January 26, 2013

 二年前の誕生日、友人がとても忙しい人なのに時間を作って夕食に誘ってくれ、青山にある瀬戸内料理の店へ出かけた。父方の祖父が岡山の出身だったから、ひんぱんではないにしろその特産品を口にする機会は他よりも多く、体は異郷と感じながらも、舌だけは岡山を故郷と憶えて親しんでいるような具合で、誕生日に際しなにか食べたいものをという話になって、備前焼の器で郷土の料理を出してくれるその店を希望したのであった。またそこは以前から何度も二人で訪れようとして、チャンスを逃してばかりいた場所でもあった。
 なんといっても四十代半ばの独り者である。一緒に暮らす母も、娘の誕生日に祝いの料理をふるまうのは決してやぶさかではないと思うが、同時に誕生日の夜も華やぐようすもなく家にいる娘を不憫がりそうだし、かといって同性の友人の多くは子育ての真っ最中で、一人でどこかでごちそうを食べるというわけに行かない年齢であり、また異性の友人と出かけるには、誕生日というのは特別すぎて、気軽に祝ってもらうというわけにも行かなかった。そんな苦境を知るように、ご主人はいるが子どもはいない同性のその友人は、気兼ねを感じないようにすっと引っ張り出してくれたのだが、それはいつも感心する彼女のスマートな優しさだった。
 
 そして楽しく美味しい食事を終え、店を出ようとした時である。店主のおばあちゃまに声をかけられた。
「来月から、うちで茶の湯教室をするんだけれど、よかったら来ない?」
その誘いは、じつはわたしにとって渡りに舟のような話だった。ちょうど前の月にお呈茶に与って、この歳まで作法を学んでこなかったことをひどく悔やんでいたのである。それはイベントの休憩時間に、友人のお母さまが出してくれた一服で、いたって気軽なものではあったのだが、同席していたアメリカ人から茶碗の持ち方を教わっている自分の素養のなさに、これはいただけない、と深く反省したのである。月に一回、立礼の茶道教室ということで、敷居の低さがとてもありがたかった。
「それにね、先生がすてきな方だからぜひ紹介したいのよ」
と、焼き物の品定めで研磨された目を若々しく輝かせながら、オーナーのおばあちゃまは言うのだった。

 
 そうして、わたしは翌月から青山社中の一員となり、茶の湯を学ぶことになった。
なるほど、ぜひ会わせたいと店主が言うとおり、先生はさわやかな、見識も豊かな女性で、年齢はわたしとあまり変わらないように見えるが学ぶところが多かった。食事処での気楽な教室ではあったが、備前焼の専門店でもあるから店から提供される茶碗は、現代の作家物から骨董まで良品ばかりだったし、先生が持ち込んで、テーブルの上にしつらえる簡易の床の間飾りには、古寺名刹の老師の筆がかかったり、また老師作の茶杓などが実際の稽古の道具として使われたりと、五感を使って無批判に知識を吸収してしまう初心者にとって、最初からこれだけ本物を使って習う事ができるのは非常に幸運なことだった。
 こんな風に喜んで通っていた茶の湯教室だったが、半年経ったころ、詳しい事情は知らないが、店が急に閉店をすることになった。希望なら、先生の白山の茶室へ通って稽古を続けることもできると誘われ、青から白へと色を変わるように山を移ったのは、店主とわたしと、教室で一番若い女性の三人だけだった。

 これまで、書や道具の数々に古刹の貴重な品々が並ぶのを、
「主人の家が寺なので、お寺関係は強いんですよ」
と先生は茶目っ気を見せて笑うだけだったが、自宅での教室となると、出てくる希少品の数は普通ではなく、だんだん好奇心が強まるのをおさえることが難しくなった。ご主人の実家というのはわたしの住まいと同じ市内のようなのだが、そのあたりで話はなんとなく止まるので、追求するのも失礼な気がしてこちらもそれ以上を控えた。もうひとつ、「実相庵」という茶室の名前も気になっていたのだが、ようやくチャンスが来て、どうしてその名をつけたのか由来を尋ねてみた時である。
「これは、義父の関係の延暦寺の大僧正がつけてくださったものなんですよ」
と答えが返って驚いた。ああ、縁と言うのはこういうものなのだ。ここで延暦寺の名前を聴くことになるとは思ってもみなかった。そういえば、その日の主菓子は阿闍梨餅であった。比叡山で千日回峰行を行う阿闍梨の笠をかたどった古くからある京都の銘菓で、千日回峰行とは、比叡山中を深夜駆け巡りながら礼拝する苦行のことである。ありがたいことに、わたしたちに呈された阿闍梨餅は、この千日回峰行の満行者である大阿闍梨からのいただきものということだった。
 その日も、あとは逆に先生からいろいろとわたしのことを質問されて、懸命にそれに答えているうち、肝心な先生のことを尋ねる機会を逸して家に帰ることになってしまったのだったが、やはりどうしても気になって、品のないことだけれど、インターネットで三つほどキーワードを並べて検索をかけてみた。すると難なく先生のご主人のご実家は見つかったが、それは思ってもみなかったことに、孝道山という昭和11年創始の仏教系の新宗派だった。ご主人のお祖父さまとお祖母さまが開祖であり、現在三代目としてお兄さま夫婦が継がれている。そしてわたしは息が止まるほど驚きながら、孝道山の概要を見つめた。そこには、延暦寺から分けられた「不滅の法灯」が祀られていると言うのである。不滅の法灯は、延暦寺根本中堂で1200年消えることなく守られ、灯され続けている火で、三年前に父の墓を建てた時、勝手にその分け火をいただくつもりで一字を頂戴し、「灯」と石に彫った。父がいつまでも家族を明るく、あたためてくれる「灯」であり、わたしたちを励ましてくれる拠りどころとなるようにという思いと同時に、いつかわたしたちもその「灯」に帰り、加わり、後世を照らそうという願いをこめた。
 さらに孝道山には、ある日延暦寺の大僧正の夢に大黒天が現われ、運ばれることとなった大黒天像が祀られているというのだが、その夢によって大黒天を孝道山へお連れした、もう一人の大僧正という人が、父の葬儀で経を詠み、また仏壇の本尊へ魂入れをしてくれた、目黒大円寺の当時の住職だったというのだ。大円寺は父の死まで我が家とは縁もゆかりもない、葬儀社が探して手配をしてくれた寺だった。無信仰・無宗教を主張していた父であり、同じ考えである母は初め、葬儀は花を飾ってただのお別れ会にし、式も経もなにもなくていいと嫌がったのだが、わたしはわたしで、宗教家は葬儀を商売でしているわけではない、わたしたちがしたこともない、天国への送り方を勉強してきた人たちであり、そういう人にぜひ父を送りに来てもらいたいと、母によく似た頑固で言い張り、結局変ったことをするのを好まない弟が仲裁することになって、社会一般的な仏式の葬儀を行うことになったのである。そして岡山の先祖の菩提寺に相談すると、こだわらずに近くの寺で経をあげてもらうようにと話があり、松の内に亡くなり、混み合って手配が難航する中、葬儀社が苦心して結んでくれたのが目黒の大円寺だったのであった。

