今月、祖父の二十三回忌を行った。
石屋さんの紹介でご回向を引き受けてくれたご住職が、法要をはじめるに際し、わたしたち家族へふたつのことを要望した。
ひとつは、十七回忌からしばらく年月も経っているので、その間にあったことをなんでも良いから一つずつ、香を手向ける際に墓前で報告してほしいということ。そしてもうひとつは、ご回向の最後に、東日本大震災で亡くなられた方々の供養と、そして一日も早い復興の祈願を共にさせてほしいということ。これらふたつの注文を聞いて、なんと良いご住職に当たったものだろうと心から喜んだ。仏教は、先祖の供養をする者の功徳を讃えてくれるが、こうして良い導師とその読経に恵まれること自体、すでに何よりの褒美であった。
さて報告を一つと言ったら、何を選んだらよいか・・・・わたしは思いをめぐらしたが、変わらず見守り続けてくれていただろう祖父には、今さら知らないことは何もないだろうと思う。それでも、供養を台無しにしてはいけないと、いつも見守ってくれていること、そして助けてくれているにちがいないことへの感謝をこめ、一番印象的なことを話そうと考えながら促されるまま墓の前へ座った。
「・・・・たいへん幸せにしていただきました」
つと、言葉が出た。
そうだ。それで、いい。まちがいなく、それが6年のうちの一番の大事件であった。
傍から見たら、わたしは苦労ばかりして、不幸な人間に見えるかもしれない。しかし、幸福とは心で感じるものである。それは、泣くことがないとか、忍耐することがないとか、傷つくことがないとかと言うものでもない。
6年の間に、わたしは家もなくなり、車もなくなり、子どもの頃から大切にしてきたピアノも、愛着のある台所も、育てた花も、なくなった。家庭もなくなった。友人も亡くなった。父も亡くなった。それらはみな今もないままだが、わたしの、と呼んでいたそれらのものはなくても、今わたしには住んでよいと言われる場所があり、乗ってよい車も、弾いてよいピアノも、花を植えてよい庭もある。呼んでいた名前はちがうが、優しさをかけてくれる友人たちも、父のように心をかけてくれる人々もいる。愛する存在がある。わたしの所有物はないが、わたしは豊かに与えられている。考えてもみれば、所有とはなんであろう。責任を持って管理をすること、共に生きていくことだとしたら、わたしはすべてを所有していることになる。なくなったのは名義だとか名誉だとか、誰に気兼ねなく儘にできる権利だけということになる。もしもそれらに価値を感じているなら、まちがいなく今のわたしは不幸のどん底だろうけれど、そもそも名だけあっても活用できなければなんの意味もなく、儘にできるのを自由や尊厳と考えるのも大きな思い違いだろう。むしろわたしの幸福は、そういう無意味や思い違いが直ったことにあるというべきだった。もちろん、すべてものを持っていた時に直っていたら、もっと幸せだったかもしれないが、それは悔いるより、今後の教訓や楽しみにしておいたほうがよいだろうし、こういう楽観主義というのも、この6年間で身につけた幸福の素にちがいなかった。
昔、大学へ進学する際、この祖父とわたしは大喧嘩をした。祖父母の家に遊びに行って、夕食を共にしている時だった。国文科に進みたいと話すわたしに、祖父はお酒の勢いも手伝い、ものすごい剣幕でいきなり怒鳴った。
「大学まで行って、日本語を学んでなんになる!!」
真っ赤な顔で、机を叩いた。それは厳しい社会を生きてゆくにあたり、生涯食べるのに困ることがないような能力や技術を身につけてほしいという親心だったが、その一言で、もともと我の強いわたしは猛烈な反抗を感じ、純粋な志に世俗的な物差しを当てられた気がして傷つき、絶対に国文科へ進み、日本語を生きる力にしてみせる、と心に誓った。それから亡くなるまで、わたしは祖父にとってことごとく期待外れの孫であった。しかし今、おそらく祖父は満足してくれているのではないかと思う。死後、書斎から未使用の原稿用紙の束がいくつも出てきた。哲学が好きで、自分も哲学を本にまとめるのだと言って大量に購入したのだと祖母が話した。反撥ばかりで、よく眺めたこともなかった祖父の書棚は、思想・文学の本で満ちていた。理解のできない者同士と思っていたが、本棚という知の源泉の中身が一番よく似たのは、まぎれもないこのわたしだった。
つねづね死は家族が教えられる最たるものだと思ってきたが、祖父の息吹を感じながら、霊もそうだったと今さらながらに気がつく。死も霊も、教えられて知るのはもちろん命のことである。そして命のことを知ることなしに、いかに生きるべきかを考えることなしに、わたしたちは真に幸せになることはできないと思う。
次の法要でも、同じように祖父へ報告したい。
「おかげさまで、幸せにしていただきました」
June 9, 2012
光景
マンションが次々に建ったため、いつの間にか朝の景色ががらりと変わった。それは建物だけでなく、町を構成する人の層が変わったためだったが、緑色の土地が減って、堅牢なコンクリートの箱が幅も高さも無駄なくそれらを埋めて行ったにも関わらず、なぜか自然を奪われたとは感じさせないような有機的なあたたかさがあるのも、それが手入れをしないで放置されていたかつての緑の空き地よりも、むしろやさしく感じられるようであるのも、おそらくいのちの存在が豊かになったせいなのだろうと、人もやはり自然にちがいなかったのだと、そんな風に思い当たった。人の層が変わったというのは、このあたりの、都心に近い郊外の新築マンションは若い世帯の都合に非常に合った物件で、ひとつマンションが建つたび、子どもの数がまるで百単位というように増えて行ったのだ。わたしの通勤時間が、小学生の通学時間とぴったり重なっていたことをあらためて教えられるように、ランドセルを背負った子どもたちが毎朝あふれるようになった。
道も町も我が物顔に安心しきって、道端や信号で友だちと待ち合わせ、遊びの話を交わしながら学校へ向かう子どもたちを眺めていると、自分は本当に幸福なのだと思い知る。彼らは、わたしたちが平和で安全な世界に生きていることを教えてくれているようなものだ。出勤する両親の真ん中にはさまり、両手をつないで歩くランドセルの女の子。先にバス停で別れたお母さんに、何度も何度も振り返っては手を振って、「がんばってね!」と通りの向こう側から声をかけられると、「お母さんもがんばってね!」と大きな声でさけぶ。わたしは、戦争や犯罪に怯える人々の姿ではなく、こんな平和な光景を目に映すことがかなっている。それは、どんなに幸運なことだろう。
別の場所では、高く上を見上げて手を振る子どもがいて、視線の先を追うと、お母さんがベランダから手を振っている。こんな光景をあちこちで見る。そして前方からは、スーツ姿に、赤ちゃんをだっこして保育園へ向かうお父さん。横断歩道で、「じゃあ、気をつけてね」と子どもに手を振り、道を別れて駅へ向かうお父さんがいる。
今の季節であれば、どこまでも響く公園のうぐいすの声を聴きながら、そんな輝く景色を次々と楽しんでわたしは通勤路を歩く。これで、今日一日がんばれるだけの力を十分蓄えられた気がする。この朝の幸福な気持ちによって、どんな苦労も忘れられるような気がするのだ。逆に言ったら、わたしたちはこんな風に、見ず知らずの通りすがりの人を力づけることも、幸せにすることもできるということなのだろう。直接手を差し伸べて助けるばかりではない。人のやさしい輝きには、こんな大きな力がある。
輝くため、人はなにか特別なことをする必要はない。あるとすれば、輝きをなくすからやめるのがよいことの方だろう。気持ちを暗くすること、人を傷つけること、怠けること・・・・これらは人の光を弱めたり、覆ってしまったりする。しかしこれらをやめるだけで、わたしたちはいのち本来の光を輝かせることができる。それは本当に美しい光だ。
光景とは、光の景色と書く。そう。日々、光に満ちた美しい景色の中を生きたいと思うし、わたしもまた、そんな景色の一部になりたいと思う。
May 20, 2012
あめのきさき
「ねえねえ、どうしてここのマリアさまはかんむりをかぶってるの?」
「どうしてかんむりをかぶっているの?」
事務室にきた子どもたちが、よくこんな風に尋ねる。自分たちの教室の聖母子像は、冠をかぶっていないからだ。まったく同じ像なのに、ここのマリアさまとイエスさまは、頭に小さな冠を載せている。いつもみんなでごあいさつをする、玄関の大きな聖母子像だって冠をかぶっているのに、そちらは別に不思議には思わないようだ。たしかにこの部屋のは、昔誰か神父さまがイタリアで買ってきて聖母子の頭に載せたものだそうで、木像とは材質も異なり、冠だけきらきらと装飾的に光っていた。
マリアさまが冠をかぶっているのはね・・・・もうひとつ、大きくなったらぜひ聞かせたいと思う話を胸に広げながら、「どうしてかしらね」と首をかしげ、子どもたちに笑顔を返す。
さて、今から三年前の、年の初めのことである。曹洞宗の開祖、道元の生涯を描いた映画「禅ZEN」がロードショーとなって、わたしはいそいそと劇場へ出かけた。そのころ園長だった神父さまが、世の中の窓とするように、ときどき時間を作っては映画を観に出かけていて、「禅ZEN」の公開をともに楽しみにしてもいた。
もっとも楽しみにしていた理由は同じではなかったはずだが、わたしと言えば、一人煩悶する悩みになにかヒントが得られるのではないかと、そんな淡い期待を寄せていた。縁あって突然カトリックの世界に置かれ、その因縁については納得できた気持ちではいたが、まだまだ日々は馴染めないことの多い、間違って居座ってしまっているような違和感が消えない中、久しぶりに仏教の世界に浸って自分の中心を確かめたいような、そんな気持ちだった。
果たして、その期待はみごとにかない、まるで母国語で話すのを許されたかのように、わたしは親しい感覚を思い出し、そうだ、そうだとうなずきながらスクリーンを見つめた。それは宗教のちがいというより、風土や文化的なちがいの方で、
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
道元のこの歌に、神仏の姿を言い表わす言葉としてこれほどのものがあるだろうかと溜め息をつくような、日本的な感性や自然との共生感によるものであった。宗教という問題だけでなく、いろいろな人間関係の意味でも新しい環境に置かれ、一人異端的な思いを重ねて疲れてもいたのだろう。カトリック信者の人々の中で、そうでないわたし。教育を専門にする人々の中で、まったく異分野からきたわたし。夫と子どもとの生活を送る人々の中で、それらを持たないわたし。適応や共感に努める一方で、多勢の圧力に自分が押し潰されるような、極端に言えば、自分ひとり間違って生きているような否定感を覚えていたのかもしれなかった。そしてわたしは、自分らしさを一気に取り戻すように道元の世界へ深く引き込まれながら、余分なものをなにも持たないストイックでシンプルなその世界観とくらべるように、ふと王冠をかぶった聖母像の姿を思い出し、不徳にも、
(やっぱり冠をかぶっているようなのは、ちょっとね)
と胸でつぶやいた。
(やっぱり冠をかぶっているようなのは、ちょっとね)
と胸でつぶやいた。
神父さまも観に行かれただろうか。日本人として、やはり同じような共感を感じるものなのだろうか・・・・あれこれ聞いてみたいことを抱きながら、翌朝出勤すると、まずはいつものように事務室の掃き掃除をはじめ、途中でわたしは絶叫した。
「どうしたの?」
あまりの声に人が駆けつけた。掃いていた床の上に、冠がふたつ、落ちていたのである。それは、部屋の聖母子像がかぶっていたものだった。
金曜日にわたしが最後に鍵をかけ、週明けの今朝まで誰も入ったはずのない部屋である。仮に誰かが出入りをしたとしても、そんな冒涜を行う人間を職員の中に思い浮かべることはできなかった。もしも落ちていた冠がひとつだけだったなら、知らないうちにずれて載っていたのが、なにかの拍子にとうとう落ちてしまったのだと考えられたかもしれない。しかし、ふたつの冠が同時に落ちているというのは、どうしても故意的なものとしか考えられなかった。それは、昨日映画館でひとり胸につぶやいた言葉に対する返事としか思えなかった。
「冠などいつでも脱ぎますよ」
と、聖マリアが自ら答えられたとしか思えない。たとえ事実がいたずらや嫌がらせの手によって落とされたものであったとしても、わたしにとっては、それ以外のなにものにもなり得なかった。
その後、自ら脱がれたものとして冠は載せ直すことをせず、聖母子像の足元へ置いた。あのような高慢なつぶやきに答えられるとは、これ以上の謙遜があるだろうか。畏敬の念とともに、超自然のなすわざに、人の手を加えることはしてはならないと思った。
そして昨年、わたしは自らこの禁を解いて、冠をふたたびマリアさまとイエスさまの頭の上に載せた。畏敬の念が消えたわけではない。ぜひかぶっていただきたいという、わたし自身の信心が満ちたのであった。わたしたちが、いかにして目に見えるものにこだわり判断してしまうものであるかということも、聖母子の冠が、権威の象徴でも、贅でも華美でもなく、信じるものの止まれぬ敬愛の形だということをもようやく理解した。王冠を脱いで修行の道に入り、悟りを開いたお釈迦さまも、もし人から無心の敬愛をこめ「どうぞこの冠をかぶってください」と請われたならば、その人の心を傷つけず慈しむため、きっとかぶって喜んで見せたことだろう。「どうしてかんむりをかぶっているの?」
子どもたちは、その問いを忘れず、これからも持ち続けてくれるだろうか。
それぞれの心に寄り添い、大切に語りかける天の后を讃えながら、子どもたちに撒かれた美しい花の種が、すくすくと豊かに育ちゆくように、ずっと守ってくださるように、祈っている。
April 15, 2012
Ave Maria
今わたしの手元に、聖母マリアに関する二冊の本がある。大分の修道院で出版された「天の母の警告」と「コンチータの出現日記」で、それぞれ再版を重ねた1985年頃のものだが、この二冊がわたしの手元にくることになったのは、それから12年ほど後のことで、うつ症状の治療のため入院した病院で、二人部屋の同室になった60代中ごろの女性から、
「これは、あなたに」
「これは、あなたに」
と、とつぜん手渡されたのだった。
当時わたしはうつの回復途中で、一年以上の休養を経て会社へ復帰させてもらってはいたが、リハビリの場を借りる以上に、なんら貢献できるような働きもできなければ、うつ症状もなかなか良くならず、薬の治療に限界を感じたわたしは、思いきって電気ショック療法を受けようと考え、入院していた。
二冊の本を渡されたのは、まだ入院したばかりで、治療も始まっていない検査期間中のことだったが、その翌日、検査から部屋へ戻ってくると、同室者の荷物がすべてきれいになくなっていて、驚いた。食堂にいた他の患者さんをつかまえ、尋ねてみると、急に具合が悪くなり、急性期や重症者のための病棟へ移されたのだと言う。なにか、幻に追いかけられているようだった、と言った。朝まで同室で過ごしながら、なんら変化に気がつかなかったから、本当にとつぜんの異変だったに違いない。
そうして二冊の本だけが、手元に残ってしまったのだったが、このような事態となって、にわかにそれらは非常な存在感を訴えだし、わたしは緊張しながら本をめくりだした。中には、彼女自身の筆によるものかわからなかったが、無数のアンダーラインが引かれ、余白には疑問や気づきなどの多数の書き込みがあって、いく度も読み込まれたたいせつな本であることがよくわかった。「あなたに」とわたしを見つめた静かな目と、落ち着いた声とが、なにか意味があることのように、なんども脳裏に蘇った。
二冊の本は、世界各地でみられる聖母マリアの出現と、それらを通してわたしたち人類へ伝えるメッセージについて著わしたものであった。プロテスタントとは少なからず縁があったものの、カトリックにはほとんど触れたことがなかったわたしにとって、イエス・キリストの母マリアが、このように篤い信仰の対象となっていること、またその霊が大きく働くようすは、まず新鮮な驚きだった。
特に「天の母の警告」の続編とされている「コンチータの出現日記」は、スペインのガラバンダルで1961年にはじまった聖母マリアの出現に関する、とても生き生きとした記録で、日記の筆者であるコンチータはわたしより15歳ほど年長だったが、同じ現代を生きる者であり、この話が遠い時代の史実のようなものではないことに、鮮烈な衝撃と感動を覚えた。そしてコンチータが直面することになった、彼女の話を信じない人々からの蔑視、受け取ったメッセージをどのように人々に届ければよいのか手段がわからないことへの焦り、それらの辛苦にどこか自分自身を重ね合わせているうち、わたしは声なき声を聴いたのであった。もうすぐ、聖母が現れると。
病院を通し、本を返したほうがよいだろうかと何度も迷ったが、「あなたに」という言葉の響きを信じ、この二冊の本を持ったまま、わたしは退院した。電気ショック療法の効果については、本人にはまったく無自覚なままだったが、ほどなく仕事も、パンフレットの制作や、印刷物の進行など、慣れた仕事なら苦を感じなくなって、次第に忙しく働く毎日へと変わって行った。二冊の本のことや、聖母マリアが現れることについては、完全に保留の形であった。いつも心のどこかで気にはなっていたが、相談できる当てもなく、みだりに口にすれば、病気が悪化しているのではないかと訝しがられるだけだったし、そうでなくても、本がどこで誰に渡されたものかを話したら、その時点で真剣に取り合ってもらえる見込みはなくなると感じられた。また逆に、興味本位に取り沙汰され、あらぬ方向へ流されて行ってしまうのも避けたかった。こうして、胸にしまい込むようにしてきた二冊の本が、手元に来るべくして届いた本だったことがわかるのは、それから10年も後のことであった。
……10年後、わたしは、日本で長い間奉献されたイタリア人神父の、叙階50周年にあたって作られることになった記念誌の制作を手伝っていた。カトリックにはまったくと言ってよいほど縁のなかったわたしだったが、仕事を辞めて家庭に専念した後、離婚をすることになり、その際当座の収入をと思って、新聞の折り込みチラシで見つけたアルバイト先がカトリックの幼稚園で、はじめは通園時の交通安全のため、道や駐車場に立って人や車を誘導する仕事をしていたが、数か月後、事務室での仕事に呼ばれ、内勤に変わった。ちょうど事務室の先生が定年を控えていて、後任を探していたのである。手伝っていた記念誌というのは、その先生が長く仕えたイタリア人司祭のものだったのだが、50年の司祭活動がつづられた原稿へ目を通していると、そこでわたしは意外な名前に出会うことになった。ともに出版事業へ献身していたという、デルコル神父。忘れもしない。それは、あの二冊の本の著者と同じ名前であった。
わたしは家の本棚から急いで本を取り出し、確かめた。まちがいなかった。同人物だった。そしてあらためて読んでみれば、今やわたしにとって誰よりもなじみ深い聖人の名が、何遍となく繰り返し書かれていることに気がついた。幼稚園の随所にも写真が飾られている、修道会の創立者聖ヨハネ・ボスコである。聖母への強い愛と信仰が際立つ、そして聖母からの特別な助けによってさまざまな困難を乗り越えながら、青少年の教育にすべてを捧げてきた聖人であり、デルコル神父とは、そのカリスマと福音活動に連なる司祭なのであった。
わたしはその場にひれ伏すような思いで、畏れで胸がいっぱいとなった。10年前に、すでに今へ至る道は敷かれていたのだと知り、神の手のひらの上で右往左往し、おごり昂ぶり、あるいは怠惰にかまけていた自分を見つけておののいた。
しかし同時に、わたしは救われてもいた。病も、その治療も、すべてがなければこの本が手元へ来ることはなく、それは意味なく起こることはひとつもないと教え、また病の中で受け取らせることも、むやみに人へ話すのを憚らせることも、まるで何もかもが計らいであったかのように、時を待ち、真実は自ら狂いのないピースを埋めて、とうとう思いもかけなかった美しい絵を現わしてくれたようでもあった。その美しさは、それまでの忍耐を慰め、報いて、十分にあまりあるものだった。
記念誌が完成すると、恐縮にも、イタリアからお礼が届いた。聖母マリアが彫られたメダルで、それは「不思議のメダイ」と呼ばれるものだった。1830年、フランスの修道女カタリナ・ラブレの前に出現した聖母マリアが、作って身に着けるように指示をしたメダイで、それは病気や、貧しさに苦しむ人々へ次々と恵みをもたらし、ヨーロッパ中へ広まって行ったものだった。再び聖母出現の話なのか、と驚き、ルルドで聖母の出現を受けたベルナデッタと同じように、カタリナもまた、遺体は腐敗を免れ、今も眠るような姿でパリの教会に安置されていることを知って、わたしはあらためて自分に示されているものが大きすぎ、視界に入りきらないように感じてとまどった。死んでも朽ちない肉体……それが信じられないというのではない。むしろその逆だった。じつはあの二冊の本を手渡された翌年、まったく別の人物から、今度は日本で遺体が腐らないまま眠っているという神父のご絵を手渡されていたのである。そしてそのご絵に描かれているチマッティ神父とは、奇しくも、二冊の本を出版した神父が秘書をつとめた人であり、さらに不思議のメダイを贈ってくれた神父の指導者だった人であり、3歳のころ母親に連れられて聖ヨハネ・ボスコに出会い、生涯この聖人を模範にして神に仕え、日本に尽くした宣教師なのであった。
わたしは自分が良い人だったらどんなによかっただろうと思った。わたしのような者にまで示されるこのような愛と神秘。それはわたしの口から語ったら汚して、人の心を神から離してしまうのではないかと怖れられた。しかし、やはり同時に、これ以上の幸せがこの世にあるだろうかと思った。願いはもう、ひとつだけであった。神のみこころにかなう人間になれますように。それしか、もう湧く言葉はなかった。
こうして聖母は、コンチータの時のように幻視の形ではなく、聖母マリアに信仰と愛を捧げている人々を使い、愛という働きとして、わたしの前に姿を現した。死んだ者が復活し、この世のために尽くしていることも、もはや疑いようがなかった。またそんな聖母マリアに捧げられた人々の信仰と生き方が、現れたものを本物であると確信させ、そしてわたし自身を変えて行くのを覚えた。
謙虚、感謝、柔和、憐み、慈しみ、許すこと、信じること、喜ぶこと、愛すること……これらを実行することが困難な人の世の中で、聖母マリアに捧げるため、行い続けることを決し、努力する人々がいた。わたしは思った。考えてもみたら自分は、そのような努力を真剣にしたこともないくせに、最大限行っているつもりでいたのではないか。それどころではない。相手に謙虚さを求め、感謝され、柔和に受け止められ、憐れまれ、慈しまれ、許され、信頼され、喜ばれ、愛されることを求めてばかりいたのではなかったか。そしていつも、いつも、それらを得られないと感じては、苦しんできたのではなかったか。得がたいのは当然だった。わたしがそれらを常に行おうとしたら、どんなに困難を伴うことだろう。努力しても、きっと無数に失敗するだろう。それでもくじけず、腐らず、続けて行くことは、さらに難しい。そんな自分ができないような努力を、相手にばかりしてくださいと求めても、けっして失敗しないでくださいと願っても、そんなのは、もともと無理な話であった。
今さらかもしれないが、わたしも努力してみようと思った。友人が言ってくれたことがある。今が、一番若いのだと。それなら、今より遅いものもないだろう。失敗をおそれる必要もなかった。あんなに悪いわたしのことも、神はゆるし、辛抱強く導き、生かし続けてくれたのである。良くなろうとする間の失敗など、きっと笑ってゆるし、助けてくれるにちがいなかった。
それから5年後、長く患ってきた病は、いつのまにか治癒した。生涯治ることはないと言われてきた躁うつ病だった。主治医は、まれに治ることもある、とほほ笑んだ。
あきらめないでよかった。生き続けて、よかった。躁の間にしたことへの自己嫌悪やうつ特有の症状として起こる自殺願望に、これまで何度襲われてきたことだろう。その数は両手では数えきれず、費やした年数も同じだった。迷惑や苦労をかけた人の数も、やはり両手ではとてもまかないきれない。
生き恥を かいてもかいても尽き果てぬ
いのちの在りか 打ちて確かめる
あの二冊の本をもらった頃に書いた歌である。わたしがひとり胸を叩いていた音も、神は聴いてくれていたのだろう。
神の愛は、陽の光のようにあまねく注がれ、届けられる。誰ひとりのことも、忘れることはない。見失うことも、聞き漏らすこともない。そのことを教えるために天の母は現れ、わたしたちがその光を十分に受けられるように働き続けている。わたしは今、それを証言するために生きているという気もちがしている。
January 1, 2012
計
一日の計は朝にあり
一年の計は元旦にあり
十年の計は樹を植えるにあり
百年の計は子を教えるにあり
わが家で、元旦のお祝いをともにした九十の祖母が、帰り際、
「わたしの信条はね、なせば成る、なさねば成らぬなにごとも・・・・なのよ」
とすこし唐突に話だした。上杉鷹山の名言である。
祖母は、いつも自分の父親の顔を思い浮かべながら、この言葉を胸に反復してきたのだと言う。すべては挑戦してみないとはじまらない、やってみなければ何も成せない、そしてなそうと思えば、なんだってできないことはない・・・・・そう、今度はわたしたちに、反復して言い聞かせる。
けっこう「やめとくわ」のせりふが多い祖母が言うから、ちょっと笑いたくなったが、その真剣な口調は、生きる力を子や孫の心にしっかり植えこもうとするようで、胸が熱くなった。遺伝的性質なのか、やはりどこかへんに気が弱くて、引っ込み思案をするところがあるわたしたちに、ぜひ伝えておきたかった教訓だったのかもしれない。わたしたちのように、明日が当然くる心境で生きてはいないから、祖母の言葉には、ときどき驚くような命の力がこもって、はっとさせられた。
この祖母の父、つまり曾祖父は、わたしが生まれたころにはもう亡くなっていて、会ったことのない人だったが、とても厳しく、教育熱心な人だったらしい。和歌山の田舎で生まれ育った一女子の祖母を、遠縁の親戚の家に下宿させて、東京の大学へ行かせたくらいだったから、曾祖父自身この信条のもとに、可能性を開いて前進する人だったのかもしれない。
曾祖父の百年の計は、今わたしたちにつながって、結果は計のとおりか、誤算か、それは計り知れないけれども、時代も世界も社会も、人がつくり、人は教育がつくる。昔の人々は、今のわたしたちよりも、そのことをよく理解していたような気もする。
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成さぬは人の 為さぬなりけり
祖母が自分に言い聞かせてきたように、ことにあたる意気込みも肝要だが、ただあたるというのではなく、この「為す」という言葉にはもうひとつたいせつな意味がある。意志をもって、努力をするという意味である。
「やろうと強い思いをもってやれば、できないことなんてないのよ」
そう親心をこめて発破をかける、祖母の声に強められながら、あらためて志を持って努力することを、今年一年の計としたいと思う。
一年の計は元旦にあり
十年の計は樹を植えるにあり
百年の計は子を教えるにあり
わが家で、元旦のお祝いをともにした九十の祖母が、帰り際、
「わたしの信条はね、なせば成る、なさねば成らぬなにごとも・・・・なのよ」
とすこし唐突に話だした。上杉鷹山の名言である。
