September 29, 2009

としをとる

 としをとることを、わたしは嫌いではない。正確に言ったら、イヤではなくなったと言った方がいいだろう。はずかしいほど激しいことだけれど、そんなわたしも十代のころは、ハタチになるまでに、自分がだれか、なにをすべき人間か、あきらかに他人と区別できるだけのくっきりとした自己、つまり才能を発露できなければ、ハタチ前に死んだほうがよいと思っていた。びっくりするほど、驕ったことを、真剣に思いつめていた。

 そんなふうに、かたよった考えをするには、いろいろな理由があったものだけれど、十代後半の自分探し中には、明治から昭和の激動の時代を生きた詩人や小説家たちに共感して、彼らの作品や伝記、論評などを読みふけっていたから、その時代の作家たちのように早熟でなければ、自分にはもう将来はないとあきらめたほうがよいと言うように、そんな幼稚な感化もあったはずだった。自分も作家となって、人はいかに生きるべきかを考え、そして世の中の思想や価値観を醸成してゆく一員となりたい・・・そんな志とはアンバランスに、耽美的で時に自滅的な、文学のロマンチックな部分におぼれて夢を見るようなところもあった。
  とにかく、まぶしく、みずみずしく、清澄な、そんな「生」に憧れて、どうもそうは見えないオトナの世界に組み入れられてしまう前に、自分を見切らなくてはいけないと思ったのだ。自分を追いつめ、どうにかしてそういう輝かしい「生」を手に入れようとする思いもあったかもしれないが、一方では、老いたもの、新鮮でなくなったものへの恐怖と嫌悪という、純粋に生理的な拒否感が、まったく経験不足で、未熟な美意識にひどく感情的なえいきょうを与えて、そういうものにならずにすむのは、永遠の不老を手に入れられるのは、十代のうちに内なる力を輝かせることができた者だけだと、そんなジンクスを勝手に創りあげて、自分の平凡さにおびえていたようでもあった。

 はたして、期限であったハタチから、今二倍以上も生きのびているわたしというのは、めでたく十代で自己を見つけ、実現し、永遠の花道を手に入れたというわけではまったくない。ハタチの壁は、どうということはない、恋愛というハプニングが難なく越えさせた。好きな人とともに生きることが、人生の目的にあっけなくすりかわったのである。あれほど深かった人生への憂いさえ、平凡な、愛ある人生の希望へと、みごとに変身した。

  しかし、その後は一切憂いから解放され、明るく青春と人生を謳歌して行ったかというと、それはそうでもなくて、人生への憂いは生涯にわたって対峙しなければならないライバルのように、やはり自分と常に伴走を続ける友であったが、そのうち二十代の半ばでわたしは仏教に出会って、憂いという友も一緒に関心を寄せることができるような、古いものの美しさへ、はじけるような生命のほとばしりや、若々しい新鋭という創造力ではなく、静けさのうちにすべてを包み込んでしまうように深遠な、また不変の美へ、大きく惹かれるようになった。そこには、若い感性にはどこか忌避したいような死と老いと病というものが、生や創造と分かつことのできない要素そのものであり、美の原因として存在していた。

  また、嗜好としては延長のように、骨董や、民芸にもかぶれた。いや、かぶれたというほどにも深くなく、ちょっと匂いを嗅いでみたというべきだろう。きものにも急に関心が湧きはじめた。それらは途方もなく美しく、また哲学的だった。しかし、同時にこれらの生命を現実的に営ませているもう一つの価値観、年代とか、作者とか、格式やら批評家の評価やらというものは、立ち入るたびに興ざめばかりをおこさせて、お金も、素養もない人間が近よってもつまらない思いばかりをするようだと、それ以上知ろうとか、自分の一部にしたいという気力は湧かなかった。ただ、時間をかけて醸造される美というものじたいへの憧憬や、そこに内包される宇宙への好奇心は、なにに邪魔されたり、束縛される必要もなく、心の中で自由にはぐくまれ続けた。そしてその時には、老いとは悪くなることでも、みにくいことでもなくなって、熟成という、どんな知恵も技術もたちうちできない力と、深く敬愛されるようになっていた。
 