 母は基本的にまじめな人だから、無信仰・無宗教と言いつつも、いったん仏式に則ることが決まれば常識に従い、どの法事も仏事もないがしろにしたり、怠るようなことはしなかったが、おそらく寺との付き合いは大変だと自分の母親からひんぱんに聞かされたせいだろう。大円寺には四十九日まで葬儀社を通してお世話になったが、納骨からは霊園に頼んで、墓の開眼法要も各年忌も、その時、その時に手配のつく寺に来てもらうことになった。それでも仏壇を作るときは、本尊にする仏画に魂入れをしなければいけないと店で教わって困ったようで、母自ら大円寺に電話をして依頼した。そしてわたしと二人、大円寺の阿弥陀堂で法要をあげてもらい、我が家のご本尊に釈迦如来を授かった。
「仏壇に手を合わせると、同時にこの大円寺のご本尊も拝していることになります」
大円寺には、現在年代がわかっているものでは最も古いという清涼式の生身の釈迦如来立像が祀られているが、毎年ちょうど大晦日から父の命日までご開帳になると言い、大晦日に父を病院から家に連れて帰り、家族で一緒に正月を祝い、そして天に送った最期の日々がぴったりそこに重なって、わたしは深く慰められた。
 以来、毎日仏壇を通して手を合わせているはずの大円寺である。誕生日祝いのために訪れた瀬戸内料理の店から、岡山出身の先生の茶の湯教室につながり、そしてその婚家である孝道山へとつながって、新たにこの名にめぐり合うことになるとは、すべてご本尊と父による導きと恩恵だったのではないだろうかと思う。

 孝道山の教えは法華経を真理とし、親子の間にある情愛こそ仏の慈悲の心と同じであると考え、人に本来具わっているその仏性を社会で実践し、広げて行くことをめざしている。そういえばわたしに、文庫で良いから法華経を読んでみるようにと勧めたのも大円寺の副住職だった。言われたとおり四十九日の後、岩波文庫の法華経三巻を買って読んだのだったが、分厚い三冊にわたって繰り返し、繰り返し語られ、他は忘れてもこれだけは体に染みついて消えなくなるような教えがあった。それは、命を授かること、人として生まれることは、非常に稀有な貴重な恵みであるということ、そしてただでさえ珍しいようなその人生の中で、仏の教えに出会うことができるのはたいへん希少な、真にこれに勝る宝は存在しないようなものである、ということだ。
 この二つのとうときものを、生命とそして仏との出会いを授けてくれた父に、今あらためて心からの感謝を捧げたい。


 
 


January 14, 2013

雪華

 年末、こどもたちも先生たちも冬休みに送り出して、それから経理を締めたり、建物の修繕をしたり、次の学期のために必要なものを調達したり、結局時間切れになって大掃除も中途で幼稚園の一年を締めくくると、今度は家事が山ほど待ち構えていて、それもやっぱり時間切れを口実に切り上げるけれど、元旦からは人を迎えたり訪ねたりしながら、女の仕事は切れ目なく続いて行く。そうこうするうち冬休みは明け、先生たちやこどもたちが幼稚園に戻って女正月もないから、どこかで一休息取らなければこのあときっと勤まるまいと、休みの最後を使い京都へ出かけた。忙しさや人に流されるように新しい年を始めるのではなく、まずは一度、自分の中心をおさめる、そんな時間がぜひほしかったのである。

 直前にとったホテルは駅の目の前で、一番近い寺社は東寺だった。そういえば京都へは何度も来ているが、いつもどちらかと言えば駅から遠ざかる方へ足を向けることが多く、おそらく高校の頃を最後に、東寺には久しく訪れたことがなかった。ちょうど正月の特別拝観が行われていると言う。この機を逃すのはもったいないことだった。
 チェックインを済ますと、荷物を置いてすぐに東寺へ向かった。家の菩提寺が天台宗ということもあり、また別の関係だが、延暦寺の音楽法要に参加したなど強い縁を持つ中で、不本意ながら真言宗とは対峙した側に置かれてしまったような、なにか世間の見方に感化された距離感を感じることがあったが、実際そういう環境のせいで、空海の教えに自然と触れたり、学ぶような機会はあまりなかった。祖母の郷里が和歌山なので、幼いころは家族で高野山へ遊びに出かけたと話は聞くが、本人には記憶も残っていなかったし、どちらかと言えば空海は親近感の薄い、天才と聴くばかりで近寄りがたいような存在だった。

