December 23, 2012

Xmas

 十代から二十代まで、一年のうちもっとも好きな季節はクリスマスだった。今は嫌いになったと言うわけではなく、盆のような年中行事も味わい深いような年齢になって、どの季節や風習にもそれぞれ愛着を感じるようになり、何が一番と言えなくなっただけだったが、当時は、目に映るものに心つかまれやすい年頃でもあり、街中が飾りつけをして美しく彩られ、流れる音楽も楽しく、また家々の玄関や窓にはリースがかけられたりライトが点滅したりして、まるで道行く人にまで声をかけてくれているような、ひとつの同じ喜びにみんなが心を寄せているような、そんなあたたかさを感じ、なんだかとても幸せになった。

 実際、その年代というのは、イブを誰と過ごすかということも真剣な悩みとなる切ない時期でもあったが、意中の人と過ごせればそれは本当に特別なことだし、そうでなくても、なんとなく一人にはならないような、結局放っておかれないような、クリスマスとはそんな日だった気がする。一人にならなかったというのは、必ず誰かと一緒ににぎやかに過ごしていたという意味でもなく、たとえばクリスマスカードが一枚届いたり、なにか心あたたまる小さなできごとがあったり、あるいは神さまからのプレゼントとしか思えないような幸運に出会ったり・・・・・形や程度はさまざまではあるが、大切にされた幸せにかならず与ったように思うのだ。

 寒い冬の日に、暖炉の前できれいに飾られたクリスマスツリーを囲み、ケーキを食べ、歌を歌って喜び合う・・・・そんな西洋の光景を、幼いころから絵本や映像で眺めて培われてきた憧れは、実のところ、あたたかさや、明るさ、そして愛に満ちたものを求める気持ちに他ならなかったのではないかと思う。冬の寒さの中のぬくもり、夜の暗闇の中の光、わたしたちがそれらを求めることはいたって自然である。そしてイエス・キリストは、まさしく人をあたため、光を与えるために生まれてきた。クリスマスとは、その使命の誕生を祝う日だ。

 三十代の後半になって、思いもよらなかった転機でキリスト教の学校に勤めることになり、わたしは念願がかなったと言うよりはやはり思いもかけず、あらためて好きだったクリスマスの意味を学ぶことになった。今思えばおかしいというか、おそろしいことだが、それまでも自分はクリスマスとは何かを十分知っているつもりでいたし、新しく知る意味があるとも思っていなかった。家に誰もクリスチャンはいなかったが、物心ついた頃から家族をあげて祝っているクリスマスである。クリスマスがイエス・キリストが生まれた日であること、またその誕生の物語について知ったのはいつだったか。マリアとヨゼフの名前も、天使のお告げも、また処女懐胎も、中学生の頃には一般常識のように自然な知識として身についていたように思う。しかし今、同じこのクリスマスを眺めながら、わたしは毎年新しい物語を知るように感嘆せずにいられない気持ちになる。知るというのは、無知に出会うことだと言うが、まさにそんな心境になるのだ。

 救い主が誕生した・・・・・・はじめにその知らせを天使から受けたのは、国の偉い人たちでも、賢者と言われる人たちでも、宗教指導者たちでもなく、羊飼いたちだった。その職業は、貧しく、軽蔑され、そして毎日羊の世話があるので教会へ通うこともできなかった人々である。権力や、知識や、地位、いずれも持たない素朴な人々に、世界が変わるほどの、2000年後も世界中がその日を祝うことになるようなできごとの最初のニュースが知らされたのである。ある時、カトリック界でさまざまな重役を務める日本人神父がこんなことを口にして、わたしは新鮮な驚きと共にひどく納得したことがあった。
「ぼくが一番おそろしいのは、えらい人になってしまい、知らせを受けられないことなんです」
神の御業を一番に知らせてもらえる身でいたい、それは誰しも、ましてイエス・キリストに身を捧げる者なら当然抱く願いであるにちがいなかった。

 羊飼いばかりではない。母マリアは、結婚前に妊娠をしてしまうという、まさに白い目で見られ、村八分になって然るべき身の上であった。その出来事を受け入れるマリアの勇気と信念を想う時、わたしは何度でも脱帽の気持ちにかられる。「神に選ばれた方」、後世のわたしたちはマリアのことをそう呼び、賛美する。でも当時、そのような扱い方を誰もしなかったに違いなくて、むしろ汚れた、頭のおかしい人くらいに扱っていたのではないだろうか。そして、そんなマリアを妻とし、守り抜くヨゼフのことを考えると、これ以上良い男はいないのではないかと思ってしまう。婚約者が自分の子ではない命を宿していることを知ったら、どんな怒りや失望に陥っても不思議はないだろう。また、それは聖霊によって宿されたものであると夢で告げられ、励まされたとしても、その夢を信じ、マリアを信じる強さを持つことは決して容易ではないはずだ。わたしはこの健気な夫婦を想うたび、そして二人の間にお告げのとおり本当に男の子が生まれた瞬間を想うたび、ヨゼフとマリアに満ち溢れただろう大きな喜びに感応せずにいられない。どの時代でも、世間に負けず志を遂げること、疑念や疲れに負けず愛を行うことは難しい。母は子を守り、その母を、夫である父が守る。クリスマスとは最も素朴で尊いその姿を通して、聖なるとはどういうことかを示しているように思える。

 最後にもうひとつ。この2000年と祝祭が続くことになるクリスマスを、最初にプレゼントを持って祝いにやってきたのは東方の三博士たちであった。彼らは占星術師とも、天文学者とも解されているが、いずれにしろ「星」と「時」とに精通した賢者たちであり、世俗や権力に惑わされず、真理を追求する者たちであった。ここでも、示されているのはわたしたちがどう生きるべきかであるような気がする。わたしたちもまた、本物の幸せを探し、旅をする。道しるべとして、星のように誰も奪えない、誰も隠せないところにしるしが顕れる。それは、見る目のある者、聴く耳のある者にしかわからないしるしであり、そして答えだ。現代のように医学も科学も発達していない時代に、博士は自然の摂理に通じ、人々や社会へ適切な助言を与えることができる、尊敬された存在だったことだろう。しかし見る目と聴く耳とは、優れた知性ではなく、謙遜の心によって開かれるものである。三博士は、自らの知恵に驕る者ではなくお告げに従う者であり、この世の王ではなく馬小屋の赤ん坊にひざまずいて宝物を捧げる者であった。わたしたちが人生の道しるべを見、本物にたどり着くことができるのも、こうして大いなるものを仰ぎ、謙遜となる心なくしてはきっとかなわないだろう。
 今年の聖夜も、もうすぐである。もう一度、この救いの物語を、胸に。
 
 
きよしこの夜 星はひかり
救いのみ子は 
み母の胸に
ねむりたもう 夢やすく

きよしこの夜 み告げ受けし
羊飼いらは 
み子のみ前に
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜 み子の笑みに
めぐみのみ代の 
あしたの光
輝やけり ほがらかに

「きよしこの夜」
作詞:ヨーゼフ・モール 作曲:フランツ・グルーバー
訳詞:由木 康

 
 

November 3, 2012

天国

言葉あそびのようだけれども、天国というのは「二人の国」と書く。なるほど恋人同士が二人でいられたら、どこであろうと、たとえ過酷な状況の中であろうと、まさしくそこが天国だろう。三人や四人ではだめだし、もちろん一人でもだめで、二人になることではじめて現われる幸せの国だ。そして二人が一つになると、「夫」(おっと・つま)になる。言ってみたら、夫婦というのは別名「天国」なのである。恋人の間にあるようなテンポラリーな、不確かなものではなく、永遠を許された天国である。