祖母は、いつも自分の父親の顔を思い浮かべながら、この言葉を胸に反復してきたのだと言う。すべては挑戦してみないとはじまらない、やってみなければ何も成せない、そしてなそうと思えば、なんだってできないことはない・・・・・そう、今度はわたしたちに、反復して言い聞かせる。
けっこう「やめとくわ」のせりふが多い祖母が言うから、ちょっと笑いたくなったが、その真剣な口調は、生きる力を子や孫の心にしっかり植えこもうとするようで、胸が熱くなった。遺伝的性質なのか、やはりどこかへんに気が弱くて、引っ込み思案をするところがあるわたしたちに、ぜひ伝えておきたかった教訓だったのかもしれない。わたしたちのように、明日が当然くる心境で生きてはいないから、祖母の言葉には、ときどき驚くような命の力がこもって、はっとさせられた。
この祖母の父、つまり曾祖父は、わたしが生まれたころにはもう亡くなっていて、会ったことのない人だったが、とても厳しく、教育熱心な人だったらしい。和歌山の田舎で生まれ育った一女子の祖母を、遠縁の親戚の家に下宿させて、東京の大学へ行かせたくらいだったから、曾祖父自身この信条のもとに、可能性を開いて前進する人だったのかもしれない。
曾祖父の百年の計は、今わたしたちにつながって、結果は計のとおりか、誤算か、それは計り知れないけれども、時代も世界も社会も、人がつくり、人は教育がつくる。昔の人々は、今のわたしたちよりも、そのことをよく理解していたような気もする。
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成さぬは人の 為さぬなりけり
祖母が自分に言い聞かせてきたように、ことにあたる意気込みも肝要だが、ただあたるというのではなく、この「為す」という言葉にはもうひとつたいせつな意味がある。意志をもって、努力をするという意味である。
「やろうと強い思いをもってやれば、できないことなんてないのよ」
そう親心をこめて発破をかける、祖母の声に強められながら、あらためて志を持って努力することを、今年一年の計としたいと思う。
November 3, 2011
日々蒔種
朝が早い、徒歩通勤の、お弁当持ち、ということで、これらを面倒がる代わりに逆手にとり、健康のための自動的努力、つまり習慣にしてしまおうと思って数年来となる。5時半に起床、朝食はお味噌汁と納豆とごはんが定番で、急勾配の長い坂道をふくむ片道17、8分のウォーキングに、昼食のお弁当には、ごはんの上に黒ごまをすったものをスプーン一杯ほど塩といっしょに振って、うめぼしを一つ、ゆで卵をひとつ、あとは適当におかずを詰めるが、それに緑茶をひいてお湯でといた粉茶を一杯飲むというのが、毎日のだいたいのきまりである。ぜんぶは小さいが、これも一年積み重なれば、まあ効果もいくぶんあるのではないかと、至ってのん気に期待している。
人のこころというのは勝手なもので、他者から強制されたことをするのはつらいものだが、おなじことを、自分が意味をもって行う時には、つらいどころか楽しい気もちすら感じるもので、それに一度決めてしまったなら、あとは毎日いろんな選択を考える必要がないから、実際忙しい朝には、決まりごとほど楽ちんなこともないのである。
すりごまを一日約5g食べたとすると、一か月に20日はお弁当を食べたとして100g。一年間では1㎏以上のすりごまを食べていることになる。ちりも積もれば山となると言うが、黒ごまもこれくらい積もれば、わたしの体内でなにか重要な働き手になってくれていても不思議ではなさそうだ。 お釈迦さまが説いた教えに、因果応報というものがある。まいた種はみな生え、その果実を収穫するものだという教えだが、効果というのも、果実のひとつにちがいないから、こうして毎日ほんの少しずつ、飽かずにまいているごまのようなものからも、きっと知らず知らずに果報を得ているというものなのだろう。
人のこころというのは勝手なもので、他者から強制されたことをするのはつらいものだが、おなじことを、自分が意味をもって行う時には、つらいどころか楽しい気もちすら感じるもので、それに一度決めてしまったなら、あとは毎日いろんな選択を考える必要がないから、実際忙しい朝には、決まりごとほど楽ちんなこともないのである。
すりごまを一日約5g食べたとすると、一か月に20日はお弁当を食べたとして100g。一年間では1㎏以上のすりごまを食べていることになる。ちりも積もれば山となると言うが、黒ごまもこれくらい積もれば、わたしの体内でなにか重要な働き手になってくれていても不思議ではなさそうだ。
これは、こころの種も同じことで、もっと寝ていたかった・・・・と思って起床するのと、早起きは体に良いらしい・・・・と思って起床するのとでは、とうぜん毎朝まかれるものがちがうだろうし、こうして損した気分と、得した気分を、それぞれ毎日、一年積み続けたときの結果を想像すると、ちょっとぞっとしたりもする。どうせおなじことをするのなら、得した気分を重ねるほうがいいだろう。来る日も、来る日も、損した気分を積み重ねたら、一年後、どんな欲求不満になっているか、どんな不幸顔になっているかわからない。
いつも喜んでいなさい――こちらは新約聖書の中でも人気のあるみ言葉である。喜ばしいことを喜ぶのはとうぜんのこと。これは喜べることだけをしていなさいとか、喜べることを探しなさいと言っているわけではなく、むしろ喜ぶなんてとてもむりだと思うことも、なんでも、いつも、喜んでいなさいと教えているのだろう。かなり難題だが、怒りや、恨みや、不満という種も、また喜びという種も、かならず生えて、花が咲き、その果実は自分で収穫することになるのだと思えば、やっぱりいつでも喜んでおきたいものである。
それでもどうしても喜べないということはきっとあるだろう。そういう時は、自因自果、原因は自分にあるのだと思い出して、心にしろ、言葉にしろ、行いにしろ、自分がまいたどの種が悪かったのか、深く考える機会を与えられたのだと納得して喜びたい。この時点ではかなり無理強いがあっても、まちがいなく、答えが見つかった時にはものすごく喜ぶに決まっているのだ。そして因が変われば、果も変わる。喜びにくい果だったならなおさら、早く変えたほうがいいに決まっている。
善因善果、悪因悪果。幸せはまずここから。今まく、その小さな種から。飽かず、憂えず、よい種だけをまいてゆこう。
October 16, 2011
電車の中で
昨日、座れることをいいことに各駅停車を選んで乗って、本を読んでいると、ふっと集中力が文字から離れた瞬間に、隣に座っている若い女の子の声が耳に入り、ん?と、気持ちを引き込まれた。
「・・・・会える時に会ったほうがいいよ。会っておいでよ。・・・・わたし、おばあちゃんのことが大好きだったんだけど、亡くなるなんてぜんぜん考えてもみなくて・・・・・修学旅行に行ってる時だったんだけどね・・・・・。あ、それはわたしの場合で、同じように亡くなるって言ってるわけじゃないよ。そうじゃないけど・・・・」
諭している相手は、前に立っている若い男の子なのだが、おそらく二人は大学生の恋人同士なのだろう。
「きっとすごく喜ばれると思うし、自分にとってもよかったと思えるはずだから。ね、年末年始は、帰ってあげなよ・・・・わたしとはいつでも会えるけど、おばあちゃんは、そうじゃないんだから。会える機会は、たいせつにした方がいい」
男の子はだまっている。
「年末年始、わたしだったら大丈夫だよ。友達に声をかけるとか、もし淋しかったら、秋田に帰ればいいんだもの。ね、そうしなよ。会っておいでよ」
彼女の必死の説得に、とうとう彼もうなずいたのだろうか。
声は聞こえなかったが、無言にもう一度「ね」と言って、微笑み合うような、あるいは苦笑いだったかそんな間があって、二人は別の話題に移って行った。文学部の教授がどうしたこうしたという、他愛もない話になった。
手元の本に目を落とし、耳だけを二人の会話にそば立てていたわたしは、その姿勢のまま、思わず目頭が熱くなった。優しいやりとりである。そういえば、さっき隣の席が空いたとき、わたしの前に立っていた彼女はすぐに座ろうとはしないで、彼が、
「座って行ったほうがいいんじゃない?」
といたわるように促し、それに従うようにようやく座ったのを思い出した。その時、あら?と感じて、どこか体の調子でも悪いのかしらと思ったりしたのだったが、どうやらそういうわけではなかったようだ。この二人らしいやりとりだったのだろう。
爽やかな恋人たちが三軒茶屋で下車して、わたしは再び本をめくり始めた。ご縁のあるプロテスタントの教会の副牧師さんが送ってくれた本だった。その副牧師さんは女性で、本は彼女の愛読書であり、カトリックのシスター渡辺和子によって書かれた『愛をこめて生きる』である。わたしたちの幸福は、日々の生活をどれだけ愛をこめて生きられるかによる・・・・・まるでその真理が本から飛び出して、姿を見せてくれたような、そんな小さな、宝石のようなできごとだった。
「・・・・会える時に会ったほうがいいよ。会っておいでよ。・・・・わたし、おばあちゃんのことが大好きだったんだけど、亡くなるなんてぜんぜん考えてもみなくて・・・・・修学旅行に行ってる時だったんだけどね・・・・・。あ、それはわたしの場合で、同じように亡くなるって言ってるわけじゃないよ。そうじゃないけど・・・・」
諭している相手は、前に立っている若い男の子なのだが、おそらく二人は大学生の恋人同士なのだろう。
「きっとすごく喜ばれると思うし、自分にとってもよかったと思えるはずだから。ね、年末年始は、帰ってあげなよ・・・・わたしとはいつでも会えるけど、おばあちゃんは、そうじゃないんだから。会える機会は、たいせつにした方がいい」
男の子はだまっている。
「年末年始、わたしだったら大丈夫だよ。友達に声をかけるとか、もし淋しかったら、秋田に帰ればいいんだもの。ね、そうしなよ。会っておいでよ」
彼女の必死の説得に、とうとう彼もうなずいたのだろうか。
声は聞こえなかったが、無言にもう一度「ね」と言って、微笑み合うような、あるいは苦笑いだったかそんな間があって、二人は別の話題に移って行った。文学部の教授がどうしたこうしたという、他愛もない話になった。
手元の本に目を落とし、耳だけを二人の会話にそば立てていたわたしは、その姿勢のまま、思わず目頭が熱くなった。優しいやりとりである。そういえば、さっき隣の席が空いたとき、わたしの前に立っていた彼女はすぐに座ろうとはしないで、彼が、
「座って行ったほうがいいんじゃない?」
といたわるように促し、それに従うようにようやく座ったのを思い出した。その時、あら?と感じて、どこか体の調子でも悪いのかしらと思ったりしたのだったが、どうやらそういうわけではなかったようだ。この二人らしいやりとりだったのだろう。
爽やかな恋人たちが三軒茶屋で下車して、わたしは再び本をめくり始めた。ご縁のあるプロテスタントの教会の副牧師さんが送ってくれた本だった。その副牧師さんは女性で、本は彼女の愛読書であり、カトリックのシスター渡辺和子によって書かれた『愛をこめて生きる』である。わたしたちの幸福は、日々の生活をどれだけ愛をこめて生きられるかによる・・・・・まるでその真理が本から飛び出して、姿を見せてくれたような、そんな小さな、宝石のようなできごとだった。
October 2, 2011
漢方薬
三年ほど、仕事をいっしょにしてくれた人が面白いことを言った。週に三日、働きにきてくれている人だったが、たまたま祭日などの連休がつながって、しばらく出勤日が回ってこなかったのかもしれない。十日か、あるいは二週間近く会わずに過ごして、しばらくぶりに顔を合わすと、
「ああ、よかった。お会いしたかったです。そろそろ漢方薬がほしくなってきて・・・・」
と言うのである。漢方薬とは、わたしのことである。
あんまり上手なたとえで、一本とられた、と大笑いした。人の役に立つものにたとえてくれる気配りもさすがだが、変わった味で、即効性がない、そういうものに似ているというのは、なんとも的を得た表現だと思った。
週に三日といっても、一日中すぐ隣にいて、仕事を助けてくれている人だから、わたしの癖も欠陥も、なにもかもお見通しに、掴んでいる人である。人を助けるのが自分の仕事とわきまえ、どうやったら相手が助かるかをいつも一心に考えるその人は、優しい目で、わたしの至らないところを見極め、楽になるように工夫をこらしてくれる。寸暇を惜しんで手を動かし、体を動かし、誠を尽くして働く姿は健気で、わたしは何度となく感心しては、さぞかしご主人はかわいいと思っていらっしゃることでしょうね、と同じ感想を繰り返し口にしたものだったが、もしわたしが男性だったら、こんな奥さんはかわいくてしかたないと思うような人なのである。
そんな人に、漢方薬と慕われるとは、逆にわたしはどんなかわいげの少ない女だろうと可笑しくなる。だいたい漢方薬というのは、熱すぎない白湯でといたり、細かく決められた時間に飲まなくてはいけなかったり、美味しくないのにポンと口に放り込んで飲み込んでしまうこともできないような、面倒なもので、その上長く飲まなければ効果も出ないような、気長を要する薬である。もしそんな奥さんだったら、ご主人さまが甘い味の方へ、多少の副作用があろうが、面倒がなく楽しい方へ、自然とひかれて行くことがあったとしても仕方がなさそうだ。
とは言え、ふだんから体質と気質の改善が健康の基本と考え、自然療法を第一に考えるわたしにとって、漢方薬と言ってもらえるのは本当に光栄のかぎりだったし、またそうやって、考えは人になるというのが自然というものか、と妙に感心もするが、じつを言ったら、そう言ってくれるその人こそ、わたしにとっては漢方薬のようにじんわりと、良い労働とはどういうものか、また良い妻とはどういうものかを、染み入るように教えてくれたとも思うのである。
考えてもみれば、身近に過ごす人というのは、みな互いに漢方薬のように働き合っているものなのかもしれない。それぞれの体質、気質、またその時の問題に見合った薬を、自然界から調合し処方された、そんな人々に、わたしたちは囲まれて過ごしているのかもしれない。
気が不足しているとか、血が滞っているとか、また水が余分に溜まっているとか、そういう心身の傾きを修正して、病状を原因から治そうとするのが漢方の考え方だが、おなじように自分の傾きを知って、生活習慣を変えるように促されたり、温めてもらったり、冷静にしてもらったり、停滞しているものを流してもらったり、あるいは気力をもらったり・・・・・周囲の人とはそういうものにちがいない。もちろん対処療法的に、その場その場を助け合いもするけれど、そういう特別なものよりも、日常すぎてわからなくなってしまっているようなささやかな作用の積み重ねの方が、じつは肝心な働きをしてくれているもの。日々わたしたちを生かしてくれているのは、そんな力だ。感謝し、心を開いてそれらをいただいた時、それぞれの命に備わっている自然治癒力は、不可能がないような力を発揮する。人生の軌道修正というのも、きっとそういうものだろう。
妙なる言葉で、わたしを励ましてくれたその人は、このたび遠方に移り、家族で新しい生活に挑戦することになって、わたしたちの人生は分かれ道を行くことになった。単身赴任だったご主人に、かわいい奥さまをお返しする旬でもある。
いつでも、わたしたちは自分に必要な恵みを与えられて生きている。そのもっともなるのは、人である。それを、はなむけの言葉に、これから行く道の彼女の幸運を、心から祈りたい。
「ああ、よかった。お会いしたかったです。そろそろ漢方薬がほしくなってきて・・・・」
と言うのである。漢方薬とは、わたしのことである。
あんまり上手なたとえで、一本とられた、と大笑いした。人の役に立つものにたとえてくれる気配りもさすがだが、変わった味で、即効性がない、そういうものに似ているというのは、なんとも的を得た表現だと思った。
週に三日といっても、一日中すぐ隣にいて、仕事を助けてくれている人だから、わたしの癖も欠陥も、なにもかもお見通しに、掴んでいる人である。人を助けるのが自分の仕事とわきまえ、どうやったら相手が助かるかをいつも一心に考えるその人は、優しい目で、わたしの至らないところを見極め、楽になるように工夫をこらしてくれる。寸暇を惜しんで手を動かし、体を動かし、誠を尽くして働く姿は健気で、わたしは何度となく感心しては、さぞかしご主人はかわいいと思っていらっしゃることでしょうね、と同じ感想を繰り返し口にしたものだったが、もしわたしが男性だったら、こんな奥さんはかわいくてしかたないと思うような人なのである。
そんな人に、漢方薬と慕われるとは、逆にわたしはどんなかわいげの少ない女だろうと可笑しくなる。だいたい漢方薬というのは、熱すぎない白湯でといたり、細かく決められた時間に飲まなくてはいけなかったり、美味しくないのにポンと口に放り込んで飲み込んでしまうこともできないような、面倒なもので、その上長く飲まなければ効果も出ないような、気長を要する薬である。もしそんな奥さんだったら、ご主人さまが甘い味の方へ、多少の副作用があろうが、面倒がなく楽しい方へ、自然とひかれて行くことがあったとしても仕方がなさそうだ。
とは言え、ふだんから体質と気質の改善が健康の基本と考え、自然療法を第一に考えるわたしにとって、漢方薬と言ってもらえるのは本当に光栄のかぎりだったし、またそうやって、考えは人になるというのが自然というものか、と妙に感心もするが、じつを言ったら、そう言ってくれるその人こそ、わたしにとっては漢方薬のようにじんわりと、良い労働とはどういうものか、また良い妻とはどういうものかを、染み入るように教えてくれたとも思うのである。
考えてもみれば、身近に過ごす人というのは、みな互いに漢方薬のように働き合っているものなのかもしれない。それぞれの体質、気質、またその時の問題に見合った薬を、自然界から調合し処方された、そんな人々に、わたしたちは囲まれて過ごしているのかもしれない。
気が不足しているとか、血が滞っているとか、また水が余分に溜まっているとか、そういう心身の傾きを修正して、病状を原因から治そうとするのが漢方の考え方だが、おなじように自分の傾きを知って、生活習慣を変えるように促されたり、温めてもらったり、冷静にしてもらったり、停滞しているものを流してもらったり、あるいは気力をもらったり・・・・・周囲の人とはそういうものにちがいない。もちろん対処療法的に、その場その場を助け合いもするけれど、そういう特別なものよりも、日常すぎてわからなくなってしまっているようなささやかな作用の積み重ねの方が、じつは肝心な働きをしてくれているもの。日々わたしたちを生かしてくれているのは、そんな力だ。感謝し、心を開いてそれらをいただいた時、それぞれの命に備わっている自然治癒力は、不可能がないような力を発揮する。人生の軌道修正というのも、きっとそういうものだろう。
妙なる言葉で、わたしを励ましてくれたその人は、このたび遠方に移り、家族で新しい生活に挑戦することになって、わたしたちの人生は分かれ道を行くことになった。単身赴任だったご主人に、かわいい奥さまをお返しする旬でもある。
いつでも、わたしたちは自分に必要な恵みを与えられて生きている。そのもっともなるのは、人である。それを、はなむけの言葉に、これから行く道の彼女の幸運を、心から祈りたい。
August 20, 2011
はじまりの日
8月15日は、わたしにとってたいせつな日だ。
それはもちろんわたしだけではなく、日本にとって、また世界にとって、終戦記念日というたいせつな日であることにまちがいない。
ただ、戦争からだいぶ時が流れて、戦争を体験していない世代が、家族三世代をつくる世の中になって、「終戦」という実感は、自分とはちょっと無関係な距離で、頭で理解するようには、心も生活も動かせない、そんな人が多いかもしれないということも、よくわかる。わたしだってそうだった。二十代の半ばを過ぎるまで、8月15日の意味の重大さは知っていても、なにか暗いかたまりのようなものを前に、すこし近寄りたくない気持ちを感じるような、あるいは、厳粛な決まりごとが済むのを、怒られないくらいにおとなしくして待つような、そんな日だった。
このような押しつけられ気味の記念日が、一年の中で一番と言えるくらいにたいせつな日と変わるには、やはりそれなりの経験がいる。価値観だけでなく、人生も変わるほどの、ふたつの大きな経験が、わたしの中に、8月15日を深く刻印することになった。
ひとつ目は、ダライラマ14世との出会いである。
世界が二つ見える。だからもう人工呼吸器をはずしていい・・・・そう言って亡くなった祖父の、その最期の言葉を理解したくて、死後の世界とはどんなものなのかを知りたくて、チベット仏教を学ぼうとした。チベット死者の書について、ダライラマ14世の教師だった高僧から直接講義を受けることができると言うツアーを見つけ、インドのダラムサラまで赴いた。出発前、ダライラマ法王は転生を繰り返し、チベットの人々を導いている生き仏と信じられているということ以上、なにも知らなかったわたしに、当時同じ職場にいた人が、ぜひ勉強してから行くほうがいいと言って、ダライラマに関する書籍やビデオを山積みにして貸してくれた。
今でも鮮明におぼえている。家に持ち帰り、全部に目を通せるかしら・・・・と資料の量にすこし圧倒されながら、本よりもまず、気楽にビデオでも見ようと思ったわたしだったが、ダライラマ14世の姿が画面に現れた時、知らないうちに、正座をしてモニターに向かって手を合わせている自分に気が付いて、唖然とした。なにが自分に起こったのか、理解ができなかった。わたしには反射的に起きるような、宗教的習慣はなにもなかったし、正座も、手を合わすことも、あまりに非日常的すぎた。わたしは本当に驚いて、その異常なできごとの原因を探すように、借りた本を読み漁った。
そこで、わたしはこれまで知らないで過ごしてきた、チベットの悲しい歴史を知ることになる。中国の侵略、無抵抗の人々への惨殺行為、そしてそれにあくまでも非暴力で対峙し、平和を訴えるダライラマの姿を見た。
このような理不尽な出来事が起きてもいいのか。震えるほどの怒りとともに、このような凄惨なできごとを、非暴力で受け止め、非暴力で対抗する強さに、この世のものとは思えないほどの気高さを感じ、あの時、ダライラマ14世に向かい、無意識に手を合わせていた自分の感応の理由を知った思いがした。
実際会ってみると、チベットの人々は、悲しい、不幸せな人たちではなかった。ダラムサラで、ダライラマ14世に謁見した時、わたしは、まさに光を目の前にしている気持ちがした。後光などというものは、絵でしか見たことがなかったが、このことを言うのだろうと思った。そしてダライラマだけではなく、チベット人の美しい笑顔に、わたしは心から感動した。その笑顔の前に、なにがほしいとか、なにになりたいとか、それまでの自分の思いは、すべてつまらないものに思えた。こういう笑顔ができる人間になりたい。それを人生の目標にしよう、そう決めた。
それから、わたしにとって、非暴力による平和の実現、そして祈りというテーマが、考えごとの中心を占めるようになった。しかし、かと言って、日本での日々の生活は、あいかわらず平和活動とは縁遠い経済活動のさなかにあったが、ほどなくして、二つ目のめぐりあわせがやってくる。
比叡山延暦寺で、終戦記念日に、鎮魂のコンサートをしたい。日本、中国、韓国の、三カ国の演奏家を集め、復元した天平の古楽器によるオーケストラを編成し、演奏したい。企画を手伝ってもらえないだろうか?・・・・そんな話が、とつぜん舞い込んできたのである。1200年消えることなく灯され続けた不滅の法灯の前で、太平洋戦争の犠牲者の鎮魂と、永劫の平和を祈るコンサートを行うという、すばらしい話であった。それはまるで、わたしの無言の願いが聞き届けられたかのようであり、与えられた使命のようにすら思えた。
このコンサートの話について書きだすと、長くなってしまうので、詳しくは別の機会に譲って大きく省くが、若く未熟な身空で、このような大仕事を授けられただけでも、8月15日という日が消しても消えないほどの濃さと、深さで、人生に刻まれるのも当然なことだろう。そして戦争の放棄について、また日本が世界唯一の核兵器による被爆国であることについて、その意味を本気で考えるようになったのも、この8月15日をはじめにしてであった。
8月15日、それはわたしたち日本人が、戦争をやめた日。その日、カウンターはリセットされ、ゼロになって、それから66年、わたしたちは戦争をしなかった年数を刻んでいる。じっさい戦争をしない年数が66年も続くなんて、それは快挙でもある。
こうして、わたしたちは毎年記録を更新している・・・・そう思うと、大げさだが、自分の生そのものがすこし誇らしくなる。この記録を伸ばすこと、それがわたしたちの未来であり、広げること、それがわたしたちの行き先であり、わたしたちのふつうの暮らしが、自然にそれを実現して行く。
もちろん、世界各地で今も戦争が起こっているのに、自分たちだけは戦争をしていない、こんなに長いこと武器を持ったことがない、と誇るわけではない。戦争をしない、それはそれで、思慮も、努力も必要とする戦いだと思うし、わたしたちは暴力の使い方でなく、ほかの人も武器を棄てられる方法を見つけるため、時間も労力も能力も費やせるはずだが、はたして実際にそれが行いとなっているのか、という自問自答には、恥じ入る気持ちも、また悔いる気持ちも起こる。
しかし、8月15日、戦争で亡くなった人々、そして生き残った人々、みながひとつのことを命をふりしぼるようにしてわたしたちに伝えてくれる言葉は単純だ。
「戦争だけはいけない。戦争はしてはいけない」
言い残すことは、守る掟はこれだけでよい、というように、この言葉だけを言う。なにが間違っていたとか、こうであるべきだったとかも言わない。ただ、戦争だけはいけない、という。
なにが正しいか、どうすべきか、多くの識者が、そして力ある人たちが、口々にわたしたちに示してくれるが、それらたくさんの声の中で、この風だけは、たしかな、変わらない真実を伝えているように聞こえるのは、きっとわたしだけではないだろう。主義でもない、知恵でもない、ただ、おじいさんやおばあさんが、自分たちにのこしてくれる遺言をたいせつに守りたい。そんな思いのほうが、まことの平和に近いように思うのも、きっとわたしだけではないだろう。
今年の8月15日は、はじめて「被昇天のマリア」のミサに与った。カトリックでは、天に上げられる聖マリアを特別に記念する日を設け、ミサを捧げるが、その祭日は8月15日と定められている。
世界の平和、また東日本大震災の慰霊と、復興への力添えを願う真摯な祈りが捧げられた。わたしもともに祈りを捧げながら、戦争をしてはいけない、それは聖母マリアの遺言でもあるのだと、あらためて心に覚えた。この日、平和の祈りを捧げているのは、日本ばかりではなかった。平和の后、聖母マリアに心を合わせ、世界中のカトリック教会でも、祈りが捧げられているのを感じ、涙があふれた。
8月15日、こうしてたくさんの人々によって祈られる、平和の祈りが、天に聞こえないなんてありえないだろう。わたしたちはまた新たに平和を誓い、歩きはじめる。その姿が天に見えないなんて、やはりありえないだろう。
それはもちろんわたしだけではなく、日本にとって、また世界にとって、終戦記念日というたいせつな日であることにまちがいない。
ただ、戦争からだいぶ時が流れて、戦争を体験していない世代が、家族三世代をつくる世の中になって、「終戦」という実感は、自分とはちょっと無関係な距離で、頭で理解するようには、心も生活も動かせない、そんな人が多いかもしれないということも、よくわかる。わたしだってそうだった。二十代の半ばを過ぎるまで、8月15日の意味の重大さは知っていても、なにか暗いかたまりのようなものを前に、すこし近寄りたくない気持ちを感じるような、あるいは、厳粛な決まりごとが済むのを、怒られないくらいにおとなしくして待つような、そんな日だった。