 人には、自分から訪れなければならない場所というのがある。わざわざとか、ぜひとか、そうやって訪ねて、初めて開くような場所である。地図を片手に、京都は坂がなくまことに都とされるにふさわしい土地だとあらためて感心しながら、五重塔の姿を探して歩き、十五分ほどで到着すると、さっそく一般公開となっているその五重塔へ入ってわたしはとたんに「ああ」と嘆息した。この迎え入れられる気持ちはなんだろう。そこには密教からイメージされる難解なものでも、高邁なものでもなく、人を寄せるようなあたたかさがあった。そんな思いがけない感覚に浸るように、須弥壇の上の仏像をわたしは恍惚と見ていたのかもしれない。係の人が隣にやってきて、下を見るようにと足元を指差した。
「そこから心柱が見えますよ」
須弥壇の下が窓になっていて、この五重塔の中心を地から天まで一本に貫く「心柱」の姿を見ることができた。五重塔自体が立体の曼荼羅図であり、心柱は大日如来をあらわし、須弥壇上にはそれを囲んで金剛界四仏と八大菩薩が置かれている。

 次に金堂へ進むと、いよいよ離れがたさに近い幸福を感じた。月光菩薩と日光菩薩の間に、薬師如来がたたずむ。美しかった。
 そして講堂へ進み、空海の教えを表現する立体曼荼羅を前に、とうとうわたしは座り込んでしまった。中央の大日如来は、世界に遍く行きわたる光であり、命を慈しんで育む力を、また宇宙の中心であり根本である創造力を表わして、周りを囲む五如来、五菩薩、五明王、四天王、梵天、帝釈天と共に全二十一躰の仏像によって仏国土が表現されている。彫刻がもたらす瞬間的で強い感応は、言葉ではかなわない伝教となって生き生きと観る者にせまり、また仏国土を示す情熱は護国寺としての東寺の生命を肉眼で観るような思いを起こした。さらに、壁にあった説明書を読むと、わたしは何もかも合点が行った気がした。空海はただ密教的な祈りに生きた人でも、仏法を説くだけに生きた人でもなく、食べられない者が食べられる者となる方法を、病んだ者が病を治せる方法を教え、日本で初めて庶民のための学校を創った人であった。まさに本物の実践の人であり、この場所にあるあたたかさは、今も東寺に通うその血のあたたかさに違いなかった。
 これ以上今はなにも心の中に持ち込みたくないような思いで、東寺を後にしようとした時である。空から白いものが落ちてきた。雪だった。晴天から、はらはらと小さな白い花が降りてきた。それはまるで、諸仏の供養のために撒かれた散華のようであった。しばらく降っていたが、積もるはずもなく、幻が消えるように雪はやんだ。

 それから家に帰り、何日も経ってからわたしはふと自分の本棚を眺めて唖然とした。ほとんど飾り棚のようになって、何があるのかも意識しなくなってしまっている画集の棚に、東寺の国宝の写真集と両界曼荼羅の図画集が並んでいたのである。いつ、手に入れたものだろう・・・・。開いてみると、写真集は1995年に世田谷美術館で東寺の国宝展が開かれた際に出版されたものだった。完全に失念していたが、こんなに重い、立派な本を買い込んで、わたしは東寺へ行きたいとどれだけ強く願っていたことだろう。
 東寺に入った時の、あの迎え入れられたような、なにか言い知れぬ気もちの一つに説明がついた気がした。それは待っていた自分自身に出会ったような、待たされていた自分がやっと満たされたようなことだったのかもしれない。そして教科書は先に与えて、これらの宝を真に味わえるようになるまで、神仏はじっとわたしの成長を待っていたのだろうかと思うと、深く忝くなった。

 東寺を訪れたあくる日は、嵯峨野へ出かけた。着くと、再び小さな白い花が降り出した。不思議な雪である。晴れた、明るく白い日差しの中、六片の花びらを持った結晶がきらめきながら、法会に撒かれる散華のように新しい年を祝福し、穏やかに、穏やかに、何時間も舞っていた。

 
 

January 1, 2013

 
みんなの  みらいの  みのりの
 
 
 
 
 
 
 
あけましておめでとうございます
2013.1.1

December 23, 2012

Xmas

 十代から二十代まで、一年のうちもっとも好きな季節はクリスマスだった。今は嫌いになったと言うわけではなく、盆のような年中行事も味わい深いような年齢になって、どの季節や風習にもそれぞれ愛着を感じるようになり、何が一番と言えなくなっただけだったが、当時は、目に映るものに心つかまれやすい年頃でもあり、街中が飾りつけをして美しく彩られ、流れる音楽も楽しく、また家々の玄関や窓にはリースがかけられたりライトが点滅したりして、まるで道行く人にまで声をかけてくれているような、ひとつの同じ喜びにみんなが心を寄せているような、そんなあたたかさを感じ、なんだかとても幸せになった。

 実際、その年代というのは、イブを誰と過ごすかということも真剣な悩みとなる切ない時期でもあったが、意中の人と過ごせればそれは本当に特別なことだし、そうでなくても、なんとなく一人にはならないような、結局放っておかれないような、クリスマスとはそんな日だった気がする。一人にならなかったというのは、必ず誰かと一緒ににぎやかに過ごしていたという意味でもなく、たとえばクリスマスカードが一枚届いたり、なにか心あたたまる小さなできごとがあったり、あるいは神さまからのプレゼントとしか思えないような幸運に出会ったり・・・・・形や程度はさまざまではあるが、大切にされた幸せにかならず与ったように思うのだ。

 寒い冬の日に、暖炉の前できれいに飾られたクリスマスツリーを囲み、ケーキを食べ、歌を歌って喜び合う・・・・そんな西洋の光景を、幼いころから絵本や映像で眺めて培われてきた憧れは、実のところ、あたたかさや、明るさ、そして愛に満ちたものを求める気持ちに他ならなかったのではないかと思う。冬の寒さの中のぬくもり、夜の暗闇の中の光、わたしたちがそれらを求めることはいたって自然である。そしてイエス・キリストは、まさしく人をあたため、光を与えるために生まれてきた。クリスマスとは、その使命の誕生を祝う日だ。