 さらに、三十代になると、わたしは老人介護に直面した。姑が認知症を発症したのである。ここには、老いの中の、劣化や衰退、醜悪と言った現象があふれていて、熟成や醸造などと言って、老いを美化した甘さをまるでせせら笑うかのように、強烈なネガティブさがあった。それでも、このすこしまえに、古いものの魅力に目覚めることができたわたしは幸いだった。あとで別れることになった夫は同い年だったが、新しいものに目がなく、その頃はITの先駆的な仕事をしてもいたから、これから自分の仕事がどんなに開け、力を発揮できるか、また世界はどんなふうに広がってゆくかと意気揚々としていたぶん、老いからもたらされるものは、迷惑と不幸以外のなにものにもならなかった。姑は、わたしの母より二十近く年上で、わたしが子どもの頃、「若いお母さんね」と言われて得意顔になっていたのとさかさまに、「あの人、おばあさん?」と友だちに聞かれてはずかしくてたまらなかったという彼は、幼いころから「老い」の被害者であった。そういう意味で、まったく苦労知らずなわたしは、老いた家族は大切にしなければいけないと、なにもできなくなっても、古いものにはその存在意義がかならずあるのだと正論ばかりを言って、じぶんたちの若さと時間を犠牲にしてもよいだけの、だいじなものがきっとあるはずだと主張し、自分中心的に介護に夢中になって、彼を困らせた。
  こうして夫婦で価値観がかけはなれて行く中、また、友人たちもまだ結婚だ、出産だとさわいでいるような時期に、わたしはひとり時間軸がずれたように、この老いはいずれ自分の上にもあらわれる回避できないものなのだと、老い支度なんかを考えるようになった。幸せな老年とは、と、どうしても問わずにいられなかったのである。

  姑は豊かな商家の生まれだったが、戦中戦後の食べる物もなにもない貧しい時代を生き延び、その後庭に桜の木が三本植わって、家の中では長男の兄がドラムを叩いて、バンド仲間と音楽を楽しめる部屋のあるような家で、不自由なく暮らすようになるが、夫の事業の失敗から、借金取りに追われるようになり、まだ高校生だった次男を連れて離婚し、風呂のないアパートで生活保護を受けて暮らすようになるという、浮き沈みとお金の苦労とを深く味わった。その次男というのが、のちにわたしと結婚する人である。それらの経済的辛苦のせいで、認知症の初期には、特有とも言われる、お金がない、お金を盗られた・・と騒ぐ症状を過剰にあらわして、お金がなければ生きられないと、始終恐怖に脅えていた。夜なか中、お金を探して眠らないことがよくあった。人間誰にでも、人生で出会う不仕合わせで傷ついてしまった苦労のあとがあるものだが、そういうものが、リアルな幻となって人生の完成期に現われ、本人や家族を苦しめることになるのは、ひじょうに切ないものだった。
  わたしにだってお金で苦労した傷は少なからずある。そう思ってこわくなった。これからは、どんな努力をしてでもそれを乗り越えて、お金に支配されないようにしなければ、いけない。お金がなくても不安に思わない心を、あってもなくても執着しない心を、必死に作らなければ、いけない・・・老い支度のための、そんな誓いと目標を、わたしは心に立てたりもした。

  四十代になったときは、わたしはひとりになっていた。ダメだったら別れればいい・・・そんな覚悟の甘い結婚が、当然の結果のように破綻したようにも思えるし、それにしては十二年も、お互いよく付き添ったものだとも思える。姑は、忘れる力のほうがつらい抑うつの不安症よりもとうとう勝って、わたしを見ても、「あなた誰?近所の人だったっけ?」と明るく聞いてアハハと笑い、わたしの存在もきれいに抹消された。夫もわたしも、今なら本当の相手と、本当の人生を歩みなおせるはずだ・・・・そんな気持ちで、残り少ない若さに賭けて、離婚した。
  ひとり者になったおかげで、誰か好きな人はいないのか、とか、きっとすてきな出会いがあるよ、などと、花やいだ話題を向けられることが多くなったけれど、一番美しい、花のような時代はとうにすぎて、やはり心には、老いという、女性としての負い目を強く感じて、いえ、わたしなんかと、首をふる。わたしだって、とは、なかなか気もちはゆかない。若い人を見ていると、いつまでも眺めていたいような、はつらつと光を帯びた美しさを感じ、男性ならなおさらだろうと、共感もする。若さに賭けて、本当の人生を歩みなおそうとした人間の気概としては、なんとも頼りないものである。

