January 26, 2013

 二年前の誕生日、友人がとても忙しい人なのに時間を作って夕食に誘ってくれ、青山にある瀬戸内料理の店へ出かけた。父方の祖父が岡山の出身だったから、ひんぱんではないにしろその特産品を口にする機会は他よりも多く、体は異郷と感じながらも、舌だけは岡山を故郷と憶えて親しんでいるような具合で、誕生日に際しなにか食べたいものをという話になって、備前焼の器で郷土の料理を出してくれるその店を希望したのであった。またそこは以前から何度も二人で訪れようとして、チャンスを逃してばかりいた場所でもあった。
 なんといっても四十代半ばの独り者である。一緒に暮らす母も、娘の誕生日に祝いの料理をふるまうのは決してやぶさかではないと思うが、同時に誕生日の夜も華やぐようすもなく家にいる娘を不憫がりそうだし、かといって同性の友人の多くは子育ての真っ最中で、一人でどこかでごちそうを食べるというわけに行かない年齢であり、また異性の友人と出かけるには、誕生日というのは特別すぎて、気軽に祝ってもらうというわけにも行かなかった。そんな苦境を知るように、ご主人はいるが子どもはいない同性のその友人は、気兼ねを感じないようにすっと引っ張り出してくれたのだが、それはいつも感心する彼女のスマートな優しさだった。
 
 そして楽しく美味しい食事を終え、店を出ようとした時である。店主のおばあちゃまに声をかけられた。
「来月から、うちで茶の湯教室をするんだけれど、よかったら来ない?」
その誘いは、じつはわたしにとって渡りに舟のような話だった。ちょうど前の月にお呈茶に与って、この歳まで作法を学んでこなかったことをひどく悔やんでいたのである。それはイベントの休憩時間に、友人のお母さまが出してくれた一服で、いたって気軽なものではあったのだが、同席していたアメリカ人から茶碗の持ち方を教わっている自分の素養のなさに、これはいただけない、と深く反省したのである。月に一回、立礼の茶道教室ということで、敷居の低さがとてもありがたかった。
「それにね、先生がすてきな方だからぜひ紹介したいのよ」
と、焼き物の品定めで研磨された目を若々しく輝かせながら、オーナーのおばあちゃまは言うのだった。

 
 そうして、わたしは翌月から青山社中の一員となり、茶の湯を学ぶことになった。
なるほど、ぜひ会わせたいと店主が言うとおり、先生はさわやかな、見識も豊かな女性で、年齢はわたしとあまり変わらないように見えるが学ぶところが多かった。食事処での気楽な教室ではあったが、備前焼の専門店でもあるから店から提供される茶碗は、現代の作家物から骨董まで良品ばかりだったし、先生が持ち込んで、テーブルの上にしつらえる簡易の床の間飾りには、古寺名刹の老師の筆がかかったり、また老師作の茶杓などが実際の稽古の道具として使われたりと、五感を使って無批判に知識を吸収してしまう初心者にとって、最初からこれだけ本物を使って習う事ができるのは非常に幸運なことだった。
 こんな風に喜んで通っていた茶の湯教室だったが、半年経ったころ、詳しい事情は知らないが、店が急に閉店をすることになった。希望なら、先生の白山の茶室へ通って稽古を続けることもできると誘われ、青から白へと色を変わるように山を移ったのは、店主とわたしと、教室で一番若い女性の三人だけだった。