・・・・お互いに、心の底から愛し合っている人たちはこの世でいちばん幸せ者です。彼らは少ししか、いいえ全く何も持っていないかもしれません。でも幸せなのです。すべてのことは、どのように愛し合うかにかかっているのです。    〈マザーテレサ〉

 思えば、わたしたちはみないつでも、なにをしている時でも、ただ愛し愛されることを求めている生きものなのだろう。恋人や夫婦という関係だけでなく、親が子を、子が親を、また友人、同僚、そして社会を相手に、わたしたちはいつも愛することと、愛されることを求め、うまく愛せなかったり、愛されていないと感じたりして、悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、恨んだりする。
 どんなに愛しても、相手からの愛を感じられなかったらとてもつらいし、どんなに愛されても、愛せない相手からだったらそれもまたつらいだろう。なるほど「心の底から愛し合っている」のは、この世でいちばんと言われるほど仕合わせなことである。しかし、誰でも知ってることだが、この相思相愛の幸福さえ、得られたと思っても長くは続かない。自分の思いや愛情すら、あまりあてになるようなものではない。相手にいたっては、そもそもちがう人間だから、その真情は絶えず確かめていなければ皆目わからないし、でもそんなことをすれば嫌われるだけで、結局不安になったり、不足に思う時間のほうが長かったりする。信じる勇気や、与える勇気がなく、疑うことや、欲しがることばかりして、育てるどころか破壊行為を繰り返してしまうことも少なくない。どうも、人というのは、願いと裏腹なことをしてしまうものなのである。

 すべてのことはどのように愛しあうかにかかっているのです。

 愛しあうというのは、状態ではなく、むしろ努力のことなのだろう。永遠を許された天国である夫婦も、いつだって、誰だって、地獄に変わってしまうことがあるように、結婚もまたゴールではなく、じつは努力の契約にほかならない。それは、飽くことなく、倦むことなく、また自己中心的になることも、失望することもなく、生涯相手を大切にし続けると、家族や社会、そして神の前で決心することだ。

 さて、自らのことながら日本人はおもしろいなあ・・・・と思って眺める風習に、信仰の姿も含まれるが、特別に宗教を持たない日本人の多くが、誕生するとお宮参り、七五三と、子どものうちは神道にならって健康と幸福を祈願し、結婚するにあたってはホテルや式場のチャペルでキリスト教の祝福を受け、最期に死ぬときは仏教に沿って冥福を祈られながらこの世を旅立たせてもらう・・・・こんなふうに人生の大事に宗教儀式を行うのが、現代人の王道である。一年の過ごし方も似たようなもので、一年のはじまりには神社へ初詣をし、クリスマスには隣人みなでよろこび合って、寺院の除夜の鐘を聴いて一年を終える。以前、神道の専門の大学のオープンキャンパスで、日本人の精神文化についての話を拝聴した際、「日本の神様は仏様の教えを学びたいと、途中で仏教に帰依したわけです・・・」と言われてびっくりし、そういう捉え方をするものなのかと、謙遜な発想に目からうろこが落ちるような思いをしたが、とすれば、さらに戦後、日本の神様はキリスト教からも教えを学びたいと思われたのだろうか。日本の神様がキリスト教の教えを乞うたのだとすれば、それはまさに、人々がどのように愛しあうべきかを学ぶためだったにちがいない。仏教では「愛」という言葉は、執着や渇愛、愛慾など、滅すべき煩悩をあらわすものとして否定的に使われることが多いそうだ。それでは誤解が生じ、たいせつなものが欠落してしまうと考え、キリストの教えを得たいと願われたのかもしれなかった。なるほど日本は、思想も文化も、足し算をして行く「和」の国である。

 話は少しそれたが、わたしたちは全員、幸せになるために生きていて、毎日が幸せになるその日である。誰もが幸せを模索する中、成功の秘訣を探す中、一度は天国の教えを試してみても良いと思うのだがどうだろう。教えたからと言って、なんの得も見返りもない人たちが、苦労し、命を使って教えてくれることである。
 

遠くの人を愛することは簡単です。
難しいのは、
今、わたしたちのすぐ隣にいる人を愛することです。
世界の人々は異なった宗教を持ち、
異なった教育を受け、
さまざまな地位にあるように見えますが、
本当は同じなのです。
皆、愛されるべき人々です。
皆、愛に飢える人々です。  〈マザーテレサ〉

 その難しいことが、この世で一番の幸せだという。では、愛に飢えているわたしたちはどうしたらよいのか。もしみなが愛されようとするならば、愛してくれる人が誰もいなくなるわけで、当然誰も愛されず、奪いあいの地獄になるのが必然だろう。しかし逆にみなが人を愛そうとするならば、自然愛される人ばかりとなり、誰もが満たされた天国が出現することだろう。
 天国は遠いところにあるのではなく、あなたとわたしの間にある。それは害したり、迷惑をかけたり、意見が対立したりする機会がひんぱんにある、近しいわたしたちの中にある。さあ、今日、わたしたちは天国の住人になろう。

September 17, 2012

ルルドの泉

 ルルドの泉を教えてくれたのは、芹沢光治良だった。
ルルドの泉はカトリックの聖地で、1858年フランス南西部のピレネー山脈の麓の小さな村ルルドに住む少女ベルナデッタに聖母が18回にわたって出現し、ある日「泉の水を飲み、洗いなさい」と言われ、指示をされた場所を掘ると、水が湧きだし泉となったというものである。病を負った者がその水で身を洗ってみると、たちまち病が治ったことから、同じように治したいと願う人々が訪れるようになり、また奇跡と言われる治癒の例が続いて、今も年間500万人以上の人が訪れる巡礼地となっている。
 そのような奇跡的な治癒については、ノーベル生理医学賞のアレキシス・カレル博士をはじめ、多くの科学者や医者が目の当たりにし、広く認められるものとなったが、芹沢光治良は自身がフランス留学中、肺炎にかかって重症のところ、このルルドの泉の水を飲まされて危機を脱した経験があった。無信仰の実証主義者を自称する氏は、フランスのような文明国に、神さまの水を飲んで病を治すというような習慣があり、病院でも平然と行われていることに驚くのだが、その後実際にルルドを訪れ、巡礼団に加わる機会を得ながら、奇跡や信仰の実在を体験して行く。
 当初わたしは、芹沢光治良が言うのであれば事実なのだろうと、ルルドの泉に対してもそんな信じ方だったような気がする。氏はその後晩年になって、自ら神さまの水を人々へ分ける者となって行くが、そこでは天理の聖母と呼ぶべき中山みきの出現がある。おそらくそれも、芹沢光治良がペンにかけて言うのだからと、そのように信じた部分があったと思う。すくなくとも、わたし自身の目の前に、それら二つのものが現れるまでは。