 それでも、負け惜しみというのではなしに、としをとるのは良いものだと年々思いはたしかとなる。そういえば、毎年、新年のことは来ると言うのに、自分のとしについては、とるというのは、あたかも能動的で、勝利をつかむような響きがある。じつはそちらのほうが本当の意味なのではないか。長く生きる、寿命を永らえるのが生命の挑戦だとしたら、としは、獲りに行きたいほどの獲物にちがいない。もっとも、いずれは体のあちこちが痛んだり、人に迷惑をかけることが多くなって、ああ、としをとるたびいやになってしまう・・・と嘆く日もくるだろう。しかしその時、嘆くのではなく安らいでいる自分であるために、今できることは山ほどある。その努力の山が、一年、一年、としとなって自分にきめ細かな密度を与えてくれるとしたら、どんなにかすばらしいことだろう。

 さて、今日わたしはまたとしをとる。どうだろうか。すこしは努力が実って、良いとしをとっただろうか。それを確かめようと鏡をのぞき見るように、わたしは朝がひらいた今日という世界を、ふたつの目に映してみる。

May 3, 2009

ひらくとき

先日、夜中のこと。ふと目を覚ました時、どうしたものか古い疑問がいきなり解けた。
目を覚ました時と言うよりは、夢見と覚醒とが半分ずつの中で、思いもよらぬ謎解きが起こって、その衝撃に完全に目が開いたと言うのが事実だったかもしれない。とにかく、そんな古い疑問を今ごろ思い出させられたこと自体がそもそも驚きだったし、30年もわからなかったことが、いとも簡単に紐解けてしまったことにも、あ然とした。

わたしはびっくりして起き上がり、今手に入れたばかりの答えを確かめようと、机の引き出しを漁って古い学生手帳を取り出し、学校の創立記念の歌の歌詞を見つめた。
「・・・・つくせおとめ つくせおみな みくにのために つくせおとめ つくせおみな みくにのために」
なんと古めかしい、歌詞。何十回、百回と歌ったフレーズだろう。
わたしが中学校から大学まで過ごした学校は、たいへん歌が好きなところで、校歌の種類をいくつも持って、それらを二部や三部の合唱で始終歌わされながら、生徒もみんな自分の学校の歌を愛したが、この創立記念の歌だけは、わたしはどうしても好きになることができなかった。「つくせ みくにのために」と歌うたび、嫌悪と反感とが思春期の胸の中でとんがった。
日本ではじめて女性のために作られた、女性教育の草分けのような学校で、自立性、平等性、また個性の自由を重んじる学校であったはずなのに、いったいどうして、こんな歌詞になってしまったのか。やはり、国におもねるような必然性が生じた時代もあったのか。そうだとしても、戦後こんなに時間が経ったというのに、以前としてこのような歌詞をわたしたちに歌わせ続けるのは、なんというナンセンスだろう・・・。
10年間ずっと、学校にいる間中そう思い続けてきたし、卒業してからも、ふと思い出しては解せない疑問と反感を感じてきた。もっとも反感と言っても、自分には直接関係のないことだとすぐに無関心に翻って、普段はすっかり忘れているようなくらいだったけれど、友人たちも話題がその歌に触れることがあれば同じことを言い合い、まったく前時代的と共感し合ったし、やはり同じ学校を出た母も、そういう時代だったから仕方がないのよとあっさり言って、みんなで「おとめよ、お国につくしなさい」という意味にとって、疑いもしなかったのである。

