May 27, 2007

我、道に入る


 この二日間で、神奈川近代文学館、井上靖文学館、そして芹沢光治良文学館を訪れた。
当初から決まっていた予定は、最初の神奈川近代文学館だけであって、開催されていた中原中也と富永太郎展に、友人が誘ってくれて出かけたのだった。そして、今日の予定はといえば、もともと季節のクレマチスを楽しむために、両親と沼津のクレマチスの丘にいくことになっていたのだが、昨晩急に、「夜まで沼津で過ごしてお寿司を食べて帰ろう」と父が言い出して、「だけど午後の時間がたっぷりありすぎてとても夜まで過ごせないわ」と、母がいう言葉にわたしはぐいと身を乗り出し、それなら芹沢文学館へ行こう、ぜひそうしよう、ぜひお寿司を食べて帰りましょう・・・と、ここだとばかり、諦めていた希望を言い放って、強引に決めてしまったのだ。沼津に行くのなら、本当は訪れたかった場所。でも、到底無理だと諦めていた行き先であった。

 それは昔わたしが、見えない世界があるのだと、神の意思があるのだと、自分が感じているのはこの世界なのだと言って、両親に芹沢光治良の『神の微笑』を手渡し、読んで欲しいと懇願した時のことに由来する。読んだのか、読まなかったのか、両親から本の感想を聞くことはなかったが、遠まわしに返ってきたのは明かな否定と拒絶で、娘は神経が衰弱して、現実と非現実とがわからなくなってしまったのだと悲しい顔をして、この話は、お医者さまにしてほしいと頼まれた。両親は本当に困っていたし、心配し、悲しみに沈んでいた。両親を苦しませることは、本願ではなかった。そしてわたしは以後、『神の微笑』の話も、見えない世界のことも、けっして口にしないようになった。

 しかし、それから本当に長い年月がすぎて、去年荷物の整理をしながら、しまいっぱなしにしていた子供時代の文集をなつかしく開いてみると、小学校4年生の文集は親子の文章を並べて掲載する作りになっていて、わたしのませたかわいげのない詩の隣に載った母の文章を読んでみれば、「ようやく芹沢光治良の『人間の運命』を読破した・・・・」と書き出して、その感想文を寄せている。なんということだろう。驚きと同時に、わたしは自分のルーツを見せつけられたような気がした。
 ママは『人間の運命』を読んだのね・・・・と尋ねてみると、母はなんのわだかまりも無いように、もっとも尊敬する作家だったわ・・・と答えた。

 そんな新しい姿が発見された母へ、わたしは今年のはじめ、『神の微笑』を贈った。今度もやはり、読んでくれたのか、くれていないのか、いまだにわからない。春から一緒に暮らし始めたが、感想を言う気配もない。しかし代わりに否定と拒絶もない。ゆるやかなわたしの信仰告白は続いて、そしてついに、芹沢文学館に行きたいと声に出すことができたのであった。
 じつは沼津へ行くというのは、父が以前仕事でお世話になったS銀行さんを頼って、S銀行の経営する三つの美術館と、ちょうど今が季節のクレマチスの庭を見せていただくというものだったが、その時もまだわたしは何も気づいていなかった。「S銀行の岡野さんという人がビュフェの大変なコレクターでね・・・」と語る父もまた、何も知らないままだった。

 クレマチスの丘では、木村圭吾さくら美術館を、美術館の方がひとつひとつ作品の解説をしながら案内をしてくださったのち、わたしたちだけになって、クレマチスの花咲く庭を散歩しながら、ヴァンジ、ビュフェとそれぞれの美術館をめぐり、やはり敷地内にある井上靖文学館を観てから、レストラン、マンジャ・ペッシェで遅い昼食をとった。本当に最近では稀にみるような、美しく晴れた、気持ちのよい日曜日であった。わたしは、モンタナという白いクレマチスの苗がほしいと思っていたのだが、残念ながら売店には並んでないようで、かわりに、さっき美術館の方にモンタナの花の話をしたとき、「今、めずらしいモンタナの絵柄のお茶碗があるんですよ。鉄仙ならよく描かれますが、モンタナなんてとても珍しいです」と教えていただいたものを、ミュージアムショップで買って帰ることにした。ちょうど、新しいご飯茶碗がほしいと思っていた頃でもあった。

