人のこころというのは勝手なもので、他者から強制されたことをするのはつらいものだが、おなじことを、自分が意味をもって行う時には、つらいどころか楽しい気もちすら感じるもので、それに一度決めてしまったなら、あとは毎日いろんな選択を考える必要がないから、実際忙しい朝には、決まりごとほど楽ちんなこともないのである。
すりごまを一日約5g食べたとすると、一か月に20日はお弁当を食べたとして100g。一年間では1㎏以上のすりごまを食べていることになる。ちりも積もれば山となると言うが、黒ごまもこれくらい積もれば、わたしの体内でなにか重要な働き手になってくれていても不思議ではなさそうだ。
これは、こころの種も同じことで、もっと寝ていたかった・・・・と思って起床するのと、早起きは体に良いらしい・・・・と思って起床するのとでは、とうぜん毎朝まかれるものがちがうだろうし、こうして損した気分と、得した気分を、それぞれ毎日、一年積み続けたときの結果を想像すると、ちょっとぞっとしたりもする。どうせおなじことをするのなら、得した気分を重ねるほうがいいだろう。来る日も、来る日も、損した気分を積み重ねたら、一年後、どんな欲求不満になっているか、どんな不幸顔になっているかわからない。
いつも喜んでいなさい――こちらは新約聖書の中でも人気のあるみ言葉である。喜ばしいことを喜ぶのはとうぜんのこと。これは喜べることだけをしていなさいとか、喜べることを探しなさいと言っているわけではなく、むしろ喜ぶなんてとてもむりだと思うことも、なんでも、いつも、喜んでいなさいと教えているのだろう。かなり難題だが、怒りや、恨みや、不満という種も、また喜びという種も、かならず生えて、花が咲き、その果実は自分で収穫することになるのだと思えば、やっぱりいつでも喜んでおきたいものである。
それでもどうしても喜べないということはきっとあるだろう。そういう時は、自因自果、原因は自分にあるのだと思い出して、心にしろ、言葉にしろ、行いにしろ、自分がまいたどの種が悪かったのか、深く考える機会を与えられたのだと納得して喜びたい。この時点ではかなり無理強いがあっても、まちがいなく、答えが見つかった時にはものすごく喜ぶに決まっているのだ。そして因が変われば、果も変わる。喜びにくい果だったならなおさら、早く変えたほうがいいに決まっている。
善因善果、悪因悪果。幸せはまずここから。今まく、その小さな種から。飽かず、憂えず、よい種だけをまいてゆこう。