 離婚をすることが決まって、とにかくなにか仕事をはじめなければいけないと心を奮い起こしていた頃、日経新聞の朝刊を開くと、折り込みチラシの一番上に、手作り風のアルバイト募集の広告が乗っかっていた。パソコンのドキュメント作成ソフトとコピー機で作ったような、白地の目立つそのチラシに、決して安いわけではない折込料金を払うのはいったいどんな広告主なのだろうと、昔広告会社にいた人間らしい驚きを感じて中を読んでみると、それは家の並びに建つ幼稚園のもので、朝の通園時の交通誘導という一時間ほどの仕事に2000円の高給がついているのを知って、さらに仰天した。
 その頃、うつの予後を過ごしていたわたしは、まだ三日出歩けば一日寝込むような疲れ方で、仕事を捜すと言っても、はじめからフルタイムの勤務などは無理に思えたが、こんなふうに一日に一時間と決まっている仕事だったら、心身共に負担がないばかりか、他の仕事を掛け持つこともできるように思える。ちょうど、うつの治療と趣味をかねて習っていたフラワーセラピストの勉強が進んで、教室を開いたらと先生に勧められていた頃でもあり、それがどれほど生計に役立つものになるか皆目わからなかったが、時代的に旬を得ている仕事にも思えたし、せっかくの人生の方向転換なのだから、あとはできるだけたくさん書く時間を作ろう、ものを書くことにじっくり向き合おう、たとえ食べられなくなっても、これだけは一回とことんやっておかなければ、後で後悔するにちがいないから・・・・と、そんな希望的な思いを、一枚のチラシに誘われるまま頭の中で広げた。   
 興味本位に幼稚園のホームページを開いてみると、「神さまはいつも見ている」という言葉がとびこんできた。キリスト教の幼稚園ならではだったが、その言葉はそのままわたしの口癖であり、また特に自らに言い聞かせながら日々の不安をはらっていた時期でもあって、わたしは、ちゃんと見ているよと神から言われたように大きな慰みを感じた。しかしもちろんそれは心で十分な励ましを受け取っただけであり、現実的に働き始めようなどと考えられる話ではなかった。第一に、わたしはいずれ家を出なければいけない人間であり、この家の持ち主となる夫や、将来彼が迎えるかもしれない家族のために、アルバイトとは言え、並びの幼稚園で働きだすほど無神経な人間でもなかった。ただそんなふうに夢のような想像を一人楽しんだ後、チラシは回収へ出す古紙の塊の中へ捨てたのだが、それをいつ、どんな風に見つけたのか、
「ねえ、近いし、お給料がいいし、なによりすごく子ども好きなのだし、ぴったりの仕事じゃない?やってみたら?」
とわたしに差し出し、熱心に勧めたのは、この別れた夫だった。

 家を出るまでの二年間のアルバイト。その間になるべく早く、一人で暮らしていけるだけの健康と経済力をしっかり身につけよう。それが別れるわたしたちにとって、おたがい一番後味の良い門出となるはずだ。そう思って、幼稚園の面接を受け、採用になった。
 仕事は、交通安全の旗を持ち、路上や駐車場に立って、通園の車や歩行者を誘導する仕事である。道に立って大声を出し、手や旗を振る気恥ずかしさは、最初の一日であっさり消えたが、離婚という緊急事態がなかったら、とても挑戦する勇気を持てなかっただろう。スタッフはわたし以外は子どもたちを通わせていた卒園生の母親ばかりで、一人異端に、好奇の目にさらされることにもなったが、それもまた開き直った心境なしに、入っていくことはできなかった世界だったと思う。毎朝、体を動かし、大きな声を出して働くのは、想像以上に気持ちよかった。
「おはようございます!」
毎日百人以上へ、繰り返し、繰り返しあいさつをするうちに、わたしの心も夜が明けていくように思えた。
 カトリックであるこの幼稚園の庭には、岩を削った中へ収められたマリア像があり、そばから水が湧き出るように拵えられていた。ルルドのマリア像のレプリカだった。ああ、これが、芹沢光治良の話していたルルドなのだ・・・・わたしは深い感動に浸った。それは、一歩一歩、この道で正しいのだと確かめて歩く道しるべのようでもあった。そしてその後、事務職員にならないかと声をかけられて以来、召命と思ってお受けし、仕事を続けさせていただいている今日にいたるまで、そこは朝は一日の守護を祈り、夕はぶじに一日を終えた感謝を捧げる場所となった。

 さて、芹沢光治良によってわたしはルルドの泉を信じたと書いたが、知識者の言うことを信じて、預言者の言うことを信じない、そういう心理が少なからずとも人にはあると思う。逆に預言者の言うことを信じて、知識者の言うことを信じないというのも危険が大きく、まことは、この二者の言うことが合致することだと思うが、それを確かめる以前に、二者のどちらかの言うことにしか耳を傾けたがらないというのも人の心の向きと言えるだろう。人は、損をしないように疑うものだし、なるべく早く答えを知りたがるし、その上一刻も早く結果を得たがるもので、その間の面倒や苦労はできるだけ省きたいと思う。しかし、それでは真実は決して得られないだろう。
 ベルナデッタが言うことを、初め教会は信じなかった。しかし一方で、教会が聖母マリアの出現であることを認め、ルルドへ多くの人々が訪れるようになり、泉の水によって不治の病が治るなどの数々の奇跡が続いても、当のベルナデッタは無関心で、持病のぜんそくの治療のために、ルルドの泉ではなく遠くの湯治場まで通っていたという。
「わたしは見たこと聞いたことを信じさせることではなく、それを伝える使命をゆだねられています」
という自身の言葉のとおり、ベルナデッタは自らの力を過信することなく、聖母の働きを助けるのはそのための力とでも言うべき教会へゆだね、そしてルルドの泉は年間500万人もの人々が訪れる大巡礼地となって行った。

 こうして書いている間に、幼稚園へ旅行会社の担当が訪ねてきて、
「じつはこの間、ルルドへ行ってきたんですよ」
と話しだした。ある学校の旅行の添乗だったらしい。なにかいつもより嬉しそうな、幸せそうな顔をしていて、ぜひ感想を聞かせてほしいと尋ねると、
「一言で言うと、ルルドは本当に安全なところでした」
と答えた。
 ホテルの部屋にはそれぞれ鍵がつけられているのだが、肝腎の鍵はフロント脇のむきだしのキーボックスがあって、それぞれそこへ入れて外出し、帰ってくると勝手にそこから出して部屋へ入るという具合で、誰でも抜き取ることができる。旅行会社の添乗員としては、非常に困惑したことだろう。しかしルルドではそれが普通で、トラブルが起こるようなこともないらしく、もちろん自分たちも無事であった。また夜間も、外はキャンドルサービスに参加する人々でいっぱいで、夜遅くまで一人で出歩いてもまったく危険がなく、本当に安全な場所だと感心した。職業柄とも言える感想だったが、彼が、疑ってかかるという馴れた視点から、それが必要のない、むしろそういう見方はやましいとさえ反省させられる世界に置かれた戸惑いと感動が伝わってくると同時に、本物に出会ったのだなあとつくづく喜ばれた。思えば彼の「安全」という一言は、言い得て妙なりだった。全く安らかなところ。それこそ聖母の慈しみに包まれた場所にちがいなかった。