 そうしてクレマチスの丘を満喫してから、我入道の芹沢文学館へ向かったわたしたちが到着したのは、閉館時刻のほんの数分前のことだった。日が長くなったせいで、まだ昼のうちのような気持ちでうっかりしていたのと、夕方6時くらいまでは当然開いているものだという都会の人間の横柄さのようなものが、開館時間を確認するということを忘れさせてしまっていたのだ。とうとう芹沢文学館へ着いたと喜ぶのもつかの間、一瞬にして失望が、体の力を奪うようにしてわたしを襲ったが、少しの時間でよければどうぞと言ってスタッフの方が迎え入れてくれて、わたしだけ見せていただくことにした。両親と、同行していた従妹とは、入館料がもったいないと考えたようすで、外で待っていると言ったのだ。時間のないことで、ああ、そう・・・とわたしも彼らを強いて誘うことはせず、一人で中に入った。はからずも、一人きりで、芹沢光治良氏と対面することになった。
 文学館の方に迷惑をかけてはいけないと気が急いて、ゆっくり味わって見るという心の余裕はなかったが、なにか聞き忘れている声がないか、見るべきものを見落としてないかと、何度も、何度も、心に問うて、耳と目を澄ました。焦るだけで、芹沢光治良氏の声も、その他の語りかけも、よく聴きとれない。そんなわたしに、ある名前が大きく、濃い色になって飛び込んできた。芹沢氏の書簡の宛名になっている、岡野喜一郎という文字である。まちがいない、S銀行の岡野喜一郎氏である。この文学館を建てたのも、ビュフェの大コレクターと父が話す岡野さんであり、芹沢文学館も友の会も、まさにS銀行によって運営されていたのだ。わたしは失った記憶が突然色彩を取り戻すかように、よみがえるのを感じた。ああ、そうだ。わたしは忘れていたのだ。岡野さんの名前をわたしは知っているはずだ。この文学館が作られた経緯の話を、わたしは確かに読んだではないか。

 思えばとても不思議なものであった。完全に忘れてしまっていたからこそ、わたしはここへ来ることができたのだとも思える。S銀行さんのお世話になることなく自力で、また人の力によってでなく霊の力によって運ばれるように、こうして来館がかなったことは言葉に表しがたいほどありがたいことだった。閉館時間も、もしもここへ向かう前にそれを知ってしまったなら、もうじき閉まるから今日はやめておこうよと、きっと家族に説得され、諦めざるを得なかった気がする。知らなかったから、父も車を走らせたのだ。それに、わずかな時間だけかなった入館だったからこそ、家族は興味を失って、わたしは一人きりで芹沢文学館へ入り、静かに、心のままとなってその空間に浸ることもできたのだ。
 芹沢文学館も、岡野さんが建てたそうよ・・・・。父と母は、そう・・・とだけ答え、わたしたちはこの件でもそれ以上話が弾むことも、深め合うこともなかった。しかし、そこには明かに昨日よりも風通しのよい信頼関係があって、理解する、しないの問題ではなく、娘の大事にするものを壊すことはしまいという慎重なやさしさと落ち着きがあった。今のわたしには、それだけでも十分だった。以前、力任せには開かなかった道を、12年後の今再び繰り返して歩き出せば、まるで今度は正しい時を得たかのように、次々と扉は開いて行く。言葉にはしないが、父も母も確かに感じているのだと思う。見えない世界はあり、娘の人生は、常にその見えない力によって救われてきたと、信じるまではできなくても、感じずにはいられないにちがいない。わたしのこの12年とは、そんな不思議なものだった。

 『神の微笑』の伊藤青年は、今は大徳寺昭輝さんとなって、人々の求道の心を助けている。その大徳寺さんと、二年前に不思議な出逢いを得て、やはりわたしも今日まで大きく助けられている。おそらく、大徳寺さんに出逢わなかったら、わたしはもう一度、誰に対しても、見えない世界について語ろうとは思えなかっただろう。わたし一人では、その孤独にとても耐えられなかった。

