July 14, 2012

幸福

  今月、祖父の二十三回忌を行った。
石屋さんの紹介でご回向を引き受けてくれたご住職が、法要をはじめるに際し、わたしたち家族へふたつのことを要望した。
 ひとつは、十七回忌からしばらく年月も経っているので、その間にあったことをなんでも良いから一つずつ、香を手向ける際に墓前で報告してほしいということ。そしてもうひとつは、ご回向の最後に、東日本大震災で亡くなられた方々の供養と、そして一日も早い復興の祈願を共にさせてほしいということ。これらふたつの注文を聞いて、なんと良いご住職に当たったものだろうと心から喜んだ。仏教は、先祖の供養をする者の功徳を讃えてくれるが、こうして良い導師とその読経に恵まれること自体、すでに何よりの褒美であった。
 さて報告を一つと言ったら、何を選んだらよいか・・・・わたしは思いをめぐらしたが、変わらず見守り続けてくれていただろう祖父には、今さら知らないことは何もないだろうと思う。それでも、供養を台無しにしてはいけないと、いつも見守ってくれていること、そして助けてくれているにちがいないことへの感謝をこめ、一番印象的なことを話そうと考えながら促されるまま墓の前へ座った。
「・・・・たいへん幸せにしていただきました」
つと、言葉が出た。
 そうだ。それで、いい。まちがいなく、それが6年のうちの一番の大事件であった。

 傍から見たら、わたしは苦労ばかりして、不幸な人間に見えるかもしれない。しかし、幸福とは心で感じるものである。それは、泣くことがないとか、忍耐することがないとか、傷つくことがないとかと言うものでもない。
 6年の間に、わたしは家もなくなり、車もなくなり、子どもの頃から大切にしてきたピアノも、愛着のある台所も、育てた花も、なくなった。家庭もなくなった。友人も亡くなった。父も亡くなった。それらはみな今もないままだが、わたしの、と呼んでいたそれらのものはなくても、今わたしには住んでよいと言われる場所があり、乗ってよい車も、弾いてよいピアノも、花を植えてよい庭もある。呼んでいた名前はちがうが、優しさをかけてくれる友人たちも、父のように心をかけてくれる人々もいる。愛する存在がある。わたしの所有物はないが、わたしは豊かに与えられている。考えてもみれば、所有とはなんであろう。責任を持って管理をすること、共に生きていくことだとしたら、わたしはすべてを所有していることになる。なくなったのは名義だとか名誉だとか、誰に気兼ねなく儘にできる権利だけということになる。もしもそれらに価値を感じているなら、まちがいなく今のわたしは不幸のどん底だろうけれど、そもそも名だけあっても活用できなければなんの意味もなく、儘にできるのを自由や尊厳と考えるのも大きな思い違いだろう。むしろわたしの幸福は、そういう無意味や思い違いが直ったことにあるというべきだった。もちろん、すべてものを持っていた時に直っていたら、もっと幸せだったかもしれないが、それは悔いるより、今後の教訓や楽しみにしておいたほうがよいだろうし、こういう楽観主義というのも、この6年間で身につけた幸福の素にちがいなかった。

 昔、大学へ進学する際、この祖父とわたしは大喧嘩をした。祖父母の家に遊びに行って、夕食を共にしている時だった。国文科に進みたいと話すわたしに、祖父はお酒の勢いも手伝い、ものすごい剣幕でいきなり怒鳴った。
「大学まで行って、日本語を学んでなんになる!!」
真っ赤な顔で、机を叩いた。それは厳しい社会を生きてゆくにあたり、生涯食べるのに困ることがないような能力や技術を身につけてほしいという親心だったが、その一言で、もともと我の強いわたしは猛烈な反抗を感じ、純粋な志に世俗的な物差しを当てられた気がして傷つき、絶対に国文科へ進み、日本語を生きる力にしてみせる、と心に誓った。それから亡くなるまで、わたしは祖父にとってことごとく期待外れの孫であった。しかし今、おそらく祖父は満足してくれているのではないかと思う。死後、書斎から未使用の原稿用紙の束がいくつも出てきた。哲学が好きで、自分も哲学を本にまとめるのだと言って大量に購入したのだと祖母が話した。反撥ばかりで、よく眺めたこともなかった祖父の書棚は、思想・文学の本で満ちていた。理解のできない者同士と思っていたが、本棚という知の源泉の中身が一番よく似たのは、まぎれもないこのわたしだった。

 つねづね死は家族が教えられる最たるものだと思ってきたが、祖父の息吹を感じながら、霊もそうだったと今さらながらに気がつく。死も霊も、教えられて知るのはもちろん命のことである。そして命のことを知ることなしに、いかに生きるべきかを考えることなしに、わたしたちは真に幸せになることはできないと思う。
 次の法要でも、同じように祖父へ報告したい。
「おかげさまで、幸せにしていただきました」