 三十代の後半になって、思いもよらなかった転機でキリスト教の学校に勤めることになり、わたしは念願がかなったと言うよりはやはり思いもかけず、あらためて好きだったクリスマスの意味を学ぶことになった。今思えばおかしいというか、おそろしいことだが、それまでも自分はクリスマスとは何かを十分知っているつもりでいたし、新しく知る意味があるとも思っていなかった。家に誰もクリスチャンはいなかったが、物心ついた頃から家族をあげて祝っているクリスマスである。クリスマスがイエス・キリストが生まれた日であること、またその誕生の物語について知ったのはいつだったか。マリアとヨゼフの名前も、天使のお告げも、また処女懐胎も、中学生の頃には一般常識のように自然な知識として身についていたように思う。しかし今、同じこのクリスマスを眺めながら、わたしは毎年新しい物語を知るように感嘆せずにいられない気持ちになる。知るというのは、無知に出会うことだと言うが、まさにそんな心境になるのだ。

 救い主が誕生した・・・・・・はじめにその知らせを天使から受けたのは、国の偉い人たちでも、賢者と言われる人たちでも、宗教指導者たちでもなく、羊飼いたちだった。その職業は、貧しく、軽蔑され、そして毎日羊の世話があるので教会へ通うこともできなかった人々である。権力や、知識や、地位、いずれも持たない素朴な人々に、世界が変わるほどの、2000年後も世界中がその日を祝うことになるようなできごとの最初のニュースが知らされたのである。ある時、カトリック界でさまざまな重役を務める日本人神父がこんなことを口にして、わたしは新鮮な驚きと共にひどく納得したことがあった。
「ぼくが一番おそろしいのは、えらい人になってしまい、知らせを受けられないことなんです」
神の御業を一番に知らせてもらえる身でいたい、それは誰しも、ましてイエス・キリストに身を捧げる者なら当然抱く願いであるにちがいなかった。

 羊飼いばかりではない。母マリアは、結婚前に妊娠をしてしまうという、まさに白い目で見られ、村八分になって然るべき身の上であった。その出来事を受け入れるマリアの勇気と信念を想う時、わたしは何度でも脱帽の気持ちにかられる。「神に選ばれた方」、後世のわたしたちはマリアのことをそう呼び、賛美する。でも当時、そのような扱い方を誰もしなかったに違いなくて、むしろ汚れた、頭のおかしい人くらいに扱っていたのではないだろうか。そして、そんなマリアを妻とし、守り抜くヨゼフのことを考えると、これ以上良い男はいないのではないかと思ってしまう。婚約者が自分の子ではない命を宿していることを知ったら、どんな怒りや失望に陥っても不思議はないだろう。また、それは聖霊によって宿されたものであると夢で告げられ、励まされたとしても、その夢を信じ、マリアを信じる強さを持つことは決して容易ではないはずだ。わたしはこの健気な夫婦を想うたび、そして二人の間にお告げのとおり本当に男の子が生まれた瞬間を想うたび、ヨゼフとマリアに満ち溢れただろう大きな喜びに感応せずにいられない。どの時代でも、世間に負けず志を遂げること、疑念や疲れに負けず愛を行うことは難しい。母は子を守り、その母を、夫である父が守る。クリスマスとは最も素朴で尊いその姿を通して、聖なるとはどういうことかを示しているように思える。

 最後にもうひとつ。この2000年と祝祭が続くことになるクリスマスを、最初にプレゼントを持って祝いにやってきたのは東方の三博士たちであった。彼らは占星術師とも、天文学者とも解されているが、いずれにしろ「星」と「時」とに精通した賢者たちであり、世俗や権力に惑わされず、真理を追求する者たちであった。ここでも、示されているのはわたしたちがどう生きるべきかであるような気がする。わたしたちもまた、本物の幸せを探し、旅をする。道しるべとして、星のように誰も奪えない、誰も隠せないところにしるしが顕れる。それは、見る目のある者、聴く耳のある者にしかわからないしるしであり、そして答えだ。現代のように医学も科学も発達していない時代に、博士は自然の摂理に通じ、人々や社会へ適切な助言を与えることができる、尊敬された存在だったことだろう。しかし見る目と聴く耳とは、優れた知性ではなく、謙遜の心によって開かれるものである。三博士は、自らの知恵に驕る者ではなくお告げに従う者であり、この世の王ではなく馬小屋の赤ん坊にひざまずいて宝物を捧げる者であった。わたしたちが人生の道しるべを見、本物にたどり着くことができるのも、こうして大いなるものを仰ぎ、謙遜となる心なくしてはきっとかなわないだろう。
 今年の聖夜も、もうすぐである。もう一度、この救いの物語を、胸に。
 
 
きよしこの夜 星はひかり
救いのみ子は 
み母の胸に
ねむりたもう 夢やすく

きよしこの夜 み告げ受けし
羊飼いらは 
み子のみ前に
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜 み子の笑みに
めぐみのみ代の 
あしたの光
輝やけり ほがらかに

「きよしこの夜」
作詞:ヨーゼフ・モール 作曲:フランツ・グルーバー
訳詞:由木 康

 
 

November 3, 2012

天国

言葉あそびのようだけれども、天国というのは「二人の国」と書く。なるほど恋人同士が二人でいられたら、どこであろうと、たとえ過酷な状況の中であろうと、まさしくそこが天国だろう。三人や四人ではだめだし、もちろん一人でもだめで、二人になることではじめて現われる幸せの国だ。そして二人が一つになると、「夫」(おっと・つま)になる。言ってみたら、夫婦というのは別名「天国」なのである。恋人の間にあるようなテンポラリーな、不確かなものではなく、永遠を許された天国である。

・・・・お互いに、心の底から愛し合っている人たちはこの世でいちばん幸せ者です。彼らは少ししか、いいえ全く何も持っていないかもしれません。でも幸せなのです。すべてのことは、どのように愛し合うかにかかっているのです。    〈マザーテレサ〉