そんな信仰の薄いわたしの無明を揺り起こすかのように、その夜、わたしは突然本当の意味を解らされた。眠りに落ちてだいぶ経ったあと、意識が夢の浅瀬くらいまで上ってきたようなところで、「みくに、みくに・・・」と言葉がささやかれ、連想が手繰り寄せられるみたいに「みくにがきますように・・・」というキリスト教の祈りの言葉を思い出していたら、急に学校の創立記念の歌がよみがえった。ああ、そうではないか。あの歌は「みくにのために」と言っていたのであって、「おくにのために」と言っていたのではない。おとめよ、天の国のためにつくせと命じていたのだ。ああ、なんてこと!一体全体、なんとばかげた誤解をしてきたのだろう!そうして、わたしは驚きと共に跳ね起き、急いで机の引き出しから、歌の楽譜を載せた学生手帳を探したのであった。

創立者は、プロテスタントの牧師として情熱的な伝道活動を行った人であったが、宗教、信仰は個人の自由に由来するべきとして、学校はキリスト教学校にしなかった。しかし、今改めて歌詞を眺めれば、創立者が宗派を超えたミッションスクールを創ったつもりであったことはまちがいない。
ひょっとしたら、戦時下ではわたしのように愚かな多くの人間が、お国につくせと激励する教育だと感心して、学校は無用な干渉を免れ、面倒な来賓があれば、この歌を大声で歌って歓待していたかもしれない。そんな空想を巡らせば、自分の愚かしさも忘れて愉快になった。
歌のはじまりはこんな風だ。
「おさまるみよの めぐみもて ここにつくりし だいがくは・・・」
やはり無知なわたしは、国家や政治家たちの尽力によって大学を作ることができたことを讃える詞だと思い込んできた。もちろん、それも完全にまちがいではなかっただろう。しかし真の思いは、神の恵みへの感謝であったにちがいなく、だから、子どもたちよ、天の国のためにつくしなさい、神さまの喜ぶ平和の実現のためにつくしなさい、と最後のフレーズを何度も、何度も、繰り返させるのにちがいなかった。
敵は煙に巻いて、世俗に傷つけられやすい純粋を守り通してみせる。偶然にもそれは非常にみごとな知恵ではなかったか、などと思って、真夜中の2時すぎ、わたしはひとりで興奮した。ナンセンスで、まったく好かない歌が、一変して、センスの良い、光り輝くものとなって、目の前に鎮座していた。

まさに、30年の疑問と反感が、一気に紐解けた瞬間であった。こんなに長い時間わからなかったことも、悟る時と言うのはまさに一瞬なのだと、あらためて思い知る。思えば、家庭の中にしろ、学校の友達の中にしろ、一人でもクリスチャンに恵まれていたなら、こんなとんちんかんを長い間続けることはなかったかもしれない。担任の先生や、音楽の先生からも、歌詞の意味を教わった記憶はない。もっとも、そんな疑問を長く抱き続けるくらいだったら、誰か先生を捕まえて率直に聞いてみればよかったのだとも思うのだが、あのころのわたしはたいへん粋がりの、反体制派風のねじ曲がりだったので、「こんな古臭い思想の歌など、歌わせる気がしれないわ」と思い込んだきり、歌を強制する側に向かって、けな気に尋ねてみるような素直さはみじんも持ち合わせていなかった。悔やんでも仕方ないが、素直でないから、こんなに時間の無駄をすることになるのである。しかし、逆に当時、誰か「みくに」を説明してくれる先生にめぐり合って、ちゃんと正しい意味を教えてもらうことができたとして、果たして自分が納得して理解しただろうかと思うと、それもあまり自信がない。なんにでも反抗しないと済まない思春期のひねくれ心は、天国などという言葉を出されたなり、学校に宗教と信仰を持ち込まない主義ではなかったのか・・・と難くせをつけ、やはり反感を感じたかもしれないと思う。ほかの素直で賢い人の人生でなら絶対に30年もいらなかったはずだが、ほかの誰でもない、わたしの人生においては、今ようやく、この歌を理解できる旬が訪れたということなのだろう。

