April 28, 2008

普段着の聖性

 お昼前に用事が終わることもあって、ここへくる日は大抵かならず、近くのビルの二階のインド料理屋さんへ入って、カレーを食べてから帰る。
 さまざまなハーブとスパイス、ナッツを組み合わせて作られるインドカレーは、月に一度、心身のメンテナンスと滋養を与えるのにちょうど良いようにも思えたし、本国の方が作るとてもおいしいお店で、好きなカレーにサラダとナン、マサラティを合わせたセットが850円と手ごろな上、トールグラスのランチビールも100円でつけられる。それも、エビスの生ビールだ。

 特に、わたしは窓際のテーブルを選び、食事をしながら眺める外の光景が好きだった。店に入る前にお参りしてきた天祖神社の鳥居を目の前に臨みながら、眼下の下町らしい人々の活気ある往来と、普段着の信仰の姿を見ていると、なにかとても嬉しく、やさしい気持ちになれるのである。
 駅にほど近い商店街の一角にあり、背後には高層のマンションが社殿を見下ろすようにそびえ立っているような、人間世界との結界もあいまいな、心安い佇まいの神社だが、それでも霊験あらたかさは、社それよりもむしろそこへ自然に払われている人々の敬意や礼によって、動かしがたい形のように強く感得される。はじめてインド料理屋さんの二階から人々の様子を眺めた時、ああ、信仰とはこういうことであったか・・・・と深く心を打たれたものだった。

 自転車で通り過ぎようとする初老の男性が、鳥居の前で、自転車の上からひょいと帽子を脱いで会釈し、そのまま走り去る。カラフルな模様のタイツに、ショートパンツを履いた若い女性が、トントントンと階段を駆け上がると、丁寧に手を清め、心を鎮めて参拝へ向かう。いつも小さなスーツケースを引っ張ってやってくる長い黒髪の、おそらくダンサーか女優さんにちがいないと思われる容姿に人目をひく華がある女性は、階段を登るまえにかならず鳥居に向かって丁寧に手を合わせてから、ゆっくりと社内を参拝して回り、そして帰るときも、階段の下まで来ると、路上からやはり心をこめて手を合わせる。駅に向かって急いで見えた青年が、鳥居の前まで来ると、つと足を止めてきちんと直立し、深々と頭を下げてからまた歩き出す・・・。

 通る人、通る人が見せてゆく、そんな素朴で、純粋な信心を見守っていると、心がやさしく和んで、知らずにほほえみを浮かべている自分に気がつく。通行人全員がというわけではないけれど、じつに多くの人がそうやってあいさつをして通りすぎてゆくから、そこには誰も無視などできるわけのない大きな存在が明かにあると言うのに、まるでわたしばかりが見えていないかのような気持ちにもなる。
 
 また、この神社には樹齢600年の夫婦公孫樹が立っている。雌雄のイチョウがあるのは、都内ではこの神社だけというが、特にこの大イチョウは、戦中空爆に焼かれながらも健気に、そしてたくましくも再生したそうで、それは傷だらけになりながらも、夫婦で共に生きようと呼応し、支え合った姿を示して、命の神秘と強さとを教えてくれるようでもある。そういえば、天照大御神をお祭りする神社の庭に立つこの夫婦公孫樹は、あたかも伊邪那岐命・伊邪那美命の二親のようだ。縁結びや夫婦円満のご利益が信じられているのも、その姿から学ぶところが大きいからだろう。それから、もう一つの小さな名物に、授乳をしている姿の狛犬がある。庭木に覆いかぶされて、まるで茂る葉の後ろに隠れてそっと乳をあげているような佇まいに、またフッとほほえまされる。

 真心の集まる場所が、聖地となる。インド料理屋さんの窓から、この小さな神社を眺めるたび、わたしはそんなことを確信する。それこそまったく普段着のままで、わたしはひょいと神さまから体を持ち上げられ、ほら、天からの眺めはこういうもの、人とはこんなに愛しいもの・・・と、そんな風に教えられている気持ちがする。
 そしておそらくは天の気持ちとおなじように、過ぎ行く人々への愛しさがこみあがり、ひとりずつに幸あれ、と思う。