 思えば、わたしたちはみないつでも、なにをしている時でも、ただ愛し愛されることを求めている生きものなのだろう。恋人や夫婦という関係だけでなく、親が子を、子が親を、また友人、同僚、そして社会を相手に、わたしたちはいつも愛することと、愛されることを求め、うまく愛せなかったり、愛されていないと感じたりして、悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、恨んだりする。
 どんなに愛しても、相手からの愛を感じられなかったらとてもつらいし、どんなに愛されても、愛せない相手からだったらそれもまたつらいだろう。なるほど「心の底から愛し合っている」のは、この世でいちばんと言われるほど仕合わせなことである。しかし、誰でも知ってることだが、この相思相愛の幸福さえ、得られたと思っても長くは続かない。自分の思いや愛情すら、あまりあてになるようなものではない。相手にいたっては、そもそもちがう人間だから、その真情は絶えず確かめていなければ皆目わからないし、でもそんなことをすれば嫌われるだけで、結局不安になったり、不足に思う時間のほうが長かったりする。信じる勇気や、与える勇気がなく、疑うことや、欲しがることばかりして、育てるどころか破壊行為を繰り返してしまうことも少なくない。どうも、人というのは、願いと裏腹なことをしてしまうものなのである。

 すべてのことはどのように愛しあうかにかかっているのです。

 愛しあうというのは、状態ではなく、むしろ努力のことなのだろう。永遠を許された天国である夫婦も、いつだって、誰だって、地獄に変わってしまうことがあるように、結婚もまたゴールではなく、じつは努力の契約にほかならない。それは、飽くことなく、倦むことなく、また自己中心的になることも、失望することもなく、生涯相手を大切にし続けると、家族や社会、そして神の前で決心することだ。

 さて、自らのことながら日本人はおもしろいなあ・・・・と思って眺める風習に、信仰の姿も含まれるが、特別に宗教を持たない日本人の多くが、誕生するとお宮参り、七五三と、子どものうちは神道にならって健康と幸福を祈願し、結婚するにあたってはホテルや式場のチャペルでキリスト教の祝福を受け、最期に死ぬときは仏教に沿って冥福を祈られながらこの世を旅立たせてもらう・・・・こんなふうに人生の大事に宗教儀式を行うのが、現代人の王道である。一年の過ごし方も似たようなもので、一年のはじまりには神社へ初詣をし、クリスマスには隣人みなでよろこび合って、寺院の除夜の鐘を聴いて一年を終える。以前、神道の専門の大学のオープンキャンパスで、日本人の精神文化についての話を拝聴した際、「日本の神様は仏様の教えを学びたいと、途中で仏教に帰依したわけです・・・」と言われてびっくりし、そういう捉え方をするものなのかと、謙遜な発想に目からうろこが落ちるような思いをしたが、とすれば、さらに戦後、日本の神様はキリスト教からも教えを学びたいと思われたのだろうか。日本の神様がキリスト教の教えを乞うたのだとすれば、それはまさに、人々がどのように愛しあうべきかを学ぶためだったにちがいない。仏教では「愛」という言葉は、執着や渇愛、愛慾など、滅すべき煩悩をあらわすものとして否定的に使われることが多いそうだ。それでは誤解が生じ、たいせつなものが欠落してしまうと考え、キリストの教えを得たいと願われたのかもしれなかった。なるほど日本は、思想も文化も、足し算をして行く「和」の国である。

 話は少しそれたが、わたしたちは全員、幸せになるために生きていて、毎日が幸せになるその日である。誰もが幸せを模索する中、成功の秘訣を探す中、一度は天国の教えを試してみても良いと思うのだがどうだろう。教えたからと言って、なんの得も見返りもない人たちが、苦労し、命を使って教えてくれることである。
 

遠くの人を愛することは簡単です。
難しいのは、
今、わたしたちのすぐ隣にいる人を愛することです。
世界の人々は異なった宗教を持ち、
異なった教育を受け、
さまざまな地位にあるように見えますが、
本当は同じなのです。
皆、愛されるべき人々です。
皆、愛に飢える人々です。  〈マザーテレサ〉

 その難しいことが、この世で一番の幸せだという。では、愛に飢えているわたしたちはどうしたらよいのか。もしみなが愛されようとするならば、愛してくれる人が誰もいなくなるわけで、当然誰も愛されず、奪いあいの地獄になるのが必然だろう。しかし逆にみなが人を愛そうとするならば、自然愛される人ばかりとなり、誰もが満たされた天国が出現することだろう。
 天国は遠いところにあるのではなく、あなたとわたしの間にある。それは害したり、迷惑をかけたり、意見が対立したりする機会がひんぱんにある、近しいわたしたちの中にある。さあ、今日、わたしたちは天国の住人になろう。

September 17, 2012

ルルドの泉

 ルルドの泉を教えてくれたのは、芹沢光治良だった。
ルルドの泉はカトリックの聖地で、1858年フランス南西部のピレネー山脈の麓の小さな村ルルドに住む少女ベルナデッタに聖母が18回にわたって出現し、ある日「泉の水を飲み、洗いなさい」と言われ、指示をされた場所を掘ると、水が湧きだし泉となったというものである。病を負った者がその水で身を洗ってみると、たちまち病が治ったことから、同じように治したいと願う人々が訪れるようになり、また奇跡と言われる治癒の例が続いて、今も年間500万人以上の人が訪れる巡礼地となっている。
 そのような奇跡的な治癒については、ノーベル生理医学賞のアレキシス・カレル博士をはじめ、多くの科学者や医者が目の当たりにし、広く認められるものとなったが、芹沢光治良は自身がフランス留学中、肺炎にかかって重症のところ、このルルドの泉の水を飲まされて危機を脱した経験があった。無信仰の実証主義者を自称する氏は、フランスのような文明国に、神さまの水を飲んで病を治すというような習慣があり、病院でも平然と行われていることに驚くのだが、その後実際にルルドを訪れ、巡礼団に加わる機会を得ながら、奇跡や信仰の実在を体験して行く。
 当初わたしは、芹沢光治良が言うのであれば事実なのだろうと、ルルドの泉に対してもそんな信じ方だったような気がする。氏はその後晩年になって、自ら神さまの水を人々へ分ける者となって行くが、そこでは天理の聖母と呼ぶべき中山みきの出現がある。おそらくそれも、芹沢光治良がペンにかけて言うのだからと、そのように信じた部分があったと思う。すくなくとも、わたし自身の目の前に、それら二つのものが現れるまでは。