このような押しつけられ気味の記念日が、一年の中で一番と言えるくらいにたいせつな日と変わるには、やはりそれなりの経験がいる。価値観だけでなく、人生も変わるほどの、ふたつの大きな経験が、わたしの中に、8月15日を深く刻印することになった。
ひとつ目は、ダライラマ14世との出会いである。
世界が二つ見える。だからもう人工呼吸器をはずしていい・・・・そう言って亡くなった祖父の、その最期の言葉を理解したくて、死後の世界とはどんなものなのかを知りたくて、チベット仏教を学ぼうとした。チベット死者の書について、ダライラマ14世の教師だった高僧から直接講義を受けることができると言うツアーを見つけ、インドのダラムサラまで赴いた。出発前、ダライラマ法王は転生を繰り返し、チベットの人々を導いている生き仏と信じられているということ以上、なにも知らなかったわたしに、当時同じ職場にいた人が、ぜひ勉強してから行くほうがいいと言って、ダライラマに関する書籍やビデオを山積みにして貸してくれた。
今でも鮮明におぼえている。家に持ち帰り、全部に目を通せるかしら・・・・と資料の量にすこし圧倒されながら、本よりもまず、気楽にビデオでも見ようと思ったわたしだったが、ダライラマ14世の姿が画面に現れた時、知らないうちに、正座をしてモニターに向かって手を合わせている自分に気が付いて、唖然とした。なにが自分に起こったのか、理解ができなかった。わたしには反射的に起きるような、宗教的習慣はなにもなかったし、正座も、手を合わすことも、あまりに非日常的すぎた。わたしは本当に驚いて、その異常なできごとの原因を探すように、借りた本を読み漁った。
そこで、わたしはこれまで知らないで過ごしてきた、チベットの悲しい歴史を知ることになる。中国の侵略、無抵抗の人々への惨殺行為、そしてそれにあくまでも非暴力で対峙し、平和を訴えるダライラマの姿を見た。
このような理不尽な出来事が起きてもいいのか。震えるほどの怒りとともに、このような凄惨なできごとを、非暴力で受け止め、非暴力で対抗する強さに、この世のものとは思えないほどの気高さを感じ、あの時、ダライラマ14世に向かい、無意識に手を合わせていた自分の感応の理由を知った思いがした。
実際会ってみると、チベットの人々は、悲しい、不幸せな人たちではなかった。ダラムサラで、ダライラマ14世に謁見した時、わたしは、まさに光を目の前にしている気持ちがした。後光などというものは、絵でしか見たことがなかったが、このことを言うのだろうと思った。そしてダライラマだけではなく、チベット人の美しい笑顔に、わたしは心から感動した。その笑顔の前に、なにがほしいとか、なにになりたいとか、それまでの自分の思いは、すべてつまらないものに思えた。こういう笑顔ができる人間になりたい。それを人生の目標にしよう、そう決めた。
それから、わたしにとって、非暴力による平和の実現、そして祈りというテーマが、考えごとの中心を占めるようになった。しかし、かと言って、日本での日々の生活は、あいかわらず平和活動とは縁遠い経済活動のさなかにあったが、ほどなくして、二つ目のめぐりあわせがやってくる。
比叡山延暦寺で、終戦記念日に、鎮魂のコンサートをしたい。日本、中国、韓国の、三カ国の演奏家を集め、復元した天平の古楽器によるオーケストラを編成し、演奏したい。企画を手伝ってもらえないだろうか?・・・・そんな話が、とつぜん舞い込んできたのである。1200年消えることなく灯され続けた不滅の法灯の前で、太平洋戦争の犠牲者の鎮魂と、永劫の平和を祈るコンサートを行うという、すばらしい話であった。それはまるで、わたしの無言の願いが聞き届けられたかのようであり、与えられた使命のようにすら思えた。
このコンサートの話について書きだすと、長くなってしまうので、詳しくは別の機会に譲って大きく省くが、若く未熟な身空で、このような大仕事を授けられただけでも、8月15日という日が消しても消えないほどの濃さと、深さで、人生に刻まれるのも当然なことだろう。そして戦争の放棄について、また日本が世界唯一の核兵器による被爆国であることについて、その意味を本気で考えるようになったのも、この8月15日をはじめにしてであった。
8月15日、それはわたしたち日本人が、戦争をやめた日。その日、カウンターはリセットされ、ゼロになって、それから66年、わたしたちは戦争をしなかった年数を刻んでいる。じっさい戦争をしない年数が66年も続くなんて、それは快挙でもある。
こうして、わたしたちは毎年記録を更新している・・・・そう思うと、大げさだが、自分の生そのものがすこし誇らしくなる。この記録を伸ばすこと、それがわたしたちの未来であり、広げること、それがわたしたちの行き先であり、わたしたちのふつうの暮らしが、自然にそれを実現して行く。
もちろん、世界各地で今も戦争が起こっているのに、自分たちだけは戦争をしていない、こんなに長いこと武器を持ったことがない、と誇るわけではない。戦争をしない、それはそれで、思慮も、努力も必要とする戦いだと思うし、わたしたちは暴力の使い方でなく、ほかの人も武器を棄てられる方法を見つけるため、時間も労力も能力も費やせるはずだが、はたして実際にそれが行いとなっているのか、という自問自答には、恥じ入る気持ちも、また悔いる気持ちも起こる。
しかし、8月15日、戦争で亡くなった人々、そして生き残った人々、みながひとつのことを命をふりしぼるようにしてわたしたちに伝えてくれる言葉は単純だ。
「戦争だけはいけない。戦争はしてはいけない」
言い残すことは、守る掟はこれだけでよい、というように、この言葉だけを言う。なにが間違っていたとか、こうであるべきだったとかも言わない。ただ、戦争だけはいけない、という。
なにが正しいか、どうすべきか、多くの識者が、そして力ある人たちが、口々にわたしたちに示してくれるが、それらたくさんの声の中で、この風だけは、たしかな、変わらない真実を伝えているように聞こえるのは、きっとわたしだけではないだろう。主義でもない、知恵でもない、ただ、おじいさんやおばあさんが、自分たちにのこしてくれる遺言をたいせつに守りたい。そんな思いのほうが、まことの平和に近いように思うのも、きっとわたしだけではないだろう。
今年の8月15日は、はじめて「被昇天のマリア」のミサに与った。カトリックでは、天に上げられる聖マリアを特別に記念する日を設け、ミサを捧げるが、その祭日は8月15日と定められている。
世界の平和、また東日本大震災の慰霊と、復興への力添えを願う真摯な祈りが捧げられた。わたしもともに祈りを捧げながら、戦争をしてはいけない、それは聖母マリアの遺言でもあるのだと、あらためて心に覚えた。この日、平和の祈りを捧げているのは、日本ばかりではなかった。平和の后、聖母マリアに心を合わせ、世界中のカトリック教会でも、祈りが捧げられているのを感じ、涙があふれた。
8月15日、こうしてたくさんの人々によって祈られる、平和の祈りが、天に聞こえないなんてありえないだろう。わたしたちはまた新たに平和を誓い、歩きはじめる。その姿が天に見えないなんて、やはりありえないだろう。
August 9, 2011
道の奥
6年ぶりに東北を訪れた。
被害が少なく、被災地からは近いこの温泉郷には、女川や南三陸町などの被災者の方々が、旅館などを二次避難所として滞在していた。また、東京その他の地域からは、復興のためのボランティアや視察を希望する人々が集まり、町は交差点のような一種の活気を呈していた。そんな中、わたしの訪問の目的は、いささか個人的すぎるように感じたが、友人家族との再会をよろこび、リラックスした会話を楽しみ、地震と表裏一体のような地殻活動の恵みである温泉にいやされながら、それとは別に、こうして誰かのためになにかをしたい、と与えるばかりの人の心が集まった場所に自然と満ちる、さわやかさなエネルギーをたしかに感じて安らいだ。人は本来、こんな気持ちのする場所で生きていけるはずなのだろう。
震災後、メールや電話で話をして、安心していたことではあるけれど、ふるさとのように慕った土地でもある鳴子や、そこで現代湯治の若手リーダーとして活躍しながら老舗旅館を営む、大沼伸治さんやご家族の元気な様子を自分の目で確かめて、まずはただ心から喜んだ。
ちょうど、宮城の稲わらから高濃度の放射性物質が検出されたというニュースがさかんに流れて、これまであまり神経をとがらせることなく、むしろ東北のものを選ぶように日常の買い物をしていた母までも、わたしの宮城行きにすこし陰ったことを言うようにもなっていた。わたし自身は、こうして東北の地に縁があるけれど、そういう思い入れがあるわけではない母も、またほかの人も、震災から時間が経ち、だんだん自分の生活に手いっぱいとなってくると、放射能への恐怖が、防衛本能をかきたて、それが東北との壁になりはじめているように見えた。
しかしそれは、友人を応援に行く、いっしょに生きるのだと、意気込んで出かけたわたしの心にさえも、じつはしっかりと忍んでいた恐怖で、実際、わたしは部屋に用意してくれていた水を飲むとき、コップを口まで運んだところで、急に躊躇を感じ、飲んでも大丈夫だろうか・・・・と思って、そんな自分に驚いてしまった。まさかそのような気持ちが潜んでいたとは、自分の心ながら、まったく気がつかなかったのである。
なんてこと・・・・わたしは喉元にうすく残る抵抗のようなものを押し流す風に、大きく水を飲みこんだ。冷えた、おいしい水だった。そして、ひさしぶりに温泉の恵みに与って、新陳代謝が促進された体は、まるで細胞中の水分すべてを入れ替えようとするように、始終トイレへ行きたがり、またそのたびに水を欲して、わたしは一晩で、ジャーの中の1リットルほどの水を全部飲み干した。
鳴子で避難生活を送る方たちのための読書会に参加させてもらい、わたしはその気持ちをさらに強くした。テレビ出演も多く、人気者のロバート・キャンベル教授がその読書会のホストだったが、前日の夜に現地入りし、朝から三部、読書会や講演を行った後、夕方遅くに東京へ帰ってゆくまで、すべて手ずからで、熱心に、そして誰のこともたいせつにする姿は尊く、周囲の人を自然に幸せにする力があった。
この読書会の中で、教授が子どもにこんな質問をしたところがあった。
「今、勇気って言葉がでてきたけれど、勇気ってどういうものだと思う?なんでもいいんだけど・・・誰かが何かをするのを見て、あ、勇気あるなあ、って思ったりしたことない?」
そうして、名前を呼ばれた男の子が、ちょっと考えたあと、意外なことを答えた。
「ここ(避難所となっている旅館)で、時々、お客さんに道を聞かれることがあるんですけど、お風呂はどこですか・・・とか。そういう時に、それはこっちですよ・・・・って、口で言うだけじゃなくて、そこまで連れて行って教えてあげる人を見た時、勇気があるなあって思いました」
少年にとって、それはとても最近のできごとだったのかもしれない。わたしは目の前がぱっと晴れたような気持がした。その通りだ。やさしさを行うには、すこし勇気がいるのである。はずかしさだとか、面倒臭さとか、怖さ、あるいはまわりの声だとか、そんなものを払ってくれる勇んだ心が必要なのである。おとなになると、道案内をするかしないかが勇気に関わるなんて、思いもよらない。勇気というのはもっと大きい事がらに使うものだと思っている。しかし、あの恐ろしい津波に遭い、家や大事なものを流されてしまうという途方もない経験をした少年が、敬意をこめて、言うのである。困っている人に差し出す手こそ、勇気であると。
一方、行きと帰りの新幹線の中で、わたしは宮城と同時にもうひとつ、かつて親しんだ土地である福島を通過しながら、胸に痛みをおぼえた。いつかきっと錦を飾るからね・・・・そんな若気をふるって、ふるさとのように慕い、励まされてきた日を昨日のように思い出すが、ずっと以前に縁が切れて、もう十年以上も訪れていない。志を果たして、いつの日にか帰らん・・・・なつかしい人々の顔が浮かぶ。今は勇気をもってしても祈ることしかできない。たしかに、そうやって、遠くから見守るしかない大切なものもある。
ただ祈るように誰かを、なにかを思う時、わたしもたぶん、誰かにそうして祈られてきたにちがいないと感じるのだ。だから、ここまでいろんなことも乗り越えて、生きてくることができた。見える、見えないに関わらず、縁ある人たちがかけてくれたやさしい心が、わたしをずっと助け続けてくれたのだと信じているし、そうでなければ、これまで受けることができた恵みの数々は、わたし自身の能力や徳にはとても見合わなかった。わたしのために祈ってくれた人があったからこそ、時に思いがけないような救いに与ることもできたにちがいなく、だからわたしも、人のために祈りたいと思う。犠牲にあわれたすべての人のために、復興に尽力する人たちのために、祈りたいと思うのである。
かつてわたしは東北で、志をもって生きることを、大自然の声を聴くことを、教わった。それは今もわたしの躰の骨となっているような大事な教えである。そして、今はこの震災という大きな災害をもって、東北はわたしたちに、あらたにいろんなことを教えてくれている。「みちのく」とは、道の奥を意味すると言う。人としての生き方の奥義に触れる道は、今わたしたちのために、大きく開かれているのではないだろうか。
May 7, 2011
ほつま
ほつまつたえ(秀真伝)について、はじめて聞いたのは1996年だった。
わたしたちはパラダイムシフトの真っ只中にいて、
インターネットが、生活空間や人々とのつながりなど、
インターネットが、生活空間や人々とのつながりなど、
個人の世界を形作っていた壁に大きな窓を開け、
外へ外へと、多様な世界を広げて行くのと同時に、
それまでの狭い既成概念は取りはらわれ、
手さぐりではあるけれども、世界の真価とはその内面にこそあると、
そう直感する時代でもあった。
本物を探すため、物質を追いかけるのをやめ、精神の世界を求め始めた。
このままでは時代は行き詰まる・・・そんな風に、本能的に感じとる中で、
「しわかみの こころほつまとなるときは はなさくみよの はるやきぬらん」
(心が本当のまこととなる時花々の咲きこぼれる世界の春が来るだろう)
と、心のまことを求め、
五七調の歌で連綿と、神代から人の時代までを書き綴る「ほつまつたえ」は、
五七調の歌で連綿と、神代から人の時代までを書き綴る「ほつまつたえ」は、
道理に満ちた、やさしい言葉で、どこまでも響くような澄んだ音色をもって
真実を明かしているように聞こえた。
真実を明かしているように聞こえた。
これがいつ、誰によって書かれたかを問う議論には関係なく、「ほつま」という言葉は、
わたしたちのidealを言い表している言葉にちがいないと、
ただ美しいものに心をつかまれた時のように、共感したのである。
その「ほつま」の名がつけられたバラの株をわけていただいた。
清冽で、上品な、美しいかおりは、やはり理屈なく心をつかんで、
清冽で、上品な、美しいかおりは、やはり理屈なく心をつかんで、
いつまでもそばで嗅いでいたい気持ちになる。
古いカメラのせいか、写真を撮ろうとして、何度も失敗した。
花が白く光ってしまって映らない。
露出をさげてどうにかおさまった写真は、
どこか幻想的で、それもいかにも「ほつま」らしいと思った。
そして1996年、わたしに「ほつま」という言葉を教えてくれたこの歌を聴きながら、
あらためて思った。
ここまでずっと、理想を信じて歩いてくることができた。
今さら、ぜったいに負けたくないと。
今さら、ぜったいに負けたくないと。
誰と争うわけでもなく、誰に勝とうというわけでもない。
時に理想が不可能なもののように遠のいて、
時に理想が不可能なもののように遠のいて、
くじけそうになる、自分の心にである。
わたしたちは、ひとつ
わたしたちは、ひとつ
♪ Love Notes "All as One"
December 24, 2010
クリスマス・プレゼント
クリスマス・イブに、母とわたしは病院に呼ばれていた。
父とはべつに、家族と話がしたいと言われたから、自然あまり良い話ではないだろうとわたしたちは察した。それでも、指定されたのは聖夜である。だいじょうぶ。そう思った。
受洗をしていないし、社会的には信者として認めてはもらえないと思うが、それでもわたしはイエス・キリストを信じる者であったし、その教えを教育の形に変換して伝えてゆく手伝いを日々の仕事とし、それは今、自分に与えられている使命とも思って、できるかぎりの努力をしているつもりだった。努力以外の自信はなにもないけれど、一生懸命働いていることは神さまもご承知のはずだから、きっと守ってくださるはずだ。クリスマス・イブだもの、イエスさまも味方して、きっとご褒美をくださるはずだ・・・そう信じていた。
はたして、24日の夜。母とわたしの前に並んだ三人の医師は、今回父に行った理学療法が残念ながら効果を見せなかったことを報告した。母もわたしも、やはりこの話だったかと、覚悟をしていた分、打撃を受けずに済んだことに安堵し、じゃあ、次はどんな治療を試して行こうかと、医師の提案に期待を寄せた。
今回行った以上の治療はもうない、と言うより、現代医療ではもうなす術がない、あとは本人の免疫力次第だ、と言われても、また、正月は家に帰って、好きなものでも食べ、家族と一緒にゆっくり過ごしたらどうか、体調は帰れるようにするから・・・・と言われても、ぴんと来なかった。病室のベッドでは専用の空気清浄機を頭上に置き、鼻には酸素と、腕には点滴をつなぎながら過ごしている父を、どうやって家に帰すことができるのだろう。年末年始は病院も人手が少なくなるというのはよくわかるが、治療の方法がなくなったと言ったとたん、細菌感染も気にせず好きなところで、好きなものを食べてよいだなんて、あまりに投げやりではないだろうか。
いいえ、抗がん剤治療でがんばった父の体に今すこしの無理もさせたくない。あとは本人の自然の免疫力しか頼りがないと言うのなら、どんな免疫療法でも試して、それを高める努力はしたいけれど、無駄な負担をかけて、免疫力を下げるような危険は負いたくない。せっかく家の近くの病院へ移ったのだ。年末年始は家族が毎日通って看護する・・・・。
すると一人の若い医師がごうを煮やし、これは最後の帰宅のチャンスなのだ、普通に会話ができるのも年内までかもしれない、たとえ病院のベッドで安静に年を越したとしても、1月を何日過ごせるのかわからないのだ・・・・と畳みかけるように言って、ようやくわたしたちは、父の死を宣告されていることに気がついた。
しかし、なぜなのだろう。たった二十日前に、父と母と三人で、こうやって医師たちの説明を聞き、骨髄繊維症のため、骨髄液が採れずになかなか突き止めることができなかったが、秋から続いていた高熱はウィルス性のものではなく、白血病腫瘍のせいだとわかったこと、つまり白血病を発症しているということ、今の状態でもっとも効果的な治療は、血管内にカテーテルを通して血管を傷めないように弱性の抗がん剤を投与すること・・・と、検査の結果と治療の方法とを、はじめて聞いたばかりである。わたしは抗がん剤の使用を聞いて、ナーバスにあれこれと質問をし、それに対しては最初医師たちもマイナス面を隠さずに提示してくれたが、今回は非常に弱い薬しか使わないため、それらの副作用についてはまったく心配しなくてよい、と、主治医である医科部長が断言するように言うと、父はもう待ちきれないとでも言うように、「ぜひその治療をお願いします」と大きな声で言い、一人で頭を下げた。
父はなにもわかっていない。抗がん剤治療は強力な悪性細胞に効果的な分、健康な細胞を破壊する力も絶大なのだ。父のように、自分では血液が造れず、免疫力が低く、長期間の高熱で体力も弱っている人間が耐えられるかどうかわからないのだ。わたしはそう苛立ちながらも、父のすがるような思いに、目を覚まされる気持ちがして、いや、わたしが間違っているのかもしれない、これは天が差し出してくれている救いだとは考えられないだろうか・・・・目の前に出された助け手を信じず、素人料簡で疑って、たいせつなものを台無しにしてしまったらどうするのだ。医者の立場で、まったくリスクがない治療だと言い切るのはあまりに非常識だったが、それほど、自信を持って勧めてくれているということでもあるのだろう。鵜呑みにして愚かかもしれないが、本人も家族も一緒になって信じきってこそ働く力は確かにあるはずだ。それに賭けてみるべきではないか。そう考えては、繰り返し、わたしは迷った。しかしすでに父の心は決まっていて、希望に満ち、ましてや今の体調では他の病院をまわってセカンドオピニオンを求める余裕はなく、わたしは目を閉じるという方法で、ようやく信じ方を見つけた。
あの時医師の誰も言わなかった。治療をしてもしなくても、もう手遅れかもしれないとは言わなかった。最初に行う治療を教えてくれただけで、最後の治療になるとは教えられなかった。やっぱり抵抗力が著しく低下している父の体に、理学療法はきつすぎたのか。たとえ父の気持ちを傷つけても、わたしは断固反対すべきだったのか。たとえようもない、怒りと後悔のかたまりが押し寄せてきて、それは矛先を向ける先を、自分や他人を問わずに探して勢いよくとがったが、しかしなぜか、何度とがっても、すぐに溶かされてしまった。
二十日前、じつは医師たちにはわかっていたのではないか。医師の性格にもよるのだろうけれど、今の進行状況であれば早ければ何ヶ月・・・世の中にはそう話して聞かせる医師も多いにちがいない。しかし、そんな診断は病人にとってなんのプラスにもならないと、父の主治医はそう判断したのではないか。そして、治療にリスクがあるかないかで迷っている時間もなかったから、言質をかえりみず、まったく悪影響のない治療だと言い切りもしたのだろう。逆にもし、早ければあと一ヶ月の命だが、効果があるかないか、理学療法を一度だけ試せる・・・と聞かされていたとしたら、わたしはまちがいなく、理学療法に賭けることを選択していたと思う。父がいやがれば、説得してでも、受けさせたのではないか。到着した先は、どちらにしても同じだったのだ。
また、ウィルス性の発熱という診断のまま、白血病を発症していたことを知らずに2ヶ月を過ごしたが、それも恨めることとは思えなかった。たとえ2ヶ月前に正しい原因がわかって、治療を行っていたとしても、腫瘍の強い勢いはすでに止められなかった可能性は高いし、むしろ父の死は、もっと早まっていたかもしれないのだ。ウィルス感染と思っていたから、本当にぎりぎりまで、医師も入院をさせなかったし、父もわたしたちも家で普通の暮らしをしていたのだ。わからなかったからこそ、死の恐怖におびえることもなく、がんと闘うことに躍起になることもなく、心によけいなストレスを負わず、生きて来られたのである。
それ以前のことを言っても同じだ。2ヶ月前に高熱が出るまで、父は趣味の畑仕事も、ドライブも楽しむほど元気だったのである。骨髄繊維症という難病にかかったのが嘘のように、体調は回復し、症例の平均から言ってもこのまま十年以上、無理はできないが、生活を楽しみながら暮らして行くことができるのではないか・・・・本人も誰もがそう思い、検査を必要にする理由はなにもないほど、経過は良好だったのである。
悔しいのは、なぜわたしは、父にもっと優しくしなかったか。死ぬことがわかっていたら、わがままのような父の願いも、もっと聞いてあげられたのに・・・・。ふとこみあげた思いに、情けなくなった。いいえ、ちがう。はじめから、生まれた時から、誰もがみんな死ぬことはわかっているのだ。そんな当たり前のことを、わたしが忘れていたのだ。
(ああ、やっぱりこれはクリスマス・プレゼントなのだ・・・・)
クリスマス・イブの、病院のカンファレンスルームで、今目の前にしている現実はいったいどこから来たのか・・・と眺めながら、もうすぐ父は死ぬという医師の言葉を見つめながら、そう思った。
命あるものは必ず死す。誰の父親も、どんな人も、同じだ。しかしその時を知らず、たいせつな人と、ある日とつぜん別れなければいけない場合が多い中、もうすぐ旅立ちますよ、と教えてもらっているのである。だとしたら、これは、恵み以外のなにものでもないだろう。悟りの悪いわたしを憐れんで、せめて残りの時間を、後悔なく過ごせるように、神さまが慈悲を授けてくださっているのだ。
たとえ死に向かうことが生だとしても、死の瞬間までは、まぎれもない生そのものであり、そして生とは、幸せになることである。医師の言うとおりだった。折り良く、もうすぐ父の大好きなお正月だ。セリがたっぷり入ったお雑煮と、家族がにぎやかに集まるのが、毎年何よりの楽しみと幸せがる父に、わたしたちは、それらを全部プレゼントすることができるのだ。それで本当に、父の死がやってくるのか、いつやって来るのかはわからない。ただできることは、最後まで一緒に生きること、最良を探しながら、最後まで生きることだった。
母とわたしが病院を出るころ、大勢の看護婦さんが手にキャンドルを持って列を作り、廊下を歩き出した。病室をひとつひとつ回りながら、聖歌を歌い、早く元気になりますようにと、祈ってくれるのだ。こんな時間にわたしたちが病院にいては父が不審がるので、会わずに帰ることにしたが、だいじょうぶ、イエスさまもマリアさまも守ってくださっている・・・・そう実感するように、わたしは、キャンドルを抱いた天使たちを、感謝をこめて見送った。
翌日、午後は友人と約束をしていたまま、銀座の鳩居堂へ、大徳寺昭輝さんの書画展にでかけた。ちょうど鳩居堂での書画展が20周年となるということで、大徳寺昭輝さんを主人公に『神の微笑』をはじめとする神シリーズ8作を著わした、作家芹沢光治良氏など恩師・関係諸氏の書も一緒に展示されていた。
その中に一枚、書でも絵でもない、那智の瀧の写真があった。わたしはこの瀧の写真を、十日ほどまえ、父の携帯へ送っていた。ここは、父と母が、一歳のわたしを連れて訪れた思い出の場所で、父の理学療法が始まった時、偶然わたしはそこを訪れていた。
その時、熊野の地で、わたしは当時の若い両親に思いを馳せるうち、二人の気持ちを追体験するような不思議な感覚におそわれた。歩いた、しゃべった、笑ったと、幼いわたしのすることに一喜一憂しながら、これからの家族のいろんな幸せを、さまざまな未来を、夢見ていた父と母のようすが心に浮かんで、自分に注がれていた、若い両親の屈託のない喜びに満ちた愛情が、鮮明に、触れられるように明らかなものとして味わわれた。わたしは一体長い間、なにを見失っていたのだろう・・・。こんなに確かに愛されていたではないか。両親も、こんなに愛し合っていたではないか、そう理解して、胸が熱くなった。いつからうまく伝わらなくなってしまったのだろう。身近にいる同士だからこそ、伝えなくなってしまったもの。近すぎると、よけいに伝わりづらくなってしまうもの。なぜ、大事なことを、大事な人に伝えられない・・・・。
わたしは病院の父の携帯へ、那智の瀧の写真を送ってみた。そして、「一人で来られるようになるくらい、大きくなるまで、育ててくれてどうもありがとう」と、面と向かっては言えない言葉を、いっしょに書き送った。死ぬことがわかっていたら、行かなかった那智であったし、死ぬことがわかったら、別れ文句のようで言えなかった「ありがとう」であった。
大徳寺昭輝さんに、書画集へサインを書いていただこうとあいさつをすると、来るまでは少しも話す気がなかったことなのに、思わず父のことを話しだしてしまった。いつも大勢の相談を一身に受けている人に、わたしの荷物までおろすことはしたくなかったが、別の話をうまく伝えられなくて、冷静を欠いた瞬間に、唐突にわたしは言い放ってしまったのだった。父の命が来月までもたないかもしれない・・・。
