September 17, 2007

百日紅

 百日紅の花が道に散りはじめて、夏は終わったのだとあらためて実感する。
今年の夏は、百日紅にいろんなことを教わった。いまさらながら、百日紅と出会った年であった。
どこの家先にも、学校にもある見慣れた木で、子どもの頃からよく知っているはずの木だったが、本当の姿を知ったのは今年がはじめてだった。ちょうど職場に向かう道の途中、畑を開いて月極の駐車場にしたような砂利の敷地の端に、百日紅の木が何本も群生するように植えられている。それらが低木で、目の高さより下に花をつけて、手元に垂れ下がって咲いているから、朝夕と脇を通り抜けるわたしは、自然と百日紅の花を、目の前に、また手に取りながら眺めることになったのだった。

 思いがけないことに、このなじみの桃色の花は、美しいミクロコスモスを抱いていた。花のなくなる夏の季節にあって、豊かな緑の枝先に、穂のようにたっぷりとした花をつける百日紅は、暑さの中にも心和ませてくれる貴重な存在だが、じつはその穂のような豊満な花は、花火のごとく放射状に6個の小花を広げた、まるで額アジサイみたいに輪を描いて咲く花がたくさん集まって、たわわに咲いているもので、ただ漫然と百日紅の花と眺めていたものは、中でまんまるの実のようなつぼみを弾けさせては、そんな可憐な花火のような花を開いていたのであった。その上、小花と呼びたくなるような6枚の花びらたちは、贅沢なフリルをこらしたスイトピーのような、繊細で、もったいないほど愛らしいフォームを持っていて、この花びら一枚でも、一輪の花として鑑賞に足ると思えるほどだった。

 なんてことだ。あなたが、こんな美しいものでできていたなんて。こんなにも精妙な作りで咲いていただなんて。遠くから花木と眺めていれば、百日間、絶えることなく花を咲かせ続けて見える百日紅だったが、そこでは日々蕾が開き、命を終えた花が落ちていた。そしてどの花も、小さな小さな花びらでさえも、手抜きなく、美しい姿をして、互いに笑い合い、歌い合い、大きなひとつものとなるべく調和している。
 それはまるで、わたしたちの存在と世界そのものをあらわしているかのようであった。花びらたちは、自分がひとつの花の一弁にすぎないことも、その花が、咲き続ける大きな花の一時期を担うひとつの時間にすぎないということも、さらにその大きな花とは、花木を鮮やかに彩る多くの枝先の一部にすぎず、百日というひとつの季節であることも、きっと知らないでいるのだろう。いや、知らないと想像するのは人間の狭い考え方であって、よく知っているからこそ、ただ自然の姿を信頼して、自分の場所で、明るく咲くだけなのかもしれない。むしろ知らないのは、自分以外のものになろうとすることや、自分ばかりが存在しようとすることであって、人間が植物のように無邪気になれない苦しみのもとは、そのようにナンセンスな欲望を持ってしまうせいにもちがいない。
 生きたい、もっと咲きたい・・・それらの欲望に醜さなどはない。それらは無垢な、エネルギッシュな美しさだ。また、百日紅の小さな花びら一枚一枚が、なんの賞賛も得ず、あるいは期待もせず、あのように精巧で、美しい姿をあらわし続けているとも思えない。ぼんやりしているわたしが何十年も見過ごしてきただけで、多くの人がこの花びらのことを知っているのだろうし、愛してきたのだろう。その愛が届いていないで、どうしてあんなに可憐に咲いていられようと思う。ようやく、わたしも愛でることのできる仲間の一人になれたことは本当に嬉しい。そして、自分自身にも、こんな澄んだ生命力があるかしら?と問いかけてみたくなる。目的だとか、理由だとか、意義だとかいうのではなく、もっともシンプルで美しい、生の欲望が、わたしの中にも存在するだろうか?

 比べられることに慣れっこで、競い合う世界にも慣れっこで、優れないと愛されないという脅迫にも慣れっこに生きてきたわたしは、現代の人間の闇を自分自身の中に持っている。まぎれもなくわたしは現代の一部で、だからこそ自分の心の闇を祓うことは、同時に時代の闇を祓うことに通じる。大げさなようでも、それは真実だ。調べてみると、百日紅は、禊萩(みそはぎ)科に属する木だという。なるほど、この木はわたしにいろいろなことを教えてくれたが、それはまるで禊を与えてくれたに等しいかもしれない。
 時は今、百日紅の花吹雪の時節である。一緒に、心の傷も、哀しみも、おそれも、闇に住まうなにもかもをさらってほしい。そうしたら、秋の澄んだ高い青空はこの胸に、この世界に広がって、わたしは二度と闇に戻ることはないだろう。