November 3, 2012

天国

言葉あそびのようだけれども、天国というのは「二人の国」と書く。なるほど恋人同士が二人でいられたら、どこであろうと、たとえ過酷な状況の中であろうと、まさしくそこが天国だろう。三人や四人ではだめだし、もちろん一人でもだめで、二人になることではじめて現われる幸せの国だ。そして二人が一つになると、「夫」(おっと・つま)になる。言ってみたら、夫婦というのは別名「天国」なのである。恋人の間にあるようなテンポラリーな、不確かなものではなく、永遠を許された天国である。

・・・・お互いに、心の底から愛し合っている人たちはこの世でいちばん幸せ者です。彼らは少ししか、いいえ全く何も持っていないかもしれません。でも幸せなのです。すべてのことは、どのように愛し合うかにかかっているのです。    〈マザーテレサ〉

 思えば、わたしたちはみないつでも、なにをしている時でも、ただ愛し愛されることを求めている生きものなのだろう。恋人や夫婦という関係だけでなく、親が子を、子が親を、また友人、同僚、そして社会を相手に、わたしたちはいつも愛することと、愛されることを求め、うまく愛せなかったり、愛されていないと感じたりして、悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、恨んだりする。
 どんなに愛しても、相手からの愛を感じられなかったらとてもつらいし、どんなに愛されても、愛せない相手からだったらそれもまたつらいだろう。なるほど「心の底から愛し合っている」のは、この世でいちばんと言われるほど仕合わせなことである。しかし、誰でも知ってることだが、この相思相愛の幸福さえ、得られたと思っても長くは続かない。自分の思いや愛情すら、あまりあてになるようなものではない。相手にいたっては、そもそもちがう人間だから、その真情は絶えず確かめていなければ皆目わからないし、でもそんなことをすれば嫌われるだけで、結局不安になったり、不足に思う時間のほうが長かったりする。信じる勇気や、与える勇気がなく、疑うことや、欲しがることばかりして、育てるどころか破壊行為を繰り返してしまうことも少なくない。どうも、人というのは、願いと裏腹なことをしてしまうものなのである。

 すべてのことはどのように愛しあうかにかかっているのです。

 愛しあうというのは、状態ではなく、むしろ努力のことなのだろう。永遠を許された天国である夫婦も、いつだって、誰だって、地獄に変わってしまうことがあるように、結婚もまたゴールではなく、じつは努力の契約にほかならない。それは、飽くことなく、倦むことなく、また自己中心的になることも、失望することもなく、生涯相手を大切にし続けると、家族や社会、そして神の前で決心することだ。

 さて、自らのことながら日本人はおもしろいなあ・・・・と思って眺める風習に、信仰の姿も含まれるが、特別に宗教を持たない日本人の多くが、誕生するとお宮参り、七五三と、子どものうちは神道にならって健康と幸福を祈願し、結婚するにあたってはホテルや式場のチャペルでキリスト教の祝福を受け、最期に死ぬときは仏教に沿って冥福を祈られながらこの世を旅立たせてもらう・・・・こんなふうに人生の大事に宗教儀式を行うのが、現代人の王道である。一年の過ごし方も似たようなもので、一年のはじまりには神社へ初詣をし、クリスマスには隣人みなでよろこび合って、寺院の除夜の鐘を聴いて一年を終える。以前、神道の専門の大学のオープンキャンパスで、日本人の精神文化についての話を拝聴した際、「日本の神様は仏様の教えを学びたいと、途中で仏教に帰依したわけです・・・」と言われてびっくりし、そういう捉え方をするものなのかと、謙遜な発想に目からうろこが落ちるような思いをしたが、とすれば、さらに戦後、日本の神様はキリスト教からも教えを学びたいと思われたのだろうか。日本の神様がキリスト教の教えを乞うたのだとすれば、それはまさに、人々がどのように愛しあうべきかを学ぶためだったにちがいない。仏教では「愛」という言葉は、執着や渇愛、愛慾など、滅すべき煩悩をあらわすものとして否定的に使われることが多いそうだ。それでは誤解が生じ、たいせつなものが欠落してしまうと考え、キリストの教えを得たいと願われたのかもしれなかった。なるほど日本は、思想も文化も、足し算をして行く「和」の国である。

 話は少しそれたが、わたしたちは全員、幸せになるために生きていて、毎日が幸せになるその日である。誰もが幸せを模索する中、成功の秘訣を探す中、一度は天国の教えを試してみても良いと思うのだがどうだろう。教えたからと言って、なんの得も見返りもない人たちが、苦労し、命を使って教えてくれることである。
 

遠くの人を愛することは簡単です。
難しいのは、
今、わたしたちのすぐ隣にいる人を愛することです。
世界の人々は異なった宗教を持ち、
異なった教育を受け、
さまざまな地位にあるように見えますが、
本当は同じなのです。
皆、愛されるべき人々です。
皆、愛に飢える人々です。  〈マザーテレサ〉

 その難しいことが、この世で一番の幸せだという。では、愛に飢えているわたしたちはどうしたらよいのか。もしみなが愛されようとするならば、愛してくれる人が誰もいなくなるわけで、当然誰も愛されず、奪いあいの地獄になるのが必然だろう。しかし逆にみなが人を愛そうとするならば、自然愛される人ばかりとなり、誰もが満たされた天国が出現することだろう。
 天国は遠いところにあるのではなく、あなたとわたしの間にある。それは害したり、迷惑をかけたり、意見が対立したりする機会がひんぱんにある、近しいわたしたちの中にある。さあ、今日、わたしたちは天国の住人になろう。