しかし、最後まで言い終わらないうち、大徳寺さんは満面の笑みを返して、わたしは言葉を失った。それはまるで、言うべきことを言って褒めているような、あるいはクリスマスプレゼントだと、せっかく恩恵として受け取ったものを、わたしが不幸として語り直そうとするのを阻止するかのようだっだ。そして、書画集を取ると、父のために絵を描いてくれた。そこには、Merry Xmasの言葉と共に、「お元気になりますように」と祈る、キャンドルを持った天使の絵があった。昨夜、病院の廊下で出会った天使たちと同じだった。神さまはいつも共にいてくださる。そう伝えていた。
「書画集、端から端までていねいに読ませていただいたよ」
二日後、父が言った。本当にありがたいね・・・と頭を垂れ、わたしは驚いた。
帰宅に合わせて体調を整えるため、これが使える一番最後の薬だと言う抗生物質が投与され始めたが、その効果で熱も下がり、急激に体が楽になった父は、奇跡が起きたと喜んでいた。
抗生物質は耐性ができてしまい、どんどん強いものを使い続けるしかない。しかしそれだけ体への負担は大きく、父の細胞はもう今回の薬に耐える力を持っていなかった。しばらく、本人は治ったかのように症状が改善して楽になるが、肺炎を起こすのは必至だった。肺炎を起こすのが先か、がんが体を破壊するのが先かの問題だ、でも知っていてほしい、がんの最後は非常に壮絶な痛みを伴うものなのだ、その上でよく考えて決めてほしい・・・・と言って、医師は、抗生物質の使用に抵抗するわたしの感傷を叱った。わかっている。がんの最後は、3ヵ月前に友人が教えてくれたばかりである。
その抗生物質が投与され、父はどんな治療をしても下がらなかった熱がとうとう下がって、天国のようだと子どものように喜んだ。家に帰ったら、お雑煮や、お刺身、焼肉が食べたいと言って張り切った。父に告知はしないと母が言い張り、それではどうやって、急激に体調を引き上げたり、点滴も酸素も不要だと安心させることができるだろう・・・・と悩んでいたわたしは、父が奇跡として、家に帰れるほど元気になった体を受け入れたのを見て、それこそが奇跡と思い、救われた。しかし、なによりも感謝されることは、他にあった。書画集には那智の瀧の写真も載っていたが、その後ろには、芹沢光治良先生が同じ言葉を書いた四枚の書が続いており、それは正しく、わたしの人生の根となっている言葉であった。
「九十年生きて ようやく識る 大自然の力こそ 唯一の神 人類の親 わが親なることを」
真理を求め続けた作家が、とうとう九十にして至ったその言葉が、繰り返し、繰り返し、父の心を叩き、中へ染みこんだことはまちがいなく見えた。自分は無宗教で無信仰の人間だ、と言い続けてきた父であったが、天へ旅立つ前に、この言の葉を心に届けることができたのは、魂に頼りとなる地図を持たせることができたのに等しく思えて、わたしは深い感謝に打たれた。
クリスマス・イブの夜にね、看護師さんたちがろうそくを持って、わざわざ部屋まで歌を歌いに来てくれたのだよ・・・・・。父は感動したように、数日前のできごとを家族に聴かせた。父しか知らないその姿を、大徳寺さんが絵に描いてくれたのも本当に嬉しかったのだろう。多くの祈る人たちのまごころが、父の心が開くのを助けてくれていた。
大晦日、父は娘の運転ではあるが、雨の日には乗らないと言うほど大事にしていた愛車のジャガーに乗って家へ帰り、久しぶりに風呂へ入って母に全身を洗ってもらい、元旦は息子家族も集まってにぎやかに過ごし、好物のうどんすき、お雑煮、焼肉を楽しんだ後、二日に病院へ戻り、五日後の七日、天国へと旅立った。
病院に戻る直前、父の足を洗わせてもらった。むくんで、大きくなってしまった足を湯であたため、片足ずつ、タオルでていねいに拭き、靴下をはかせた。この足で歩き回って、仕事をし、わたしたちは育ててもらった。水虫がうつると、家族中から嫌われた足でもあった。
病院へ戻った父は、肺炎を起こし、急激に悪化する体調に衝撃を受けながら、せっかく良くなったのに、家に帰って無理をしたせいで、悪くしてしまった・・・・わたしたち家族には遠慮してなにも言わなかったが、他の人にそうこぼしていたようである。そして、自ら死を覚ると、二日であっという間に逝ってしまった。昔からこうと決めたら、動かずにはいられない性分でもある。母の言うとおり、やはり父には告知をしなくて正解だったのだろう。
一月七日は、もうほとんど喋ることはできないながら、午後までしっかりとした意識で、しきりに牛乳を飲みたがったが、飲み込む力が衰え、肺に入ってしまう危険性が高いと言って医師の許可が下りず、そこで知恵を絞ったのか、今度は口の中で少しずつ溶かすことができるアイスクリームを要求して、ようやく医師の許しを取り付けた。誤嚥に気をつけて、一匙一匙口へ運ぶと、おいしいと、指で丸を作ってサインをしながら、ぜんぶ平らげた。そんな元気と朗らかさを見せてくれていた父であったが、満足をしたのか、疲れたのか、母をそばに呼ぶと、
「もう休んで」
と言って、看護師さんに薬を頼んで眠り、きょうだい達が、じゃあ、今日はこれで・・・と言って帰って、病室に妻と子どもと、孫だけとなると、「準備ができたね。では行くよ」とばかりに、急にどんどん、どんどん深い眠りに落ちるようにして、父は次第に呼吸をやめ、心臓を打つのをやめた。直前、左の目尻から、涙が二度落ちた。その顔はまるで、見たこともない美しいものを見て、感動しているかのように見えた。
ありがとう。おつかれさまでした。いってらっしゃい。また会おうね・・・・亡くなってもしばらくは聴覚だけは残って、声はよく聞こえるそうですよ・・・と、看護師さんに扮した天使に教えられて、家族は代わる代わる、父に声をかけた。
この世に生まれることができるか、できないか、生まれたあと、病気になるか、ならないか、それらはみな最後まで決まっていないことばかりだが、死ぬことは、生まれた時からすでに決まっている、誰にでも平等に与えられた運命である。死ぬことがわかっていたら・・・・と、愚にもつかずわたしも胸に上らせたが、どの人も死ぬことはわかっており、明日、わたしが生きている保証もじつはないのだ。だから、誰もがかけがえのない今を生きている時、照れている場合ではなく、後回しにしている場合でも、機嫌を損ねている場合でもなく、愛は伝えるように、優しさは行うように、許しあい、感謝しあうように・・・・父は最後にこのことを、生きる上で最もたいせつなことを、命をもって教えてくれたように思う。そしてこの救いこそ、あの日天が授けてくれた最上のクリスマス・プレゼントだったのだと思っている。
一年経った今も、毎朝父にお茶をいれながら、生きている時にもいれてあげれば良かったのにね、と苦笑する。一緒に生きてくれている人たちにも、もっとお茶をいれてあげなくちゃね、と反省する。いつまで経っても、親は親で、子どもを育てつづけてくれるものなのだろう。
「育ててくれてありがとう」
はからずも、書くことができたあの時のメールへの返事は、
「あなたはパパの自慢の娘です」
と書いてあった。びっくりし、泣いた。自慢の種どころか、迷惑ばかりをかけてきた娘である。
こうして、父は娘に朽ちない宝を授け、この言葉と共に、今も生き続けている。
父とはべつに、家族と話がしたいと言われたから、自然あまり良い話ではないだろうとわたしたちは察した。それでも、指定されたのは聖夜である。だいじょうぶ。そう思った。
受洗をしていないし、社会的には信者として認めてはもらえないと思うが、それでもわたしはイエス・キリストを信じる者であったし、その教えを教育の形に変換して伝えてゆく手伝いを日々の仕事とし、それは今、自分に与えられている使命とも思って、できるかぎりの努力をしているつもりだった。努力以外の自信はなにもないけれど、一生懸命働いていることは神さまもご承知のはずだから、きっと守ってくださるはずだ。クリスマス・イブだもの、イエスさまも味方して、きっとご褒美をくださるはずだ・・・そう信じていた。
はたして、24日の夜。母とわたしの前に並んだ三人の医師は、今回父に行った理学療法が残念ながら効果を見せなかったことを報告した。母もわたしも、やはりこの話だったかと、覚悟をしていた分、打撃を受けずに済んだことに安堵し、じゃあ、次はどんな治療を試して行こうかと、医師の提案に期待を寄せた。
今回行った以上の治療はもうない、と言うより、現代医療ではもうなす術がない、あとは本人の免疫力次第だ、と言われても、また、正月は家に帰って、好きなものでも食べ、家族と一緒にゆっくり過ごしたらどうか、体調は帰れるようにするから・・・・と言われても、ぴんと来なかった。病室のベッドでは専用の空気清浄機を頭上に置き、鼻には酸素と、腕には点滴をつなぎながら過ごしている父を、どうやって家に帰すことができるのだろう。年末年始は病院も人手が少なくなるというのはよくわかるが、治療の方法がなくなったと言ったとたん、細菌感染も気にせず好きなところで、好きなものを食べてよいだなんて、あまりに投げやりではないだろうか。
いいえ、抗がん剤治療でがんばった父の体に今すこしの無理もさせたくない。あとは本人の自然の免疫力しか頼りがないと言うのなら、どんな免疫療法でも試して、それを高める努力はしたいけれど、無駄な負担をかけて、免疫力を下げるような危険は負いたくない。せっかく家の近くの病院へ移ったのだ。年末年始は家族が毎日通って看護する・・・・。
すると一人の若い医師がごうを煮やし、これは最後の帰宅のチャンスなのだ、普通に会話ができるのも年内までかもしれない、たとえ病院のベッドで安静に年を越したとしても、1月を何日過ごせるのかわからないのだ・・・・と畳みかけるように言って、ようやくわたしたちは、父の死を宣告されていることに気がついた。
しかし、なぜなのだろう。たった二十日前に、父と母と三人で、こうやって医師たちの説明を聞き、骨髄繊維症のため、骨髄液が採れずになかなか突き止めることができなかったが、秋から続いていた高熱はウィルス性のものではなく、白血病腫瘍のせいだとわかったこと、つまり白血病を発症しているということ、今の状態でもっとも効果的な治療は、血管内にカテーテルを通して血管を傷めないように弱性の抗がん剤を投与すること・・・と、検査の結果と治療の方法とを、はじめて聞いたばかりである。わたしは抗がん剤の使用を聞いて、ナーバスにあれこれと質問をし、それに対しては最初医師たちもマイナス面を隠さずに提示してくれたが、今回は非常に弱い薬しか使わないため、それらの副作用についてはまったく心配しなくてよい、と、主治医である医科部長が断言するように言うと、父はもう待ちきれないとでも言うように、「ぜひその治療をお願いします」と大きな声で言い、一人で頭を下げた。
父はなにもわかっていない。抗がん剤治療は強力な悪性細胞に効果的な分、健康な細胞を破壊する力も絶大なのだ。父のように、自分では血液が造れず、免疫力が低く、長期間の高熱で体力も弱っている人間が耐えられるかどうかわからないのだ。わたしはそう苛立ちながらも、父のすがるような思いに、目を覚まされる気持ちがして、いや、わたしが間違っているのかもしれない、これは天が差し出してくれている救いだとは考えられないだろうか・・・・目の前に出された助け手を信じず、素人料簡で疑って、たいせつなものを台無しにしてしまったらどうするのだ。医者の立場で、まったくリスクがない治療だと言い切るのはあまりに非常識だったが、それほど、自信を持って勧めてくれているということでもあるのだろう。鵜呑みにして愚かかもしれないが、本人も家族も一緒になって信じきってこそ働く力は確かにあるはずだ。それに賭けてみるべきではないか。そう考えては、繰り返し、わたしは迷った。しかしすでに父の心は決まっていて、希望に満ち、ましてや今の体調では他の病院をまわってセカンドオピニオンを求める余裕はなく、わたしは目を閉じるという方法で、ようやく信じ方を見つけた。
あの時医師の誰も言わなかった。治療をしてもしなくても、もう手遅れかもしれないとは言わなかった。最初に行う治療を教えてくれただけで、最後の治療になるとは教えられなかった。やっぱり抵抗力が著しく低下している父の体に、理学療法はきつすぎたのか。たとえ父の気持ちを傷つけても、わたしは断固反対すべきだったのか。たとえようもない、怒りと後悔のかたまりが押し寄せてきて、それは矛先を向ける先を、自分や他人を問わずに探して勢いよくとがったが、しかしなぜか、何度とがっても、すぐに溶かされてしまった。
二十日前、じつは医師たちにはわかっていたのではないか。医師の性格にもよるのだろうけれど、今の進行状況であれば早ければ何ヶ月・・・世の中にはそう話して聞かせる医師も多いにちがいない。しかし、そんな診断は病人にとってなんのプラスにもならないと、父の主治医はそう判断したのではないか。そして、治療にリスクがあるかないかで迷っている時間もなかったから、言質をかえりみず、まったく悪影響のない治療だと言い切りもしたのだろう。逆にもし、早ければあと一ヶ月の命だが、効果があるかないか、理学療法を一度だけ試せる・・・と聞かされていたとしたら、わたしはまちがいなく、理学療法に賭けることを選択していたと思う。父がいやがれば、説得してでも、受けさせたのではないか。到着した先は、どちらにしても同じだったのだ。
また、ウィルス性の発熱という診断のまま、白血病を発症していたことを知らずに2ヶ月を過ごしたが、それも恨めることとは思えなかった。たとえ2ヶ月前に正しい原因がわかって、治療を行っていたとしても、腫瘍の強い勢いはすでに止められなかった可能性は高いし、むしろ父の死は、もっと早まっていたかもしれないのだ。ウィルス感染と思っていたから、本当にぎりぎりまで、医師も入院をさせなかったし、父もわたしたちも家で普通の暮らしをしていたのだ。わからなかったからこそ、死の恐怖におびえることもなく、がんと闘うことに躍起になることもなく、心によけいなストレスを負わず、生きて来られたのである。
それ以前のことを言っても同じだ。2ヶ月前に高熱が出るまで、父は趣味の畑仕事も、ドライブも楽しむほど元気だったのである。骨髄繊維症という難病にかかったのが嘘のように、体調は回復し、症例の平均から言ってもこのまま十年以上、無理はできないが、生活を楽しみながら暮らして行くことができるのではないか・・・・本人も誰もがそう思い、検査を必要にする理由はなにもないほど、経過は良好だったのである。
悔しいのは、なぜわたしは、父にもっと優しくしなかったか。死ぬことがわかっていたら、わがままのような父の願いも、もっと聞いてあげられたのに・・・・。ふとこみあげた思いに、情けなくなった。いいえ、ちがう。はじめから、生まれた時から、誰もがみんな死ぬことはわかっているのだ。そんな当たり前のことを、わたしが忘れていたのだ。
(ああ、やっぱりこれはクリスマス・プレゼントなのだ・・・・)
クリスマス・イブの、病院のカンファレンスルームで、今目の前にしている現実はいったいどこから来たのか・・・と眺めながら、もうすぐ父は死ぬという医師の言葉を見つめながら、そう思った。
命あるものは必ず死す。誰の父親も、どんな人も、同じだ。しかしその時を知らず、たいせつな人と、ある日とつぜん別れなければいけない場合が多い中、もうすぐ旅立ちますよ、と教えてもらっているのである。だとしたら、これは、恵み以外のなにものでもないだろう。悟りの悪いわたしを憐れんで、せめて残りの時間を、後悔なく過ごせるように、神さまが慈悲を授けてくださっているのだ。
たとえ死に向かうことが生だとしても、死の瞬間までは、まぎれもない生そのものであり、そして生とは、幸せになることである。医師の言うとおりだった。折り良く、もうすぐ父の大好きなお正月だ。セリがたっぷり入ったお雑煮と、家族がにぎやかに集まるのが、毎年何よりの楽しみと幸せがる父に、わたしたちは、それらを全部プレゼントすることができるのだ。それで本当に、父の死がやってくるのか、いつやって来るのかはわからない。ただできることは、最後まで一緒に生きること、最良を探しながら、最後まで生きることだった。
母とわたしが病院を出るころ、大勢の看護婦さんが手にキャンドルを持って列を作り、廊下を歩き出した。病室をひとつひとつ回りながら、聖歌を歌い、早く元気になりますようにと、祈ってくれるのだ。こんな時間にわたしたちが病院にいては父が不審がるので、会わずに帰ることにしたが、だいじょうぶ、イエスさまもマリアさまも守ってくださっている・・・・そう実感するように、わたしは、キャンドルを抱いた天使たちを、感謝をこめて見送った。
翌日、午後は友人と約束をしていたまま、銀座の鳩居堂へ、大徳寺昭輝さんの書画展にでかけた。ちょうど鳩居堂での書画展が20周年となるということで、大徳寺昭輝さんを主人公に『神の微笑』をはじめとする神シリーズ8作を著わした、作家芹沢光治良氏など恩師・関係諸氏の書も一緒に展示されていた。
その中に一枚、書でも絵でもない、那智の瀧の写真があった。わたしはこの瀧の写真を、十日ほどまえ、父の携帯へ送っていた。ここは、父と母が、一歳のわたしを連れて訪れた思い出の場所で、父の理学療法が始まった時、偶然わたしはそこを訪れていた。
その時、熊野の地で、わたしは当時の若い両親に思いを馳せるうち、二人の気持ちを追体験するような不思議な感覚におそわれた。歩いた、しゃべった、笑ったと、幼いわたしのすることに一喜一憂しながら、これからの家族のいろんな幸せを、さまざまな未来を、夢見ていた父と母のようすが心に浮かんで、自分に注がれていた、若い両親の屈託のない喜びに満ちた愛情が、鮮明に、触れられるように明らかなものとして味わわれた。わたしは一体長い間、なにを見失っていたのだろう・・・。こんなに確かに愛されていたではないか。両親も、こんなに愛し合っていたではないか、そう理解して、胸が熱くなった。いつからうまく伝わらなくなってしまったのだろう。身近にいる同士だからこそ、伝えなくなってしまったもの。近すぎると、よけいに伝わりづらくなってしまうもの。なぜ、大事なことを、大事な人に伝えられない・・・・。
わたしは病院の父の携帯へ、那智の瀧の写真を送ってみた。そして、「一人で来られるようになるくらい、大きくなるまで、育ててくれてどうもありがとう」と、面と向かっては言えない言葉を、いっしょに書き送った。死ぬことがわかっていたら、行かなかった那智であったし、死ぬことがわかったら、別れ文句のようで言えなかった「ありがとう」であった。
大徳寺昭輝さんに、書画集へサインを書いていただこうとあいさつをすると、来るまでは少しも話す気がなかったことなのに、思わず父のことを話しだしてしまった。いつも大勢の相談を一身に受けている人に、わたしの荷物までおろすことはしたくなかったが、別の話をうまく伝えられなくて、冷静を欠いた瞬間に、唐突にわたしは言い放ってしまったのだった。父の命が来月までもたないかもしれない・・・。
しかし、最後まで言い終わらないうち、大徳寺さんは満面の笑みを返して、わたしは言葉を失った。それはまるで、言うべきことを言って褒めているような、あるいはクリスマスプレゼントだと、せっかく恩恵として受け取ったものを、わたしが不幸として語り直そうとするのを阻止するかのようだっだ。そして、書画集を取ると、父のために絵を描いてくれた。そこには、Merry Xmasの言葉と共に、「お元気になりますように」と祈る、キャンドルを持った天使の絵があった。昨夜、病院の廊下で出会った天使たちと同じだった。神さまはいつも共にいてくださる。そう伝えていた。
「書画集、端から端までていねいに読ませていただいたよ」
二日後、父が言った。本当にありがたいね・・・と頭を垂れ、わたしは驚いた。
帰宅に合わせて体調を整えるため、これが使える一番最後の薬だと言う抗生物質が投与され始めたが、その効果で熱も下がり、急激に体が楽になった父は、奇跡が起きたと喜んでいた。
抗生物質は耐性ができてしまい、どんどん強いものを使い続けるしかない。しかしそれだけ体への負担は大きく、父の細胞はもう今回の薬に耐える力を持っていなかった。しばらく、本人は治ったかのように症状が改善して楽になるが、肺炎を起こすのは必至だった。肺炎を起こすのが先か、がんが体を破壊するのが先かの問題だ、でも知っていてほしい、がんの最後は非常に壮絶な痛みを伴うものなのだ、その上でよく考えて決めてほしい・・・・と言って、医師は、抗生物質の使用に抵抗するわたしの感傷を叱った。わかっている。がんの最後は、3ヵ月前に友人が教えてくれたばかりである。
その抗生物質が投与され、父はどんな治療をしても下がらなかった熱がとうとう下がって、天国のようだと子どものように喜んだ。家に帰ったら、お雑煮や、お刺身、焼肉が食べたいと言って張り切った。父に告知はしないと母が言い張り、それではどうやって、急激に体調を引き上げたり、点滴も酸素も不要だと安心させることができるだろう・・・・と悩んでいたわたしは、父が奇跡として、家に帰れるほど元気になった体を受け入れたのを見て、それこそが奇跡と思い、救われた。しかし、なによりも感謝されることは、他にあった。書画集には那智の瀧の写真も載っていたが、その後ろには、芹沢光治良先生が同じ言葉を書いた四枚の書が続いており、それは正しく、わたしの人生の根となっている言葉であった。
「九十年生きて ようやく識る 大自然の力こそ 唯一の神 人類の親 わが親なることを」
真理を求め続けた作家が、とうとう九十にして至ったその言葉が、繰り返し、繰り返し、父の心を叩き、中へ染みこんだことはまちがいなく見えた。自分は無宗教で無信仰の人間だ、と言い続けてきた父であったが、天へ旅立つ前に、この言の葉を心に届けることができたのは、魂に頼りとなる地図を持たせることができたのに等しく思えて、わたしは深い感謝に打たれた。
クリスマス・イブの夜にね、看護師さんたちがろうそくを持って、わざわざ部屋まで歌を歌いに来てくれたのだよ・・・・・。父は感動したように、数日前のできごとを家族に聴かせた。父しか知らないその姿を、大徳寺さんが絵に描いてくれたのも本当に嬉しかったのだろう。多くの祈る人たちのまごころが、父の心が開くのを助けてくれていた。
大晦日、父は娘の運転ではあるが、雨の日には乗らないと言うほど大事にしていた愛車のジャガーに乗って家へ帰り、久しぶりに風呂へ入って母に全身を洗ってもらい、元旦は息子家族も集まってにぎやかに過ごし、好物のうどんすき、お雑煮、焼肉を楽しんだ後、二日に病院へ戻り、五日後の七日、天国へと旅立った。
病院に戻る直前、父の足を洗わせてもらった。むくんで、大きくなってしまった足を湯であたため、片足ずつ、タオルでていねいに拭き、靴下をはかせた。この足で歩き回って、仕事をし、わたしたちは育ててもらった。水虫がうつると、家族中から嫌われた足でもあった。
病院へ戻った父は、肺炎を起こし、急激に悪化する体調に衝撃を受けながら、せっかく良くなったのに、家に帰って無理をしたせいで、悪くしてしまった・・・・わたしたち家族には遠慮してなにも言わなかったが、他の人にそうこぼしていたようである。そして、自ら死を覚ると、二日であっという間に逝ってしまった。昔からこうと決めたら、動かずにはいられない性分でもある。母の言うとおり、やはり父には告知をしなくて正解だったのだろう。
一月七日は、もうほとんど喋ることはできないながら、午後までしっかりとした意識で、しきりに牛乳を飲みたがったが、飲み込む力が衰え、肺に入ってしまう危険性が高いと言って医師の許可が下りず、そこで知恵を絞ったのか、今度は口の中で少しずつ溶かすことができるアイスクリームを要求して、ようやく医師の許しを取り付けた。誤嚥に気をつけて、一匙一匙口へ運ぶと、おいしいと、指で丸を作ってサインをしながら、ぜんぶ平らげた。そんな元気と朗らかさを見せてくれていた父であったが、満足をしたのか、疲れたのか、母をそばに呼ぶと、
「もう休んで」
と言って、看護師さんに薬を頼んで眠り、きょうだい達が、じゃあ、今日はこれで・・・と言って帰って、病室に妻と子どもと、孫だけとなると、「準備ができたね。では行くよ」とばかりに、急にどんどん、どんどん深い眠りに落ちるようにして、父は次第に呼吸をやめ、心臓を打つのをやめた。直前、左の目尻から、涙が二度落ちた。その顔はまるで、見たこともない美しいものを見て、感動しているかのように見えた。
ありがとう。おつかれさまでした。いってらっしゃい。また会おうね・・・・亡くなってもしばらくは聴覚だけは残って、声はよく聞こえるそうですよ・・・と、看護師さんに扮した天使に教えられて、家族は代わる代わる、父に声をかけた。
この世に生まれることができるか、できないか、生まれたあと、病気になるか、ならないか、それらはみな最後まで決まっていないことばかりだが、死ぬことは、生まれた時からすでに決まっている、誰にでも平等に与えられた運命である。死ぬことがわかっていたら・・・・と、愚にもつかずわたしも胸に上らせたが、どの人も死ぬことはわかっており、明日、わたしが生きている保証もじつはないのだ。だから、誰もがかけがえのない今を生きている時、照れている場合ではなく、後回しにしている場合でも、機嫌を損ねている場合でもなく、愛は伝えるように、優しさは行うように、許しあい、感謝しあうように・・・・父は最後にこのことを、生きる上で最もたいせつなことを、命をもって教えてくれたように思う。そしてこの救いこそ、あの日天が授けてくれた最上のクリスマス・プレゼントだったのだと思っている。
一年経った今も、毎朝父にお茶をいれながら、生きている時にもいれてあげれば良かったのにね、と苦笑する。一緒に生きてくれている人たちにも、もっとお茶をいれてあげなくちゃね、と反省する。いつまで経っても、親は親で、子どもを育てつづけてくれるものなのだろう。
「育ててくれてありがとう」
はからずも、書くことができたあの時のメールへの返事は、
「あなたはパパの自慢の娘です」
と書いてあった。びっくりし、泣いた。自慢の種どころか、迷惑ばかりをかけてきた娘である。
こうして、父は娘に朽ちない宝を授け、この言葉と共に、今も生き続けている。
September 12, 2010
あかり
あかり・・・・これは友人が、お酒のおいしいお店で、アルバイトをしていた時の名前である。おそらく彼女は、人の心を明るくすることができる自分の能力を自覚していたと思うし、彼女自身つねにそうありたいと願っていたとも思う。実際どうして「あかり」を名乗ることにしたのか、本当の理由は忘れてしまったけれど、彼女にこれほどぴったりの名前はないだろうと、約20年後、彼女が天に帰ったとき、わたしはずっと忘れていたこの名前を思い出した。
昨年の9月、こどものような心でなければ天国の門をくぐれない・・・まさにその言葉の通り、こどものような心を資格にして、彼女は天国の門をくぐって行った。
みんなで彼女の思い出話を始めれば、彼女がしでかした突拍子もないこと、呆れてしまうようなことばかりが、口々から連なって出てきて、本当にばかなことばっかり、とわたしたちは笑いだし、彼女の死を悼む時でさえも、その残照のような「あかり」で気持ちを明るくしてもらっていることに気づく。
「あんな子は、もういない・・・・」
と、彼女の親友がつぶやいた。
「本当に愛していたから・・・」
と、もう一人の親友がつぶやく。わたしたちはそれぞれに、どんな憂さも晴らしてくれる、愛しい笑いの神さまをなくして寂しがった。
