June 9, 2012

光景


 マンションが次々に建ったため、いつの間にか朝の景色ががらりと変わった。それは建物だけでなく、町を構成する人の層が変わったためだったが、緑色の土地が減って、堅牢なコンクリートの箱が幅も高さも無駄なくそれらを埋めて行ったにも関わらず、なぜか自然を奪われたとは感じさせないような有機的なあたたかさがあるのも、それが手入れをしないで放置されていたかつての緑の空き地よりも、むしろやさしく感じられるようであるのも、おそらくいのちの存在が豊かになったせいなのだろうと、人もやはり自然にちがいなかったのだと、そんな風に思い当たった。人の層が変わったというのは、このあたりの、都心に近い郊外の新築マンションは若い世帯の都合に非常に合った物件で、ひとつマンションが建つたび、子どもの数がまるで百単位というように増えて行ったのだ。わたしの通勤時間が、小学生の通学時間とぴったり重なっていたことをあらためて教えられるように、ランドセルを背負った子どもたちが毎朝あふれるようになった。

 道も町も我が物顔に安心しきって、道端や信号で友だちと待ち合わせ、遊びの話を交わしながら学校へ向かう子どもたちを眺めていると、自分は本当に幸福なのだと思い知る。彼らは、わたしたちが平和で安全な世界に生きていることを教えてくれているようなものだ。出勤する両親の真ん中にはさまり、両手をつないで歩くランドセルの女の子。先にバス停で別れたお母さんに、何度も何度も振り返っては手を振って、「がんばってね!」と通りの向こう側から声をかけられると、「お母さんもがんばってね!」と大きな声でさけぶ。わたしは、戦争や犯罪に怯える人々の姿ではなく、こんな平和な光景を目に映すことがかなっている。それは、どんなに幸運なことだろう。
 別の場所では、高く上を見上げて手を振る子どもがいて、視線の先を追うと、お母さんがベランダから手を振っている。こんな光景をあちこちで見る。そして前方からは、スーツ姿に、赤ちゃんをだっこして保育園へ向かうお父さん。横断歩道で、「じゃあ、気をつけてね」と子どもに手を振り、道を別れて駅へ向かうお父さんがいる。
 今の季節であれば、どこまでも響く公園のうぐいすの声を聴きながら、そんな輝く景色を次々と楽しんでわたしは通勤路を歩く。これで、今日一日がんばれるだけの力を十分蓄えられた気がする。この朝の幸福な気持ちによって、どんな苦労も忘れられるような気がするのだ。逆に言ったら、わたしたちはこんな風に、見ず知らずの通りすがりの人を力づけることも、幸せにすることもできるということなのだろう。直接手を差し伸べて助けるばかりではない。人のやさしい輝きには、こんな大きな力がある。

 輝くため、人はなにか特別なことをする必要はない。あるとすれば、輝きをなくすからやめるのがよいことの方だろう。気持ちを暗くすること、人を傷つけること、怠けること・・・・これらは人の光を弱めたり、覆ってしまったりする。しかしこれらをやめるだけで、わたしたちはいのち本来の光を輝かせることができる。それは本当に美しい光だ。
 光景とは、光の景色と書く。そう。日々、光に満ちた美しい景色の中を生きたいと思うし、わたしもまた、そんな景色の一部になりたいと思う。