 離婚をすることが決まって、とにかくなにか仕事をはじめなければいけないと心を奮い起こしていた頃、日経新聞の朝刊を開くと、折り込みチラシの一番上に、手作り風のアルバイト募集の広告が乗っかっていた。パソコンのドキュメント作成ソフトとコピー機で作ったような、白地の目立つそのチラシに、決して安いわけではない折込料金を払うのはいったいどんな広告主なのだろうと、昔広告会社にいた人間らしい驚きを感じて中を読んでみると、それは家の並びに建つ幼稚園のもので、朝の通園時の交通誘導という一時間ほどの仕事に2000円の高給がついているのを知って、さらに仰天した。
 その頃、うつの予後を過ごしていたわたしは、まだ三日出歩けば一日寝込むような疲れ方で、仕事を捜すと言っても、はじめからフルタイムの勤務などは無理に思えたが、こんなふうに一日に一時間と決まっている仕事だったら、心身共に負担がないばかりか、他の仕事を掛け持つこともできるように思える。ちょうど、うつの治療と趣味をかねて習っていたフラワーセラピストの勉強が進んで、教室を開いたらと先生に勧められていた頃でもあり、それがどれほど生計に役立つものになるか皆目わからなかったが、時代的に旬を得ている仕事にも思えたし、せっかくの人生の方向転換なのだから、あとはできるだけたくさん書く時間を作ろう、ものを書くことにじっくり向き合おう、たとえ食べられなくなっても、これだけは一回とことんやっておかなければ、後で後悔するにちがいないから・・・・と、そんな希望的な思いを、一枚のチラシに誘われるまま頭の中で広げた。   
 興味本位に幼稚園のホームページを開いてみると、「神さまはいつも見ている」という言葉がとびこんできた。キリスト教の幼稚園ならではだったが、その言葉はそのままわたしの口癖であり、また特に自らに言い聞かせながら日々の不安をはらっていた時期でもあって、わたしは、ちゃんと見ているよと神から言われたように大きな慰みを感じた。しかしもちろんそれは心で十分な励ましを受け取っただけであり、現実的に働き始めようなどと考えられる話ではなかった。第一に、わたしはいずれ家を出なければいけない人間であり、この家の持ち主となる夫や、将来彼が迎えるかもしれない家族のために、アルバイトとは言え、並びの幼稚園で働きだすほど無神経な人間でもなかった。ただそんなふうに夢のような想像を一人楽しんだ後、チラシは回収へ出す古紙の塊の中へ捨てたのだが、それをいつ、どんな風に見つけたのか、
「ねえ、近いし、お給料がいいし、なによりすごく子ども好きなのだし、ぴったりの仕事じゃない?やってみたら?」
とわたしに差し出し、熱心に勧めたのは、この別れた夫だった。

 家を出るまでの二年間のアルバイト。その間になるべく早く、一人で暮らしていけるだけの健康と経済力をしっかり身につけよう。それが別れるわたしたちにとって、おたがい一番後味の良い門出となるはずだ。そう思って、幼稚園の面接を受け、採用になった。
 仕事は、交通安全の旗を持ち、路上や駐車場に立って、通園の車や歩行者を誘導する仕事である。道に立って大声を出し、手や旗を振る気恥ずかしさは、最初の一日であっさり消えたが、離婚という緊急事態がなかったら、とても挑戦する勇気を持てなかっただろう。スタッフはわたし以外は子どもたちを通わせていた卒園生の母親ばかりで、一人異端に、好奇の目にさらされることにもなったが、それもまた開き直った心境なしに、入っていくことはできなかった世界だったと思う。毎朝、体を動かし、大きな声を出して働くのは、想像以上に気持ちよかった。
「おはようございます!」
毎日百人以上へ、繰り返し、繰り返しあいさつをするうちに、わたしの心も夜が明けていくように思えた。
 カトリックであるこの幼稚園の庭には、岩を削った中へ収められたマリア像があり、そばから水が湧き出るように拵えられていた。ルルドのマリア像のレプリカだった。ああ、これが、芹沢光治良の話していたルルドなのだ・・・・わたしは深い感動に浸った。それは、一歩一歩、この道で正しいのだと確かめて歩く道しるべのようでもあった。そしてその後、事務職員にならないかと声をかけられて以来、召命と思ってお受けし、仕事を続けさせていただいている今日にいたるまで、そこは朝は一日の守護を祈り、夕はぶじに一日を終えた感謝を捧げる場所となった。

 さて、芹沢光治良によってわたしはルルドの泉を信じたと書いたが、知識者の言うことを信じて、預言者の言うことを信じない、そういう心理が少なからずとも人にはあると思う。逆に預言者の言うことを信じて、知識者の言うことを信じないというのも危険が大きく、まことは、この二者の言うことが合致することだと思うが、それを確かめる以前に、二者のどちらかの言うことにしか耳を傾けたがらないというのも人の心の向きと言えるだろう。人は、損をしないように疑うものだし、なるべく早く答えを知りたがるし、その上一刻も早く結果を得たがるもので、その間の面倒や苦労はできるだけ省きたいと思う。しかし、それでは真実は決して得られないだろう。
 ベルナデッタが言うことを、初め教会は信じなかった。しかし一方で、教会が聖母マリアの出現であることを認め、ルルドへ多くの人々が訪れるようになり、泉の水によって不治の病が治るなどの数々の奇跡が続いても、当のベルナデッタは無関心で、持病のぜんそくの治療のために、ルルドの泉ではなく遠くの湯治場まで通っていたという。
「わたしは見たこと聞いたことを信じさせることではなく、それを伝える使命をゆだねられています」
という自身の言葉のとおり、ベルナデッタは自らの力を過信することなく、聖母の働きを助けるのはそのための力とでも言うべき教会へゆだね、そしてルルドの泉は年間500万人もの人々が訪れる大巡礼地となって行った。