 そして同じような安全な場所を、わたしはひとつだけ思いつくことができた。それは芹沢光治良の前に出現した天理教の祖、死してなお人々のために働くと約束した、存命の親様と呼び慕われる中山みきが現れる場所で、その話をじかに聴くことができる天命庵である。そういえば、最寄りのバス停の名前は「泉入口」だったが、8の日になればこんこんと自然に湧き出る水のように惜しみなく教えが語られ、人々は好きにやってきてはその教えを汲み、好きなように帰って行く。老若男女が開け放った庭や座敷に平たく座って話に耳を傾けながら、無邪気に大声で笑い、安らいで、わたしはこの場所がかもしだすものを、「まったくの健康さ」としか表現できないでいたが、それは「安全」というほうがよりぴったりのような気もする。ルルドと同じように、その安全とはまず人々によって常識と自由が守られているゆえだろうが、こうして人の理性や良心を強めるものでなければ、本物の信仰とは言えないだろう。
 この場所で、ある日わたしは親様に話しかけられた。
「わしはずっとこうして母と言う役目をして、古き昔は、それこそ聖母様、聖母様と呼ばれていた魂です。母の魂なんですよ。あんさんは聖母様にご縁があって、いつのまにか天命庵に寄せていただきましたね。同じものです。まさに同じものです。・・・・それをこのたびはよく悟ることができてよかったですね」
200人以上の人の中で話されたことで、人々は突然なんのことだと思っていただろうが、それはマリア様と親様の両方がいっぺんに現れて、なにか板挟みになるように悩んでいたわたしが、二人はひとつ魂だと気づいて心を晴らした、誰にも話していない心の変遷を指して言われた言葉だった。芹沢光治良が、親様は個人的なことを見ていたように話し、理を解き明かすと書いていた、そのとおりのことが自分の上に起きていた。わたしは神の微笑の中にいた。

 母の膝元が子どもにとってもっとも安全な場所であるように、聖母の働く場所にわたしたちはこの世にあきらめていたような安らぎを見出す。しかし、忘れてはいけない。安全な場所とは決して特別な場所ではなく、わたしたち自身が作れるものだ。少なくとも、誰も人のものを奪わない、傷つけない、縛らない、騙さない・・・・そういう場所を作ることは不可能ではないはずだ。それには、奪いあい、傷つけあい、縛りあい、騙しあう、そんな世界で勝ち残ることを学ぶより、あるいは恨みながらがまんして生きるより、それらがない世界をつくる方法を学ばなければいけない。そのために、宗教は学んで早道になることはあっても、けっして時間の無駄になることはないだろう。
 それぞれが家庭を、職場を、あるいは学校を、安全な場所にすること、聖母はそれは可能だと励まし、その努力をわたしたちに願い、そして神は多くのルルドの泉が生まれることを求めているのではないか、そんなふうにわたしは思う。



 

August 26, 2012

背中を見る

 もう一人の祖父の話をしよう。
その前に念を押しておこうと思うが、わたしは決しておじいちゃん子と呼ばれるようなかわいい子どもではなかった。同年代の友だちと遊ぶのが好きで、祖父にはあまり愛想もないような無関心ぶりだった。おじいちゃん子になったのは、二人の祖父が亡くなってからである。失ってから、大慌てをした口である。

 母が当然のように自分の実家の方を気安くしたせいか、そして母の機嫌が良いのが自分の気分も良いと感じる父も賛同しての結果だろう。母方にくらべ、父方の祖父母の家へ遊びに行くのはずっと回数が少なかったが、それはもう一つ、父方の祖父の性質にもよるところがあったと思われ、絵描きだったこの祖父は、子どもや孫が来たからと言って喜んで家族との時間を楽しむという風ではなく、アトリエでいつも黙々と絵を描いていた。もっとも、昼間はアトリエで大人や子どもたちに絵を教えてもいたから、仕事を怠けて、孫と遊んでいるわけにもいかなかったのかもしれないが、旅行にしても絵を描くことが目的だから、家族を連れて行くようなことはなかったし、じっくり一緒に時を過ごして、祖父の笑い声などの記憶が残っているシーンがあるとすれば、たまに夕食を共にしたとか、行きつけの鰻屋さんに連れて行ってもらったりした時のもので、その数は片手で数えられるほど少ない。あとの記憶は、祖父というより、老画家の思い出と呼んだ方がふさわしかった。

 中でも、今でもよく憶えているのは小学校の頃の出来事だ。いくらかは遺伝的な恵みもあったのか、小学校に入ると絵を描くたびになにかしらの賞をいただくようになり、とりわけ母は喜んで、それを見て本人もまた自信をつけるようになり、誰に教わるでもなくひらめくままに、抽象的なデザイン画を描くようになった。それは大した絵ではなかったはずだったが、母をはじめ皆が大感動をして、さすが絵描きの孫だと褒めそやした。そして、どれだけ祖父も喜ぶだろうと浮き立つ母とともに、喜び勇んでそれらの絵を持って行き、見せた時のことだった。祖父の顔は終始冷静そのもので、「おお」と口が開くことも、目を大きくすることもなく、静かに数枚の絵を眺め終わると、わたしに向かって一言だけ口にした。
「想像画はだめだ。ちゃんと在るものを描きなさい」
思いもよらない言葉だった。わたしも母も、返す言葉もなく静まった。
 在るものなら誰だって描ける。なにもないところから世界を生み出すことができるから、想像力があると皆褒めてくれるのに、どうして祖父はそんなことを言うのだろう。芸術家なのに、どうしてつまらないことを言うのだろう。わたしは何を叱られたのかまったくわからず、顔には出さないように、悲しんだ。

 しかしそれは、身内だから放てる一言だった。たとえ傷つけることがあっても、あとでいくらでもフォローがかなう家族だからこそ言い放てる言葉にちがいなかった。幼いうちからちやほやされ、みっともなく高くなっている孫の鼻を折るのは自分しかいないと、そう考えたのかもしれない。そうでなければ、後でもっと無残にへし折られ、不要な部分だけでなく、根っこまで折ってしまうかもしれなかった。数年後、懲りずに母が美術大学の付属校へわたしを進学させるのはどうかと相談した時も、そんなことは本人が大学へ行くときに自分で決めるべきことだと一蹴した。おそらく絵画教室に通う子どもや親に相談されたなら、同じようには言わなかっただろう。少なくとも、わたしとちがって彼らは絵を描くことを学び、努力している人たちだった。
 その後も、わたしは絵を学ぼうとすることはなく、ちがう道を選んだ。そして母は今、自分で絵を描いている。それは母自身の若いころからの夢だった。

 わたしの知る祖父は、人物と、スペインの風景ばかりを描いていた。誇張もひねりも崩しもない、色にしろ構図にしろ創作性を許さないような、非常に誠実な油絵だった。現代アートや、イラストレーション的なものが潮流を得て人々を惹きつけて行く中、わたしも例外ではなく、祖父の絵には正直あまり魅力を感じなかった。祖父の絵で好きなのは一枚だけだった。それは古いもので、アトリエの一番広い壁を占拠する、ジャングルで憩い楽しむ南国の女性たちを描いた巨大な絵であった。女性たちの笑い声、歌声が聞こえてきそうな、本当に美しい絵だった。わたしは生まれてからずっと、その絵を眺めて育ってきた。
 だがその絵の存在の大きさについて本当に理解したのは、祖父が亡くなった時だった。告別式で、参列者の代表として別れのあいさつをしてくれた古い友人という人が、祖父の画家としての歴史をはじめてわたしに聴かせてくれた。戦前、戦中は海洋画家と呼ばれ、海軍や華族会館を祖父の海の絵が飾っていたという。セレヴェス、パレパレ・・・・戦中祖父がわたったという聞き慣れない地名を聴きながら、あの美しいジャングルにあそぶ女性たちの絵があざやかに動き出すように、思い出された。なぜあの絵が生まれたのか、戦時下で祖父が見つけた楽園のことをまざまざと知る思いがした。そして祖父が海を描かなくなったわけを、なぜ人間や人の暮らしが薫る街並みばかりを描くようになったのかを、わたしは理解できた気がした。海洋画家は戦争で死んだのだ。祖父は本当に描くべきものを見つけたのだ。想像画はいけないと叱られた十に満たなかった孫は、その時二十歳になっていた。