わたしは、自分がどちらかと言えば厳しい制限が多い中で育ち、数限りなく反撥しながらも、その中に収まるしかなかったせいか、正反対のように、伸びやかに、自分の欲求に素直に生きる彼女の姿が新鮮であり、また快かった。それに、欲求に素直というのもいろいろだが、日常の忍耐を強いられるような場面では、きっと先に音をあげてくれる人物が隣にいてくれるのは、じつに気持ちが楽なことで、いつも限界を試されたり、急きたてられるような緊張が多い日々の中、彼女と一緒にいると、常に許されているような気持ちになり、自然と力が抜け、心が和むのを覚えた。
代わりに、一緒に行動をしようと思ったら、待ち合わせひとつ、まともにできるかわからない。その時間になっても、家で寝ていることも十分ありえたし、もしましなことに、「遅刻だわ!」と言いながら焦ってくれている場合には、汗をかき、目を剥いて走って、内股の自分の足に引っかかって転倒してしまうような、そしてそこでなぜか優しい男性に出会って、結局待ち合わせに現われることができなくなってしまうような、そんな人だった。
思えば、今回もそうだ。彼女はわたしたちみんなと、ガンが良くなったら会おうね、もうちょっと待って、最速で治すから・・・・・と約束して、良くなろう、良くなろう、とがむしゃらに走りながら、とうとうそのまま、わたしたちの前に現われることはなかった。途中で、一体どんなステキな人に出会ってしまったのだろう。
そうして彼女が天国へ旅立った2ヶ月ほど前のことだ。それはわたしが肉体ある彼女と会う最後となってしまった日であったが、その時彼女が吐いた言葉で、今も鮮烈に忘れられないものがある。
お酒を飲むのも、おいしいものを食べるのも好きな人で、栄養だとか、時間や量などはおかまいなしに、好きなものを、好きなように食べていた彼女だったが、闘病に入ってからは完全な玄米菜食に切り替えていた。ガンが発覚した時、5年後の生存率は10%だと医師に言い放たれ、すべてに見放されたように感じた彼女は、その後自力で立ち上がろうと、さまざまな本を読み漁り、人々の話を聞いて回り、その中から真実を見つけ出したように、自らの生活全般を、大自然の営みと調和するものへあらためたのである。
早寝早起き、運動、そして手間隙をかけた野菜中心の食事という、以前の彼女では考えられないようながんばりだった。誘惑になりそうなものはすべて排除するように、すこし排他的に傾きながらも、無我夢中で取り組んだ。死の恐怖がそれだけ大きかったのだろうと言う人もいるだろうが、わたしは、彼女がそんな革命を自分に起せるだけの真実を見出したのだろうと、そしてその真の実りを、彼女自身が日々少しずつでも経験し、確信できたから、続けることができたのだろうと思っている。
食事を変えたら、新しく生えてくる爪はまるっきり色が異なって、同じひとつの爪に、正しい食事とそうでない食事の差がはっきり現われたと感動していた。食べ物ひとつひとつに感謝をしながら食べることを覚え、毎日生きている自分の体に感謝することを覚え、支えられている周囲の人々に感謝することを覚えた。彼女の明るさは、病状の進行を気づけないほど、逆に増して行った。
そんな彼女が、亡くなる2か月ほど前、こぼすように、こう言ったのである。
「食事も完璧にあらためた。生活もあらためた。手当ても毎日している・・・・あとはね、心だけなの。でもさ、わかんないんだよね。いったい心のどこを直せばいいのか、わからないんだよね・・・・」
なんて人だろうと思った。なんて素直で、きれいな人なのだろう。自然療法を学んで、病には心という根があり、それを直す根治こそ本当の治療であることを、彼女は悟ったのである。わたしは、彼女の強いあかりに眩しさを感じながら、自分のほうが闇にいるのを知る思いがした。
命のぎりぎりの場所で、友人は、最後に自分の心と真剣に向き合った。そして高熱にうなされ、壮絶な痛みを味わう中でもなお、彼女は生きることを求め、信じ続け、感謝と喜びを表した。その生命の強さは、わたしの命までも鼓舞してやまなかった。
しかしまもなく、家族の誰も、そして本人さえも予期せぬうちに、ある日突然彼女の時は尽きた。朝、出勤前に病院へ寄った夫に、
「体をあたためたいから、湯たんぽ持ってきて!」
と言ったのが、夫婦の最後の会話になったそうである。
その彼女の命日は、奇しくもわたしの誕生日の前日となった。おかげで毎年かならず、彼女の死を思い出してから、わたしは新しい年齢を刻むことになった。それはまるで、生きていることがどんなにありがたいことか、そんな命をけっして無駄にしてはいけないのだと、自覚の足りないわたしの贅沢に、喝を入れたかったのかもしれないと思わされた。
あなたのように、はちゃめちゃな人に言われたくないわ、と笑いつつ、これから生涯、けっして消えることのない喝だと思っている。
そういえば、出席番号も、彼女はわたしのひとつ前だった。大学の入学式の日、学科ごとに出席番号順に並ばされて、そのおかげでわたしたちは友達になった。大学に入ったら、好きな文学だけを勉強できる。本気で勉強しよう・・・と、初志をかためているわたしに、とつぜん彼女は振り向いて、声をかけた。
「ねえねえ、彼氏はどこの大学につくるか決めた?」
びっくりして、どう答えたらいいのか戸惑いながら、わたしは正直でもない、かといって今の瞬間では率直な答えとして、
「うーん、別に男の人に興味ないから・・・・」
と返事をした。すると、
「えー?じゃあ、女の人に興味があるの?」
と彼女もびっくりしたように、真顔で尋ねた。
「ない、ない。女の人に興味なんかないよ」
誤解されてはたまらないと、大きく手を振り、否定すると、さらに彼女は聞いてきた。
「じゃあ、猫とか?」
「・・・・・・・・・」
あなたがいなくなって、わたしたちはどうやって笑おう。でも、わたしたちは笑う。どんな時も、かならず笑おうと思う。
そして、たぶんこうして笑えるのは、彼女の命は今も生きていて、その陽気なあかりで、わたしたちを照らし続けてくれているからなのだと思う。
昨年の9月、こどものような心でなければ天国の門をくぐれない・・・まさにその言葉の通り、こどものような心を資格にして、彼女は天国の門をくぐって行った。
みんなで彼女の思い出話を始めれば、彼女がしでかした突拍子もないこと、呆れてしまうようなことばかりが、口々から連なって出てきて、本当にばかなことばっかり、とわたしたちは笑いだし、彼女の死を悼む時でさえも、その残照のような「あかり」で気持ちを明るくしてもらっていることに気づく。
「あんな子は、もういない・・・・」
と、彼女の親友がつぶやいた。
「本当に愛していたから・・・」
と、もう一人の親友がつぶやく。わたしたちはそれぞれに、どんな憂さも晴らしてくれる、愛しい笑いの神さまをなくして寂しがった。
わたしは、自分がどちらかと言えば厳しい制限が多い中で育ち、数限りなく反撥しながらも、その中に収まるしかなかったせいか、正反対のように、伸びやかに、自分の欲求に素直に生きる彼女の姿が新鮮であり、また快かった。それに、欲求に素直というのもいろいろだが、日常の忍耐を強いられるような場面では、きっと先に音をあげてくれる人物が隣にいてくれるのは、じつに気持ちが楽なことで、いつも限界を試されたり、急きたてられるような緊張が多い日々の中、彼女と一緒にいると、常に許されているような気持ちになり、自然と力が抜け、心が和むのを覚えた。
代わりに、一緒に行動をしようと思ったら、待ち合わせひとつ、まともにできるかわからない。その時間になっても、家で寝ていることも十分ありえたし、もしましなことに、「遅刻だわ!」と言いながら焦ってくれている場合には、汗をかき、目を剥いて走って、内股の自分の足に引っかかって転倒してしまうような、そしてそこでなぜか優しい男性に出会って、結局待ち合わせに現われることができなくなってしまうような、そんな人だった。
思えば、今回もそうだ。彼女はわたしたちみんなと、ガンが良くなったら会おうね、もうちょっと待って、最速で治すから・・・・・と約束して、良くなろう、良くなろう、とがむしゃらに走りながら、とうとうそのまま、わたしたちの前に現われることはなかった。途中で、一体どんなステキな人に出会ってしまったのだろう。
そうして彼女が天国へ旅立った2ヶ月ほど前のことだ。それはわたしが肉体ある彼女と会う最後となってしまった日であったが、その時彼女が吐いた言葉で、今も鮮烈に忘れられないものがある。
お酒を飲むのも、おいしいものを食べるのも好きな人で、栄養だとか、時間や量などはおかまいなしに、好きなものを、好きなように食べていた彼女だったが、闘病に入ってからは完全な玄米菜食に切り替えていた。ガンが発覚した時、5年後の生存率は10%だと医師に言い放たれ、すべてに見放されたように感じた彼女は、その後自力で立ち上がろうと、さまざまな本を読み漁り、人々の話を聞いて回り、その中から真実を見つけ出したように、自らの生活全般を、大自然の営みと調和するものへあらためたのである。
早寝早起き、運動、そして手間隙をかけた野菜中心の食事という、以前の彼女では考えられないようながんばりだった。誘惑になりそうなものはすべて排除するように、すこし排他的に傾きながらも、無我夢中で取り組んだ。死の恐怖がそれだけ大きかったのだろうと言う人もいるだろうが、わたしは、彼女がそんな革命を自分に起せるだけの真実を見出したのだろうと、そしてその真の実りを、彼女自身が日々少しずつでも経験し、確信できたから、続けることができたのだろうと思っている。
食事を変えたら、新しく生えてくる爪はまるっきり色が異なって、同じひとつの爪に、正しい食事とそうでない食事の差がはっきり現われたと感動していた。食べ物ひとつひとつに感謝をしながら食べることを覚え、毎日生きている自分の体に感謝することを覚え、支えられている周囲の人々に感謝することを覚えた。彼女の明るさは、病状の進行を気づけないほど、逆に増して行った。
そんな彼女が、亡くなる2か月ほど前、こぼすように、こう言ったのである。
「食事も完璧にあらためた。生活もあらためた。手当ても毎日している・・・・あとはね、心だけなの。でもさ、わかんないんだよね。いったい心のどこを直せばいいのか、わからないんだよね・・・・」
なんて人だろうと思った。なんて素直で、きれいな人なのだろう。自然療法を学んで、病には心という根があり、それを直す根治こそ本当の治療であることを、彼女は悟ったのである。わたしは、彼女の強いあかりに眩しさを感じながら、自分のほうが闇にいるのを知る思いがした。
命のぎりぎりの場所で、友人は、最後に自分の心と真剣に向き合った。そして高熱にうなされ、壮絶な痛みを味わう中でもなお、彼女は生きることを求め、信じ続け、感謝と喜びを表した。その生命の強さは、わたしの命までも鼓舞してやまなかった。
しかしまもなく、家族の誰も、そして本人さえも予期せぬうちに、ある日突然彼女の時は尽きた。朝、出勤前に病院へ寄った夫に、
「体をあたためたいから、湯たんぽ持ってきて!」
と言ったのが、夫婦の最後の会話になったそうである。
その彼女の命日は、奇しくもわたしの誕生日の前日となった。おかげで毎年かならず、彼女の死を思い出してから、わたしは新しい年齢を刻むことになった。それはまるで、生きていることがどんなにありがたいことか、そんな命をけっして無駄にしてはいけないのだと、自覚の足りないわたしの贅沢に、喝を入れたかったのかもしれないと思わされた。
あなたのように、はちゃめちゃな人に言われたくないわ、と笑いつつ、これから生涯、けっして消えることのない喝だと思っている。
そういえば、出席番号も、彼女はわたしのひとつ前だった。大学の入学式の日、学科ごとに出席番号順に並ばされて、そのおかげでわたしたちは友達になった。大学に入ったら、好きな文学だけを勉強できる。本気で勉強しよう・・・と、初志をかためているわたしに、とつぜん彼女は振り向いて、声をかけた。
「ねえねえ、彼氏はどこの大学につくるか決めた?」
びっくりして、どう答えたらいいのか戸惑いながら、わたしは正直でもない、かといって今の瞬間では率直な答えとして、
「うーん、別に男の人に興味ないから・・・・」
と返事をした。すると、
「えー?じゃあ、女の人に興味があるの?」
と彼女もびっくりしたように、真顔で尋ねた。
「ない、ない。女の人に興味なんかないよ」
誤解されてはたまらないと、大きく手を振り、否定すると、さらに彼女は聞いてきた。
「じゃあ、猫とか?」
「・・・・・・・・・」
あなたがいなくなって、わたしたちはどうやって笑おう。でも、わたしたちは笑う。どんな時も、かならず笑おうと思う。
そして、たぶんこうして笑えるのは、彼女の命は今も生きていて、その陽気なあかりで、わたしたちを照らし続けてくれているからなのだと思う。
July 17, 2010
祈り
昨年の12月25日以来、たがいに忙しくてなかなか会うこともできなかった友人と、7月になったら食事でも・・・と言い合って、スケジュールが埋まらないうちに、早めに日にちを決めてしまいましょうと、7月16日の夜に会う約束をした。以前、行ってみようと話したが、なにか都合が起きて結局行けなくなってしまった、備前の器で郷土のお酒とお料理をいただける青山の店にでかけようと、場所まで決めてすっかり安心していた。
しかし後日、この友人が、最近見たイランの映画「ペルシャ猫は知らない」の話をメールに書いて送ってくれたのを読んでいるうち、ふと彼女に見せたい映画が思い浮かんで、上映会の予定を調べてみた。それは有志による自主上映でしか観ることができないフィルムであったが、ホームページを見ると、ちょうど16日の夜、都内で上映会が開かれることになっている。神谷町の光明寺という会場も、珍しかった。わたしは急いで彼女に予定の変更を提案した。備前のお店をまた延期して、『GATE』という映画を一緒に観ないか・・・その返事は即答で、「ぜひ」と返ってきた。
わたしがはじめてこの映画を観たのは4ヶ月前の3月14日だった。その日は幸運にも、監督のマット・テイラー氏も来場し、映画上映のあと、製作秘話などさまざまな話を聞くことができた。『GATE』は、65年前世界で初めて核実験が行われたトリニティサイトへ、ヒロシマ、ナガサキの原爆の火を帰し、負の連鎖の輪を閉じるという、祈りの行脚の実話映画である。その行脚は、はじめて核爆弾が使われた7月16日に出発し、武器として地上で最後に使われた8月9日に、最初の地、トリニティサイトへ到着することを目指す。わたしはこのドキュメント映画を観るうちに、とても不思議な思いがした。この行脚が行われた同じ2005年の8月6日、わたしは広島の平和祈念式典に参列していたのである。この年、わたしは平和な世界の実現のため、何かしようと思っても結局10年間何もできなかった自分をどうにかして脱け出そうとするように、今の自分にできること、どんな形でもよい、ただ祈るために、広島へ向かった。この時、アメリカでは、広島の原爆の火を持った僧侶たちが、やはりただ祈るために、ニューメキシコ州のトリニティサイトへ向かっていたのだった。
2005年の8月5日から7日まで、わたしは広島に滞在し、被爆した史跡の数々や米軍基地などをめぐり、被爆者の話を聞いて歩いた。特に、出発前、講演を聴くことができた居森清子さんが被爆した場所である、本川小学校を訪ねることは、もっとも強く願われたことであった。爆心からわすか410mの地点で、致死量の30倍もの放射能を浴びながら、奇跡的にも生き残った居森清子さんは、この年、60年間沈黙していた口をはじめて開き、自らの経験を語り始めていた。ぐうぜんにも、講演会の前、わたしは居森さんとご主人と、三人でエレベーターに乗り合わせた。その時はまだ、この方たちが居森さんご夫妻とは知る由もなかったが、かよわげで、なにか恐怖にでも合ったら消えてしまいそうな心細さを湛えた妻を、言葉少なに、やさしく寄り添って労わる夫の、そんな静かな老夫婦のようすを、わたしはなぜか微笑ましいとは思えず、尋常ではない深さと重みとに引き込まれるように感じて、せまい箱の中でとまどった。
その後、ふるえる声で自らの経験をわたしたちに語り始めた居森さんの口から、彼女の体を蝕み続けている放射能被害の数々があげられていくのを聞いて、さっきエレベーターの中で感じた尋常ではないもの、まるでこの世の人ではないような存在感の理由がわかったが、被爆から20年以上すぎてから現われはじめた後遺症は、すい臓がん、甲状腺がん、大腸がん(30cmの腸を切除)、多発性髄膜腫、脳腫瘍、骨髄肉腫・・・・と、次々に彼女を襲って増幅し、70歳をすぎてもなお進行中であった。そのうち一つでも、自らの身におこればそれだけで十分悲痛だというのに、居森さんはその小さな体にすべてが起こるのを受け止めながら、静かに、しかしおそらくは凄惨に、ここまで生き抜いてきたのである。それは、見えない意思によって生かされてきたと、自他ともに認めざるを得ないような命であり、わたしはその命と出会い、直接話を聞くことになっためぐりあわせの貴さを感じてふるえる思いがし、その命が伝えようとする思いを厳かに受け止めた。
どうやってこのかよわげな小さな一人の女性が、酷く、終わりなくつづく苦難に耐えることができ、幾多の後遺症を乗り越えることができたのか・・・・この居森さんを支え続けたのもまた、祈りであった。
さて、友人とわたしは、映画を観る段になり、主催者の説明から、ようやくその日が世界ではじめて核実験が行われた7月16日だったことに気がついた。GATEへの祈りの旅がスタートした日でもある。何においてもそうだが、時宜を得て授けられるものは、とくべつな意味をもってわたしたちの手元へ現れたことを知らせてくれている気がする。
鑑賞後、友人は、世界の平和は、それぞれの心の平和によって達成される・・・・という言葉が、この映画の鍵だったのではないか、と短く感想を述べた。彼女の分析は正しい。聡明な人である。
この友人にとって、核の問題も、国際政治も、勝手に私見を言い放てるような気楽なものではなく、戦争を終らせる方法を考えることも、遠い過去や、遠い国のことでもないところがある。その中で、たえまなく目にする矛盾や妥協、理不尽への失望や怒り、あるいは諦めが、彼女自身の心を始終揺さぶっている。わたしは彼女の中で揺らぎながら、ときに自らつらくて覆いをかぶせてしまいながらも、強く光り続けている希望や愛情、志をどんなふうに支えてあげることができるのか、といつも考えるが、できることは、ただ友のその光を信じて、そばに居続けることだけである。 平和とは、平らかに和むという字を書く。考えてもみれば、友というのは、平和とまったく同義なのだろう。
わたしたち全員が、もし世界中に友を作ることができたなら・・・・世界で戦争ができる国など、どこにもなくなるかもしれない。
その日、映画の上映後、光明寺さんが経をあげ、参加者も唱和した。この日のために選ばれたのは、讃仏偈であった。7月16日は、東京では送り盆にもあたる。戦争による犠牲者の御霊の供養とともに、平和な世界を創造することを、わたしたちはそれぞれに心に誓っていた。
・・・・願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。
それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
「讃仏偈」
しかし後日、この友人が、最近見たイランの映画「ペルシャ猫は知らない」の話をメールに書いて送ってくれたのを読んでいるうち、ふと彼女に見せたい映画が思い浮かんで、上映会の予定を調べてみた。それは有志による自主上映でしか観ることができないフィルムであったが、ホームページを見ると、ちょうど16日の夜、都内で上映会が開かれることになっている。神谷町の光明寺という会場も、珍しかった。わたしは急いで彼女に予定の変更を提案した。備前のお店をまた延期して、『GATE』という映画を一緒に観ないか・・・その返事は即答で、「ぜひ」と返ってきた。
わたしがはじめてこの映画を観たのは4ヶ月前の3月14日だった。その日は幸運にも、監督のマット・テイラー氏も来場し、映画上映のあと、製作秘話などさまざまな話を聞くことができた。『GATE』は、65年前世界で初めて核実験が行われたトリニティサイトへ、ヒロシマ、ナガサキの原爆の火を帰し、負の連鎖の輪を閉じるという、祈りの行脚の実話映画である。その行脚は、はじめて核爆弾が使われた7月16日に出発し、武器として地上で最後に使われた8月9日に、最初の地、トリニティサイトへ到着することを目指す。わたしはこのドキュメント映画を観るうちに、とても不思議な思いがした。この行脚が行われた同じ2005年の8月6日、わたしは広島の平和祈念式典に参列していたのである。この年、わたしは平和な世界の実現のため、何かしようと思っても結局10年間何もできなかった自分をどうにかして脱け出そうとするように、今の自分にできること、どんな形でもよい、ただ祈るために、広島へ向かった。この時、アメリカでは、広島の原爆の火を持った僧侶たちが、やはりただ祈るために、ニューメキシコ州のトリニティサイトへ向かっていたのだった。
2005年の8月5日から7日まで、わたしは広島に滞在し、被爆した史跡の数々や米軍基地などをめぐり、被爆者の話を聞いて歩いた。特に、出発前、講演を聴くことができた居森清子さんが被爆した場所である、本川小学校を訪ねることは、もっとも強く願われたことであった。爆心からわすか410mの地点で、致死量の30倍もの放射能を浴びながら、奇跡的にも生き残った居森清子さんは、この年、60年間沈黙していた口をはじめて開き、自らの経験を語り始めていた。ぐうぜんにも、講演会の前、わたしは居森さんとご主人と、三人でエレベーターに乗り合わせた。その時はまだ、この方たちが居森さんご夫妻とは知る由もなかったが、かよわげで、なにか恐怖にでも合ったら消えてしまいそうな心細さを湛えた妻を、言葉少なに、やさしく寄り添って労わる夫の、そんな静かな老夫婦のようすを、わたしはなぜか微笑ましいとは思えず、尋常ではない深さと重みとに引き込まれるように感じて、せまい箱の中でとまどった。
その後、ふるえる声で自らの経験をわたしたちに語り始めた居森さんの口から、彼女の体を蝕み続けている放射能被害の数々があげられていくのを聞いて、さっきエレベーターの中で感じた尋常ではないもの、まるでこの世の人ではないような存在感の理由がわかったが、被爆から20年以上すぎてから現われはじめた後遺症は、すい臓がん、甲状腺がん、大腸がん(30cmの腸を切除)、多発性髄膜腫、脳腫瘍、骨髄肉腫・・・・と、次々に彼女を襲って増幅し、70歳をすぎてもなお進行中であった。そのうち一つでも、自らの身におこればそれだけで十分悲痛だというのに、居森さんはその小さな体にすべてが起こるのを受け止めながら、静かに、しかしおそらくは凄惨に、ここまで生き抜いてきたのである。それは、見えない意思によって生かされてきたと、自他ともに認めざるを得ないような命であり、わたしはその命と出会い、直接話を聞くことになっためぐりあわせの貴さを感じてふるえる思いがし、その命が伝えようとする思いを厳かに受け止めた。
どうやってこのかよわげな小さな一人の女性が、酷く、終わりなくつづく苦難に耐えることができ、幾多の後遺症を乗り越えることができたのか・・・・この居森さんを支え続けたのもまた、祈りであった。
さて、友人とわたしは、映画を観る段になり、主催者の説明から、ようやくその日が世界ではじめて核実験が行われた7月16日だったことに気がついた。GATEへの祈りの旅がスタートした日でもある。何においてもそうだが、時宜を得て授けられるものは、とくべつな意味をもってわたしたちの手元へ現れたことを知らせてくれている気がする。
鑑賞後、友人は、世界の平和は、それぞれの心の平和によって達成される・・・・という言葉が、この映画の鍵だったのではないか、と短く感想を述べた。彼女の分析は正しい。聡明な人である。
この友人にとって、核の問題も、国際政治も、勝手に私見を言い放てるような気楽なものではなく、戦争を終らせる方法を考えることも、遠い過去や、遠い国のことでもないところがある。その中で、たえまなく目にする矛盾や妥協、理不尽への失望や怒り、あるいは諦めが、彼女自身の心を始終揺さぶっている。わたしは彼女の中で揺らぎながら、ときに自らつらくて覆いをかぶせてしまいながらも、強く光り続けている希望や愛情、志をどんなふうに支えてあげることができるのか、といつも考えるが、できることは、ただ友のその光を信じて、そばに居続けることだけである。 平和とは、平らかに和むという字を書く。考えてもみれば、友というのは、平和とまったく同義なのだろう。
わたしたち全員が、もし世界中に友を作ることができたなら・・・・世界で戦争ができる国など、どこにもなくなるかもしれない。
その日、映画の上映後、光明寺さんが経をあげ、参加者も唱和した。この日のために選ばれたのは、讃仏偈であった。7月16日は、東京では送り盆にもあたる。戦争による犠牲者の御霊の供養とともに、平和な世界を創造することを、わたしたちはそれぞれに心に誓っていた。
・・・・願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。
それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
「讃仏偈」
March 22, 2010
白薔薇
その薔薇の花に気がついたのは、父が亡くなって、初七日の供養までぶじに済ませ、ひさしぶりに出勤する朝、気もちを新たに起こしながらマンションの中庭を足早に歩いていた時で、その時には、すでに白いふたつの薔薇の花はしっかり開花していたから、実際いつ咲きだしたものか正確にはわからなかったが、発見した時点からかぞえても、二ヶ月以上。並んで咲くふたつの白い薔薇の花は、枯れもせず、朽ちもせず、1月から3月までずっと咲き続けたのだった。
昨年晩秋の花期の名残りのように、のんびりした薔薇の花がふたつ、うっかり寒い冬の庭に遅れて咲いてしまったかのようで、わたしはその薔薇を愛おしんだ。まるで頬をあわせるように寄り添って、二つの白い大輪が咲いていた。その白さの清々しさと、いのちの温かさとが、父を見送ったばかりのわたしの心に、ちょうどよいぐあいの慰めを与えてくれてもいた。
今年の冬は、雪が多くて、そのふたつの薔薇もなんども雪をかぶり、重たげに首を垂れることになったが、そしてそのたび、ただでさえ時節をあやまって咲いている身には、この冷たさを耐えるだけの支度はないだろうと案じたが、白いふたつの薔薇は、とうぜんながら逃げもせず、雪もみぞれも受けきり、しのぎきって、それどころか花びらさえ傷ませたようすもなく咲き続けた。わたしはだんだんと驚愕の思いで、薔薇の姿をながめ、もしかしたら雪をまとっている間は冷凍保存のように鮮度が保たれているのだろうか、と想像したりもしたが、同じ潅木について、すこし離れた場所に咲いていた別の花は、ある雪のあと、かぶった雪が落ちるのと一緒に花びらを散らしたし、この二つの薔薇の花がとくべつに艱難を乗り越えて、時を越えているらしいことはたしかのようで、それはしずかに、しかし強く、わたしを励まし、勇気づけた。ひょっとしたら、二つの花は、いつのまにか一緒に頭を垂れるように、枝垂れて咲いていたから、雪やみぞれの打撃を正面から受けることなく、しなやかな曲線を描く身の外側をすべらせて下へ落とし、容赦なくふりかかる害をのがれることができていたのかもしれなかった。
そのうちに、もう一つ、新しい蕾がふくらんでいることに気がついた。あいかわらず二つの薔薇の花は身を寄せ合ってうつむいていたが、その姿が謙遜な恋人たちから、老夫婦へと印象が変わって感じられるほど、空を向いてツンととんがり、徐々にふっくらと膨らんでゆく蕾の姿は、わかい生命力にみなぎって見えた。しかし、この花はもっと間の悪い、時節遅れというより、時節まちがいの花である。開いた花は、老夫婦よりも一まわり以上小ぶりで、白い花びらのふちにところどころ桃色が差しているのが、初々しくかわいらしい薔薇だったが、やはり気温や日照という季節に授けてもらうべき栄養が足りずいのちの力が弱かったか、一週間ほどで、あっという間に散ってしまった。
