免れ、今も眠るような姿でパリの教会に安置されていることを知って、わたしはあらためて自分に示されているものが大きすぎ、視界に入りきらないように感じてとまどった。死んでも朽ちない肉体……それが信じられないというのではない。むしろその逆だった。じつはあの二冊の本を手渡された翌年、まったく別の人物から、今度は日本で遺体が腐らないまま眠っているという神父のご絵を手渡されていたのである。そしてそのご絵に描かれているチマッティ神父とは、奇しくも、二冊の本を出版した神父が秘書をつとめた人であり、さらに不思議のメダイを贈ってくれた神父の指導者だった人であり、3歳のころ母親に連れられて聖ヨハネ・ボスコに出会い、生涯この聖人を模範にして神に仕え、日本に尽くした宣教師なのであった。
 わたしは自分が良い人だったらどんなによかっただろうと思った。わたしのような者にまで示されるこのような愛と神秘。それはわたしの口から語ったら汚して、人の心を神から離してしまうのではないかと怖れられた。しかし、やはり同時に、これ以上の幸せがこの世にあるだろうかと思った。願いはもう、ひとつだけであった。神のみこころにかなう人間になれますように。それしか、もう湧く言葉はなかった。

こうして聖母は、コンチータの時のように幻視の形ではなく、聖母マリアに信仰と愛を捧げている人々を使い、愛という働きとして、わたしの前に姿を現した。死んだ者が復活し、この世のために尽くしていることも、もはや疑いようがなかった。またそんな聖母マリアに捧げられた人々の信仰と生き方が、現れたものを本物であると確信させ、そしてわたし自身を変えて行くのを覚えた。
謙虚、感謝、柔和、憐み、慈しみ、許すこと、信じること、喜ぶこと、愛すること……これらを実行することが困難な人の世の中で、聖母マリアに捧げるため、行い続けることを決し、努力する人々がいた。わたしは思った。考えてもみたら自分は、そのような努力を真剣にしたこともないくせに、最大限行っているつもりでいたのではないか。それどころではない。相手に謙虚さを求め、感謝され、柔和に受け止められ、憐れまれ、慈しまれ、許され、信頼され、喜ばれ、愛されることを求めてばかりいたのではなかったか。そしていつも、いつも、それらを得られないと感じては、苦しんできたのではなかったか。得がたいのは当然だった。わたしがそれらを常に行おうとしたら、どんなに困難を伴うことだろう。努力しても、きっと無数に失敗するだろう。それでもくじけず、腐らず、続けて行くことは、さらに難しい。そんな自分ができないような努力を、相手にばかりしてくださいと求めても、けっして失敗しないでくださいと願っても、そんなのは、もともと無理な話であった。
今さらかもしれないが、わたしも努力してみようと思った。友人が言ってくれたことがある。今が、一番若いのだと。それなら、今より遅いものもないだろう。失敗をおそれる必要もなかった。あんなに悪いわたしのことも、神はゆるし、辛抱強く導き、生かし続けてくれたのである。良くなろうとする間の失敗など、きっと笑ってゆるし、助けてくれるにちがいなかった。

 それから5年後、長く患ってきた病は、いつのまにか治癒した。生涯治ることはないと言われてきた躁うつ病だった。主治医は、まれに治ることもある、とほほ笑んだ。
 あきらめないでよかった。生き続けて、よかった。躁の間にしたことへの自己嫌悪やうつ特有の症状として起こる自殺願望に、これまで何度襲われてきたことだろう。その数は両手では数えきれず、費やした年数も同じだった。迷惑や苦労をかけた人の数も、やはり両手ではとてもまかないきれない。

生き恥を かいてもかいても尽き果てぬ 
             いのちの在りか 打ちて確かめる

あの二冊の本をもらった頃に書いた歌である。わたしがひとり胸を叩いていた音も、神は聴いてくれていたのだろう。
神の愛は、陽の光のようにあまねく注がれ、届けられる。誰ひとりのことも、忘れることはない。見失うことも、聞き漏らすこともない。そのことを教えるために天の母は現れ、わたしたちがその光を十分に受けられるように働き続けている。わたしは今、それを証言するために生きているという気もちがしている。