 さらに時を経て不惑の歳となった時、その間、何度も何度も他者に失望し、自分に絶望したことを繰り返したのち、祖父が戦争のさなかでほとばしるような命の輝きを見つけたのと同じように、わたしも人間の中に、その救いようがないようなまちがいや醜さだらけの営みの中に、とうとき美しさを見出していた。同時に、写実的な絵のことを技術以上の思想が無いもののように軽んじていたわたしは、あるがままの姿を虚飾なく描くことが命の真の讃美となっていることに、それは神の創造をもっとも謙遜に大声で讃えることと同じだということに、ようやく気がついた。
 家族というものは不思議なものだった。たとえ直接手間ひまをかけられなくても、言葉がなくても、後姿を見せられながら育てられていく。祖父にはみじんも孫に見せようなどという気持ちはなかったと思うが、その影響は意識するともなくこうして今もなお続き、相変わらずわたしはキャンバスに向かう祖父の背中を見ているように、無言の教えに耳を澄ます。

 さて、ジャングルの楽園の女性たちは、祖父のアトリエの象徴のように、ずっと変わらない場所で大きな存在感を放ってきたが、わたしたちの目には届かない片隅に、それよりももっと前から、変わらず飾られてきた小さな絵があった。それは若い日の祖母の顔だった。わたしはまったくその存在に気がつかず、アトリエを畳む時に父から話を聴いただけだったが、祖母の絵は祖父の机のすぐ脇に、本や書類や絵の道具に紛れるように何十年と変わらず掛けられていたと言う。なれそめのことはよく知らないが、大恋愛で結婚した二人である。人を愛するこのまなざしが、祖父の絵の原点であったことを、そしてまた自分の命の原点でもあったことを、なによりも、誇りに思っている。

July 14, 2012

幸福

  今月、祖父の二十三回忌を行った。
石屋さんの紹介でご回向を引き受けてくれたご住職が、法要をはじめるに際し、わたしたち家族へふたつのことを要望した。
 ひとつは、十七回忌からしばらく年月も経っているので、その間にあったことをなんでも良いから一つずつ、香を手向ける際に墓前で報告してほしいということ。そしてもうひとつは、ご回向の最後に、東日本大震災で亡くなられた方々の供養と、そして一日も早い復興の祈願を共にさせてほしいということ。これらふたつの注文を聞いて、なんと良いご住職に当たったものだろうと心から喜んだ。仏教は、先祖の供養をする者の功徳を讃えてくれるが、こうして良い導師とその読経に恵まれること自体、すでに何よりの褒美であった。
 さて報告を一つと言ったら、何を選んだらよいか・・・・わたしは思いをめぐらしたが、変わらず見守り続けてくれていただろう祖父には、今さら知らないことは何もないだろうと思う。それでも、供養を台無しにしてはいけないと、いつも見守ってくれていること、そして助けてくれているにちがいないことへの感謝をこめ、一番印象的なことを話そうと考えながら促されるまま墓の前へ座った。
「・・・・たいへん幸せにしていただきました」
つと、言葉が出た。
 そうだ。それで、いい。まちがいなく、それが6年のうちの一番の大事件であった。

 傍から見たら、わたしは苦労ばかりして、不幸な人間に見えるかもしれない。しかし、幸福とは心で感じるものである。それは、泣くことがないとか、忍耐することがないとか、傷つくことがないとかと言うものでもない。
 6年の間に、わたしは家もなくなり、車もなくなり、子どもの頃から大切にしてきたピアノも、愛着のある台所も、育てた花も、なくなった。家庭もなくなった。友人も亡くなった。父も亡くなった。それらはみな今もないままだが、わたしの、と呼んでいたそれらのものはなくても、今わたしには住んでよいと言われる場所があり、乗ってよい車も、弾いてよいピアノも、花を植えてよい庭もある。呼んでいた名前はちがうが、優しさをかけてくれる友人たちも、父のように心をかけてくれる人々もいる。愛する存在がある。わたしの所有物はないが、わたしは豊かに与えられている。考えてもみれば、所有とはなんであろう。責任を持って管理をすること、共に生きていくことだとしたら、わたしはすべてを所有していることになる。なくなったのは名義だとか名誉だとか、誰に気兼ねなく儘にできる権利だけということになる。もしもそれらに価値を感じているなら、まちがいなく今のわたしは不幸のどん底だろうけれど、そもそも名だけあっても活用できなければなんの意味もなく、儘にできるのを自由や尊厳と考えるのも大きな思い違いだろう。むしろわたしの幸福は、そういう無意味や思い違いが直ったことにあるというべきだった。もちろん、すべてものを持っていた時に直っていたら、もっと幸せだったかもしれないが、それは悔いるより、今後の教訓や楽しみにしておいたほうがよいだろうし、こういう楽観主義というのも、この6年間で身につけた幸福の素にちがいなかった。

 昔、大学へ進学する際、この祖父とわたしは大喧嘩をした。祖父母の家に遊びに行って、夕食を共にしている時だった。国文科に進みたいと話すわたしに、祖父はお酒の勢いも手伝い、ものすごい剣幕でいきなり怒鳴った。
「大学まで行って、日本語を学んでなんになる!!」
真っ赤な顔で、机を叩いた。それは厳しい社会を生きてゆくにあたり、生涯食べるのに困ることがないような能力や技術を身につけてほしいという親心だったが、その一言で、もともと我の強いわたしは猛烈な反抗を感じ、純粋な志に世俗的な物差しを当てられた気がして傷つき、絶対に国文科へ進み、日本語を生きる力にしてみせる、と心に誓った。それから亡くなるまで、わたしは祖父にとってことごとく期待外れの孫であった。しかし今、おそらく祖父は満足してくれているのではないかと思う。死後、書斎から未使用の原稿用紙の束がいくつも出てきた。哲学が好きで、自分も哲学を本にまとめるのだと言って大量に購入したのだと祖母が話した。反撥ばかりで、よく眺めたこともなかった祖父の書棚は、思想・文学の本で満ちていた。理解のできない者同士と思っていたが、本棚という知の源泉の中身が一番よく似たのは、まぎれもないこのわたしだった。

 つねづね死は家族が教えられる最たるものだと思ってきたが、祖父の息吹を感じながら、霊もそうだったと今さらながらに気がつく。死も霊も、教えられて知るのはもちろん命のことである。そして命のことを知ることなしに、いかに生きるべきかを考えることなしに、わたしたちは真に幸せになることはできないと思う。
 次の法要でも、同じように祖父へ報告したい。
「おかげさまで、幸せにしていただきました」