おかげで、この薔薇の品種が、とくべつに長咲きの花というわけではなさそうだ・・・と、そう知って、ますます咲きつづける二つの薔薇の花に畏敬の念をいだいたが、同時に、やはり花も人も、一人より二人のほうがよいのだろうと、ふだんは忘れているような伴侶のない身の心細さや、父に先立たれた母とのこれからの暮らし方などを思った。
それにしても、長く咲きすぎではないだろうか。以前よりも、もっと、もっと頭を垂れて、腰を折って、なんだか土へ帰ろうとしているようにも見える。花壇の真ん中なので手を伸ばしても届かず、確かめようがないが、もしかして、じつは咲いたままドライフラワーになってしまっているのではないか・・・・そんな心配もはじめた頃である。朝、いつもとおなじように中庭を歩きだすと、すぐに違和感に気がついた。景色がちがう。離れているが、見慣れた定位置に、白色がない。緑の茂みだけである。そばへ着くと、早朝に散ったばかりなのか、潅木の上に、そして風に吹かれて花壇の外の通路まで、白い花びらが散りばめられていた。散るときも、ふたつ一緒だったのだ。それはまるで、仏を供養する荘厳な散華のあとのように美しく感慨深く、わたしはしゃがんでその花びらを拾った。ドライフラワーになってしまったのではないかと疑ったのが申し訳なくなるほど、みずみずしく、やわらかく、汚れも傷もない真っ白な花びらであった。そして花びらは生きている証しに、落ちた地面よりも、吹く風よりも、ずっとあたたかかった。ふと、その場所からすぐ脇を見ると、知らない間に蕾が膨らんでいた。ふたつ仲良く並んだ、あおい蕾だった。
ぐうぜんなことに、その日は終業式であった。思えば、仕事のことも家庭のことも、息をついて憩う泉もないような森の中を、もくもくと歩きつづけたような三学期だった。とても人を引っ張る器ではないわたしだったが、職場も、家庭も、守らなければいけなかった。正しい道をさがさなければいけないし、少なくともじぶんの事情や感情にふけって、立ち止まったり、道をはずれたりして、だれかの荷物になるわけにはいかなかった。おそらく父もむかしは、職場で、家庭で、そうであっただろう。父にもそんな時、路傍でだまって慰め、励ましてくれる、この白い薔薇のような清廉な存在があってくれただろうか。
春のあたたかな日差しに次々と緑は芽吹いて、中庭はのびやかで、ゆたかな生命感に満ちはじめている。すこしも留まることはなく、すべては移り変わってゆく。手帳にはさんだ一枚の白い薔薇の花びらは、果たして、ふたつのうちのどちらのものであったか。まあ、どちらでもよいだろう。きっとあのふたつは、ひとつのいのちにちがいないから。

(まるで輪廻をくりかえす二人のように、
再びふたつの白薔薇が寄り添って咲いた。
記念に写真におさめておこうと撮影したその日、
花は、手入れに訪れた庭師によって切り取られた。)
昨年晩秋の花期の名残りのように、のんびりした薔薇の花がふたつ、うっかり寒い冬の庭に遅れて咲いてしまったかのようで、わたしはその薔薇を愛おしんだ。まるで頬をあわせるように寄り添って、二つの白い大輪が咲いていた。その白さの清々しさと、いのちの温かさとが、父を見送ったばかりのわたしの心に、ちょうどよいぐあいの慰めを与えてくれてもいた。
今年の冬は、雪が多くて、そのふたつの薔薇もなんども雪をかぶり、重たげに首を垂れることになったが、そしてそのたび、ただでさえ時節をあやまって咲いている身には、この冷たさを耐えるだけの支度はないだろうと案じたが、白いふたつの薔薇は、とうぜんながら逃げもせず、雪もみぞれも受けきり、しのぎきって、それどころか花びらさえ傷ませたようすもなく咲き続けた。わたしはだんだんと驚愕の思いで、薔薇の姿をながめ、もしかしたら雪をまとっている間は冷凍保存のように鮮度が保たれているのだろうか、と想像したりもしたが、同じ潅木について、すこし離れた場所に咲いていた別の花は、ある雪のあと、かぶった雪が落ちるのと一緒に花びらを散らしたし、この二つの薔薇の花がとくべつに艱難を乗り越えて、時を越えているらしいことはたしかのようで、それはしずかに、しかし強く、わたしを励まし、勇気づけた。ひょっとしたら、二つの花は、いつのまにか一緒に頭を垂れるように、枝垂れて咲いていたから、雪やみぞれの打撃を正面から受けることなく、しなやかな曲線を描く身の外側をすべらせて下へ落とし、容赦なくふりかかる害をのがれることができていたのかもしれなかった。
そのうちに、もう一つ、新しい蕾がふくらんでいることに気がついた。あいかわらず二つの薔薇の花は身を寄せ合ってうつむいていたが、その姿が謙遜な恋人たちから、老夫婦へと印象が変わって感じられるほど、空を向いてツンととんがり、徐々にふっくらと膨らんでゆく蕾の姿は、わかい生命力にみなぎって見えた。しかし、この花はもっと間の悪い、時節遅れというより、時節まちがいの花である。開いた花は、老夫婦よりも一まわり以上小ぶりで、白い花びらのふちにところどころ桃色が差しているのが、初々しくかわいらしい薔薇だったが、やはり気温や日照という季節に授けてもらうべき栄養が足りずいのちの力が弱かったか、一週間ほどで、あっという間に散ってしまった。
おかげで、この薔薇の品種が、とくべつに長咲きの花というわけではなさそうだ・・・と、そう知って、ますます咲きつづける二つの薔薇の花に畏敬の念をいだいたが、同時に、やはり花も人も、一人より二人のほうがよいのだろうと、ふだんは忘れているような伴侶のない身の心細さや、父に先立たれた母とのこれからの暮らし方などを思った。
それにしても、長く咲きすぎではないだろうか。以前よりも、もっと、もっと頭を垂れて、腰を折って、なんだか土へ帰ろうとしているようにも見える。花壇の真ん中なので手を伸ばしても届かず、確かめようがないが、もしかして、じつは咲いたままドライフラワーになってしまっているのではないか・・・・そんな心配もはじめた頃である。朝、いつもとおなじように中庭を歩きだすと、すぐに違和感に気がついた。景色がちがう。離れているが、見慣れた定位置に、白色がない。緑の茂みだけである。そばへ着くと、早朝に散ったばかりなのか、潅木の上に、そして風に吹かれて花壇の外の通路まで、白い花びらが散りばめられていた。散るときも、ふたつ一緒だったのだ。それはまるで、仏を供養する荘厳な散華のあとのように美しく感慨深く、わたしはしゃがんでその花びらを拾った。ドライフラワーになってしまったのではないかと疑ったのが申し訳なくなるほど、みずみずしく、やわらかく、汚れも傷もない真っ白な花びらであった。そして花びらは生きている証しに、落ちた地面よりも、吹く風よりも、ずっとあたたかかった。ふと、その場所からすぐ脇を見ると、知らない間に蕾が膨らんでいた。ふたつ仲良く並んだ、あおい蕾だった。
ぐうぜんなことに、その日は終業式であった。思えば、仕事のことも家庭のことも、息をついて憩う泉もないような森の中を、もくもくと歩きつづけたような三学期だった。とても人を引っ張る器ではないわたしだったが、職場も、家庭も、守らなければいけなかった。正しい道をさがさなければいけないし、少なくともじぶんの事情や感情にふけって、立ち止まったり、道をはずれたりして、だれかの荷物になるわけにはいかなかった。おそらく父もむかしは、職場で、家庭で、そうであっただろう。父にもそんな時、路傍でだまって慰め、励ましてくれる、この白い薔薇のような清廉な存在があってくれただろうか。
春のあたたかな日差しに次々と緑は芽吹いて、中庭はのびやかで、ゆたかな生命感に満ちはじめている。すこしも留まることはなく、すべては移り変わってゆく。手帳にはさんだ一枚の白い薔薇の花びらは、果たして、ふたつのうちのどちらのものであったか。まあ、どちらでもよいだろう。きっとあのふたつは、ひとつのいのちにちがいないから。
(まるで輪廻をくりかえす二人のように、
再びふたつの白薔薇が寄り添って咲いた。
記念に写真におさめておこうと撮影したその日、
花は、手入れに訪れた庭師によって切り取られた。)
September 29, 2009
としをとる
としをとることを、わたしは嫌いではない。正確に言ったら、イヤではなくなったと言った方がいいだろう。はずかしいほど激しいことだけれど、そんなわたしも十代のころは、ハタチになるまでに、自分がだれか、なにをすべき人間か、あきらかに他人と区別できるだけのくっきりとした自己、つまり才能を発露できなければ、ハタチ前に死んだほうがよいと思っていた。びっくりするほど、驕ったことを、真剣に思いつめていた。
そんなふうに、かたよった考えをするには、いろいろな理由があったものだけれど、十代後半の自分探し中には、明治から昭和の激動の時代を生きた詩人や小説家たちに共感して、彼らの作品や伝記、論評などを読みふけっていたから、その時代の作家たちのように早熟でなければ、自分にはもう将来はないとあきらめたほうがよいと言うように、そんな幼稚な感化もあったはずだった。自分も作家となって、人はいかに生きるべきかを考え、そして世の中の思想や価値観を醸成してゆく一員となりたい・・・そんな志とはアンバランスに、耽美的で時に自滅的な、文学のロマンチックな部分におぼれて夢を見るようなところもあった。
とにかく、まぶしく、みずみずしく、清澄な、そんな「生」に憧れて、どうもそうは見えないオトナの世界に組み入れられてしまう前に、自分を見切らなくてはいけないと思ったのだ。自分を追いつめ、どうにかしてそういう輝かしい「生」を手に入れようとする思いもあったかもしれないが、一方では、老いたもの、新鮮でなくなったものへの恐怖と嫌悪という、純粋に生理的な拒否感が、まったく経験不足で、未熟な美意識にひどく感情的なえいきょうを与えて、そういうものにならずにすむのは、永遠の不老を手に入れられるのは、十代のうちに内なる力を輝かせることができた者だけだと、そんなジンクスを勝手に創りあげて、自分の平凡さにおびえていたようでもあった。
はたして、期限であったハタチから、今二倍以上も生きのびているわたしというのは、めでたく十代で自己を見つけ、実現し、永遠の花道を手に入れたというわけではまったくない。ハタチの壁は、どうということはない、恋愛というハプニングが難なく越えさせた。好きな人とともに生きることが、人生の目的にあっけなくすりかわったのである。あれほど深かった人生への憂いさえ、平凡な、愛ある人生の希望へと、みごとに変身した。
しかし、その後は一切憂いから解放され、明るく青春と人生を謳歌して行ったかというと、それはそうでもなくて、人生への憂いは生涯にわたって対峙しなければならないライバルのように、やはり自分と常に伴走を続ける友であったが、そのうち二十代の半ばでわたしは仏教に出会って、憂いという友も一緒に関心を寄せることができるような、古いものの美しさへ、はじけるような生命のほとばしりや、若々しい新鋭という創造力ではなく、静けさのうちにすべてを包み込んでしまうように深遠な、また不変の美へ、大きく惹かれるようになった。そこには、若い感性にはどこか忌避したいような死と老いと病というものが、生や創造と分かつことのできない要素そのものであり、美の原因として存在していた。
また、嗜好としては延長のように、骨董や、民芸にもかぶれた。いや、かぶれたというほどにも深くなく、ちょっと匂いを嗅いでみたというべきだろう。きものにも急に関心が湧きはじめた。それらは途方もなく美しく、また哲学的だった。しかし、同時にこれらの生命を現実的に営ませているもう一つの価値観、年代とか、作者とか、格式やら批評家の評価やらというものは、立ち入るたびに興ざめばかりをおこさせて、お金も、素養もない人間が近よってもつまらない思いばかりをするようだと、それ以上知ろうとか、自分の一部にしたいという気力は湧かなかった。ただ、時間をかけて醸造される美というものじたいへの憧憬や、そこに内包される宇宙への好奇心は、なにに邪魔されたり、束縛される必要もなく、心の中で自由にはぐくまれ続けた。そしてその時には、老いとは悪くなることでも、みにくいことでもなくなって、熟成という、どんな知恵も技術もたちうちできない力と、深く敬愛されるようになっていた。
さらに、三十代になると、わたしは老人介護に直面した。姑が認知症を発症したのである。ここには、老いの中の、劣化や衰退、醜悪と言った現象があふれていて、熟成や醸造などと言って、老いを美化した甘さをまるでせせら笑うかのように、強烈なネガティブさがあった。それでも、このすこしまえに、古いものの魅力に目覚めることができたわたしは幸いだった。あとで別れることになった夫は同い年だったが、新しいものに目がなく、その頃はITの先駆的な仕事をしてもいたから、これから自分の仕事がどんなに開け、力を発揮できるか、また世界はどんなふうに広がってゆくかと意気揚々としていたぶん、老いからもたらされるものは、迷惑と不幸以外のなにものにもならなかった。姑は、わたしの母より二十近く年上で、わたしが子どもの頃、「若いお母さんね」と言われて得意顔になっていたのとさかさまに、「あの人、おばあさん?」と友だちに聞かれてはずかしくてたまらなかったという彼は、幼いころから「老い」の被害者であった。そういう意味で、まったく苦労知らずなわたしは、老いた家族は大切にしなければいけないと、なにもできなくなっても、古いものにはその存在意義がかならずあるのだと正論ばかりを言って、じぶんたちの若さと時間を犠牲にしてもよいだけの、だいじなものがきっとあるはずだと主張し、自分中心的に介護に夢中になって、彼を困らせた。
こうして夫婦で価値観がかけはなれて行く中、また、友人たちもまだ結婚だ、出産だとさわいでいるような時期に、わたしはひとり時間軸がずれたように、この老いはいずれ自分の上にもあらわれる回避できないものなのだと、老い支度なんかを考えるようになった。幸せな老年とは、と、どうしても問わずにいられなかったのである。
姑は豊かな商家の生まれだったが、戦中戦後の食べる物もなにもない貧しい時代を生き延び、その後庭に桜の木が三本植わって、家の中では長男の兄がドラムを叩いて、バンド仲間と音楽を楽しめる部屋のあるような家で、不自由なく暮らすようになるが、夫の事業の失敗から、借金取りに追われるようになり、まだ高校生だった次男を連れて離婚し、風呂のないアパートで生活保護を受けて暮らすようになるという、浮き沈みとお金の苦労とを深く味わった。その次男というのが、のちにわたしと結婚する人である。それらの経済的辛苦のせいで、認知症の初期には、特有とも言われる、お金がない、お金を盗られた・・と騒ぐ症状を過剰にあらわして、お金がなければ生きられないと、始終恐怖に脅えていた。夜なか中、お金を探して眠らないことがよくあった。人間誰にでも、人生で出会う不仕合わせで傷ついてしまった苦労のあとがあるものだが、そういうものが、リアルな幻となって人生の完成期に現われ、本人や家族を苦しめることになるのは、ひじょうに切ないものだった。
わたしにだってお金で苦労した傷は少なからずある。そう思ってこわくなった。これからは、どんな努力をしてでもそれを乗り越えて、お金に支配されないようにしなければ、いけない。お金がなくても不安に思わない心を、あってもなくても執着しない心を、必死に作らなければ、いけない・・・老い支度のための、そんな誓いと目標を、わたしは心に立てたりもした。
四十代になったときは、わたしはひとりになっていた。ダメだったら別れればいい・・・そんな覚悟の甘い結婚が、当然の結果のように破綻したようにも思えるし、それにしては十二年も、お互いよく付き添ったものだとも思える。姑は、忘れる力のほうがつらい抑うつの不安症よりもとうとう勝って、わたしを見ても、「あなた誰?近所の人だったっけ?」と明るく聞いてアハハと笑い、わたしの存在もきれいに抹消された。夫もわたしも、今なら本当の相手と、本当の人生を歩みなおせるはずだ・・・・そんな気持ちで、残り少ない若さに賭けて、離婚した。
ひとり者になったおかげで、誰か好きな人はいないのか、とか、きっとすてきな出会いがあるよ、などと、花やいだ話題を向けられることが多くなったけれど、一番美しい、花のような時代はとうにすぎて、やはり心には、老いという、女性としての負い目を強く感じて、いえ、わたしなんかと、首をふる。わたしだって、とは、なかなか気もちはゆかない。若い人を見ていると、いつまでも眺めていたいような、はつらつと光を帯びた美しさを感じ、男性ならなおさらだろうと、共感もする。若さに賭けて、本当の人生を歩みなおそうとした人間の気概としては、なんとも頼りないものである。
それでも、負け惜しみというのではなしに、としをとるのは良いものだと年々思いはたしかとなる。そういえば、毎年、新年のことは来ると言うのに、自分のとしについては、とるというのは、あたかも能動的で、勝利をつかむような響きがある。じつはそちらのほうが本当の意味なのではないか。長く生きる、寿命を永らえるのが生命の挑戦だとしたら、としは、獲りに行きたいほどの獲物にちがいない。もっとも、いずれは体のあちこちが痛んだり、人に迷惑をかけることが多くなって、ああ、としをとるたびいやになってしまう・・・と嘆く日もくるだろう。しかしその時、嘆くのではなく安らいでいる自分であるために、今できることは山ほどある。その努力の山が、一年、一年、としとなって自分にきめ細かな密度を与えてくれるとしたら、どんなにかすばらしいことだろう。
さて、今日わたしはまたとしをとる。どうだろうか。すこしは努力が実って、良いとしをとっただろうか。それを確かめようと鏡をのぞき見るように、わたしは朝がひらいた今日という世界を、ふたつの目に映してみる。
そんなふうに、かたよった考えをするには、いろいろな理由があったものだけれど、十代後半の自分探し中には、明治から昭和の激動の時代を生きた詩人や小説家たちに共感して、彼らの作品や伝記、論評などを読みふけっていたから、その時代の作家たちのように早熟でなければ、自分にはもう将来はないとあきらめたほうがよいと言うように、そんな幼稚な感化もあったはずだった。自分も作家となって、人はいかに生きるべきかを考え、そして世の中の思想や価値観を醸成してゆく一員となりたい・・・そんな志とはアンバランスに、耽美的で時に自滅的な、文学のロマンチックな部分におぼれて夢を見るようなところもあった。
とにかく、まぶしく、みずみずしく、清澄な、そんな「生」に憧れて、どうもそうは見えないオトナの世界に組み入れられてしまう前に、自分を見切らなくてはいけないと思ったのだ。自分を追いつめ、どうにかしてそういう輝かしい「生」を手に入れようとする思いもあったかもしれないが、一方では、老いたもの、新鮮でなくなったものへの恐怖と嫌悪という、純粋に生理的な拒否感が、まったく経験不足で、未熟な美意識にひどく感情的なえいきょうを与えて、そういうものにならずにすむのは、永遠の不老を手に入れられるのは、十代のうちに内なる力を輝かせることができた者だけだと、そんなジンクスを勝手に創りあげて、自分の平凡さにおびえていたようでもあった。
はたして、期限であったハタチから、今二倍以上も生きのびているわたしというのは、めでたく十代で自己を見つけ、実現し、永遠の花道を手に入れたというわけではまったくない。ハタチの壁は、どうということはない、恋愛というハプニングが難なく越えさせた。好きな人とともに生きることが、人生の目的にあっけなくすりかわったのである。あれほど深かった人生への憂いさえ、平凡な、愛ある人生の希望へと、みごとに変身した。
しかし、その後は一切憂いから解放され、明るく青春と人生を謳歌して行ったかというと、それはそうでもなくて、人生への憂いは生涯にわたって対峙しなければならないライバルのように、やはり自分と常に伴走を続ける友であったが、そのうち二十代の半ばでわたしは仏教に出会って、憂いという友も一緒に関心を寄せることができるような、古いものの美しさへ、はじけるような生命のほとばしりや、若々しい新鋭という創造力ではなく、静けさのうちにすべてを包み込んでしまうように深遠な、また不変の美へ、大きく惹かれるようになった。そこには、若い感性にはどこか忌避したいような死と老いと病というものが、生や創造と分かつことのできない要素そのものであり、美の原因として存在していた。
また、嗜好としては延長のように、骨董や、民芸にもかぶれた。いや、かぶれたというほどにも深くなく、ちょっと匂いを嗅いでみたというべきだろう。きものにも急に関心が湧きはじめた。それらは途方もなく美しく、また哲学的だった。しかし、同時にこれらの生命を現実的に営ませているもう一つの価値観、年代とか、作者とか、格式やら批評家の評価やらというものは、立ち入るたびに興ざめばかりをおこさせて、お金も、素養もない人間が近よってもつまらない思いばかりをするようだと、それ以上知ろうとか、自分の一部にしたいという気力は湧かなかった。ただ、時間をかけて醸造される美というものじたいへの憧憬や、そこに内包される宇宙への好奇心は、なにに邪魔されたり、束縛される必要もなく、心の中で自由にはぐくまれ続けた。そしてその時には、老いとは悪くなることでも、みにくいことでもなくなって、熟成という、どんな知恵も技術もたちうちできない力と、深く敬愛されるようになっていた。
さらに、三十代になると、わたしは老人介護に直面した。姑が認知症を発症したのである。ここには、老いの中の、劣化や衰退、醜悪と言った現象があふれていて、熟成や醸造などと言って、老いを美化した甘さをまるでせせら笑うかのように、強烈なネガティブさがあった。それでも、このすこしまえに、古いものの魅力に目覚めることができたわたしは幸いだった。あとで別れることになった夫は同い年だったが、新しいものに目がなく、その頃はITの先駆的な仕事をしてもいたから、これから自分の仕事がどんなに開け、力を発揮できるか、また世界はどんなふうに広がってゆくかと意気揚々としていたぶん、老いからもたらされるものは、迷惑と不幸以外のなにものにもならなかった。姑は、わたしの母より二十近く年上で、わたしが子どもの頃、「若いお母さんね」と言われて得意顔になっていたのとさかさまに、「あの人、おばあさん?」と友だちに聞かれてはずかしくてたまらなかったという彼は、幼いころから「老い」の被害者であった。そういう意味で、まったく苦労知らずなわたしは、老いた家族は大切にしなければいけないと、なにもできなくなっても、古いものにはその存在意義がかならずあるのだと正論ばかりを言って、じぶんたちの若さと時間を犠牲にしてもよいだけの、だいじなものがきっとあるはずだと主張し、自分中心的に介護に夢中になって、彼を困らせた。
こうして夫婦で価値観がかけはなれて行く中、また、友人たちもまだ結婚だ、出産だとさわいでいるような時期に、わたしはひとり時間軸がずれたように、この老いはいずれ自分の上にもあらわれる回避できないものなのだと、老い支度なんかを考えるようになった。幸せな老年とは、と、どうしても問わずにいられなかったのである。
姑は豊かな商家の生まれだったが、戦中戦後の食べる物もなにもない貧しい時代を生き延び、その後庭に桜の木が三本植わって、家の中では長男の兄がドラムを叩いて、バンド仲間と音楽を楽しめる部屋のあるような家で、不自由なく暮らすようになるが、夫の事業の失敗から、借金取りに追われるようになり、まだ高校生だった次男を連れて離婚し、風呂のないアパートで生活保護を受けて暮らすようになるという、浮き沈みとお金の苦労とを深く味わった。その次男というのが、のちにわたしと結婚する人である。それらの経済的辛苦のせいで、認知症の初期には、特有とも言われる、お金がない、お金を盗られた・・と騒ぐ症状を過剰にあらわして、お金がなければ生きられないと、始終恐怖に脅えていた。夜なか中、お金を探して眠らないことがよくあった。人間誰にでも、人生で出会う不仕合わせで傷ついてしまった苦労のあとがあるものだが、そういうものが、リアルな幻となって人生の完成期に現われ、本人や家族を苦しめることになるのは、ひじょうに切ないものだった。
わたしにだってお金で苦労した傷は少なからずある。そう思ってこわくなった。これからは、どんな努力をしてでもそれを乗り越えて、お金に支配されないようにしなければ、いけない。お金がなくても不安に思わない心を、あってもなくても執着しない心を、必死に作らなければ、いけない・・・老い支度のための、そんな誓いと目標を、わたしは心に立てたりもした。
四十代になったときは、わたしはひとりになっていた。ダメだったら別れればいい・・・そんな覚悟の甘い結婚が、当然の結果のように破綻したようにも思えるし、それにしては十二年も、お互いよく付き添ったものだとも思える。姑は、忘れる力のほうがつらい抑うつの不安症よりもとうとう勝って、わたしを見ても、「あなた誰?近所の人だったっけ?」と明るく聞いてアハハと笑い、わたしの存在もきれいに抹消された。夫もわたしも、今なら本当の相手と、本当の人生を歩みなおせるはずだ・・・・そんな気持ちで、残り少ない若さに賭けて、離婚した。
ひとり者になったおかげで、誰か好きな人はいないのか、とか、きっとすてきな出会いがあるよ、などと、花やいだ話題を向けられることが多くなったけれど、一番美しい、花のような時代はとうにすぎて、やはり心には、老いという、女性としての負い目を強く感じて、いえ、わたしなんかと、首をふる。わたしだって、とは、なかなか気もちはゆかない。若い人を見ていると、いつまでも眺めていたいような、はつらつと光を帯びた美しさを感じ、男性ならなおさらだろうと、共感もする。若さに賭けて、本当の人生を歩みなおそうとした人間の気概としては、なんとも頼りないものである。
それでも、負け惜しみというのではなしに、としをとるのは良いものだと年々思いはたしかとなる。そういえば、毎年、新年のことは来ると言うのに、自分のとしについては、とるというのは、あたかも能動的で、勝利をつかむような響きがある。じつはそちらのほうが本当の意味なのではないか。長く生きる、寿命を永らえるのが生命の挑戦だとしたら、としは、獲りに行きたいほどの獲物にちがいない。もっとも、いずれは体のあちこちが痛んだり、人に迷惑をかけることが多くなって、ああ、としをとるたびいやになってしまう・・・と嘆く日もくるだろう。しかしその時、嘆くのではなく安らいでいる自分であるために、今できることは山ほどある。その努力の山が、一年、一年、としとなって自分にきめ細かな密度を与えてくれるとしたら、どんなにかすばらしいことだろう。
さて、今日わたしはまたとしをとる。どうだろうか。すこしは努力が実って、良いとしをとっただろうか。それを確かめようと鏡をのぞき見るように、わたしは朝がひらいた今日という世界を、ふたつの目に映してみる。
May 3, 2009
ひらくとき
先日、夜中のこと。ふと目を覚ました時、どうしたものか古い疑問がいきなり解けた。
目を覚ました時と言うよりは、夢見と覚醒とが半分ずつの中で、思いもよらぬ謎解きが起こって、その衝撃に完全に目が開いたと言うのが事実だったかもしれない。とにかく、そんな古い疑問を今ごろ思い出させられたこと自体がそもそも驚きだったし、30年もわからなかったことが、いとも簡単に紐解けてしまったことにも、あ然とした。
わたしはびっくりして起き上がり、今手に入れたばかりの答えを確かめようと、机の引き出しを漁って古い学生手帳を取り出し、学校の創立記念の歌の歌詞を見つめた。