 こうして書いている間に、幼稚園へ旅行会社の担当が訪ねてきて、
「じつはこの間、ルルドへ行ってきたんですよ」
と話しだした。ある学校の旅行の添乗だったらしい。なにかいつもより嬉しそうな、幸せそうな顔をしていて、ぜひ感想を聞かせてほしいと尋ねると、
「一言で言うと、ルルドは本当に安全なところでした」
と答えた。
 ホテルの部屋にはそれぞれ鍵がつけられているのだが、肝腎の鍵はフロント脇のむきだしのキーボックスがあって、それぞれそこへ入れて外出し、帰ってくると勝手にそこから出して部屋へ入るという具合で、誰でも抜き取ることができる。旅行会社の添乗員としては、非常に困惑したことだろう。しかしルルドではそれが普通で、トラブルが起こるようなこともないらしく、もちろん自分たちも無事であった。また夜間も、外はキャンドルサービスに参加する人々でいっぱいで、夜遅くまで一人で出歩いてもまったく危険がなく、本当に安全な場所だと感心した。職業柄とも言える感想だったが、彼が、疑ってかかるという馴れた視点から、それが必要のない、むしろそういう見方はやましいとさえ反省させられる世界に置かれた戸惑いと感動が伝わってくると同時に、本物に出会ったのだなあとつくづく喜ばれた。思えば彼の「安全」という一言は、言い得て妙なりだった。全く安らかなところ。それこそ聖母の慈しみに包まれた場所にちがいなかった。

 そして同じような安全な場所を、わたしはひとつだけ思いつくことができた。それは芹沢光治良の前に出現した天理教の祖、死してなお人々のために働くと約束した、存命の親様と呼び慕われる中山みきが現れる場所で、その話をじかに聴くことができる天命庵である。そういえば、最寄りのバス停の名前は「泉入口」だったが、8の日になればこんこんと自然に湧き出る水のように惜しみなく教えが語られ、人々は好きにやってきてはその教えを汲み、好きなように帰って行く。老若男女が開け放った庭や座敷に平たく座って話に耳を傾けながら、無邪気に大声で笑い、安らいで、わたしはこの場所がかもしだすものを、「まったくの健康さ」としか表現できないでいたが、それは「安全」というほうがよりぴったりのような気もする。ルルドと同じように、その安全とはまず人々によって常識と自由が守られているゆえだろうが、こうして人の理性や良心を強めるものでなければ、本物の信仰とは言えないだろう。
 この場所で、ある日わたしは親様に話しかけられた。
「わしはずっとこうして母と言う役目をして、古き昔は、それこそ聖母様、聖母様と呼ばれていた魂です。母の魂なんですよ。あんさんは聖母様にご縁があって、いつのまにか天命庵に寄せていただきましたね。同じものです。まさに同じものです。・・・・それをこのたびはよく悟ることができてよかったですね」
200人以上の人の中で話されたことで、人々は突然なんのことだと思っていただろうが、それはマリア様と親様の両方がいっぺんに現れて、なにか板挟みになるように悩んでいたわたしが、二人はひとつ魂だと気づいて心を晴らした、誰にも話していない心の変遷を指して言われた言葉だった。芹沢光治良が、親様は個人的なことを見ていたように話し、理を解き明かすと書いていた、そのとおりのことが自分の上に起きていた。わたしは神の微笑の中にいた。

 母の膝元が子どもにとってもっとも安全な場所であるように、聖母の働く場所にわたしたちはこの世にあきらめていたような安らぎを見出す。しかし、忘れてはいけない。安全な場所とは決して特別な場所ではなく、わたしたち自身が作れるものだ。少なくとも、誰も人のものを奪わない、傷つけない、縛らない、騙さない・・・・そういう場所を作ることは不可能ではないはずだ。それには、奪いあい、傷つけあい、縛りあい、騙しあう、そんな世界で勝ち残ることを学ぶより、あるいは恨みながらがまんして生きるより、それらがない世界をつくる方法を学ばなければいけない。そのために、宗教は学んで早道になることはあっても、けっして時間の無駄になることはないだろう。
 それぞれが家庭を、職場を、あるいは学校を、安全な場所にすること、聖母はそれは可能だと励まし、その努力をわたしたちに願い、そして神は多くのルルドの泉が生まれることを求めているのではないか、そんなふうにわたしは思う。



 

August 26, 2012

背中を見る

 もう一人の祖父の話をしよう。
その前に念を押しておこうと思うが、わたしは決しておじいちゃん子と呼ばれるようなかわいい子どもではなかった。同年代の友だちと遊ぶのが好きで、祖父にはあまり愛想もないような無関心ぶりだった。おじいちゃん子になったのは、二人の祖父が亡くなってからである。失ってから、大慌てをした口である。

 母が当然のように自分の実家の方を気安くしたせいか、そして母の機嫌が良いのが自分の気分も良いと感じる父も賛同しての結果だろう。母方にくらべ、父方の祖父母の家へ遊びに行くのはずっと回数が少なかったが、それはもう一つ、父方の祖父の性質にもよるところがあったと思われ、絵描きだったこの祖父は、子どもや孫が来たからと言って喜んで家族との時間を楽しむという風ではなく、アトリエでいつも黙々と絵を描いていた。もっとも、昼間はアトリエで大人や子どもたちに絵を教えてもいたから、仕事を怠けて、孫と遊んでいるわけにもいかなかったのかもしれないが、旅行にしても絵を描くことが目的だから、家族を連れて行くようなことはなかったし、じっくり一緒に時を過ごして、祖父の笑い声などの記憶が残っているシーンがあるとすれば、たまに夕食を共にしたとか、行きつけの鰻屋さんに連れて行ってもらったりした時のもので、その数は片手で数えられるほど少ない。あとの記憶は、祖父というより、老画家の思い出と呼んだ方がふさわしかった。