 そしてやはりはからずも、この二日の間で三人の文人の自筆の原稿を眺めることになり、生々しいほどの推敲の筆あとを見つめ、わたしはこんな風に勢いにまかせて自分のことを書いてみる気持ちにもなった。見えない世界のことを語るのは難しい。言葉は見つからないし、無闇に傷つけられることを恐れていつでも心は閉じそうだ。でも、わたしは自分が得たものを放つ方法を、書くという手段の他に知らない。それがなんのためになるとか、正しいとか、正しくないとかはわからないが、今ひとつだけわかったことは、すべてははじめてみなければわからないということである。出発こそが、すべてであると。

May 18, 2007

マイ・ピーターパン




指ぬきを用意した。
ピーターパンがやってきたとき、彼のどんぐりと交換するためのものである。
 
 こんなものを真剣に用意するなんて、ばかげてるかもね、って思う。
でも、わたしは彼の姿を半身まで見ることができたし、きっともう一度、会えると思っているし、そして今度こそは、わたしも夜空の向こうへ連れて行ってくれると信じたい。もっとちゃんと信じたいから、この指ぬきを、よく見えるところに置いておきたいのだ。
 
 静かに、そっと心を清ませていないと、彼が窓辺に寄って、ひそめている息を聴き取れない。目には見えない存在が、同じこの世界に存在して、ともに世界を作っているのだいうことを信じられないと、彼の姿を見ることはできない。そして、夜見ることが許される夢と、昼間の現実とは、けっして二つにわかれるものではないと勇気を持てなければ、彼といっしょに空を飛ぶことはできないだろう。
 
 永遠のこどもであるピーターパン。でも、こどものままでいるとは、分別のないままでいることではない。自由な心が、気ままな心とはちがうのと同じように、こどもの心とは、社会的に洗練されることによって失われる運命のものでも、理性が成長することによって小さくなってしまうものでもなく、むしろそれらを身につけることによって、かなえられる夢をふやせる関係にあるものだろう。わたしたちは、そのために成長するのだし、縛られたくも、汚されたくもない美しい夢を守るために、困難にも屈しない強い心をめざすのだろう。

 じつはわたしには、ピーターパンにだったら打ち明けられそうな秘密がある。
ピーターパンとだったら分け合えそうな夢がある。それはひとつの、わたしがわたしでいることのできる、最後の砦のようなもの。どんなに生き方が、考え方が、姿が変わっても、唯一変わらない、これはわたし自身だと心から言えるもの。
そんな自分をもっとよく信じたいから、わたしはこの指ぬきを、南の窓辺に置いておきたいと思う。
そして彼が迎えにきてくれる日を、心を清まして、楽しみに待ち続けたいと思う。

ピーターパン http://www.youtube.com/watch?v=Yea45vX1Lcg

May 15, 2007

本当に大事なもの

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものはかならずもとのところに戻すこと。
ちらかしたら自分で後片付けをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
(中略)
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、
はなればなれにならないようにすること。
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。
              (ロバート・フルガム)

人間がどのように生きればいいのか、それはすでに幼稚園で教わっている・・・・
フルガム現象を引き起こしたと言われるこの金言は、本当にそのとおりだと改めて心を打つ。
たしかに、どんなにお金持ちでも、仕事ができても、容姿端麗でも、これらのことができない人は、誰からも相手にされず、幸せになれないだろうし、またここにあげたような約束だけでも、地球上のみんなが守れたなら、ずっとこの世の中は生きやすく、平和にちがいないだろうに、と思う。
ほら、みんなで分け合えばいいでしょう?そうしたら仲良くできるでしょう?とこどもを諭すのに、おとなの世界はといえば、どうやって独り占めしようかと知恵をしぼる時間と労力で占められている。
ずるはだめ。無垢なこどもにはそう叱って、「○○ちゃんはするもん」、なんて言い返したら、他の人がしても、絶対してはいけなことなの・・・・と叱るはずなのに、どうして、いつごろから、おとなは「ずる」の自慢をし合うようになってしまうのだろう。
人をぶたないように。それはちょっと頭のよいおとなだったら、もうしないけれど、言葉でなら人を叩いても、蹴っても罪はないと思っているおとなを、こどもが気がついていないと思うのはまちがいである。