「・・・・つくせおとめ つくせおみな みくにのために つくせおとめ つくせおみな みくにのために」
なんと古めかしい、歌詞。何十回、百回と歌ったフレーズだろう。
わたしが中学校から大学まで過ごした学校は、たいへん歌が好きなところで、校歌の種類をいくつも持って、それらを二部や三部の合唱で始終歌わされながら、生徒もみんな自分の学校の歌を愛したが、この創立記念の歌だけは、わたしはどうしても好きになることができなかった。「つくせ みくにのために」と歌うたび、嫌悪と反感とが思春期の胸の中でとんがった。
日本ではじめて女性のために作られた、女性教育の草分けのような学校で、自立性、平等性、また個性の自由を重んじる学校であったはずなのに、いったいどうして、こんな歌詞になってしまったのか。やはり、国におもねるような必然性が生じた時代もあったのか。そうだとしても、戦後こんなに時間が経ったというのに、以前としてこのような歌詞をわたしたちに歌わせ続けるのは、なんというナンセンスだろう・・・。
10年間ずっと、学校にいる間中そう思い続けてきたし、卒業してからも、ふと思い出しては解せない疑問と反感を感じてきた。もっとも反感と言っても、自分には直接関係のないことだとすぐに無関心に翻って、普段はすっかり忘れているようなくらいだったけれど、友人たちも話題がその歌に触れることがあれば同じことを言い合い、まったく前時代的と共感し合ったし、やはり同じ学校を出た母も、そういう時代だったから仕方がないのよとあっさり言って、みんなで「おとめよ、お国につくしなさい」という意味にとって、疑いもしなかったのである。
そんな信仰の薄いわたしの無明を揺り起こすかのように、その夜、わたしは突然本当の意味を解らされた。眠りに落ちてだいぶ経ったあと、意識が夢の浅瀬くらいまで上ってきたようなところで、「みくに、みくに・・・」と言葉がささやかれ、連想が手繰り寄せられるみたいに「みくにがきますように・・・」というキリスト教の祈りの言葉を思い出していたら、急に学校の創立記念の歌がよみがえった。ああ、そうではないか。あの歌は「みくにのために」と言っていたのであって、「おくにのために」と言っていたのではない。おとめよ、天の国のためにつくせと命じていたのだ。ああ、なんてこと!一体全体、なんとばかげた誤解をしてきたのだろう!そうして、わたしは驚きと共に跳ね起き、急いで机の引き出しから、歌の楽譜を載せた学生手帳を探したのであった。
創立者は、プロテスタントの牧師として情熱的な伝道活動を行った人であったが、宗教、信仰は個人の自由に由来するべきとして、学校はキリスト教学校にしなかった。しかし、今改めて歌詞を眺めれば、創立者が宗派を超えたミッションスクールを創ったつもりであったことはまちがいない。
ひょっとしたら、戦時下ではわたしのように愚かな多くの人間が、お国につくせと激励する教育だと感心して、学校は無用な干渉を免れ、面倒な来賓があれば、この歌を大声で歌って歓待していたかもしれない。そんな空想を巡らせば、自分の愚かしさも忘れて愉快になった。
歌のはじまりはこんな風だ。
「おさまるみよの めぐみもて ここにつくりし だいがくは・・・」
やはり無知なわたしは、国家や政治家たちの尽力によって大学を作ることができたことを讃える詞だと思い込んできた。もちろん、それも完全にまちがいではなかっただろう。しかし真の思いは、神の恵みへの感謝であったにちがいなく、だから、子どもたちよ、天の国のためにつくしなさい、神さまの喜ぶ平和の実現のためにつくしなさい、と最後のフレーズを何度も、何度も、繰り返させるのにちがいなかった。
敵は煙に巻いて、世俗に傷つけられやすい純粋を守り通してみせる。偶然にもそれは非常にみごとな知恵ではなかったか、などと思って、真夜中の2時すぎ、わたしはひとりで興奮した。ナンセンスで、まったく好かない歌が、一変して、センスの良い、光り輝くものとなって、目の前に鎮座していた。
まさに、30年の疑問と反感が、一気に紐解けた瞬間であった。こんなに長い時間わからなかったことも、悟る時と言うのはまさに一瞬なのだと、あらためて思い知る。思えば、家庭の中にしろ、学校の友達の中にしろ、一人でもクリスチャンに恵まれていたなら、こんなとんちんかんを長い間続けることはなかったかもしれない。担任の先生や、音楽の先生からも、歌詞の意味を教わった記憶はない。もっとも、そんな疑問を長く抱き続けるくらいだったら、誰か先生を捕まえて率直に聞いてみればよかったのだとも思うのだが、あのころのわたしはたいへん粋がりの、反体制派風のねじ曲がりだったので、「こんな古臭い思想の歌など、歌わせる気がしれないわ」と思い込んだきり、歌を強制する側に向かって、けな気に尋ねてみるような素直さはみじんも持ち合わせていなかった。悔やんでも仕方ないが、素直でないから、こんなに時間の無駄をすることになるのである。しかし、逆に当時、誰か「みくに」を説明してくれる先生にめぐり合って、ちゃんと正しい意味を教えてもらうことができたとして、果たして自分が納得して理解しただろうかと思うと、それもあまり自信がない。なんにでも反抗しないと済まない思春期のひねくれ心は、天国などという言葉を出されたなり、学校に宗教と信仰を持ち込まない主義ではなかったのか・・・と難くせをつけ、やはり反感を感じたかもしれないと思う。ほかの素直で賢い人の人生でなら絶対に30年もいらなかったはずだが、ほかの誰でもない、わたしの人生においては、今ようやく、この歌を理解できる旬が訪れたということなのだろう。
物分かりの悪い、生徒である。ただ、物分かりが悪いのも、本当のことを知りたいと思う気持ちさえ失わなければ、捨てたものでもないとも思う。とくに、今回のことを通して、わたしたちはなんでも間に合わせの答えで満足することをせず、本当のことを見きわめたいと思い続けていたら、きっと答えは得られるのだと励まされた気がした。真理は、真理自らが開示してくれる。その時が訪れるまで、わたしたちはいらだつことも要らない。絶望することもない。ただ、できるだけ、素直な方がよいにはちがいない。ひねくれたり、ねじ曲った分だけ時間がかかるのは、わたしの30年という年月が証ししてくれていることである。
なぜ生まれたのか・・・なぜ、なぜ、なぜと、思えば生きている間中、わたしは問い続けっぱなしであった。今もいくつもの「何故」は残っている。しかし、それらもいずれ紐解ける時がくるだろう。
人生は信頼するに値する。30年間、迷いの多かったわたしも、今は心からそう思っている。
目を覚ました時と言うよりは、夢見と覚醒とが半分ずつの中で、思いもよらぬ謎解きが起こって、その衝撃に完全に目が開いたと言うのが事実だったかもしれない。とにかく、そんな古い疑問を今ごろ思い出させられたこと自体がそもそも驚きだったし、30年もわからなかったことが、いとも簡単に紐解けてしまったことにも、あ然とした。
わたしはびっくりして起き上がり、今手に入れたばかりの答えを確かめようと、机の引き出しを漁って古い学生手帳を取り出し、学校の創立記念の歌の歌詞を見つめた。
「・・・・つくせおとめ つくせおみな みくにのために つくせおとめ つくせおみな みくにのために」
なんと古めかしい、歌詞。何十回、百回と歌ったフレーズだろう。
わたしが中学校から大学まで過ごした学校は、たいへん歌が好きなところで、校歌の種類をいくつも持って、それらを二部や三部の合唱で始終歌わされながら、生徒もみんな自分の学校の歌を愛したが、この創立記念の歌だけは、わたしはどうしても好きになることができなかった。「つくせ みくにのために」と歌うたび、嫌悪と反感とが思春期の胸の中でとんがった。
日本ではじめて女性のために作られた、女性教育の草分けのような学校で、自立性、平等性、また個性の自由を重んじる学校であったはずなのに、いったいどうして、こんな歌詞になってしまったのか。やはり、国におもねるような必然性が生じた時代もあったのか。そうだとしても、戦後こんなに時間が経ったというのに、以前としてこのような歌詞をわたしたちに歌わせ続けるのは、なんというナンセンスだろう・・・。
10年間ずっと、学校にいる間中そう思い続けてきたし、卒業してからも、ふと思い出しては解せない疑問と反感を感じてきた。もっとも反感と言っても、自分には直接関係のないことだとすぐに無関心に翻って、普段はすっかり忘れているようなくらいだったけれど、友人たちも話題がその歌に触れることがあれば同じことを言い合い、まったく前時代的と共感し合ったし、やはり同じ学校を出た母も、そういう時代だったから仕方がないのよとあっさり言って、みんなで「おとめよ、お国につくしなさい」という意味にとって、疑いもしなかったのである。
そんな信仰の薄いわたしの無明を揺り起こすかのように、その夜、わたしは突然本当の意味を解らされた。眠りに落ちてだいぶ経ったあと、意識が夢の浅瀬くらいまで上ってきたようなところで、「みくに、みくに・・・」と言葉がささやかれ、連想が手繰り寄せられるみたいに「みくにがきますように・・・」というキリスト教の祈りの言葉を思い出していたら、急に学校の創立記念の歌がよみがえった。ああ、そうではないか。あの歌は「みくにのために」と言っていたのであって、「おくにのために」と言っていたのではない。おとめよ、天の国のためにつくせと命じていたのだ。ああ、なんてこと!一体全体、なんとばかげた誤解をしてきたのだろう!そうして、わたしは驚きと共に跳ね起き、急いで机の引き出しから、歌の楽譜を載せた学生手帳を探したのであった。
創立者は、プロテスタントの牧師として情熱的な伝道活動を行った人であったが、宗教、信仰は個人の自由に由来するべきとして、学校はキリスト教学校にしなかった。しかし、今改めて歌詞を眺めれば、創立者が宗派を超えたミッションスクールを創ったつもりであったことはまちがいない。
ひょっとしたら、戦時下ではわたしのように愚かな多くの人間が、お国につくせと激励する教育だと感心して、学校は無用な干渉を免れ、面倒な来賓があれば、この歌を大声で歌って歓待していたかもしれない。そんな空想を巡らせば、自分の愚かしさも忘れて愉快になった。
歌のはじまりはこんな風だ。
「おさまるみよの めぐみもて ここにつくりし だいがくは・・・」
やはり無知なわたしは、国家や政治家たちの尽力によって大学を作ることができたことを讃える詞だと思い込んできた。もちろん、それも完全にまちがいではなかっただろう。しかし真の思いは、神の恵みへの感謝であったにちがいなく、だから、子どもたちよ、天の国のためにつくしなさい、神さまの喜ぶ平和の実現のためにつくしなさい、と最後のフレーズを何度も、何度も、繰り返させるのにちがいなかった。
敵は煙に巻いて、世俗に傷つけられやすい純粋を守り通してみせる。偶然にもそれは非常にみごとな知恵ではなかったか、などと思って、真夜中の2時すぎ、わたしはひとりで興奮した。ナンセンスで、まったく好かない歌が、一変して、センスの良い、光り輝くものとなって、目の前に鎮座していた。
まさに、30年の疑問と反感が、一気に紐解けた瞬間であった。こんなに長い時間わからなかったことも、悟る時と言うのはまさに一瞬なのだと、あらためて思い知る。思えば、家庭の中にしろ、学校の友達の中にしろ、一人でもクリスチャンに恵まれていたなら、こんなとんちんかんを長い間続けることはなかったかもしれない。担任の先生や、音楽の先生からも、歌詞の意味を教わった記憶はない。もっとも、そんな疑問を長く抱き続けるくらいだったら、誰か先生を捕まえて率直に聞いてみればよかったのだとも思うのだが、あのころのわたしはたいへん粋がりの、反体制派風のねじ曲がりだったので、「こんな古臭い思想の歌など、歌わせる気がしれないわ」と思い込んだきり、歌を強制する側に向かって、けな気に尋ねてみるような素直さはみじんも持ち合わせていなかった。悔やんでも仕方ないが、素直でないから、こんなに時間の無駄をすることになるのである。しかし、逆に当時、誰か「みくに」を説明してくれる先生にめぐり合って、ちゃんと正しい意味を教えてもらうことができたとして、果たして自分が納得して理解しただろうかと思うと、それもあまり自信がない。なんにでも反抗しないと済まない思春期のひねくれ心は、天国などという言葉を出されたなり、学校に宗教と信仰を持ち込まない主義ではなかったのか・・・と難くせをつけ、やはり反感を感じたかもしれないと思う。ほかの素直で賢い人の人生でなら絶対に30年もいらなかったはずだが、ほかの誰でもない、わたしの人生においては、今ようやく、この歌を理解できる旬が訪れたということなのだろう。
物分かりの悪い、生徒である。ただ、物分かりが悪いのも、本当のことを知りたいと思う気持ちさえ失わなければ、捨てたものでもないとも思う。とくに、今回のことを通して、わたしたちはなんでも間に合わせの答えで満足することをせず、本当のことを見きわめたいと思い続けていたら、きっと答えは得られるのだと励まされた気がした。真理は、真理自らが開示してくれる。その時が訪れるまで、わたしたちはいらだつことも要らない。絶望することもない。ただ、できるだけ、素直な方がよいにはちがいない。ひねくれたり、ねじ曲った分だけ時間がかかるのは、わたしの30年という年月が証ししてくれていることである。
なぜ生まれたのか・・・なぜ、なぜ、なぜと、思えば生きている間中、わたしは問い続けっぱなしであった。今もいくつもの「何故」は残っている。しかし、それらもいずれ紐解ける時がくるだろう。
人生は信頼するに値する。30年間、迷いの多かったわたしも、今は心からそう思っている。
January 27, 2009
GRACE
今話すには、あんまりにも季節はずれかもしれないが、先月のできごとについてはやはり書き残しておきたくて、クリスマスの話を載せることにする。
「それぞれの人生は、神の指で書かれたおとぎ話である」
このアンデルセンの言葉をそえて。
毎年、クリスマスには幼稚園のこどもたちと一緒に献金をする。こどもたちはひと月前から、それぞれ献金箱を作って家に持ち帰り、おこづかいやお手伝いをしたお駄賃をそこへ貯めて、献金日には思い思いの絵を描いた封筒に中身を移して持ってくる。イエス様のご誕生をお祝いし、世界中のこどもたちにもクリスマスのプレゼントが届くように、これを必要な人のためにお使いくださいとお祈りして、バスケットに献金の入った封筒を入れてゆく。
職員のわたしたちも、それにあわせて毎年献金をするのだが、今回はいつものようにお金を寄付するという中に、どうももうひとつ高慢さが残ってしまう気持ちがして、わたしはなかなかその思いを拭うことができなかった。そんな時、作家の曽野綾子さんがカトリックの機関紙に、自分は学校で、クリスマスイヴはご馳走を食べてお祝いする日ではなく、半断食をして過ごし、誰かほかの人のために犠牲を払う日だと教わった、と書いているのを読み、そうだ、食べられない人へ寄付をするというだけでなく、食べられないという経験をわたしも共有してみようと、小さな断食をすることを思い立った。ただお財布からお金を取り出すのではなく、献金日までの一ヶ月間、毎週金曜日の夕食を断って、その分の食事代を積み立てて献金することにしたのだ。食べられない人の食事を助けるために、自分の食事を差し出すのは、一番シンプルな行為だと思えたし、この他にお金に心をこめるよい方法を思いつけそうもなかった。
自慢するほど大したことをするわけでもなく、むしろ子どもじみた発想と苦笑されるのが関の山で、さいしょに家族に断食を予告した時も、父などは「食べられない人間が家にいるなんて気兼ねで、そんなの迷惑だなあ・・・」と嘆いたくらいだったから、どちらかと言えば肩身がせまいような気分で、しばらく家族の他の誰にも打ち明けなかった。気持ちに偽善のないことを証したいのは、なによりもまず自分自身の問題だったし、その上でなければ、献金を主催して、ほかの人の理解や協力を仰ぐのはいやだと思ったのだ。
一週目の断食は、気負いが大きいせいでおなかもあまり空かなくて、逆に普段使いすぎている胃腸を休める日ができた恩恵ばかりを感じられるほど、難なく終わった。翌日の体調の良さは早くもご褒美のようで、これならあと三回も、感謝しながら楽しんでできるだろうと楽観した。しかし次の週は、本当に続けるのか?という家族の反応に、つい悔しさが湧いてカッカとし、そのせいでおなかが空いて、食べたいのに食べられないという境遇を味わうことに、はからずも成功した。三週目になると、少し情勢が変わり、家族は協力をしようとしてわたしの帰宅前に食事を済ませようと考え、わたしはわたしでみんなの夕食時間に遅れて家へ帰ることを企んだが、そんなふうに互いに気を使い合ってわざわざ作り出す「食べられない」状況が、本当に食べられない人たちとの距離を遠く感じさせて、それほど自分たちは恵まれているのだということをつくづく思い知り、食にまつわり日々に溢れるいろんな不足を情けなく思った。そして回を重ねるほど、断食は馴れるどころか空腹感が増されてゆくようで、頭の中に始終「おなかが空いたなあ」という声が響いていた。おとなのわたしがこうなのだから、小さな子どもだったら、その声だけで体中がいっぱいになってしまうだろう。そしてその声がしなくなったときには、どれだけ無気力となって、生きる力をなくしてしまうだろう。
最後の週は、無意識のうちに知恵が先行して、買い物でもして気持ちを紛らわせるのが良案と、夕食時間にデパートへ入った。新しい服でも見に行こうかしら・・・と考えながらデパートへ入ったとたん、急に胸から湧いてくるように、食べられない人は食べるものを買うお金がないから食べられないのだ、という根本的なことを思い出して、自分の浅はかさにあきれ返った。空腹を紛らわせるためにショッピングを楽しもうなんて、本末転倒もはなはだしかった。思えば、ふだん本当に必要ではないものへ使っているお金がどれだけあることだろう。世の中は、景気、景気というけれど、不要なものにさえ多額のお金を使って動かさなければいけない経済など、まやかし以外のなにものでもないのではないか・・・。自分の情けなさとすり替えるように、そんな社会への疑問や憤りまでが胸に湧きだして、やはりおなかが空いてしまった。つくづく怒りと言う感情は、エネルギーを消耗するものだと思った。
こうして、小さな断食ではあったが、それなりに考える機会と時間を与えてくれて、一ヶ月たつとどこか達成感のようなものも起こって、わたしの心はさわやかであった。
さて献金日の前日になって、幼稚園では急にお客様を迎えることになった。南米のボリビアで貧しい人たちのために長年献身している倉橋輝信神父が、園長を訪ねてやってくることになり、ちょうどよい機会だから明日は子どもたちに話をしてもらいましょう、と言うことになった。
「そうそう、作家の曽野綾子さんは救援の必要な場所へ自分で赴いて活動をする人なんですけれどね、倉橋神父のことは、ボリビアでは大統領よりも有名だ、なんて書いていますよ」
と、園長がニコニコと説明した。曽野綾子さん・・・・わたしがクリスマスの断食を倣った人である。献金日に際して、再びその名を聞くことになるとは思いがけず、感動し、断食のことを園長に打ち明けようかと思ったが、留まった。それよりも、倉橋神父のことを思い出したのだ。ああ、そうだ。わたしも、この南米の愉快で情熱的な日本人神父の話を読んだことがある。読んだ直後、理事会へ送るために園長を乗せて車を運転しながら、その記事のことを話題にしたら、園長は彼のことはよく知っていると言って、イタリア留学中に倉橋神父と一緒に過ごした思い出話をしてくれたのだった。名前を記憶し損ねていたが、まちがいない、同一人物だ。イタリア留学後、倉橋神父はボリビアの日系移民が日本語のできる神父を求めたのに応じ、以来29年間、日本からの義捐金で貧しい人々を助ける活動を続けている。
「彼は、学校のような堅苦しい組織にいるよりも、ああいう活動が向いているんですよ」
音楽好きで、自らいろんな楽器を演奏して、みんなを喜ばせ、心を溶かす。いつか会ってみたい人物だと思った。
あらためて、園長は今年の日付の新聞記事をくれ、保護者にも配るように印刷を指示したが、手渡された地方紙の記事を読むと、倉橋神父の音楽にまつわる興味深いエピソードが書いてある。「教会の結婚式では、ベートーベンの『喜びの歌』をハーモニカで演奏する。誕生祝いに母からもらった時、独学で上下さかさまに持って覚えた。今もドレミを左からでなく右から吹く時、母が一緒にいる・・・・」
ハーモニカで「喜びの歌」というのも、さかさまに吹くのも、非常にチャーミングな神父様だった。
「(ボリビアには)貧しくても笑みがある。規律はないが包容力がある。そりゃ腐敗と犯罪の国ですよ。でも、私は日本に帰ると冷蔵庫に入ったように感じる。年に三万人も自殺する日本が、ここより豊かと言えるかどうか・・・・・」
そんな冷蔵庫のような冷たさの中で、小さな火でも灯し続けなければいけないと心に誓いながら、わたしの小さな火は心細く、頼りなく、ついつい風当たりから隠して消えないようにかばっては、それではなんの意味もないと自分を叱って、あともう少しだけ、もう少しだけと励まし、表に掲げる。そんな風前の灯に、倉橋神父の来訪のニュースは、まるで心に燃料を注いでくれるかのように、熱をくれていた。
家に帰ると、わたしはなによりのクリスマスプレゼントをもらったのだと思って、一人あらためて感動した。曽野綾子さんとゆかりのある倉橋神父を、断食の明けた献金日のその日に寄越してくれるという完璧は、いったい神さま以外の誰にできるしわざだろう。神の存在を疑うことはなかったが、このような「はからい」の美しさは、大自然の完全な美を見せられた時に感じるのと同じ、言葉ではつくしきれない圧倒的な感動と畏敬を与えて、新たに、すべてを超越する大いなる存在のことを覚えさせる。
今家には、ジャズミュージシャンのヒロ川島がイギリスのデザイナー、ポール・スミスと作ったcocoloという楽器があった。現在わたしが持っている唯一の楽器である。ハワイのウクレレを少し進化させたものと言い、「若者よ、武器ではなくcocoloを持て!」というキャッチフレーズを与えて、あえて「cocolo」という新しい楽器を世界に生み出そうとしていた。こころを奏でる、こころが歌う、こころの声が聞こえる・・・楽器を通して、「こころ」を世界共通語にしたいという川島さんの夢は、ある日、世界的ファッションデザイナーと磁石が引き合うようにして出会い、共感を得て、その夢の楽器を一緒に作ろうじゃないか、という奇跡を実現させた。それはわたしから見ても、川島さん自身にとっても、「はからい」としか言いようがない、人知では考えつけないようなできごとだった。
まだ、数枚のラフな企画書の段階から、cocoloの発想を聞かせてもらう機会に恵まれていたわたしは、同じ夢と奇跡とに自分も参加したくて、弾けもしないくせにcocoloを購入した。個人的には、二年ほど前に楽器をすべて処分し、さみしく感じていたわたしにとって、新しく自分のそばに置く楽器を選ぶなら、これ以上のものはなかった。しかし半年たっても、美術品のように眺める楽しみのほうが主で、どうにか曲になるのは「ふるさと」と「アメージンググレイス」の二曲しかなかったが、もし自由に演奏できるような腕があったら、わたしもベートーベンの「喜びの歌」を奏でてみたいと思った。まさにそんな気分だったし、ハーモニカで吹くのと同じくらい、魅力的な第九になるにちがいなかった。
あくる朝、倉橋神父は想像した以上に気さくで、明朗闊達な人柄を全身に表わすようにして現われた。ハーモニカで一曲吹いていただくことをお願いしていたが、わたしは残念ながら子どもたちといっしょにボリビアの話を聞くことも、またハーモニカの演奏を聞くこともできなかった。聖堂に手伝いにでかけていた補助教員の先生が、途中使いを頼まれて事務室に戻った際、希望に高ぶった顔つきで口早に様子を話してくれた。「いち、に、さん」と倉橋神父はゆっくり指を鳴らしてみせ、
「今、一人の人が食べることができなくて死んで行きました・・・世界には3秒に一人、みんなが当たり前のように食べているごはんが食べられなくて死んでゆくお友達がいるのです・・・」
と話して、また三つ指を鳴らした。いつもふざけあいがやまない子どもたちが、しんと釘付けのように倉橋神父を見つめ、なにかを確かに心に受け止めたようだったと言う。わたしは嬉しかった。それは子どもたちにとって、とても大きな心の宝になるに違いなかった。
聖堂から戻った倉橋神父は、「ああ、今日は本当に気持ちがいいです」と喜んで、コーヒーを用意しようと思ったがそれも待ちきれない様子で、「ちょっと散歩にでかけてきます。歩きたいです」と言って出て行かれた。きっと神さまとお話をされたいのだろうと思って引き止めず、門まで見送りに出ると、別れ際倉橋神父はわたしの顔を一瞬じっと見つめてから、急に「アメージンググレイス」を歌いだした。思わず釣られてわたしも唱和し、笑った。
引き続き、次の日の保護者向けのキャンドルサービスにも倉橋神父は参加することになって、ボリビアの話をしてくれることになったが、前日のうわさを聞いた他の職員もみな話を聞きたがったため、わたしはやはり幼稚園で留守番をしなければならず、聖堂に行くことはかなわなかった。ボリビアの話は、資料を用意する際に個人的に多少聞くことができたのであまり惜しくはなかったが、ハーモニカの演奏をまた聞き逃すのは残念だった。しかし、倉橋神父が子どもだけでなく、大人たちの心にも種を蒔いてくれるのだと思えば、留守番を一人で請け負ってでもすべての大人を送り出したい気持ちがしたし、果たして話を聞いて帰ってきた人々が、視野が開けたように目に光を宿して、心をあたためて帰ってきたようすを眺めると、わたしはその人数分の喜びを与えてもらうように、不運を越えた満足を感じるのだった。
まもなく教会から倉橋神父が戻ったのを出迎えて、礼を述べると、昨日と同じように倉橋神父は一瞬じっと見つめるような目をしてから、
「うさぎ追いしかの山・・・」
と、歌うというより詩句を唱えた。「ふるさと」の歌詞である。
わたしは胸の中で、あっ、と叫んだ。まるで倉橋神父は、わたしがcocoloで奏でることができる、たった二つの歌を聞きとることができたかのようだった。昨日は「アメージンググレイス」を、今日は「ふるさと」を、まさに二つしかないわたしのcocoloのレパートリーを、みごとに歌ってみせたのである。心の音とは、そうやって流れ、伝わってゆくものなのだろうか。音楽はたしかに、言語も、肉体の壁も超えて、人と人とをつないで行く。それは、なんてすてきなことだろう。また、わたしたちのどんな小さな隠れた営みも、明らかにされないものはひとつもない。倉橋神父は化身のように、わたしたちをつねに見守り続ける存在のことを伝えてくれるのでもあった。
「コーヒーをお入れしましょうか?それとも日本茶がよろしいですか?」
と尋ねると、
「コーヒーがいいですね!ありがとうございます」
と、倉橋神父は明快に、嬉しそうに答えたが、コーヒーメーカーで新しいものを落としているうちに、何も告げず、いなくなってしまった。たぶん、散歩に出かけられたのだろう。
以来、倉橋神父にはお会いしていない。突然太陽を含んだあたたかい風のようにやってきて、あたたかな昼の日差しの中に、風のように消えてしまった。わたしには、ついにハーモニカの音色は授からなかったが、アカペラの歌が二曲、いつまでも残る思い出として刻まれた。
そして、わたしは思った。なにを心配する必要があるだろう。神が見ているその下で。なにをおそれる必要があるだろう。神が守るその下で。胸にある愛は、熱のように伝播する。掲げよう。ともしびを。
Amazing grace!