June 9, 2012

光景


 マンションが次々に建ったため、いつの間にか朝の景色ががらりと変わった。それは建物だけでなく、町を構成する人の層が変わったためだったが、緑色の土地が減って、堅牢なコンクリートの箱が幅も高さも無駄なくそれらを埋めて行ったにも関わらず、なぜか自然を奪われたとは感じさせないような有機的なあたたかさがあるのも、それが手入れをしないで放置されていたかつての緑の空き地よりも、むしろやさしく感じられるようであるのも、おそらくいのちの存在が豊かになったせいなのだろうと、人もやはり自然にちがいなかったのだと、そんな風に思い当たった。人の層が変わったというのは、このあたりの、都心に近い郊外の新築マンションは若い世帯の都合に非常に合った物件で、ひとつマンションが建つたび、子どもの数がまるで百単位というように増えて行ったのだ。わたしの通勤時間が、小学生の通学時間とぴったり重なっていたことをあらためて教えられるように、ランドセルを背負った子どもたちが毎朝あふれるようになった。

 道も町も我が物顔に安心しきって、道端や信号で友だちと待ち合わせ、遊びの話を交わしながら学校へ向かう子どもたちを眺めていると、自分は本当に幸福なのだと思い知る。彼らは、わたしたちが平和で安全な世界に生きていることを教えてくれているようなものだ。出勤する両親の真ん中にはさまり、両手をつないで歩くランドセルの女の子。先にバス停で別れたお母さんに、何度も何度も振り返っては手を振って、「がんばってね!」と通りの向こう側から声をかけられると、「お母さんもがんばってね!」と大きな声でさけぶ。わたしは、戦争や犯罪に怯える人々の姿ではなく、こんな平和な光景を目に映すことがかなっている。それは、どんなに幸運なことだろう。
 別の場所では、高く上を見上げて手を振る子どもがいて、視線の先を追うと、お母さんがベランダから手を振っている。こんな光景をあちこちで見る。そして前方からは、スーツ姿に、赤ちゃんをだっこして保育園へ向かうお父さん。横断歩道で、「じゃあ、気をつけてね」と子どもに手を振り、道を別れて駅へ向かうお父さんがいる。
 今の季節であれば、どこまでも響く公園のうぐいすの声を聴きながら、そんな輝く景色を次々と楽しんでわたしは通勤路を歩く。これで、今日一日がんばれるだけの力を十分蓄えられた気がする。この朝の幸福な気持ちによって、どんな苦労も忘れられるような気がするのだ。逆に言ったら、わたしたちはこんな風に、見ず知らずの通りすがりの人を力づけることも、幸せにすることもできるということなのだろう。直接手を差し伸べて助けるばかりではない。人のやさしい輝きには、こんな大きな力がある。

 輝くため、人はなにか特別なことをする必要はない。あるとすれば、輝きをなくすからやめるのがよいことの方だろう。気持ちを暗くすること、人を傷つけること、怠けること・・・・これらは人の光を弱めたり、覆ってしまったりする。しかしこれらをやめるだけで、わたしたちはいのち本来の光を輝かせることができる。それは本当に美しい光だ。
 光景とは、光の景色と書く。そう。日々、光に満ちた美しい景色の中を生きたいと思うし、わたしもまた、そんな景色の一部になりたいと思う。

May 20, 2012

あめのきさき

 「ねえねえ、どうしてここのマリアさまはかんむりをかぶってるの?」
事務室にきた子どもたちが、よくこんな風に尋ねる。自分たちの教室の聖母子像は、冠をかぶっていないからだ。まったく同じ像なのに、ここのマリアさまとイエスさまは、頭に小さな冠を載せている。いつもみんなでごあいさつをする、玄関の大きな聖母子像だって冠をかぶっているのに、そちらは別に不思議には思わないようだ。たしかにこの部屋のは、昔誰か神父さまがイタリアで買ってきて聖母子の頭に載せたものだそうで、木像とは材質も異なり、冠だけきらきらと装飾的に光っていた。
 マリアさまが冠をかぶっているのはね・・・・もうひとつ、大きくなったらぜひ聞かせたいと思う話を胸に広げながら、「どうしてかしらね」と首をかしげ、子どもたちに笑顔を返す。
 
 さて、今から三年前の、年の初めのことである。曹洞宗の開祖、道元の生涯を描いた映画「禅ZEN」がロードショーとなって、わたしはいそいそと劇場へ出かけた。そのころ園長だった神父さまが、世の中の窓とするように、ときどき時間を作っては映画を観に出かけていて、「禅ZEN」の公開をともに楽しみにしてもいた。
もっとも楽しみにしていた理由は同じではなかったはずだが、わたしと言えば、一人煩悶する悩みになにかヒントが得られるのではないかと、そんな淡い期待を寄せていた。縁あって突然カトリックの世界に置かれ、その因縁については納得できた気持ちではいたが、まだまだ日々は馴染めないことの多い、間違って居座ってしまっているような違和感が消えない中、久しぶりに仏教の世界に浸って自分の中心を確かめたいような、そんな気持ちだった。

果たして、その期待はみごとにかない、まるで母国語で話すのを許されたかのように、わたしは親しい感覚を思い出し、そうだ、そうだとうなずきながらスクリーンを見つめた。それは宗教のちがいというより、風土や文化的なちがいの方で、
 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
道元のこの歌に、神仏の姿を言い表わす言葉としてこれほどのものがあるだろうかと溜め息をつくような、日本的な感性や自然との共生感によるものであった。宗教という問題だけでなく、いろいろな人間関係の意味でも新しい環境に置かれ、一人異端的な思いを重ねて疲れてもいたのだろう。カトリック信者の人々の中で、そうでないわたし。教育を専門にする人々の中で、まったく異分野からきたわたし。夫と子どもとの生活を送る人々の中で、それらを持たないわたし。適応や共感に努める一方で、多勢の圧力に自分が押し潰されるような、極端に言えば、自分ひとり間違って生きているような否定感を覚えていたのかもしれなかった。そしてわたしは、自分らしさを一気に取り戻すように道元の世界へ深く引き込まれながら、余分なものをなにも持たないストイックでシンプルなその世界観とくらべるように、ふと王冠をかぶった聖母像の姿を思い出し、不徳にも、
(やっぱり冠をかぶっているようなのは、ちょっとね)
と胸でつぶやいた。

 神父さまも観に行かれただろうか。日本人として、やはり同じような共感を感じるものなのだろうか・・・・あれこれ聞いてみたいことを抱きながら、翌朝出勤すると、まずはいつものように事務室の掃き掃除をはじめ、途中でわたしは絶叫した。
「どうしたの?」
あまりの声に人が駆けつけた。掃いていた床の上に、冠がふたつ、落ちていたのである。それは、部屋の聖母子像がかぶっていたものだった。
 金曜日にわたしが最後に鍵をかけ、週明けの今朝まで誰も入ったはずのない部屋である。仮に誰かが出入りをしたとしても、そんな冒涜を行う人間を職員の中に思い浮かべることはできなかった。もしも落ちていた冠がひとつだけだったなら、知らないうちにずれて載っていたのが、なにかの拍子にとうとう落ちてしまったのだと考えられたかもしれない。しかし、ふたつの冠が同時に落ちているというのは、どうしても故意的なものとしか考えられなかった。それは、昨日映画館でひとり胸につぶやいた言葉に対する返事としか思えなかった。
「冠などいつでも脱ぎますよ」
と、聖マリアが自ら答えられたとしか思えない。たとえ事実がいたずらや嫌がらせの手によって落とされたものであったとしても、わたしにとっては、それ以外のなにものにもなり得なかった。
 