物分かりの悪い、生徒である。ただ、物分かりが悪いのも、本当のことを知りたいと思う気持ちさえ失わなければ、捨てたものでもないとも思う。とくに、今回のことを通して、わたしたちはなんでも間に合わせの答えで満足することをせず、本当のことを見きわめたいと思い続けていたら、きっと答えは得られるのだと励まされた気がした。真理は、真理自らが開示してくれる。その時が訪れるまで、わたしたちはいらだつことも要らない。絶望することもない。ただ、できるだけ、素直な方がよいにはちがいない。ひねくれたり、ねじ曲った分だけ時間がかかるのは、わたしの30年という年月が証ししてくれていることである。

なぜ生まれたのか・・・なぜ、なぜ、なぜと、思えば生きている間中、わたしは問い続けっぱなしであった。今もいくつもの「何故」は残っている。しかし、それらもいずれ紐解ける時がくるだろう。
人生は信頼するに値する。30年間、迷いの多かったわたしも、今は心からそう思っている。

January 27, 2009

GRACE

 今話すには、あんまりにも季節はずれかもしれないが、先月のできごとについてはやはり書き残しておきたくて、クリスマスの話を載せることにする。
「それぞれの人生は、神の指で書かれたおとぎ話である」
このアンデルセンの言葉をそえて。

 毎年、クリスマスには幼稚園のこどもたちと一緒に献金をする。こどもたちはひと月前から、それぞれ献金箱を作って家に持ち帰り、おこづかいやお手伝いをしたお駄賃をそこへ貯めて、献金日には思い思いの絵を描いた封筒に中身を移して持ってくる。イエス様のご誕生をお祝いし、世界中のこどもたちにもクリスマスのプレゼントが届くように、これを必要な人のためにお使いくださいとお祈りして、バスケットに献金の入った封筒を入れてゆく。
 職員のわたしたちも、それにあわせて毎年献金をするのだが、今回はいつものようにお金を寄付するという中に、どうももうひとつ高慢さが残ってしまう気持ちがして、わたしはなかなかその思いを拭うことができなかった。そんな時、作家の曽野綾子さんがカトリックの機関紙に、自分は学校で、クリスマスイヴはご馳走を食べてお祝いする日ではなく、半断食をして過ごし、誰かほかの人のために犠牲を払う日だと教わった、と書いているのを読み、そうだ、食べられない人へ寄付をするというだけでなく、食べられないという経験をわたしも共有してみようと、小さな断食をすることを思い立った。ただお財布からお金を取り出すのではなく、献金日までの一ヶ月間、毎週金曜日の夕食を断って、その分の食事代を積み立てて献金することにしたのだ。食べられない人の食事を助けるために、自分の食事を差し出すのは、一番シンプルな行為だと思えたし、この他にお金に心をこめるよい方法を思いつけそうもなかった。
 自慢するほど大したことをするわけでもなく、むしろ子どもじみた発想と苦笑されるのが関の山で、さいしょに家族に断食を予告した時も、父などは「食べられない人間が家にいるなんて気兼ねで、そんなの迷惑だなあ・・・」と嘆いたくらいだったから、どちらかと言えば肩身がせまいような気分で、しばらく家族の他の誰にも打ち明けなかった。気持ちに偽善のないことを証したいのは、なによりもまず自分自身の問題だったし、その上でなければ、献金を主催して、ほかの人の理解や協力を仰ぐのはいやだと思ったのだ。

