July 13, 2007

Imagine

 たとえばわたしたち全員が、なにかしらの植物を育て、毎日一時間の庭しごとを日課にしたら、地球の温度は上昇を止めることができるのではないかしら・・・・・そんなことを、飽くこともなく想像する。
 毎日一時間の庭仕事の間、エアコンやパソコン、電気、テレビは消され、土に帰らないゴミが生まれることもなく、水やりは打ち水のように地上にまかれて、二酸化炭素を新しい酸素にかえてくれる緑が栄え、ふえて行く。体をめぐって汚れた古い血液を浄化し、きれいな新しい血を送りだす心臓のように、植物は、地球に育まれる動物たちの使い古した空気を取り込み、清らかな新しい空気にかえて送り出してくれる、あたかも地球の心の臓だ。
 わたしたちが一日一時間、そんな緑の力にかまけることが、いったい大事な何を犠牲にすると言えるだろう。全員で、たった一時間を庭しごとに使ったなら、まもなく想像を絶するほどのパラダイスが、眼前に現れるのは確かなはずだと言うのに。

 たとえば、戦場には、空から笑い薬をまいたらいいのに・・・・・こんなメルヘンを、まじめな気持ちで思想する。
 怒りや、恨みは、武器を持つ手に力をこめさせ、むやみに暴力を高まらせるけれど、どんな人も笑いころげてしまったら、手にもおなかにも力が入らず、武器をちゃんと持つことすらできないにちがいない。武力を制圧するため、より優れた武力を開発する必要があると言うのなら、戦う力をふぬけにしてしまう、強力な催笑弾の開発に挑戦してみたっていいだろう。
 歴史は、それぞれの人間の、何十年かの生を数珠繋ぎにしてつむがれて、いつも、どこでも、誰もが、武器はいらない、戦争は絶対にするなと、同じことばを繰り返してばかりいるのに、どうしてわたしたちの世界は、ことばのわからない赤ん坊のように、いつまでも武器と戦争を手放すことができないのだろう。

 たとえば、わたしたちが会う人、会う人を、あたたかい気持ちで迎えたら、きっと日向ぼっこをする者の心のように、世界はきもちの良い場所となるでしょうに・・・・・どんなに笑われたって捨てられない確信みたいに、そうやって生きてゆくことを続けたいと思う。
 あたたかい気持ちというたった一つのルールを守れたら、驚くほどたくさんのやさしい心が、芽吹くようにそこかしこへ現れるにちがいない。それは誰もが想像のつく確かなことなのに、どうして行うのはそんなに難しいことなのだろう。尊厳をもって扱われることによって、どんな存在も善く生かされる。尊厳を与えるとは、あたたかい気持ちで人を迎えるということ。もっとも単純でかんたんな方法の中に、世界を変えるほどの大きな力が、きっと隠されているはずなのに。