 その後、自ら脱がれたものとして冠は載せ直すことをせず、聖母子像の足元へ置いた。あのような高慢なつぶやきに答えられるとは、これ以上の謙遜があるだろうか。畏敬の念とともに、超自然のなすわざに、人の手を加えることはしてはならないと思った。
 そして昨年、わたしは自らこの禁を解いて、冠をふたたびマリアさまとイエスさまの頭の上に載せた。畏敬の念が消えたわけではない。ぜひかぶっていただきたいという、わたし自身の信心が満ちたのであった。わたしたちが、いかにして目に見えるものにこだわり判断してしまうものであるかということも、聖母子の冠が、権威の象徴でも、贅でも華美でもなく、信じるものの止まれぬ敬愛の形だということをもようやく理解した。王冠を脱いで修行の道に入り、悟りを開いたお釈迦さまも、もし人から無心の敬愛をこめ「どうぞこの冠をかぶってください」と請われたならば、その人の心を傷つけず慈しむため、きっとかぶって喜んで見せたことだろう。

 「どうしてかんむりをかぶっているの?」
子どもたちは、その問いを忘れず、これからも持ち続けてくれるだろうか。
それぞれの心に寄り添い、大切に語りかける天の后を讃えながら、子どもたちに撒かれた美しい花の種が、すくすくと豊かに育ちゆくように、ずっと守ってくださるように、祈っている。

April 15, 2012

Ave Maria

 今わたしの手元に、聖母マリアに関する二冊の本がある。大分の修道院で出版された「天の母の警告」と「コンチータの出現日記」で、それぞれ再版を重ねた1985年頃のものだが、この二冊がわたしの手元にくることになったのは、それから12年ほど後のことで、うつ症状の治療のため入院した病院で、二人部屋の同室になった60代中ごろの女性から、
「これは、あなたに」
と、とつぜん手渡されたのだった。

 当時わたしはうつの回復途中で、一年以上の休養を経て会社へ復帰させてもらってはいたが、リハビリの場を借りる以上に、なんら貢献できるような働きもできなければ、うつ症状もなかなか良くならず、薬の治療に限界を感じたわたしは、思いきって電気ショック療法を受けようと考え、入院していた。
二冊の本を渡されたのは、まだ入院したばかりで、治療も始まっていない検査期間中のことだったが、その翌日、検査から部屋へ戻ってくると、同室者の荷物がすべてきれいになくなっていて、驚いた。食堂にいた他の患者さんをつかまえ、尋ねてみると、急に具合が悪くなり、急性期や重症者のための病棟へ移されたのだと言う。なにか、幻に追いかけられているようだった、と言った。朝まで同室で過ごしながら、なんら変化に気がつかなかったから、本当にとつぜんの異変だったに違いない。
 そうして二冊の本だけが、手元に残ってしまったのだったが、このような事態となって、にわかにそれらは非常な存在感を訴えだし、わたしは緊張しながら本をめくりだした。中には、彼女自身の筆によるものかわからなかったが、無数のアンダーラインが引かれ、余白には疑問や気づきなどの多数の書き込みがあって、いく度も読み込まれたたいせつな本であることがよくわかった。「あなたに」とわたしを見つめた静かな目と、落ち着いた声とが、なにか意味があることのように、なんども脳裏に蘇った。

 二冊の本は、世界各地でみられる聖母マリアの出現と、それらを通してわたしたち人類へ伝えるメッセージについて著わしたものであった。プロテスタントとは少なからず縁があったものの、カトリックにはほとんど触れたことがなかったわたしにとって、イエス・キリストの母マリアが、このように篤い信仰の対象となっていること、またその霊が大きく働くようすは、まず新鮮な驚きだった。
 特に「天の母の警告」の続編とされている「コンチータの出現日記」は、スペインのガラバンダルで1961年にはじまった聖母マリアの出現に関する、とても生き生きとした記録で、日記の筆者であるコンチータはわたしより15歳ほど年長だったが、同じ現代を生きる者であり、この話が遠い時代の史実のようなものではないことに、鮮烈な衝撃と感動を覚えた。そしてコンチータが直面することになった、彼女の話を信じない人々からの蔑視、受け取ったメッセージをどのように人々に届ければよいのか手段がわからないことへの焦り、それらの辛苦にどこか自分自身を重ね合わせているうち、わたしは声なき声を聴いたのであった。もうすぐ、聖母が現れると。

 病院を通し、本を返したほうがよいだろうかと何度も迷ったが、「あなたに」という言葉の響きを信じ、この二冊の本を持ったまま、わたしは退院した。電気ショック療法の効果については、本人にはまったく無自覚なままだったが、ほどなく仕事も、パンフレットの制作や、印刷物の進行など、慣れた仕事なら苦を感じなくなって、次第に忙しく働く毎日へと変わって行った。二冊の本のことや、聖母マリアが現れることについては、完全に保留の形であった。いつも心のどこかで気にはなっていたが、相談できる当てもなく、みだりに口にすれば、病気が悪化しているのではないかと訝しがられるだけだったし、そうでなくても、本がどこで誰に渡されたものかを話したら、その時点で真剣に取り合ってもらえる見込みはなくなると感じられた。また逆に、興味本位に取り沙汰され、あらぬ方向へ流されて行ってしまうのも避けたかった。こうして、胸にしまい込むようにしてきた二冊の本が、手元に来るべくして届いた本だったことがわかるのは、それから10年も後のことであった。

 ……10年後、わたしは、日本で長い間奉献されたイタリア人神父の、叙階50周年にあたって作られることになった記念誌の制作を手伝っていた。カトリックにはまったくと言ってよいほど縁のなかったわたしだったが、仕事を辞めて家庭に専念した後、離婚をすることになり、その際当座の収入をと思って、新聞の折り込みチラシで見つけたアルバイト先がカトリックの幼稚園で、はじめは通園時の交通安全のため、道や駐車場に立って人や車を誘導する仕事をしていたが、数か月後、事務室での仕事に呼ばれ、内勤に変わった。ちょうど事務室の先生が定年を控えていて、後任を探していたのである。手伝っていた記念誌というのは、その先生が長く仕えたイタリア人司祭のものだったのだが、50年の司祭活動がつづられた原稿へ目を通していると、そこでわたしは意外な名前に出会うことになった。ともに出版事業へ献身していたという、デルコル神父。忘れもしない。それは、あの二冊の本の著者と同じ名前であった。
 わたしは家の本棚から急いで本を取り出し、確かめた。まちがいなかった。同人物だった。そしてあらためて読んでみれば、今やわたしにとって誰よりもなじみ深い聖人の名が、何遍となく繰り返し書かれていることに気がついた。幼稚園の随所にも写真が飾られている、修道会の創立者聖ヨハネ・ボスコである。聖母への強い愛と信仰が際立つ、そして聖母からの特別な助けによってさまざまな困難を乗り越えながら、青少年の教育にすべてを捧げてきた聖人であり、デルコル神父とは、そのカリスマと福音活動に連なる司祭なのであった。
 わたしはその場にひれ伏すような思いで、畏れで胸がいっぱいとなった。10年前に、すでに今へ至る道は敷かれていたのだと知り、神の手のひらの上で右往左往し、おごり昂ぶり、あるいは怠惰にかまけていた自分を見つけておののいた。
 しかし同時に、わたしは救われてもいた。病も、その治療も、すべてがなければこの本が手元へ来ることはなく、それは意味なく起こることはひとつもないと教え、また病の中で受け取らせることも、むやみに人へ話すのを憚らせることも、まるで何もかもが計らいであったかのように、時を待ち、真実は自ら狂いのないピースを埋めて、とうとう思いもかけなかった美しい絵を現わしてくれたようでもあった。その美しさは、それまでの忍耐を慰め、報いて、十分にあまりあるものだった。