 一週目の断食は、気負いが大きいせいでおなかもあまり空かなくて、逆に普段使いすぎている胃腸を休める日ができた恩恵ばかりを感じられるほど、難なく終わった。翌日の体調の良さは早くもご褒美のようで、これならあと三回も、感謝しながら楽しんでできるだろうと楽観した。しかし次の週は、本当に続けるのか?という家族の反応に、つい悔しさが湧いてカッカとし、そのせいでおなかが空いて、食べたいのに食べられないという境遇を味わうことに、はからずも成功した。三週目になると、少し情勢が変わり、家族は協力をしようとしてわたしの帰宅前に食事を済ませようと考え、わたしはわたしでみんなの夕食時間に遅れて家へ帰ることを企んだが、そんなふうに互いに気を使い合ってわざわざ作り出す「食べられない」状況が、本当に食べられない人たちとの距離を遠く感じさせて、それほど自分たちは恵まれているのだということをつくづく思い知り、食にまつわり日々に溢れるいろんな不足を情けなく思った。そして回を重ねるほど、断食は馴れるどころか空腹感が増されてゆくようで、頭の中に始終「おなかが空いたなあ」という声が響いていた。おとなのわたしがこうなのだから、小さな子どもだったら、その声だけで体中がいっぱいになってしまうだろう。そしてその声がしなくなったときには、どれだけ無気力となって、生きる力をなくしてしまうだろう。
 最後の週は、無意識のうちに知恵が先行して、買い物でもして気持ちを紛らわせるのが良案と、夕食時間にデパートへ入った。新しい服でも見に行こうかしら・・・と考えながらデパートへ入ったとたん、急に胸から湧いてくるように、食べられない人は食べるものを買うお金がないから食べられないのだ、という根本的なことを思い出して、自分の浅はかさにあきれ返った。空腹を紛らわせるためにショッピングを楽しもうなんて、本末転倒もはなはだしかった。思えば、ふだん本当に必要ではないものへ使っているお金がどれだけあることだろう。世の中は、景気、景気というけれど、不要なものにさえ多額のお金を使って動かさなければいけない経済など、まやかし以外のなにものでもないのではないか・・・。自分の情けなさとすり替えるように、そんな社会への疑問や憤りまでが胸に湧きだして、やはりおなかが空いてしまった。つくづく怒りと言う感情は、エネルギーを消耗するものだと思った。
 こうして、小さな断食ではあったが、それなりに考える機会と時間を与えてくれて、一ヶ月たつとどこか達成感のようなものも起こって、わたしの心はさわやかであった。

 さて献金日の前日になって、幼稚園では急にお客様を迎えることになった。南米のボリビアで貧しい人たちのために長年献身している倉橋輝信神父が、園長を訪ねてやってくることになり、ちょうどよい機会だから明日は子どもたちに話をしてもらいましょう、と言うことになった。
「そうそう、作家の曽野綾子さんは救援の必要な場所へ自分で赴いて活動をする人なんですけれどね、倉橋神父のことは、ボリビアでは大統領よりも有名だ、なんて書いていますよ」
と、園長がニコニコと説明した。曽野綾子さん・・・・わたしがクリスマスの断食を倣った人である。献金日に際して、再びその名を聞くことになるとは思いがけず、感動し、断食のことを園長に打ち明けようかと思ったが、留まった。それよりも、倉橋神父のことを思い出したのだ。ああ、そうだ。わたしも、この南米の愉快で情熱的な日本人神父の話を読んだことがある。読んだ直後、理事会へ送るために園長を乗せて車を運転しながら、その記事のことを話題にしたら、園長は彼のことはよく知っていると言って、イタリア留学中に倉橋神父と一緒に過ごした思い出話をしてくれたのだった。名前を記憶し損ねていたが、まちがいない、同一人物だ。イタリア留学後、倉橋神父はボリビアの日系移民が日本語のできる神父を求めたのに応じ、以来29年間、日本からの義捐金で貧しい人々を助ける活動を続けている。
「彼は、学校のような堅苦しい組織にいるよりも、ああいう活動が向いているんですよ」
音楽好きで、自らいろんな楽器を演奏して、みんなを喜ばせ、心を溶かす。いつか会ってみたい人物だと思った。
 あらためて、園長は今年の日付の新聞記事をくれ、保護者にも配るように印刷を指示したが、手渡された地方紙の記事を読むと、倉橋神父の音楽にまつわる興味深いエピソードが書いてある。「教会の結婚式では、ベートーベンの『喜びの歌』をハーモニカで演奏する。誕生祝いに母からもらった時、独学で上下さかさまに持って覚えた。今もドレミを左からでなく右から吹く時、母が一緒にいる・・・・」
ハーモニカで「喜びの歌」というのも、さかさまに吹くのも、非常にチャーミングな神父様だった。
「(ボリビアには)貧しくても笑みがある。規律はないが包容力がある。そりゃ腐敗と犯罪の国ですよ。でも、私は日本に帰ると冷蔵庫に入ったように感じる。年に三万人も自殺する日本が、ここより豊かと言えるかどうか・・・・・」
そんな冷蔵庫のような冷たさの中で、小さな火でも灯し続けなければいけないと心に誓いながら、わたしの小さな火は心細く、頼りなく、ついつい風当たりから隠して消えないようにかばっては、それではなんの意味もないと自分を叱って、あともう少しだけ、もう少しだけと励まし、表に掲げる。そんな風前の灯に、倉橋神父の来訪のニュースは、まるで心に燃料を注いでくれるかのように、熱をくれていた。