 中でも、今でもよく憶えているのは小学校の頃の出来事だ。いくらかは遺伝的な恵みもあったのか、小学校に入ると絵を描くたびになにかしらの賞をいただくようになり、とりわけ母は喜んで、それを見て本人もまた自信をつけるようになり、誰に教わるでもなくひらめくままに、抽象的なデザイン画を描くようになった。それは大した絵ではなかったはずだったが、母をはじめ皆が大感動をして、さすが絵描きの孫だと褒めそやした。そして、どれだけ祖父も喜ぶだろうと浮き立つ母とともに、喜び勇んでそれらの絵を持って行き、見せた時のことだった。祖父の顔は終始冷静そのもので、「おお」と口が開くことも、目を大きくすることもなく、静かに数枚の絵を眺め終わると、わたしに向かって一言だけ口にした。
「想像画はだめだ。ちゃんと在るものを描きなさい」
思いもよらない言葉だった。わたしも母も、返す言葉もなく静まった。
 在るものなら誰だって描ける。なにもないところから世界を生み出すことができるから、想像力があると皆褒めてくれるのに、どうして祖父はそんなことを言うのだろう。芸術家なのに、どうしてつまらないことを言うのだろう。わたしは何を叱られたのかまったくわからず、顔には出さないように、悲しんだ。

 しかしそれは、身内だから放てる一言だった。たとえ傷つけることがあっても、あとでいくらでもフォローがかなう家族だからこそ言い放てる言葉にちがいなかった。幼いうちからちやほやされ、みっともなく高くなっている孫の鼻を折るのは自分しかいないと、そう考えたのかもしれない。そうでなければ、後でもっと無残にへし折られ、不要な部分だけでなく、根っこまで折ってしまうかもしれなかった。数年後、懲りずに母が美術大学の付属校へわたしを進学させるのはどうかと相談した時も、そんなことは本人が大学へ行くときに自分で決めるべきことだと一蹴した。おそらく絵画教室に通う子どもや親に相談されたなら、同じようには言わなかっただろう。少なくとも、わたしとちがって彼らは絵を描くことを学び、努力している人たちだった。
 その後も、わたしは絵を学ぼうとすることはなく、ちがう道を選んだ。そして母は今、自分で絵を描いている。それは母自身の若いころからの夢だった。

 わたしの知る祖父は、人物と、スペインの風景ばかりを描いていた。誇張もひねりも崩しもない、色にしろ構図にしろ創作性を許さないような、非常に誠実な油絵だった。現代アートや、イラストレーション的なものが潮流を得て人々を惹きつけて行く中、わたしも例外ではなく、祖父の絵には正直あまり魅力を感じなかった。祖父の絵で好きなのは一枚だけだった。それは古いもので、アトリエの一番広い壁を占拠する、ジャングルで憩い楽しむ南国の女性たちを描いた巨大な絵であった。女性たちの笑い声、歌声が聞こえてきそうな、本当に美しい絵だった。わたしは生まれてからずっと、その絵を眺めて育ってきた。
 だがその絵の存在の大きさについて本当に理解したのは、祖父が亡くなった時だった。告別式で、参列者の代表として別れのあいさつをしてくれた古い友人という人が、祖父の画家としての歴史をはじめてわたしに聴かせてくれた。戦前、戦中は海洋画家と呼ばれ、海軍や華族会館を祖父の海の絵が飾っていたという。セレヴェス、パレパレ・・・・戦中祖父がわたったという聞き慣れない地名を聴きながら、あの美しいジャングルにあそぶ女性たちの絵があざやかに動き出すように、思い出された。なぜあの絵が生まれたのか、戦時下で祖父が見つけた楽園のことをまざまざと知る思いがした。そして祖父が海を描かなくなったわけを、なぜ人間や人の暮らしが薫る街並みばかりを描くようになったのかを、わたしは理解できた気がした。海洋画家は戦争で死んだのだ。祖父は本当に描くべきものを見つけたのだ。想像画はいけないと叱られた十に満たなかった孫は、その時二十歳になっていた。

 さらに時を経て不惑の歳となった時、その間、何度も何度も他者に失望し、自分に絶望したことを繰り返したのち、祖父が戦争のさなかでほとばしるような命の輝きを見つけたのと同じように、わたしも人間の中に、その救いようがないようなまちがいや醜さだらけの営みの中に、とうとき美しさを見出していた。同時に、写実的な絵のことを技術以上の思想が無いもののように軽んじていたわたしは、あるがままの姿を虚飾なく描くことが命の真の讃美となっていることに、それは神の創造をもっとも謙遜に大声で讃えることと同じだということに、ようやく気がついた。
 家族というものは不思議なものだった。たとえ直接手間ひまをかけられなくても、言葉がなくても、後姿を見せられながら育てられていく。祖父にはみじんも孫に見せようなどという気持ちはなかったと思うが、その影響は意識するともなくこうして今もなお続き、相変わらずわたしはキャンバスに向かう祖父の背中を見ているように、無言の教えに耳を澄ます。

 さて、ジャングルの楽園の女性たちは、祖父のアトリエの象徴のように、ずっと変わらない場所で大きな存在感を放ってきたが、わたしたちの目には届かない片隅に、それよりももっと前から、変わらず飾られてきた小さな絵があった。それは若い日の祖母の顔だった。わたしはまったくその存在に気がつかず、アトリエを畳む時に父から話を聴いただけだったが、祖母の絵は祖父の机のすぐ脇に、本や書類や絵の道具に紛れるように何十年と変わらず掛けられていたと言う。なれそめのことはよく知らないが、大恋愛で結婚した二人である。人を愛するこのまなざしが、祖父の絵の原点であったことを、そしてまた自分の命の原点でもあったことを、なによりも、誇りに思っている。