 これまで、書や道具の数々に古刹の貴重な品々が並ぶのを、
「主人の家が寺なので、お寺関係は強いんですよ」
と先生は茶目っ気を見せて笑うだけだったが、自宅での教室となると、出てくる希少品の数は普通ではなく、だんだん好奇心が強まるのをおさえることが難しくなった。ご主人の実家というのはわたしの住まいと同じ市内のようなのだが、そのあたりで話はなんとなく止まるので、追求するのも失礼な気がしてこちらもそれ以上を控えた。もうひとつ、「実相庵」という茶室の名前も気になっていたのだが、ようやくチャンスが来て、どうしてその名をつけたのか由来を尋ねてみた時である。
「これは、義父の関係の延暦寺の大僧正がつけてくださったものなんですよ」
と答えが返って驚いた。ああ、縁と言うのはこういうものなのだ。ここで延暦寺の名前を聴くことになるとは思ってもみなかった。そういえば、その日の主菓子は阿闍梨餅であった。比叡山で千日回峰行を行う阿闍梨の笠をかたどった古くからある京都の銘菓で、千日回峰行とは、比叡山中を深夜駆け巡りながら礼拝する苦行のことである。ありがたいことに、わたしたちに呈された阿闍梨餅は、この千日回峰行の満行者である大阿闍梨からのいただきものということだった。
 その日も、あとは逆に先生からいろいろとわたしのことを質問されて、懸命にそれに答えているうち、肝心な先生のことを尋ねる機会を逸して家に帰ることになってしまったのだったが、やはりどうしても気になって、品のないことだけれど、インターネットで三つほどキーワードを並べて検索をかけてみた。すると難なく先生のご主人のご実家は見つかったが、それは思ってもみなかったことに、孝道山という昭和11年創始の仏教系の新宗派だった。ご主人のお祖父さまとお祖母さまが開祖であり、現在三代目としてお兄さま夫婦が継がれている。そしてわたしは息が止まるほど驚きながら、孝道山の概要を見つめた。そこには、延暦寺から分けられた「不滅の法灯」が祀られていると言うのである。不滅の法灯は、延暦寺根本中堂で1200年消えることなく守られ、灯され続けている火で、三年前に父の墓を建てた時、勝手にその分け火をいただくつもりで一字を頂戴し、「灯」と石に彫った。父がいつまでも家族を明るく、あたためてくれる「灯」であり、わたしたちを励ましてくれる拠りどころとなるようにという思いと同時に、いつかわたしたちもその「灯」に帰り、加わり、後世を照らそうという願いをこめた。
 さらに孝道山には、ある日延暦寺の大僧正の夢に大黒天が現われ、運ばれることとなった大黒天像が祀られているというのだが、その夢によって大黒天を孝道山へお連れした、もう一人の大僧正という人が、父の葬儀で経を詠み、また仏壇の本尊へ魂入れをしてくれた、目黒大円寺の当時の住職だったというのだ。大円寺は父の死まで我が家とは縁もゆかりもない、葬儀社が探して手配をしてくれた寺だった。無信仰・無宗教を主張していた父であり、同じ考えである母は初め、葬儀は花を飾ってただのお別れ会にし、式も経もなにもなくていいと嫌がったのだが、わたしはわたしで、宗教家は葬儀を商売でしているわけではない、わたしたちがしたこともない、天国への送り方を勉強してきた人たちであり、そういう人にぜひ父を送りに来てもらいたいと、母によく似た頑固で言い張り、結局変ったことをするのを好まない弟が仲裁することになって、社会一般的な仏式の葬儀を行うことになったのである。そして岡山の先祖の菩提寺に相談すると、こだわらずに近くの寺で経をあげてもらうようにと話があり、松の内に亡くなり、混み合って手配が難航する中、葬儀社が苦心して結んでくれたのが目黒の大円寺だったのであった。

 母は基本的にまじめな人だから、無信仰・無宗教と言いつつも、いったん仏式に則ることが決まれば常識に従い、どの法事も仏事もないがしろにしたり、怠るようなことはしなかったが、おそらく寺との付き合いは大変だと自分の母親からひんぱんに聞かされたせいだろう。大円寺には四十九日まで葬儀社を通してお世話になったが、納骨からは霊園に頼んで、墓の開眼法要も各年忌も、その時、その時に手配のつく寺に来てもらうことになった。それでも仏壇を作るときは、本尊にする仏画に魂入れをしなければいけないと店で教わって困ったようで、母自ら大円寺に電話をして依頼した。そしてわたしと二人、大円寺の阿弥陀堂で法要をあげてもらい、我が家のご本尊に釈迦如来を授かった。
「仏壇に手を合わせると、同時にこの大円寺のご本尊も拝していることになります」
大円寺には、現在年代がわかっているものでは最も古いという清涼式の生身の釈迦如来立像が祀られているが、毎年ちょうど大晦日から父の命日までご開帳になると言い、大晦日に父を病院から家に連れて帰り、家族で一緒に正月を祝い、そして天に送った最期の日々がぴったりそこに重なって、わたしは深く慰められた。
 以来、毎日仏壇を通して手を合わせているはずの大円寺である。誕生日祝いのために訪れた瀬戸内料理の店から、岡山出身の先生の茶の湯教室につながり、そしてその婚家である孝道山へとつながって、新たにこの名にめぐり合うことになるとは、すべてご本尊と父による導きと恩恵だったのではないだろうかと思う。

 孝道山の教えは法華経を真理とし、親子の間にある情愛こそ仏の慈悲の心と同じであると考え、人に本来具わっているその仏性を社会で実践し、広げて行くことをめざしている。そういえばわたしに、文庫で良いから法華経を読んでみるようにと勧めたのも大円寺の副住職だった。言われたとおり四十九日の後、岩波文庫の法華経三巻を買って読んだのだったが、分厚い三冊にわたって繰り返し、繰り返し語られ、他は忘れてもこれだけは体に染みついて消えなくなるような教えがあった。それは、命を授かること、人として生まれることは、非常に稀有な貴重な恵みであるということ、そしてただでさえ珍しいようなその人生の中で、仏の教えに出会うことができるのはたいへん希少な、真にこれに勝る宝は存在しないようなものである、ということだ。
 この二つのとうときものを、生命とそして仏との出会いを授けてくれた父に、今あらためて心からの感謝を捧げたい。