 家に帰ると、わたしはなによりのクリスマスプレゼントをもらったのだと思って、一人あらためて感動した。曽野綾子さんとゆかりのある倉橋神父を、断食の明けた献金日のその日に寄越してくれるという完璧は、いったい神さま以外の誰にできるしわざだろう。神の存在を疑うことはなかったが、このような「はからい」の美しさは、大自然の完全な美を見せられた時に感じるのと同じ、言葉ではつくしきれない圧倒的な感動と畏敬を与えて、新たに、すべてを超越する大いなる存在のことを覚えさせる。
 今家には、ジャズミュージシャンのヒロ川島がイギリスのデザイナー、ポール・スミスと作ったcocoloという楽器があった。現在わたしが持っている唯一の楽器である。ハワイのウクレレを少し進化させたものと言い、「若者よ、武器ではなくcocoloを持て!」というキャッチフレーズを与えて、あえて「cocolo」という新しい楽器を世界に生み出そうとしていた。こころを奏でる、こころが歌う、こころの声が聞こえる・・・楽器を通して、「こころ」を世界共通語にしたいという川島さんの夢は、ある日、世界的ファッションデザイナーと磁石が引き合うようにして出会い、共感を得て、その夢の楽器を一緒に作ろうじゃないか、という奇跡を実現させた。それはわたしから見ても、川島さん自身にとっても、「はからい」としか言いようがない、人知では考えつけないようなできごとだった。
 まだ、数枚のラフな企画書の段階から、cocoloの発想を聞かせてもらう機会に恵まれていたわたしは、同じ夢と奇跡とに自分も参加したくて、弾けもしないくせにcocoloを購入した。個人的には、二年ほど前に楽器をすべて処分し、さみしく感じていたわたしにとって、新しく自分のそばに置く楽器を選ぶなら、これ以上のものはなかった。しかし半年たっても、美術品のように眺める楽しみのほうが主で、どうにか曲になるのは「ふるさと」と「アメージンググレイス」の二曲しかなかったが、もし自由に演奏できるような腕があったら、わたしもベートーベンの「喜びの歌」を奏でてみたいと思った。まさにそんな気分だったし、ハーモニカで吹くのと同じくらい、魅力的な第九になるにちがいなかった。