how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see
Through many dangers
Toils and snares I have already come
Tis grace have brought me
Safe this for
And grace will lead me home
ああ、大いなる美しき恩寵よ
なんと甘美な響きだろう
私のような者までも救ってくれる
かつて私は道に迷えるものだったが
今は見つけられたものとなった
かつてわたしは盲目だったが、
今わたしは見ることができる
多くの危険や苦しみ、誘惑を経て
私はここまでやってきたが
この大いなる愛がいつも私を救い
ここまでつれて来てくれたのだ
そして大いなる愛はさらに
私を懐かしいふるさとへと
みちびいてくれるだろう
「それぞれの人生は、神の指で書かれたおとぎ話である」
このアンデルセンの言葉をそえて。
毎年、クリスマスには幼稚園のこどもたちと一緒に献金をする。こどもたちはひと月前から、それぞれ献金箱を作って家に持ち帰り、おこづかいやお手伝いをしたお駄賃をそこへ貯めて、献金日には思い思いの絵を描いた封筒に中身を移して持ってくる。イエス様のご誕生をお祝いし、世界中のこどもたちにもクリスマスのプレゼントが届くように、これを必要な人のためにお使いくださいとお祈りして、バスケットに献金の入った封筒を入れてゆく。
職員のわたしたちも、それにあわせて毎年献金をするのだが、今回はいつものようにお金を寄付するという中に、どうももうひとつ高慢さが残ってしまう気持ちがして、わたしはなかなかその思いを拭うことができなかった。そんな時、作家の曽野綾子さんがカトリックの機関紙に、自分は学校で、クリスマスイヴはご馳走を食べてお祝いする日ではなく、半断食をして過ごし、誰かほかの人のために犠牲を払う日だと教わった、と書いているのを読み、そうだ、食べられない人へ寄付をするというだけでなく、食べられないという経験をわたしも共有してみようと、小さな断食をすることを思い立った。ただお財布からお金を取り出すのではなく、献金日までの一ヶ月間、毎週金曜日の夕食を断って、その分の食事代を積み立てて献金することにしたのだ。食べられない人の食事を助けるために、自分の食事を差し出すのは、一番シンプルな行為だと思えたし、この他にお金に心をこめるよい方法を思いつけそうもなかった。
自慢するほど大したことをするわけでもなく、むしろ子どもじみた発想と苦笑されるのが関の山で、さいしょに家族に断食を予告した時も、父などは「食べられない人間が家にいるなんて気兼ねで、そんなの迷惑だなあ・・・」と嘆いたくらいだったから、どちらかと言えば肩身がせまいような気分で、しばらく家族の他の誰にも打ち明けなかった。気持ちに偽善のないことを証したいのは、なによりもまず自分自身の問題だったし、その上でなければ、献金を主催して、ほかの人の理解や協力を仰ぐのはいやだと思ったのだ。
一週目の断食は、気負いが大きいせいでおなかもあまり空かなくて、逆に普段使いすぎている胃腸を休める日ができた恩恵ばかりを感じられるほど、難なく終わった。翌日の体調の良さは早くもご褒美のようで、これならあと三回も、感謝しながら楽しんでできるだろうと楽観した。しかし次の週は、本当に続けるのか?という家族の反応に、つい悔しさが湧いてカッカとし、そのせいでおなかが空いて、食べたいのに食べられないという境遇を味わうことに、はからずも成功した。三週目になると、少し情勢が変わり、家族は協力をしようとしてわたしの帰宅前に食事を済ませようと考え、わたしはわたしでみんなの夕食時間に遅れて家へ帰ることを企んだが、そんなふうに互いに気を使い合ってわざわざ作り出す「食べられない」状況が、本当に食べられない人たちとの距離を遠く感じさせて、それほど自分たちは恵まれているのだということをつくづく思い知り、食にまつわり日々に溢れるいろんな不足を情けなく思った。そして回を重ねるほど、断食は馴れるどころか空腹感が増されてゆくようで、頭の中に始終「おなかが空いたなあ」という声が響いていた。おとなのわたしがこうなのだから、小さな子どもだったら、その声だけで体中がいっぱいになってしまうだろう。そしてその声がしなくなったときには、どれだけ無気力となって、生きる力をなくしてしまうだろう。
最後の週は、無意識のうちに知恵が先行して、買い物でもして気持ちを紛らわせるのが良案と、夕食時間にデパートへ入った。新しい服でも見に行こうかしら・・・と考えながらデパートへ入ったとたん、急に胸から湧いてくるように、食べられない人は食べるものを買うお金がないから食べられないのだ、という根本的なことを思い出して、自分の浅はかさにあきれ返った。空腹を紛らわせるためにショッピングを楽しもうなんて、本末転倒もはなはだしかった。思えば、ふだん本当に必要ではないものへ使っているお金がどれだけあることだろう。世の中は、景気、景気というけれど、不要なものにさえ多額のお金を使って動かさなければいけない経済など、まやかし以外のなにものでもないのではないか・・・。自分の情けなさとすり替えるように、そんな社会への疑問や憤りまでが胸に湧きだして、やはりおなかが空いてしまった。つくづく怒りと言う感情は、エネルギーを消耗するものだと思った。
こうして、小さな断食ではあったが、それなりに考える機会と時間を与えてくれて、一ヶ月たつとどこか達成感のようなものも起こって、わたしの心はさわやかであった。
さて献金日の前日になって、幼稚園では急にお客様を迎えることになった。南米のボリビアで貧しい人たちのために長年献身している倉橋輝信神父が、園長を訪ねてやってくることになり、ちょうどよい機会だから明日は子どもたちに話をしてもらいましょう、と言うことになった。
「そうそう、作家の曽野綾子さんは救援の必要な場所へ自分で赴いて活動をする人なんですけれどね、倉橋神父のことは、ボリビアでは大統領よりも有名だ、なんて書いていますよ」
と、園長がニコニコと説明した。曽野綾子さん・・・・わたしがクリスマスの断食を倣った人である。献金日に際して、再びその名を聞くことになるとは思いがけず、感動し、断食のことを園長に打ち明けようかと思ったが、留まった。それよりも、倉橋神父のことを思い出したのだ。ああ、そうだ。わたしも、この南米の愉快で情熱的な日本人神父の話を読んだことがある。読んだ直後、理事会へ送るために園長を乗せて車を運転しながら、その記事のことを話題にしたら、園長は彼のことはよく知っていると言って、イタリア留学中に倉橋神父と一緒に過ごした思い出話をしてくれたのだった。名前を記憶し損ねていたが、まちがいない、同一人物だ。イタリア留学後、倉橋神父はボリビアの日系移民が日本語のできる神父を求めたのに応じ、以来29年間、日本からの義捐金で貧しい人々を助ける活動を続けている。
「彼は、学校のような堅苦しい組織にいるよりも、ああいう活動が向いているんですよ」
音楽好きで、自らいろんな楽器を演奏して、みんなを喜ばせ、心を溶かす。いつか会ってみたい人物だと思った。
あらためて、園長は今年の日付の新聞記事をくれ、保護者にも配るように印刷を指示したが、手渡された地方紙の記事を読むと、倉橋神父の音楽にまつわる興味深いエピソードが書いてある。「教会の結婚式では、ベートーベンの『喜びの歌』をハーモニカで演奏する。誕生祝いに母からもらった時、独学で上下さかさまに持って覚えた。今もドレミを左からでなく右から吹く時、母が一緒にいる・・・・」
ハーモニカで「喜びの歌」というのも、さかさまに吹くのも、非常にチャーミングな神父様だった。
「(ボリビアには)貧しくても笑みがある。規律はないが包容力がある。そりゃ腐敗と犯罪の国ですよ。でも、私は日本に帰ると冷蔵庫に入ったように感じる。年に三万人も自殺する日本が、ここより豊かと言えるかどうか・・・・・」
そんな冷蔵庫のような冷たさの中で、小さな火でも灯し続けなければいけないと心に誓いながら、わたしの小さな火は心細く、頼りなく、ついつい風当たりから隠して消えないようにかばっては、それではなんの意味もないと自分を叱って、あともう少しだけ、もう少しだけと励まし、表に掲げる。そんな風前の灯に、倉橋神父の来訪のニュースは、まるで心に燃料を注いでくれるかのように、熱をくれていた。
家に帰ると、わたしはなによりのクリスマスプレゼントをもらったのだと思って、一人あらためて感動した。曽野綾子さんとゆかりのある倉橋神父を、断食の明けた献金日のその日に寄越してくれるという完璧は、いったい神さま以外の誰にできるしわざだろう。神の存在を疑うことはなかったが、このような「はからい」の美しさは、大自然の完全な美を見せられた時に感じるのと同じ、言葉ではつくしきれない圧倒的な感動と畏敬を与えて、新たに、すべてを超越する大いなる存在のことを覚えさせる。
今家には、ジャズミュージシャンのヒロ川島がイギリスのデザイナー、ポール・スミスと作ったcocoloという楽器があった。現在わたしが持っている唯一の楽器である。ハワイのウクレレを少し進化させたものと言い、「若者よ、武器ではなくcocoloを持て!」というキャッチフレーズを与えて、あえて「cocolo」という新しい楽器を世界に生み出そうとしていた。こころを奏でる、こころが歌う、こころの声が聞こえる・・・楽器を通して、「こころ」を世界共通語にしたいという川島さんの夢は、ある日、世界的ファッションデザイナーと磁石が引き合うようにして出会い、共感を得て、その夢の楽器を一緒に作ろうじゃないか、という奇跡を実現させた。それはわたしから見ても、川島さん自身にとっても、「はからい」としか言いようがない、人知では考えつけないようなできごとだった。
まだ、数枚のラフな企画書の段階から、cocoloの発想を聞かせてもらう機会に恵まれていたわたしは、同じ夢と奇跡とに自分も参加したくて、弾けもしないくせにcocoloを購入した。個人的には、二年ほど前に楽器をすべて処分し、さみしく感じていたわたしにとって、新しく自分のそばに置く楽器を選ぶなら、これ以上のものはなかった。しかし半年たっても、美術品のように眺める楽しみのほうが主で、どうにか曲になるのは「ふるさと」と「アメージンググレイス」の二曲しかなかったが、もし自由に演奏できるような腕があったら、わたしもベートーベンの「喜びの歌」を奏でてみたいと思った。まさにそんな気分だったし、ハーモニカで吹くのと同じくらい、魅力的な第九になるにちがいなかった。
あくる朝、倉橋神父は想像した以上に気さくで、明朗闊達な人柄を全身に表わすようにして現われた。ハーモニカで一曲吹いていただくことをお願いしていたが、わたしは残念ながら子どもたちといっしょにボリビアの話を聞くことも、またハーモニカの演奏を聞くこともできなかった。聖堂に手伝いにでかけていた補助教員の先生が、途中使いを頼まれて事務室に戻った際、希望に高ぶった顔つきで口早に様子を話してくれた。「いち、に、さん」と倉橋神父はゆっくり指を鳴らしてみせ、
「今、一人の人が食べることができなくて死んで行きました・・・世界には3秒に一人、みんなが当たり前のように食べているごはんが食べられなくて死んでゆくお友達がいるのです・・・」
と話して、また三つ指を鳴らした。いつもふざけあいがやまない子どもたちが、しんと釘付けのように倉橋神父を見つめ、なにかを確かに心に受け止めたようだったと言う。わたしは嬉しかった。それは子どもたちにとって、とても大きな心の宝になるに違いなかった。
聖堂から戻った倉橋神父は、「ああ、今日は本当に気持ちがいいです」と喜んで、コーヒーを用意しようと思ったがそれも待ちきれない様子で、「ちょっと散歩にでかけてきます。歩きたいです」と言って出て行かれた。きっと神さまとお話をされたいのだろうと思って引き止めず、門まで見送りに出ると、別れ際倉橋神父はわたしの顔を一瞬じっと見つめてから、急に「アメージンググレイス」を歌いだした。思わず釣られてわたしも唱和し、笑った。
引き続き、次の日の保護者向けのキャンドルサービスにも倉橋神父は参加することになって、ボリビアの話をしてくれることになったが、前日のうわさを聞いた他の職員もみな話を聞きたがったため、わたしはやはり幼稚園で留守番をしなければならず、聖堂に行くことはかなわなかった。ボリビアの話は、資料を用意する際に個人的に多少聞くことができたのであまり惜しくはなかったが、ハーモニカの演奏をまた聞き逃すのは残念だった。しかし、倉橋神父が子どもだけでなく、大人たちの心にも種を蒔いてくれるのだと思えば、留守番を一人で請け負ってでもすべての大人を送り出したい気持ちがしたし、果たして話を聞いて帰ってきた人々が、視野が開けたように目に光を宿して、心をあたためて帰ってきたようすを眺めると、わたしはその人数分の喜びを与えてもらうように、不運を越えた満足を感じるのだった。
まもなく教会から倉橋神父が戻ったのを出迎えて、礼を述べると、昨日と同じように倉橋神父は一瞬じっと見つめるような目をしてから、
「うさぎ追いしかの山・・・」
と、歌うというより詩句を唱えた。「ふるさと」の歌詞である。
わたしは胸の中で、あっ、と叫んだ。まるで倉橋神父は、わたしがcocoloで奏でることができる、たった二つの歌を聞きとることができたかのようだった。昨日は「アメージンググレイス」を、今日は「ふるさと」を、まさに二つしかないわたしのcocoloのレパートリーを、みごとに歌ってみせたのである。心の音とは、そうやって流れ、伝わってゆくものなのだろうか。音楽はたしかに、言語も、肉体の壁も超えて、人と人とをつないで行く。それは、なんてすてきなことだろう。また、わたしたちのどんな小さな隠れた営みも、明らかにされないものはひとつもない。倉橋神父は化身のように、わたしたちをつねに見守り続ける存在のことを伝えてくれるのでもあった。
「コーヒーをお入れしましょうか?それとも日本茶がよろしいですか?」
と尋ねると、
「コーヒーがいいですね!ありがとうございます」
と、倉橋神父は明快に、嬉しそうに答えたが、コーヒーメーカーで新しいものを落としているうちに、何も告げず、いなくなってしまった。たぶん、散歩に出かけられたのだろう。
以来、倉橋神父にはお会いしていない。突然太陽を含んだあたたかい風のようにやってきて、あたたかな昼の日差しの中に、風のように消えてしまった。わたしには、ついにハーモニカの音色は授からなかったが、アカペラの歌が二曲、いつまでも残る思い出として刻まれた。
そして、わたしは思った。なにを心配する必要があるだろう。神が見ているその下で。なにをおそれる必要があるだろう。神が守るその下で。胸にある愛は、熱のように伝播する。掲げよう。ともしびを。
Amazing grace!
how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see
Through many dangers
Toils and snares I have already come
Tis grace have brought me
Safe this for
And grace will lead me home
ああ、大いなる美しき恩寵よ
なんと甘美な響きだろう
私のような者までも救ってくれる
かつて私は道に迷えるものだったが
今は見つけられたものとなった
かつてわたしは盲目だったが、
今わたしは見ることができる
多くの危険や苦しみ、誘惑を経て
私はここまでやってきたが
この大いなる愛がいつも私を救い
ここまでつれて来てくれたのだ
そして大いなる愛はさらに
私を懐かしいふるさとへと
みちびいてくれるだろう
December 29, 2008
絆
人と人との関係はむずかしいもの。これに悩むことはないね、とさわやかに言い切ってしまえる人がいたら、うらやましいよりは、すこしどこかが鈍感なのではないかと疑りたくなってしまうかもしれない。
人と人との関係の築き方を、上滑りな社交性や人づき合いのコツに依るようなのは、カラカラと音がするように空しくて、不潔にすら思って嫌悪したような若い日から歳を積んで、その間には、そんな心のとんがりのせいで、自分自身が傷つくような痛い思いを数々重ねて、さて不惑の歳となった頃には、人間関係をだいじに育めるような、誠実でエレガントな表現力をまなぶことは大切だと思うようにもなった。もちろん表現力ばかりで心の伴わないのは軽蔑すべきだけれど、自分の思いの伝え方、相手の思いの受け止め方、怒りや悲しさなど動揺の気持ちの収め方を身につけるということは、実際的な自分や他人への「思いやり」に他ならないことだと悟って、よけいな反発が削げ落ちたのだ。
たとえば、どんなに美味しいケーキを作ったとしても、それを相手に投げつけたら味わうこともできないし、びっくりするか不快に思うかで、美味しいと思ってもらえるわけがない。食べやすくカットし、フォークを添えて差し出し、それを相手が口に運んでくれてはじめて、そのケーキは美味しいと感じてもらうこともできるのだ。こうして、どんな良いものも、正しいものも、発し方によっては台無しになることがある。わたしなどは、これまでずいぶん正しいことが通らないと失望したことがあったものだけど、じつは自分で台無しにしていたものもどんなに多かったか、思い返せば自らの愚かさに気づいて、あきれ返るできごとがとても多い。
ところで、「絆」という字は糸に半分の半と書く。ある日急に心に浮かんだこの文字をしげしげと感じて、ああ、そうか、と目からウロコが落ちた。人と人との関係は、糸を半分ずつ持ち合うようなもの。それが「きずな」と呼ぶにふさわしいほど、一番強く、深い結びの姿なのだ。
自分と相手との距離の中で、こちらが相手のところまで全部行ってしまうのも行き過ぎであれば、自分が動かず、相手が近づいてくれるのを待つだけなのもだめなのである。ちがう見方で言えば、半分までは自分が行っても行かないでも自由があるかわりに、相手にもまったく同じ自由がある。この互いの自由を尊重するだけでも、おそらく、人同士の間に起こりがちな失望や、苛立ちと言ったものの大部分をなくすことができるだろう。だいたいわたしたちは、相手や状況が自分の思いのとおりでないばかりに、失望したり、苛立つような勝手が多いのだ。
さっきのケーキの話を続けるとしたら、どんなに美味しいケーキを、どんなに気持ちよく相手に届けたとしても、相手が満腹で食べたくないと思うことも、あるいは甘いものは苦手だと断ることも起こり得るのであり、それは礼儀がないことでも、愛情がないことでも、運が悪いことでもなく、いつでも「良し」とされていることなのである。食べなくても、決してケーキのおいしさを否定することではないし、どんなに天下一品のおいしいケーキでも、置かれる場所は自分と相手とのまん中であって、そこまでの距離の自由は、たがいに十分尊重されるべきものなのだ。この尊重が身につけば、どんな時でも相手にノーを言われて無闇に傷つくということがなくなるだろう。傷つくことがなくなれば、今度は人を傷つけない、罪意識に苛まれないノーも言えるようになる。
逆に、あのケーキはとても美味と聞くけれど、自分もぜひ食べさせてもらいたいものだわ・・・・・・と思ったら、やはりその半分の距離を自分が歩いて行かなければいけない。指をくわえて自分のところで待っていても、大声で呼ぶだけでも、食べる幸運を得ている人はいいなあ、とすねても怠けモノなだけである。まん中までの距離は自分の責任であって、たとえそこで、せっかく来てくれたけど、ケーキはなくなってしまったの、と言われたとしても、無駄足を失望する必要はない。次回は、いつ来ればいいか教えてくれますか?と、尋ねて、できるならそこで予約をしてしまえばいいのである。人は失望すると短気になる癖があるが、そこで無駄足を嘆くものの正体は傲慢の心で、それがなければ、ケーキがないという共通の経験が、次の時間までの互いの絆を結んだことに気づける。そして、それはじつはケーキがあった時よりも、ずっと豊かな絆になるかもしれないのだ。
また、いくら食べたいからと言って、相手のところまで押しかけて、ぜひ食べさせてくれ、ここまで来たのだから、食べさせてくれなければ非情であるというのは、言うまでもなく明かな行き過ぎである。それでは相手はびっくりして、絆どころか扉を閉めてしまうことだろう。たとえ、それが純粋で安全な渇望であったとしても、どんな熱情もまん中で燃やすのが良いのである。その上でもさらに、相手がそこまでケーキを持ってきてくれるのもくれないのも尊重されるべき自由だが、ぜひ食べさせたいと思ってもらえる人間になるということ、それも互いをつなぐ糸の、半分までの歩みそのものにちがいない。
とは言え、このまん中の塩梅というのは、むずかしいものである。しばしば人は行きすぎたり、引っ込み思案に行かな過ぎたりして、迷惑がられたり、また世話をかけたりするものなのだろう。それが人間らしい愛嬌でもあり、きれいに半分の場所が決まるよりは、そうやってまん中辺りに、人と人が互いに出すぎ行き過ぎて行き来するようなゾーンがあって、そこが二重にも三重にも重ねて丈夫にされるのが、本当に強い絆を作るのではないかと思う。スマートに、一度で程合い良いきれいな結び目を拵えるより、少しは野暮ったいような無駄を繰り返して結んだほうが、やはり嘘っぽくなくて、信頼がおけるように思う。と、そんなことを言うと、せっかくスマートさを身につけようと言い始めたことが、野暮なままがよいと翻ってしまいそうに見えるけれど、そういう意味ではなくて、野暮を愛しむくらいの、また楽しめるくらいの、懐深いスマートさが理想ということである。
どの命も生きている限り、知る知らざるに関わらず、他の命との無数の絆に結ばれて生きる。そうでなければ、生命は営めないものなのだから、わたしたちの幸福も、当然その絆の大事に仕方で変わってくるというものだろう。わたしという人間が、こうして今も生きている。それはどれだけ多くの絆によってであるか計り知れない。そして人は本当にたくさんの人と出会えるようであるけれども、それでも顔と顔を合わせて結べる絆はそんなに多いわけではない。
そう、絆とは、握手のようなものである。互いが半分ずつを出し合って、まん中で結ぶ。よくわたしたちは、会いたいと思っていた人にとうとう会えた時、あるいはぜひ仲良くなりたいと思った時など、たしかにつながろうとするように握手をする。また逆に、もう今度いつ会えるかわからないという別れの時にも握手をするが、それはまるで永遠に失われない絆を結ぼうとする本能的な動作のようでもある。笑顔で、敬愛をこめて、相手を受け入れ、自分を与え、つながってゆく・・・。どうやらよい握手の作法こそ、よき絆の作り方の極意と言えそうである。
さあ、よい握手をしよう。あなたと、握手をしよう。
人と人との関係の築き方を、上滑りな社交性や人づき合いのコツに依るようなのは、カラカラと音がするように空しくて、不潔にすら思って嫌悪したような若い日から歳を積んで、その間には、そんな心のとんがりのせいで、自分自身が傷つくような痛い思いを数々重ねて、さて不惑の歳となった頃には、人間関係をだいじに育めるような、誠実でエレガントな表現力をまなぶことは大切だと思うようにもなった。もちろん表現力ばかりで心の伴わないのは軽蔑すべきだけれど、自分の思いの伝え方、相手の思いの受け止め方、怒りや悲しさなど動揺の気持ちの収め方を身につけるということは、実際的な自分や他人への「思いやり」に他ならないことだと悟って、よけいな反発が削げ落ちたのだ。
たとえば、どんなに美味しいケーキを作ったとしても、それを相手に投げつけたら味わうこともできないし、びっくりするか不快に思うかで、美味しいと思ってもらえるわけがない。食べやすくカットし、フォークを添えて差し出し、それを相手が口に運んでくれてはじめて、そのケーキは美味しいと感じてもらうこともできるのだ。こうして、どんな良いものも、正しいものも、発し方によっては台無しになることがある。わたしなどは、これまでずいぶん正しいことが通らないと失望したことがあったものだけど、じつは自分で台無しにしていたものもどんなに多かったか、思い返せば自らの愚かさに気づいて、あきれ返るできごとがとても多い。
ところで、「絆」という字は糸に半分の半と書く。ある日急に心に浮かんだこの文字をしげしげと感じて、ああ、そうか、と目からウロコが落ちた。人と人との関係は、糸を半分ずつ持ち合うようなもの。それが「きずな」と呼ぶにふさわしいほど、一番強く、深い結びの姿なのだ。
自分と相手との距離の中で、こちらが相手のところまで全部行ってしまうのも行き過ぎであれば、自分が動かず、相手が近づいてくれるのを待つだけなのもだめなのである。ちがう見方で言えば、半分までは自分が行っても行かないでも自由があるかわりに、相手にもまったく同じ自由がある。この互いの自由を尊重するだけでも、おそらく、人同士の間に起こりがちな失望や、苛立ちと言ったものの大部分をなくすことができるだろう。だいたいわたしたちは、相手や状況が自分の思いのとおりでないばかりに、失望したり、苛立つような勝手が多いのだ。
さっきのケーキの話を続けるとしたら、どんなに美味しいケーキを、どんなに気持ちよく相手に届けたとしても、相手が満腹で食べたくないと思うことも、あるいは甘いものは苦手だと断ることも起こり得るのであり、それは礼儀がないことでも、愛情がないことでも、運が悪いことでもなく、いつでも「良し」とされていることなのである。食べなくても、決してケーキのおいしさを否定することではないし、どんなに天下一品のおいしいケーキでも、置かれる場所は自分と相手とのまん中であって、そこまでの距離の自由は、たがいに十分尊重されるべきものなのだ。この尊重が身につけば、どんな時でも相手にノーを言われて無闇に傷つくということがなくなるだろう。傷つくことがなくなれば、今度は人を傷つけない、罪意識に苛まれないノーも言えるようになる。
逆に、あのケーキはとても美味と聞くけれど、自分もぜひ食べさせてもらいたいものだわ・・・・・・と思ったら、やはりその半分の距離を自分が歩いて行かなければいけない。指をくわえて自分のところで待っていても、大声で呼ぶだけでも、食べる幸運を得ている人はいいなあ、とすねても怠けモノなだけである。まん中までの距離は自分の責任であって、たとえそこで、せっかく来てくれたけど、ケーキはなくなってしまったの、と言われたとしても、無駄足を失望する必要はない。次回は、いつ来ればいいか教えてくれますか?と、尋ねて、できるならそこで予約をしてしまえばいいのである。人は失望すると短気になる癖があるが、そこで無駄足を嘆くものの正体は傲慢の心で、それがなければ、ケーキがないという共通の経験が、次の時間までの互いの絆を結んだことに気づける。そして、それはじつはケーキがあった時よりも、ずっと豊かな絆になるかもしれないのだ。
また、いくら食べたいからと言って、相手のところまで押しかけて、ぜひ食べさせてくれ、ここまで来たのだから、食べさせてくれなければ非情であるというのは、言うまでもなく明かな行き過ぎである。それでは相手はびっくりして、絆どころか扉を閉めてしまうことだろう。たとえ、それが純粋で安全な渇望であったとしても、どんな熱情もまん中で燃やすのが良いのである。その上でもさらに、相手がそこまでケーキを持ってきてくれるのもくれないのも尊重されるべき自由だが、ぜひ食べさせたいと思ってもらえる人間になるということ、それも互いをつなぐ糸の、半分までの歩みそのものにちがいない。
とは言え、このまん中の塩梅というのは、むずかしいものである。しばしば人は行きすぎたり、引っ込み思案に行かな過ぎたりして、迷惑がられたり、また世話をかけたりするものなのだろう。それが人間らしい愛嬌でもあり、きれいに半分の場所が決まるよりは、そうやってまん中辺りに、人と人が互いに出すぎ行き過ぎて行き来するようなゾーンがあって、そこが二重にも三重にも重ねて丈夫にされるのが、本当に強い絆を作るのではないかと思う。スマートに、一度で程合い良いきれいな結び目を拵えるより、少しは野暮ったいような無駄を繰り返して結んだほうが、やはり嘘っぽくなくて、信頼がおけるように思う。と、そんなことを言うと、せっかくスマートさを身につけようと言い始めたことが、野暮なままがよいと翻ってしまいそうに見えるけれど、そういう意味ではなくて、野暮を愛しむくらいの、また楽しめるくらいの、懐深いスマートさが理想ということである。
どの命も生きている限り、知る知らざるに関わらず、他の命との無数の絆に結ばれて生きる。そうでなければ、生命は営めないものなのだから、わたしたちの幸福も、当然その絆の大事に仕方で変わってくるというものだろう。わたしという人間が、こうして今も生きている。それはどれだけ多くの絆によってであるか計り知れない。そして人は本当にたくさんの人と出会えるようであるけれども、それでも顔と顔を合わせて結べる絆はそんなに多いわけではない。
そう、絆とは、握手のようなものである。互いが半分ずつを出し合って、まん中で結ぶ。よくわたしたちは、会いたいと思っていた人にとうとう会えた時、あるいはぜひ仲良くなりたいと思った時など、たしかにつながろうとするように握手をする。また逆に、もう今度いつ会えるかわからないという別れの時にも握手をするが、それはまるで永遠に失われない絆を結ぼうとする本能的な動作のようでもある。笑顔で、敬愛をこめて、相手を受け入れ、自分を与え、つながってゆく・・・。どうやらよい握手の作法こそ、よき絆の作り方の極意と言えそうである。
さあ、よい握手をしよう。あなたと、握手をしよう。
September 15, 2008
シーツの幸せ
わたしにとって、身も心も芯からリラックスして、ああ、幸せだわ・・・と、透明で静かな幸福感に浸ることは、じつは意外と手軽な方法でかなってしまう。
洗いたてのシーツと、干したお布団。これらの、まだお日さまのにおいの残っている中に体を横たえて、思いっきり手足を伸ばす時、この至福と同じものをほかで得ることは決してできないだろうと、大げさとも思わず確信する。特別に良質でもない、糊もアイロンも効いていないシーツで、柔軟剤なども使わないから日に当たってゴワゴワと硬くなってしまっているのだが、そのゴワゴワを肌に感じるのが、またまっさらで媚びないさわやかさがあって、気持ち良い。それはお日さまにしか与えてもらえないゴワゴワであり、当然、面倒をはぶいて、乾燥機を使って乾かしてしまえば得られないすがしさである。
そんな上にゴロゴロとなりながら、窓の外に浮かぶきれいなお月さまを眺められたなら、ああ、これでもう目が覚めなくてもいいわ・・・と思ってしまう。また煩雑な日常に戻って汚れたり疲れることを、うんざり思う。でも、わかっている。こうやって眠れたあくる朝は、きっといつも以上に、すぐ動きだしたいくらいの自由な生気に満たされているのだ。
なんて安上がりな幸福だろうと自分を可笑しがりながら、手間と時間とお天気に恵まれなければ叶わないこの幸福を、やはり格別な、価値ある贅沢と感じる。
そういえば、祖母がわたしにこんな話をしてくれたことがある。
63年前のこと、日本が降伏し、終戦と聞いたとき、一番最初に胸に湧いたのは、
「ああ、これで明日からシーツが干せるわ」
という声だったそうだ。変でしょう?と祖母は笑ったが、あんな大変な思いをしてきたのに、はじめに心に溢れたのはそんな素朴な願いだったのかと切なくなると同時に、お日さまの下に干され、風にはためくシーツが、まるで晴れ晴れとした命そのもののような絵が鮮やかに浮かんで、わたしは深い感動を覚えた。
戦争が終わって、祖母が最初に謳歌しようとした幸せもシーツであった。それは、奇妙な遺伝的嗜好なのだろうか。いや、おそらくは女の感性が自然につかむ普遍的な何かを、シーツという生活の道具は内包しているのだろう。
シーツを洗って、太陽の下に干す。それは、せわしさの中ではなかなかかないづらく、雨や曇りではやはりかなわず、怠惰をしてはいつまでもかなわず、そして戦争の中では決してかなわない。すべてを逆さにすれば、ゆとりと、陽気と、働きと、平和と・・・まるで幸せになる方法を知らされるようだ。
きっと、幸せへの入り口は近くにある。だけど自分で近づかなければ、それはいつまでも遠い。
もしも、幸せの感じ方を忘れてしまったような気持ちのする時は、人間誰しもそういう時もあるけどそんな時は、さあ、シーツを洗って、お日さまの下に広げよう。
洗いたてのシーツと、干したお布団。これらの、まだお日さまのにおいの残っている中に体を横たえて、思いっきり手足を伸ばす時、この至福と同じものをほかで得ることは決してできないだろうと、大げさとも思わず確信する。特別に良質でもない、糊もアイロンも効いていないシーツで、柔軟剤なども使わないから日に当たってゴワゴワと硬くなってしまっているのだが、そのゴワゴワを肌に感じるのが、またまっさらで媚びないさわやかさがあって、気持ち良い。それはお日さまにしか与えてもらえないゴワゴワであり、当然、面倒をはぶいて、乾燥機を使って乾かしてしまえば得られないすがしさである。
そんな上にゴロゴロとなりながら、窓の外に浮かぶきれいなお月さまを眺められたなら、ああ、これでもう目が覚めなくてもいいわ・・・と思ってしまう。また煩雑な日常に戻って汚れたり疲れることを、うんざり思う。でも、わかっている。こうやって眠れたあくる朝は、きっといつも以上に、すぐ動きだしたいくらいの自由な生気に満たされているのだ。
なんて安上がりな幸福だろうと自分を可笑しがりながら、手間と時間とお天気に恵まれなければ叶わないこの幸福を、やはり格別な、価値ある贅沢と感じる。
そういえば、祖母がわたしにこんな話をしてくれたことがある。
63年前のこと、日本が降伏し、終戦と聞いたとき、一番最初に胸に湧いたのは、
「ああ、これで明日からシーツが干せるわ」
という声だったそうだ。変でしょう?と祖母は笑ったが、あんな大変な思いをしてきたのに、はじめに心に溢れたのはそんな素朴な願いだったのかと切なくなると同時に、お日さまの下に干され、風にはためくシーツが、まるで晴れ晴れとした命そのもののような絵が鮮やかに浮かんで、わたしは深い感動を覚えた。
戦争が終わって、祖母が最初に謳歌しようとした幸せもシーツであった。それは、奇妙な遺伝的嗜好なのだろうか。いや、おそらくは女の感性が自然につかむ普遍的な何かを、シーツという生活の道具は内包しているのだろう。
シーツを洗って、太陽の下に干す。それは、せわしさの中ではなかなかかないづらく、雨や曇りではやはりかなわず、怠惰をしてはいつまでもかなわず、そして戦争の中では決してかなわない。すべてを逆さにすれば、ゆとりと、陽気と、働きと、平和と・・・まるで幸せになる方法を知らされるようだ。
きっと、幸せへの入り口は近くにある。だけど自分で近づかなければ、それはいつまでも遠い。
もしも、幸せの感じ方を忘れてしまったような気持ちのする時は、人間誰しもそういう時もあるけどそんな時は、さあ、シーツを洗って、お日さまの下に広げよう。
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