いつごろ、どうして、わたしたちはこれらの本当に大事なことより、お金や、仕事や、見た目の方が大事になってしまったのだろう。みんながするから、だろうか?そんなみんなには、合わせる必要がないのに。

May 13, 2007

CHANGE

 なにかとても素晴らしいものに出会ったとき、その素晴らしいものを、ぜひ人にも分けたいと思うのは自然なことである。でも、どんなに言葉を尽くして伝えても、分け合うにはいたらないだろうし、一期一会であるその素晴らしいものを、再び用意できるとも限らない。

 たとえば、きれいな青空を見つけたとき、きらきらと木々から緑の光が降ってきたとき、そういうささやかな喜びでも、誰かに伝えたいほどかけがえのない素晴らしさを帯びていることがあるものだ。またなにか貴重なものに出会う幸運にめぐまれたり、魂が揺さぶられるほどの感動に出会った時、どれだけ惜しんでもそこにいるのは自分ひとりだけという、そんな時というものもあるものだ。そういう時は、その素晴らしきものによって変わった自分を見せればいい・・・そんな風に教わった。写真家の星野道夫さんが、友人から教わったという言葉である。
  そうだ、そのとおりだ、と思った。わたしたちは、それぞれに過不足ない一期一会を得ていて、じぶんのそれを特に素晴らしいと思うのはまちがいで、それでも家族や愛する人たちに、どうにかしてその素晴らしいものを分けたい、伝えたいと願われるのなら、それによって変わった自分を、よきものを得て、変わった自分を与えればいいのである。それだけで、出会ったものがどんなに素晴らしいものだったかを、人は十分に理解するし、その光は生きたまま彼らの前に届けられて、与えられても行くのである。

  これと少し似たものに、恋がある。恋は、否応もなく人を変える。恋をすれば誰もが活気付くようになるけれど、優しくなる人、ひと回り人間が大きくなる人もいれば、逆にだらしなくなる人、利己的になってゆく人もいる。そのようすを見てわたしたちは、ああ、この人はよい人と出会ったのだろうなあ、と思ったり、よくない出会いをしたのではないか、と心配したりするのだけれど、どんなに素晴らしい人と出会ったかを知るには、たくさんののろけ話を聞くまでもなく、こうして変化を知るので十分だ。そしてもし、恋する相手を大事にする方法があるとしたら、それは自分自身によき変化を起こしていくことだろう。

  変化というものはけっして受動的なものではなく、主体的に、みずから行うものだ。それは口に言うほど易しくはないし、目に見えるような大きな変化である必要もない。ただ、その変化の決心は、自分が出会った素晴らしいものに対する、心のこもった敬意となるはずで、それが真実か否かは、変化と言う行動によって実に結ばれ、身に現われてくるのではないかと、そんな風にわたしは思っている。

May 5, 2007

言の葉

 始めに言葉があった。言葉は神とともにおられた。
 言葉は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。
                       <ヨハネの福音書>

 十代のころ、鮮烈にわたしのからだを駆け抜けた言葉だった。
そしてわたしは文学を勉強したいと思った。
言葉にはとても根源的なものがあるという確信が、
命をわしづかみにされるような力強さで、
わたしの心を奪ったのである。
 
 十年後、言葉についてのその考えは、ひとつのイメージに結ばれ、
「木の葉の詩」という詩を書いた。

 それからまた十年を経て、わたしは、
この詩をリアリティの中で体験する自分に出会い、
そしてこれを証したいという願いを持った。
正確に言えば、願いを持ち直した。
 
 言の葉に乗った精霊たちよ、
どうかこの世界を美しい歌であふれさせて。