 あくる朝、倉橋神父は想像した以上に気さくで、明朗闊達な人柄を全身に表わすようにして現われた。ハーモニカで一曲吹いていただくことをお願いしていたが、わたしは残念ながら子どもたちといっしょにボリビアの話を聞くことも、またハーモニカの演奏を聞くこともできなかった。聖堂に手伝いにでかけていた補助教員の先生が、途中使いを頼まれて事務室に戻った際、希望に高ぶった顔つきで口早に様子を話してくれた。「いち、に、さん」と倉橋神父はゆっくり指を鳴らしてみせ、
「今、一人の人が食べることができなくて死んで行きました・・・世界には3秒に一人、みんなが当たり前のように食べているごはんが食べられなくて死んでゆくお友達がいるのです・・・」
と話して、また三つ指を鳴らした。いつもふざけあいがやまない子どもたちが、しんと釘付けのように倉橋神父を見つめ、なにかを確かに心に受け止めたようだったと言う。わたしは嬉しかった。それは子どもたちにとって、とても大きな心の宝になるに違いなかった。
 聖堂から戻った倉橋神父は、「ああ、今日は本当に気持ちがいいです」と喜んで、コーヒーを用意しようと思ったがそれも待ちきれない様子で、「ちょっと散歩にでかけてきます。歩きたいです」と言って出て行かれた。きっと神さまとお話をされたいのだろうと思って引き止めず、門まで見送りに出ると、別れ際倉橋神父はわたしの顔を一瞬じっと見つめてから、急に「アメージンググレイス」を歌いだした。思わず釣られてわたしも唱和し、笑った。
 引き続き、次の日の保護者向けのキャンドルサービスにも倉橋神父は参加することになって、ボリビアの話をしてくれることになったが、前日のうわさを聞いた他の職員もみな話を聞きたがったため、わたしはやはり幼稚園で留守番をしなければならず、聖堂に行くことはかなわなかった。ボリビアの話は、資料を用意する際に個人的に多少聞くことができたのであまり惜しくはなかったが、ハーモニカの演奏をまた聞き逃すのは残念だった。しかし、倉橋神父が子どもだけでなく、大人たちの心にも種を蒔いてくれるのだと思えば、留守番を一人で請け負ってでもすべての大人を送り出したい気持ちがしたし、果たして話を聞いて帰ってきた人々が、視野が開けたように目に光を宿して、心をあたためて帰ってきたようすを眺めると、わたしはその人数分の喜びを与えてもらうように、不運を越えた満足を感じるのだった。
 まもなく教会から倉橋神父が戻ったのを出迎えて、礼を述べると、昨日と同じように倉橋神父は一瞬じっと見つめるような目をしてから、
「うさぎ追いしかの山・・・」
と、歌うというより詩句を唱えた。「ふるさと」の歌詞である。
わたしは胸の中で、あっ、と叫んだ。まるで倉橋神父は、わたしがcocoloで奏でることができる、たった二つの歌を聞きとることができたかのようだった。昨日は「アメージンググレイス」を、今日は「ふるさと」を、まさに二つしかないわたしのcocoloのレパートリーを、みごとに歌ってみせたのである。心の音とは、そうやって流れ、伝わってゆくものなのだろうか。音楽はたしかに、言語も、肉体の壁も超えて、人と人とをつないで行く。それは、なんてすてきなことだろう。また、わたしたちのどんな小さな隠れた営みも、明らかにされないものはひとつもない。倉橋神父は化身のように、わたしたちをつねに見守り続ける存在のことを伝えてくれるのでもあった。

「コーヒーをお入れしましょうか?それとも日本茶がよろしいですか?」
と尋ねると、
「コーヒーがいいですね!ありがとうございます」
と、倉橋神父は明快に、嬉しそうに答えたが、コーヒーメーカーで新しいものを落としているうちに、何も告げず、いなくなってしまった。たぶん、散歩に出かけられたのだろう。
以来、倉橋神父にはお会いしていない。突然太陽を含んだあたたかい風のようにやってきて、あたたかな昼の日差しの中に、風のように消えてしまった。わたしには、ついにハーモニカの音色は授からなかったが、アカペラの歌が二曲、いつまでも残る思い出として刻まれた。
 そして、わたしは思った。なにを心配する必要があるだろう。神が見ているその下で。なにをおそれる必要があるだろう。神が守るその下で。胸にある愛は、熱のように伝播する。掲げよう。ともしびを。


Amazing grace!
how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see
Through many dangers
Toils and snares I have already come
Tis grace have brought me
Safe this for
And grace will lead me home


ああ、大いなる美しき恩寵よ
なんと甘美な響きだろう
私のような者までも救ってくれる
かつて私は道に迷えるものだったが
今は見つけられたものとなった
かつてわたしは盲目だったが、
今わたしは見ることができる
多くの危険や苦しみ、誘惑を経て
私はここまでやってきたが
この大いなる愛がいつも私を救い
ここまでつれて来てくれたのだ
そして大いなる愛はさらに
私を懐かしいふるさとへと
みちびいてくれるだろう