August 26, 2012

背中を見る

 もう一人の祖父の話をしよう。
その前に念を押しておこうと思うが、わたしは決しておじいちゃん子と呼ばれるようなかわいい子どもではなかった。同年代の友だちと遊ぶのが好きで、祖父にはあまり愛想もないような無関心ぶりだった。おじいちゃん子になったのは、二人の祖父が亡くなってからである。失ってから、大慌てをした口である。

 母が当然のように自分の実家の方を気安くしたせいか、そして母の機嫌が良いのが自分の気分も良いと感じる父も賛同しての結果だろう。母方にくらべ、父方の祖父母の家へ遊びに行くのはずっと回数が少なかったが、それはもう一つ、父方の祖父の性質にもよるところがあったと思われ、絵描きだったこの祖父は、子どもや孫が来たからと言って喜んで家族との時間を楽しむという風ではなく、アトリエでいつも黙々と絵を描いていた。もっとも、昼間はアトリエで大人や子どもたちに絵を教えてもいたから、仕事を怠けて、孫と遊んでいるわけにもいかなかったのかもしれないが、旅行にしても絵を描くことが目的だから、家族を連れて行くようなことはなかったし、じっくり一緒に時を過ごして、祖父の笑い声などの記憶が残っているシーンがあるとすれば、たまに夕食を共にしたとか、行きつけの鰻屋さんに連れて行ってもらったりした時のもので、その数は片手で数えられるほど少ない。あとの記憶は、祖父というより、老画家の思い出と呼んだ方がふさわしかった。

 中でも、今でもよく憶えているのは小学校の頃の出来事だ。いくらかは遺伝的な恵みもあったのか、小学校に入ると絵を描くたびになにかしらの賞をいただくようになり、とりわけ母は喜んで、それを見て本人もまた自信をつけるようになり、誰に教わるでもなくひらめくままに、抽象的なデザイン画を描くようになった。それは大した絵ではなかったはずだったが、母をはじめ皆が大感動をして、さすが絵描きの孫だと褒めそやした。そして、どれだけ祖父も喜ぶだろうと浮き立つ母とともに、喜び勇んでそれらの絵を持って行き、見せた時のことだった。祖父の顔は終始冷静そのもので、「おお」と口が開くことも、目を大きくすることもなく、静かに数枚の絵を眺め終わると、わたしに向かって一言だけ口にした。
「想像画はだめだ。ちゃんと在るものを描きなさい」
思いもよらない言葉だった。わたしも母も、返す言葉もなく静まった。
 在るものなら誰だって描ける。なにもないところから世界を生み出すことができるから、想像力があると皆褒めてくれるのに、どうして祖父はそんなことを言うのだろう。芸術家なのに、どうしてつまらないことを言うのだろう。わたしは何を叱られたのかまったくわからず、顔には出さないように、悲しんだ。

 しかしそれは、身内だから放てる一言だった。たとえ傷つけることがあっても、あとでいくらでもフォローがかなう家族だからこそ言い放てる言葉にちがいなかった。幼いうちからちやほやされ、みっともなく高くなっている孫の鼻を折るのは自分しかいないと、そう考えたのかもしれない。そうでなければ、後でもっと無残にへし折られ、不要な部分だけでなく、根っこまで折ってしまうかもしれなかった。数年後、懲りずに母が美術大学の付属校へわたしを進学させるのはどうかと相談した時も、そんなことは本人が大学へ行くときに自分で決めるべきことだと一蹴した。おそらく絵画教室に通う子どもや親に相談されたなら、同じようには言わなかっただろう。少なくとも、わたしとちがって彼らは絵を描くことを学び、努力している人たちだった。
 その後も、わたしは絵を学ぼうとすることはなく、ちがう道を選んだ。そして母は今、自分で絵を描いている。それは母自身の若いころからの夢だった。

 わたしの知る祖父は、人物と、スペインの風景ばかりを描いていた。誇張もひねりも崩しもない、色にしろ構図にしろ創作性を許さないような、非常に誠実な油絵だった。現代アートや、イラストレーション的なものが潮流を得て人々を惹きつけて行く中、わたしも例外ではなく、祖父の絵には正直あまり魅力を感じなかった。祖父の絵で好きなのは一枚だけだった。それは古いもので、アトリエの一番広い壁を占拠する、ジャングルで憩い楽しむ南国の女性たちを描いた巨大な絵であった。女性たちの笑い声、歌声が聞こえてきそうな、本当に美しい絵だった。わたしは生まれてからずっと、その絵を眺めて育ってきた。
 だがその絵の存在の大きさについて本当に理解したのは、祖父が亡くなった時だった。告別式で、参列者の代表として別れのあいさつをしてくれた古い友人という人が、祖父の画家としての歴史をはじめてわたしに聴かせてくれた。戦前、戦中は海洋画家と呼ばれ、海軍や華族会館を祖父の海の絵が飾っていたという。セレヴェス、パレパレ・・・・戦中祖父がわたったという聞き慣れない地名を聴きながら、あの美しいジャングルにあそぶ女性たちの絵があざやかに動き出すように、思い出された。なぜあの絵が生まれたのか、戦時下で祖父が見つけた楽園のことをまざまざと知る思いがした。そして祖父が海を描かなくなったわけを、なぜ人間や人の暮らしが薫る街並みばかりを描くようになったのかを、わたしは理解できた気がした。海洋画家は戦争で死んだのだ。祖父は本当に描くべきものを見つけたのだ。想像画はいけないと叱られた十に満たなかった孫は、その時二十歳になっていた。

 さらに時を経て不惑の歳となった時、その間、何度も何度も他者に失望し、自分に絶望したことを繰り返したのち、祖父が戦争のさなかでほとばしるような命の輝きを見つけたのと同じように、わたしも人間の中に、その救いようがないようなまちがいや醜さだらけの営みの中に、とうとき美しさを見出していた。同時に、写実的な絵のことを技術以上の思想が無いもののように軽んじていたわたしは、あるがままの姿を虚飾なく描くことが命の真の讃美となっていることに、それは神の創造をもっとも謙遜に大声で讃えることと同じだということに、ようやく気がついた。
 家族というものは不思議なものだった。たとえ直接手間ひまをかけられなくても、言葉がなくても、後姿を見せられながら育てられていく。祖父にはみじんも孫に見せようなどという気持ちはなかったと思うが、その影響は意識するともなくこうして今もなお続き、相変わらずわたしはキャンバスに向かう祖父の背中を見ているように、無言の教えに耳を澄ます。

 さて、ジャングルの楽園の女性たちは、祖父のアトリエの象徴のように、ずっと変わらない場所で大きな存在感を放ってきたが、わたしたちの目には届かない片隅に、それよりももっと前から、変わらず飾られてきた小さな絵があった。それは若い日の祖母の顔だった。わたしはまったくその存在に気がつかず、アトリエを畳む時に父から話を聴いただけだったが、祖母の絵は祖父の机のすぐ脇に、本や書類や絵の道具に紛れるように何十年と変わらず掛けられていたと言う。なれそめのことはよく知らないが、大恋愛で結婚した二人である。人を愛するこのまなざしが、祖父の絵の原点であったことを、そしてまた自分の命の原点でもあったことを、なによりも、誇りに思っている。