 記念誌が完成すると、恐縮にも、イタリアからお礼が届いた。聖母マリアが彫られたメダルで、それは「不思議のメダイ」と呼ばれるものだった。1830年、フランスの修道女カタリナ・ラブレの前に出現した聖母マリアが、作って身に着けるように指示をしたメダイで、それは病気や、貧しさに苦しむ人々へ次々と恵みをもたらし、ヨーロッパ中へ広まって行ったものだった。再び聖母出現の話なのか、と驚き、ルルドで聖母の出現を受けたベルナデッタと同じように、カタリナもまた、遺体は腐敗を免れ、今も眠るような姿でパリの教会に安置されていることを知って、わたしはあらためて自分に示されているものが大きすぎ、視界に入りきらないように感じてとまどった。死んでも朽ちない肉体……それが信じられないというのではない。むしろその逆だった。じつはあの二冊の本を手渡された翌年、まったく別の人物から、今度は日本で遺体が腐らないまま眠っているという神父のご絵を手渡されていたのである。そしてそのご絵に描かれているチマッティ神父とは、奇しくも、二冊の本を出版した神父が秘書をつとめた人であり、さらに不思議のメダイを贈ってくれた神父の指導者だった人であり、3歳のころ母親に連れられて聖ヨハネ・ボスコに出会い、生涯この聖人を模範にして神に仕え、日本に尽くした宣教師なのであった。
 わたしは自分が良い人だったらどんなによかっただろうと思った。わたしのような者にまで示されるこのような愛と神秘。それはわたしの口から語ったら汚して、人の心を神から離してしまうのではないかと怖れられた。しかし、やはり同時に、これ以上の幸せがこの世にあるだろうかと思った。願いはもう、ひとつだけであった。神のみこころにかなう人間になれますように。それしか、もう湧く言葉はなかった。

こうして聖母は、コンチータの時のように幻視の形ではなく、聖母マリアに信仰と愛を捧げている人々を使い、愛という働きとして、わたしの前に姿を現した。死んだ者が復活し、この世のために尽くしていることも、もはや疑いようがなかった。またそんな聖母マリアに捧げられた人々の信仰と生き方が、現れたものを本物であると確信させ、そしてわたし自身を変えて行くのを覚えた。
謙虚、感謝、柔和、憐み、慈しみ、許すこと、信じること、喜ぶこと、愛すること……これらを実行することが困難な人の世の中で、聖母マリアに捧げるため、行い続けることを決し、努力する人々がいた。わたしは思った。考えてもみたら自分は、そのような努力を真剣にしたこともないくせに、最大限行っているつもりでいたのではないか。それどころではない。相手に謙虚さを求め、感謝され、柔和に受け止められ、憐れまれ、慈しまれ、許され、信頼され、喜ばれ、愛されることを求めてばかりいたのではなかったか。そしていつも、いつも、それらを得られないと感じては、苦しんできたのではなかったか。得がたいのは当然だった。わたしがそれらを常に行おうとしたら、どんなに困難を伴うことだろう。努力しても、きっと無数に失敗するだろう。それでもくじけず、腐らず、続けて行くことは、さらに難しい。そんな自分ができないような努力を、相手にばかりしてくださいと求めても、けっして失敗しないでくださいと願っても、そんなのは、もともと無理な話であった。
今さらかもしれないが、わたしも努力してみようと思った。友人が言ってくれたことがある。今が、一番若いのだと。それなら、今より遅いものもないだろう。失敗をおそれる必要もなかった。あんなに悪いわたしのことも、神はゆるし、辛抱強く導き、生かし続けてくれたのである。良くなろうとする間の失敗など、きっと笑ってゆるし、助けてくれるにちがいなかった。

 それから5年後、長く患ってきた病は、いつのまにか治癒した。生涯治ることはないと言われてきた躁うつ病だった。主治医は、まれに治ることもある、とほほ笑んだ。
 あきらめないでよかった。生き続けて、よかった。躁の間にしたことへの自己嫌悪やうつ特有の症状として起こる自殺願望に、これまで何度襲われてきたことだろう。その数は両手では数えきれず、費やした年数も同じだった。迷惑や苦労をかけた人の数も、やはり両手ではとてもまかないきれない。

生き恥を かいてもかいても尽き果てぬ 
             いのちの在りか 打ちて確かめる

あの二冊の本をもらった頃に書いた歌である。わたしがひとり胸を叩いていた音も、神は聴いてくれていたのだろう。
神の愛は、陽の光のようにあまねく注がれ、届けられる。誰ひとりのことも、忘れることはない。見失うことも、聞き漏らすこともない。そのことを教えるために天の母は現れ、わたしたちがその光を十分に受けられるように働き続けている。わたしは今、それを証言するために生きているという気もちがしている。


 

January 1, 2012

一日の計は朝にあり  
一年の計は元旦にあり  
十年の計は樹を植えるにあり  
百年の計は子を教えるにあり  

 わが家で、元旦のお祝いをともにした九十の祖母が、帰り際、
「わたしの信条はね、なせば成る、なさねば成らぬなにごとも・・・・なのよ」
とすこし唐突に話だした。上杉鷹山の名言である。
 祖母は、いつも自分の父親の顔を思い浮かべながら、この言葉を胸に反復してきたのだと言う。すべては挑戦してみないとはじまらない、やってみなければ何も成せない、そしてなそうと思えば、なんだってできないことはない・・・・・そう、今度はわたしたちに、反復して言い聞かせる。
 けっこう「やめとくわ」のせりふが多い祖母が言うから、ちょっと笑いたくなったが、その真剣な口調は、生きる力を子や孫の心にしっかり植えこもうとするようで、胸が熱くなった。遺伝的性質なのか、やはりどこかへんに気が弱くて、引っ込み思案をするところがあるわたしたちに、ぜひ伝えておきたかった教訓だったのかもしれない。わたしたちのように、明日が当然くる心境で生きてはいないから、祖母の言葉には、ときどき驚くような命の力がこもって、はっとさせられた。

 この祖母の父、つまり曾祖父は、わたしが生まれたころにはもう亡くなっていて、会ったことのない人だったが、とても厳しく、教育熱心な人だったらしい。和歌山の田舎で生まれ育った一女子の祖母を、遠縁の親戚の家に下宿させて、東京の大学へ行かせたくらいだったから、曾祖父自身この信条のもとに、可能性を開いて前進する人だったのかもしれない。
 曾祖父の百年の計は、今わたしたちにつながって、結果は計のとおりか、誤算か、それは計り知れないけれども、時代も世界も社会も、人がつくり、人は教育がつくる。昔の人々は、今のわたしたちよりも、そのことをよく理解していたような気もする。

 為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成さぬは人の 為さぬなりけり

 祖母が自分に言い聞かせてきたように、ことにあたる意気込みも肝要だが、ただあたるというのではなく、この「為す」という言葉にはもうひとつたいせつな意味がある。意志をもって、努力をするという意味である。
「やろうと強い思いをもってやれば、できないことなんてないのよ」
そう親心をこめて発破をかける、祖母の声に強められながら、あらためて志を持って努力することを、今年一年の計としたいと思う。