May 20, 2012

あめのきさき

 「ねえねえ、どうしてここのマリアさまはかんむりをかぶってるの?」
事務室にきた子どもたちが、よくこんな風に尋ねる。自分たちの教室の聖母子像は、冠をかぶっていないからだ。まったく同じ像なのに、ここのマリアさまとイエスさまは、頭に小さな冠を載せている。いつもみんなでごあいさつをする、玄関の大きな聖母子像だって冠をかぶっているのに、そちらは別に不思議には思わないようだ。たしかにこの部屋のは、昔誰か神父さまがイタリアで買ってきて聖母子の頭に載せたものだそうで、木像とは材質も異なり、冠だけきらきらと装飾的に光っていた。
 マリアさまが冠をかぶっているのはね・・・・もうひとつ、大きくなったらぜひ聞かせたいと思う話を胸に広げながら、「どうしてかしらね」と首をかしげ、子どもたちに笑顔を返す。
 
 さて、今から三年前の、年の初めのことである。曹洞宗の開祖、道元の生涯を描いた映画「禅ZEN」がロードショーとなって、わたしはいそいそと劇場へ出かけた。そのころ園長だった神父さまが、世の中の窓とするように、ときどき時間を作っては映画を観に出かけていて、「禅ZEN」の公開をともに楽しみにしてもいた。
もっとも楽しみにしていた理由は同じではなかったはずだが、わたしと言えば、一人煩悶する悩みになにかヒントが得られるのではないかと、そんな淡い期待を寄せていた。縁あって突然カトリックの世界に置かれ、その因縁については納得できた気持ちではいたが、まだまだ日々は馴染めないことの多い、間違って居座ってしまっているような違和感が消えない中、久しぶりに仏教の世界に浸って自分の中心を確かめたいような、そんな気持ちだった。

果たして、その期待はみごとにかない、まるで母国語で話すのを許されたかのように、わたしは親しい感覚を思い出し、そうだ、そうだとうなずきながらスクリーンを見つめた。それは宗教のちがいというより、風土や文化的なちがいの方で、
 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
道元のこの歌に、神仏の姿を言い表わす言葉としてこれほどのものがあるだろうかと溜め息をつくような、日本的な感性や自然との共生感によるものであった。宗教という問題だけでなく、いろいろな人間関係の意味でも新しい環境に置かれ、一人異端的な思いを重ねて疲れてもいたのだろう。カトリック信者の人々の中で、そうでないわたし。教育を専門にする人々の中で、まったく異分野からきたわたし。夫と子どもとの生活を送る人々の中で、それらを持たないわたし。適応や共感に努める一方で、多勢の圧力に自分が押し潰されるような、極端に言えば、自分ひとり間違って生きているような否定感を覚えていたのかもしれなかった。そしてわたしは、自分らしさを一気に取り戻すように道元の世界へ深く引き込まれながら、余分なものをなにも持たないストイックでシンプルなその世界観とくらべるように、ふと王冠をかぶった聖母像の姿を思い出し、不徳にも、
(やっぱり冠をかぶっているようなのは、ちょっとね)
と胸でつぶやいた。

 神父さまも観に行かれただろうか。日本人として、やはり同じような共感を感じるものなのだろうか・・・・あれこれ聞いてみたいことを抱きながら、翌朝出勤すると、まずはいつものように事務室の掃き掃除をはじめ、途中でわたしは絶叫した。
「どうしたの?」
あまりの声に人が駆けつけた。掃いていた床の上に、冠がふたつ、落ちていたのである。それは、部屋の聖母子像がかぶっていたものだった。
 金曜日にわたしが最後に鍵をかけ、週明けの今朝まで誰も入ったはずのない部屋である。仮に誰かが出入りをしたとしても、そんな冒涜を行う人間を職員の中に思い浮かべることはできなかった。もしも落ちていた冠がひとつだけだったなら、知らないうちにずれて載っていたのが、なにかの拍子にとうとう落ちてしまったのだと考えられたかもしれない。しかし、ふたつの冠が同時に落ちているというのは、どうしても故意的なものとしか考えられなかった。それは、昨日映画館でひとり胸につぶやいた言葉に対する返事としか思えなかった。
「冠などいつでも脱ぎますよ」
と、聖マリアが自ら答えられたとしか思えない。たとえ事実がいたずらや嫌がらせの手によって落とされたものであったとしても、わたしにとっては、それ以外のなにものにもなり得なかった。
 
 その後、自ら脱がれたものとして冠は載せ直すことをせず、聖母子像の足元へ置いた。あのような高慢なつぶやきに答えられるとは、これ以上の謙遜があるだろうか。畏敬の念とともに、超自然のなすわざに、人の手を加えることはしてはならないと思った。
 そして昨年、わたしは自らこの禁を解いて、冠をふたたびマリアさまとイエスさまの頭の上に載せた。畏敬の念が消えたわけではない。ぜひかぶっていただきたいという、わたし自身の信心が満ちたのであった。わたしたちが、いかにして目に見えるものにこだわり判断してしまうものであるかということも、聖母子の冠が、権威の象徴でも、贅でも華美でもなく、信じるものの止まれぬ敬愛の形だということをもようやく理解した。王冠を脱いで修行の道に入り、悟りを開いたお釈迦さまも、もし人から無心の敬愛をこめ「どうぞこの冠をかぶってください」と請われたならば、その人の心を傷つけず慈しむため、きっとかぶって喜んで見せたことだろう。

 「どうしてかんむりをかぶっているの?」
子どもたちは、その問いを忘れず、これからも持ち続けてくれるだろうか。
それぞれの心に寄り添い、大切に語りかける天の后を讃えながら、子どもたちに撒かれた美しい花の種が、すくすくと豊かに育ちゆくように、ずっと守ってくださるように、祈っている。